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200×年映画の旅コミュの2007年5月下旬号(今村昌平)

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2007年5月下旬に侘助が観た今村昌平映画


「女衒 ZEGEN」(5月18日 フィルムセンター)
1987年/監督:今村昌平

【★★★★ ご都合主義的な展開に呆れながら観ていると、次第に痛烈な国家批判が見えてきて、面白くなる】

 この映画を観るのは初めてです。今村昌平映画は「ええじゃないか」までは封切で追いかけたのですが、それ以降はわたくしが映画そのものから離れた生活を送っていたため、観逃していたのです。
 冒頭は、緒形拳扮する主人公が、深水三章と杉本哲太を引きつれ、外国籍の船から脱出して香港に渡る場面。3人は、明治の文明開化という時流の中で、海外に出てひと旗上げようと夢見て長崎島原を出たものの、外国船に捕まって奴隷同然の扱いを受けていたらしいことがセリフで説明されますが、船内の様子など詳細は描かれることなく、次の場面へと移ってしまいます。
 このあとも、香港に着いた3人は、島原出身の貿易商だと聞いていた常田富士男を訪ねるものの、貿易商とは名ばかりの生活をしている常田に落胆し、日本領事館を頼った緒形は、殿山泰司扮する床屋の助手の仕事を得て働き始める、といった展開がテンポよく次から次へと繋がってゆきます。この間、深水や杉本はいつの間にか姿を消し、あいつらは一体どうしたのかと訝しく思うのですが、映画は、そんな観客の疑問などに構うことなく、ポンポンと進んでゆくのです。
 日本政府に雇われたスパイらしき小西博之に強引なまでに満州に連れてゆかれた緒形が、現地で島原出身の娼婦たちに出会い、彼女たちから故郷に送る金を託されたり、ロシア軍兵士に嫁いだ池波志乃からロシア軍の機密を聞き出そうとして、肉体関係を持ったり、その池波による機密漏洩が発覚して池波は酷い姿で死刑になったり、といったエピソードが、それぞれ短く積み重ねられる作劇には、いつもの今村らしい粘り強さは感じず、ただ先へ先へと話を転がしてゆく性急さばかりを感じたのでした。
 このあと香港に戻った緒形は、以前世話になった床屋の殿山を訪ねるのですが、床屋の店は高利貸の三木のり平によって接収されており、そののり平の女房として、なんと緒形が島原に残してきたはずの許婚・倍賞美津子がいることに出くわすのです。なんと都合のよい偶然!
 このあたりになると、今村昌平ともあろう作家が、かくも情けないご都合主義に走ってしまう事態に茫然としてしまうほかなかったのですが、そんな観客の思いをよそに、映画は例によってポンポンと進んでゆき、香港の海賊たちによって日本の女たちが拉致されているということを聞きつけた緒形は、なぜか再び行動を共にすることになった深水や杉本を引き連れて海賊のアジトに乗り込み、日本刀を振り回して女たちの救出に成功し、その女たちを匿っているうちに、彼女たちを外国人相手の娼婦に仕立て、いわば女性の貿易を始めるに至るという形で、ようやくタイトルに謳われた“女衒”のお話になってゆくわけです。
 このあとの展開は、英国領マレーシアを拠点とした緒形が、手下の深水や杉本を使いながら、日本から貧しい娘たちを強引に連れてきては、借金を負わせ、その返済のために外国人相手の娼婦になることを強要してひたすら搾取するということの繰り返しで、途中、妻の倍賞を巡って中国人商人と恋の鞘当を演じたり、日露戦争のクライマックスに向けて、すぐ目の前を通過するバルチック艦隊の威容に驚いたりするといったエピソードを交えながらも、要は女性を食い物にする野郎どもの横暴が描かれてゆくばかりです。
 しかし映画の描写はスピードを緩めず、例によってポンポンと進んでゆき、東南アジアにおいて反日感情が高まった上、日本政府は娼館を廃止する命令を下すなど、緒形には逆風が吹き始め、妻の倍賞すら中国人商人のもとにゆく道を選択するに及んで、このお話が、調子に乗った男に手酷いしっぺ返しがもたらされるものだったのだと思えるようになるのですが、お話はまだまだ続き、あれよあれよという間に大正時代も過ぎて太平洋戦争時代を迎えると、緒形は「天皇陛下の赤子をこの地で増やすことこそ、日本人の大義」などという屁理屈をこねて、自分の愛人にした娼婦たちに子どもを次々と生ませるのであり、国家にも妻にも裏切られたはずの男が、祖国から遠く離れた南の地で、日本人としての自己同一性に拘り続ける滑稽さが、喜劇を通り越して悲劇に至るという事態に突入するのであり、ここまでやればご立派だと思えるようになりました。
 そして太平洋戦争で日本軍が南方に進出してくると、待ってましたとばかりに張り切った緒形が、「兵隊しゃーん、オナゴのことは俺に任しんしゃーい!」と叫びながら女衒魂を継続させる一方、日本軍兵士たちはそんな緒形のことなど全く無視して行進をする姿には、すっかり圧倒されていたのでした。
南方の異国で春を売らされる“からゆきさん”は、熊井啓「サンダカン八番娼館 望郷」や今村のドキュメンタリー等でも扱われている題材ですが、女性の側に立った視点で描かれることが多いのに対して、この映画は搾取側を主人公に据えているわけですが、国家によって無残に棄てられる緒形の姿には、今村による痛烈な国家観が込められているのであり、これはこれで実に面白い映画になっているのでした。


「復讐するは我にあり」(5月19日 フィルムセンター)
1979年/監督:今村昌平
脚本:馬場当/撮影:姫田真佐久/美術:佐谷晃能/音楽:池辺晋一郎

【★★★★★ 主人公の抱える闇の深さ、女優たちの生々しさ。日本映画史上最も刺激的なピカレスク映画】

 この映画を観るのは、公開当時以来2度目ですが、昔観た時の強烈な印象はまだ残っており、緒形拳扮する主人公・榎津巌が犯す殺人場面もさることながら、彼の父・三国連太郎と妻・倍賞美津子が肉体関係を結ぶ寸前までいってしまうというドロドロの家庭環境、緒形が隠れ家として利用する浜松の旅館女将・小川真由美のなんとも淫蕩で自堕落なキャラクター、その小川の母親という設定で、以前殺人を犯したことがあるという役柄の清川虹子の貫禄などが、わたくしの記憶に強く刻み込まれていたのでした。
 冒頭、雪がチラつく田舎道を、何台ものパトカーが通り過ぎてゆくと、その中の1台にはフランキー堺扮する刑事に護送されている緒形が乗っており、すでに何人もの人間を殺した末にようやく逮捕された彼は、パトカーの中で鼻歌を口ずさみ、死刑を覚悟したかのような余裕を見せます。それは余裕と言うより、彼が内部に抱えた闇の深さがもたらす虚無感、ニヒリズムなのかも知れません。
 タイトル・クレジットをはさんで、物語の時間を戻し、緒形が殿山泰司と垂水悟郎を相次いで殺害する場面。時折、絵沢萠子や白川和子が演じる緒形の愛人たちが刑事から事情聴取を受けている場面を挟み、緒形の女性関係の広さを描くものの、なぜ彼が殿山ら二人を殺害するに至ったのかという動機面は一切描かれず、ただ残虐なる殺害行為だけがゴロンと観客の前に投げ出されるのです。
 千枚通しを手に殿山に身体ごとぶつかったあと、抵抗する殿山をねじ伏せるように体重ごとのしかかってゆく緒形。垂水に対しては、金物屋で安物の包丁を買い、トラックを運転中の垂水を横から襲い、返り血を浴び、ハンドルを切りながら、垂水の身体深くに包丁を沈めてゆく緒形。そうした殺害行為の一部始終をワンカットで押してゆく今村演出・姫田キャメラの連携プレーは、映画における擬似殺人場面のひとつの極北を示しているとすら思える迫力です。
 二人を殺したあと、緒形の長い逃亡生活が始まるのですが、ここからの映画は、古くは緒形が少年時代に体験した、クリスチャンたる父・三国が戦時中の軍部によっていたぶられている場面から、緒形が倍賞と結婚する経緯、緒形の刑務所入りによって家を出た倍賞を連れ戻そうとした三国と倍賞との間で、肉体関係すれすれの欲情が交わされる温泉場での光景、刑務所から出てきてもパチンコに明け暮れる緒形を、母親のミヤコ蝶々だけは甘やかしている様子、三国や倍賞の動きを刑事が張り込み、逃亡中の緒形を捕まえようとする場面等々、緒形の家族関係を巡る描写や、逮捕後の緒形が刑事の取り調べを受けている現在形の描写など、時制の異なる場面を並列にしながら、逃亡中の緒形が立ち寄った浜松の旅館で、女将・小川とその母・清川との関係を深めてゆく経緯をじっくり描いてゆくのです。
この小川と清川の母娘が、これまた凄い。自分も過去に殺人を犯した経験があるため、表面上は人のいい大学教授を装っている緒形に対してどこか違和感を抱きつつ、他人の性戯を覗き見ることによって己の性的渇望を癒そうとする業を持った初老の女性像を、清川が見事に生々しく演じているのですが、そうした母の娘として、性だけを己の拠り所とする淫蕩なる存在を、これまた匂うように生々しく演じた小川は、間違いなく彼女のベスト・パフォーマンスをこのフィルムに刻みつけています。
逃亡資金が枯渇した緒形が、千葉の裁判所で弁護士のふりをして菅井きん扮する女性から保釈金を騙し取った上、その場から立ち去ろうとしたタクシーで知り合った本物の弁護士・加藤嘉を東京の雑司が谷で殺害し、殺しの昂奮に乗じて性の快楽を貪ろうというつもりなのか、池袋のラヴホテルに小川を呼び寄せて性戯に耽るという展開の末、小川と一緒に入った池袋の映画館で(懐かしい文芸坐がロケに使われており、上映されている映画は「ヨーロッパの解放 第二部」です)映画の前に流された警察からのお知らせによって、緒形は実の正体を小川に知られてしまいます。しかし、小川のほうは緒形の正体を知ったからといって彼を忌避するわけでもなく、彼を再び浜松の旅館に招き入れて、警察の目から緒形を匿うのです。
ところが、ここからがこの映画の白眉であり、人間が持ち得る闇の底知れぬ深さに慄然ともする展開なのですが、あたかも菩薩のごとき寛容さを示し、聖人にすら思え始めた小川のことを、緒形は衝動的に扼殺してしまうのです。緒形自身、なぜ殺してしまったのか自分でもわからないと刑事に供述しているように、わたくしたちはこの小川殺しの理不尽さにおののく一方で、緒形の腕の中で死んでいった小川の表情が、性の快楽の果ての昇天とも思えるものだった点に、強い衝撃を覚えるのです。
これに続く清川殺しの場面では、緒形が彼女の死に場所たる2階へと導いていったのと入れ違いに、緒形の実母たるミヤコ蝶々がヌーッと1階の暗い廊下に現れるのを描き、清川殺害はほかならぬ母殺しそのものであることを表象するのです。この場面のゾクゾクするような怖さと魅力!
警察の留置場面会室で緒形と父の三国が対峙する場面もまた、忘れ難い印象を残すのですが、実父に向かって「ぬしこそ殺すべきじゃった」と語る緒形に、「ぬしは親殺しなど、でけん。何の罪もない人しか殺せん男じゃ」と切り返す三国とのやり取りを見ていると、この親子が実はよく似た相似形をなしていることに気づくのです。
このあとに描かれるラストシーンのことは記憶から消え去っていたのですが、死刑となった緒形の遺骨を持った三国と倍賞が、ロープウェイで山頂に登り、遺骨を山から投げようとすると、骨は空中でストップしてしまい、緒形は自ら成仏することを拒否しているという話になっています。この物語をどう終えるか、知恵を絞った末のアイディアでしょうが、ちと頭でっかちだったように思えました。
しかし、ラストが今いちだからといって作品全体の価値を損ねるものではなく、この映画は日本映画史上最も刺激的なピカレスク映画だと思います。


「ええじゃないか」(5月19日 フィルムセンター)
1981年/監督・原作:今村昌平

【★ 明治維新を招いたのは下層階級の下賤なエネルギーだとする歴史観が、頭でっかち。各挿話がバラバラ】

 この映画も公開当時に観て以来の鑑賞となりますが、あまり面白くなかったという印象が残っているだけで、設定も筋立てもまったく覚えていませんでした。
 江戸時代末期、単身アメリカに渡ったのち帰国した泉谷しげるを主人公に、彼の妻で今は江戸の下町でストリップのような見世物の芸人をしている桃井かおり、見世物小屋の主人で下町界隈の裏稼業を取り仕切っており、泉谷を雇い入れもする露口茂、下町長屋に住む浪人・緒形拳、泉谷の牢仲間で琉球出身の草刈正雄、露口が経営する芸者置屋の女将・倍賞美津子ら、雑多な人物がカオスを形成し、幕末という時代の節目の中で、泉谷や桃井ら下賤なる民のエネルギーが、ついには「ええじゃないか」の踊りに結実してゆくというお話です。
 明治維新という革命の導火線に火を灯したのは百姓や河原者など下層階級の雑多なエネルギーであるという歴史観が、今村と脚本を共同執筆した宮本研にあったのだろうと思いますし、河原者と琉球出身者が共闘する設定あたりに新しさをアピールしているのでしょうが、やや頭でっかちな机上の空論だと思いました。しかも、確かに雑多な人物の出入りが激しい展開が続きますが、エピソードの向いている方向までバラバラでは話が繋がらず、終始イライラさせられ通しでした。
 これは失敗作以前の代物です。そういえば、この映画を最初に観た当時、今村の衰えを感じてしまい、これ以降は「うなぎ」まで今村の映画を観なかったのでした。


「果しなき欲望」(5月31日 フィルムセンター)
1958年/監督:今村昌平

【★★★★★ 「大脱走」と「悪の階段」と「野獣の青春」を加えてコミカルな味を加え、面白くないはずなし】

 今村昌平の監督第3作。長い間観たいと思っていながら、観逃してきた映画です。
 冒頭のタイトルバック。蒸気機関車がシネスコ画面の斜め右方向に向かって前進してゆく構図の中で、クレジットの字幕が、蒸気機関車の先頭に向かって吸い込まれるように消えてゆくという面白い動きをしてみせます(ちょうど「スター・ウォーズ」の冒頭字幕が画面奥に向かって消えてゆくのに、似ています)。
 汽車はある地方都市に到着し、西村晃、殿山泰司、加藤武、小沢昭一といった一癖ありそうな輩が降り立ちます。彼らは一様に、胸に星型の記章をつけて現われるのですが、彼らの話から類推できるのは、チームのリーダーになるべき男は現われず、代わりに、本来のメンバーとは違う人間が一人混じっていることで、彼らは戦時中に防空壕の中に隠匿した大量のモルヒネを掘り出し、それを売ることによって巨額の金を手にしようとしていることが察せられます。さらに、本来のメンバーとは違う人物とは小沢昭一に違いないとして、殺気に逸る加藤が小沢に殴りかかる中で、彼らのことを冷ややかに見ている女・渡辺美佐子も登場し、彼女もまた星型の記章を示しつつ、自分はチームリーダーたるべき元将校の妹であり、兄の代理として本作戦に参加しにきたのだと宣言するのです。
 こうして、欲に駆られた男4人・女1人が揃い、モルヒネを隠した防空壕の上に今は肉屋が建っていると確信した彼らは、その肉屋に程近い空き家を借りて不動産屋を開店したふりをして、その実は地下を掘り進んで防空壕を探り当てようという、大掘削作戦を開始するのです。
 そしてさらに、この空き家を借りる条件として、大家の息子であり今は失業中という設定の長門裕之が押し付けられ、彼にも不動産屋を手伝わせる必要が生じたことから、掘削作戦のことなど何も知らぬ長門が、悪人たちのペースをかき乱す存在として活用されることになります。
 「大脱走」と、鈴木英夫「悪の階段」と、鈴木清順「野獣の青春」を足して、そこにコミカルなスパイスを利かせているのですから、面白くならないはずがありません。
 お互い同士の騙し合い、足の引っ張り合いに加えて、街の再開発による立ち退きが絡み、穴掘りにタイムリミットが生じたことによる緊張感が高まる一方、長門と肉屋の娘・中原早苗との間に繰り広げられる初々しいラヴストーリーが観客への清涼剤の役割を果たし、高品格のような味のある脇役が強欲な爺さんを見事に演じて場をさらってゆくのですから、これは堪りません。
 この映画からキャメラマン姫田真佐久と組み始めたのですが、イマヘイ独特のギラギラとした汗臭さや土の匂いは、やはりこの映画から強調されているように思え、第1作の高村倉太郎、第2作の藤岡粂信を経て、姫田とのコンビによって今村カラーが確立したのだと思いました。
 あー、面白かった!

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