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200×年映画の旅コミュの2007年5月下旬号(新作)

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2007年5月下旬に侘助が観た新作


「クィーン」(5月17日 シャンテ・シネ2)
2006年/監督:スティーヴン・フリアーズ

【★ 女王と首相をヨイショするだけの権力御用達映画であり、こんな映画が作られること自体が胡散臭い】

 GWに観損ねた映画を観ようと、この日は日比谷シャンテで2本ハシゴ。まずは「クィーン」です。
 米アカデミー会員が選出する主演男女優賞については、最近すっかり“ものまね王座決定戦”と化して久しく、わたくしもこの「映画の旅」で再三にわたって苦言を呈してきましたが、「ラストキング・オブ・スコットランド」のフォレスト・ウィテカーと同様、こちらのヘレン・ミレンも、悪いと言うつもりはないものの、これが去年全米公開された映画の全女優のうちベスト・パフォーマンスでもないでしょうし(これに比べれば、ゴールデングローブで女優賞にノミネートされていた「ドリームガールズ」のビヨンセ・ノウルズや「リトル・ミス・サンシャイン」のトニ・コレットのほうが印象的です)、ミレン自身にとってもベスト・パフォーマンスではないと思います(「カレンダーガールズ」「鬼教師ミセス・ティングル」の彼女のほうが迫力も人間味も感じられました)。オスカー受賞後もTV等が報じるのは、映画のラスト近くに置かれている、ダイアナ妃国葬に際してTVで生中継されたエリザベス女王のコメントが、当時の本人の映像と比べて如何に似ているかという点ばかりなのであり、今後オスカーがほしい役者たちは、こぞって実在の有名人のものまねに走ることになるのでしょう。
さて映画の中身自体は、トニー・ブレアが英国の首相に選ばれてバッキンガム宮殿を訪れ、女王に謁見する場面から始まり、エリザベスとともにブレアに物語上のダブル主役の片方が割り当てられます。
 皇太子の前夫人で英国民や世界各地で絶大な人気を誇るダイアナがパパラッチとのパリ市内レースの末、事故死したという不幸な事態を受けて、出戻っていった元嫁には決して良い思いを抱いていないのは事実ながら、人並みに心は痛めているらしい国家元首が、あくまでも英国王室の伝統に則った対応を続けるうちに国民からは冷たいという反感を買い、こうした女帝の頑なな対応を苦々しい思いで見つめながら、自らは迅速に国民感情をくすぐるコメントを発表して人気取りに成功した為政者が、実は誰よりも深い女帝への敬意の持ち主であるがゆえに、英国王室の危機とすら思える今般の事態収拾のために真情溢れるアドヴァイスを女王に贈り、聡明極まりない元首はそのアドヴァイスを忠実に実行したことによって見事に危機を回避したという、権力内部の美談物語。
 要は、女王と首相をヨイショするだけの映画でしかなく、王室や英国政府から金を積まれたわけでもあるまいし、現権力にここまでベッタリと加担する映画が作られてしまうという事態には、何やら胡散臭いものを感じてしまいました。
 日本でこの映画が公開されている今現在は、イラクへの対応を国民から強く批判されたブレア本人の辞任が決定し、後任首相の名前も取り沙汰されている時期だっただけに、この英国史上最年少で行政のトップに立った人物をひたすら称揚するこの映画には、違和感ばかりを募らせていたのでした。
 王室に対しても、母の権力の前でおどおどする皇太子や、英国王室の伝統を振りかざすばかりの女王の夫を多少は戯画化してみせはするものの、結局は主人公たる国家の最高権力者は、常に国民に思いを馳せて正しいジャッジを下す名君であることが強調されるわけですから、英国には縁もゆかりもないわたくしとしては、終始居心地の悪い思いでスクリーンを見つめていました。王室を批判することなど、そう容易ではないのだろうとは思いますが、このようにベッタリなのは気持ち悪いです。
 脚本を書いているピーター・モーガンは、「ラストキング・オブ・スコットランド」の脚本も担当しており、今回の米アカデミー賞では主演賞を男女優の双方にもたらした功労者ということになりますが、どちらの映画も国家権力内部への斬り込み方が弱腰であり、映画が本来持つべきはずの在野の精神とは異質なものを持った人物だと思われ、逆に権力側からすると、都合のいい座付き作家ということになるのかも知れません。


「こわれゆく世界の中で」(5月17日 シャンテ・シネ2)
2006年/監督・脚本:アンソニー・ミンゲラ

【★★★ 二人の女性の間で揺れるジュード・ロウの役柄に妙なリアリティがあり、惹きつけられた】

 この日2本目は、シャンテの同じスクリーンでアンソニー・ミンゲラの新作を鑑賞。
 彼の作った「イングリッシュ・ペイシェント」は、過去、大過去と現在を入れ子構造にした展開や、レイフ・ファインズとクリスティン・スコット・トマスの不倫セックス場面の扱いなど、上品さを装った陰に見え隠れする“あざとさ”を感じる大嫌いな映画でしたが、前作「コールドマウンテン」は、主人公のジュード・ロウが、南北戦争における脱走兵士の烙印を押されるリスクを承知で、恋人ニコール・キッドマンの待つコールドマウンテンへの徒歩の旅を続ける“ロードムーヴィー”として、ロウによるキッドマンへの思慕がストレートに伝わったため、後味のいい映画になっていたと思います。
 今度の新作も、ジュード・ロウの抱えたやりきれなさがリアルに伝わり、惹きつけられました。
 舞台はロンドンの下町で犯罪多発地区らしき“キングズ・クロス”と呼ばれるところ。主人公のロウは、この地区の再開発を請負っている都市建築家で、ロビン・ライト・ペン扮するスウェーデン女性(アメリカ人とのハーフという設定)と長い同棲生活を送っています。ペンには、ビーという名の連れ子の娘がおり、このビーは精神のバランスを崩しているため、ペンもロウも手を焼いています。ロウはビーのことを実の娘のように可愛がっているものの、やはり“生さぬ仲”ゆえのギクシャクは避けられないのです。
 映画は、ロウとペンが車に乗ってロンドン市内を走らせている時、二人の間に何やら亀裂が生じているらしいことを示す場面から始まり、そこから時間を遡らせて、ロウが“キングズ・クロス”に事務所を構えた当時の頃に戻って、物語を説き起こしてゆきます。
 最初の事件は、構えたばかりの事務所に泥棒が入り、パソコンなどをごっそり盗まれたこと。盗んだのは少年ミロで、彼はサライェヴォの内戦を逃れてイギリスにやってきたことが次第に明らかになり、ミロの母親がジュリエット・ビノシュです。ミロがロウの事務所にもう一度泥棒に入ったことから、ロウが自衛意識を高め、毎晩事務所の前で車を停めて見張りをするようになり、ついにある晩、ミロが3たび泥棒に入ろうとするところに遭遇し、ミロのあとをつけたことから、彼の家を探し当て、母親ビノシュを知るに至るのです。
 こうして粗筋を素描するだけで、やや込み入った設定であることが思い出され、ここに書いていないことでも、ロウの共同経営者が掃除女性に惹かれてしまうこと、ロウが事務所の前で出会う娼婦ヴェラ・ファーミガ(この女優さんは、「ディパーテッド」でディカプリオとマット・デイモンの双方と関係を持ってしまう女性を演じていた人です。「ディパーテッド」の時は、存在感の希薄な人だと思ったのですが、この映画では、車の中でロックをガンガン鳴らし、コートの下は全裸という娼婦を、存在感たっぷりに演じています)と出逢い、彼女に誘惑されながら、決して彼女とは一線を越えようとしないこと、ミロを泥棒として利用するビノシュの義弟の存在、体操の床運動に夢中で、家の中にある電池をどこかに隠してしまう性癖を持ったビーという女の子の不可思議さ、キングズ・クロスといういわゆる貧民窟を浄化しようというロウの都市計画が持つ奇麗ごと、等々、心に引っかかる設定がいくつも出てきて、そのそれぞれが網目のように組み合わされながら、観客を巻き込んでゆくのです。
 このあと、ロウはビノシュに惹かれてしまい、ビノシュのほうは自分の息子が泥棒を働いていた事実を知ると同時に、ロウの告発によって息子が警察に突き出されることがないように、との狙いから、わざとロウの前に肉体を投げ出すという形で、二人は一線を越えます。娼婦ファーミガには一切心を動かされることがなかったロウが、ビノシュにはすっかり参ってしまうあたり、この男のキャラクターに一貫性がないように思えてしまうのですが、そもそも恋などというものは理由もなく人に襲いかかるものなのですから、ロウがペンという糟糠の相手がいながら、サライェヴォの騒乱を生き抜いて今はロンドンで縫い子としてつつましく暮らすビノシュに惚れ込んで深みにはまってしまう展開に、説得力を感じてしまったのです。
 そして物語は、ロウの告発はないもののビノシュの息子ミロは警察に捕まってしまい、イギリスからボスニアに強制送還されそうになった中で、ロウはビノシュとの浮気を同棲相手のペンにバレることを承知で、ミロを庇う証言を裁判所で行い、ビノシュ母子を危機から救います。ペンがロウの浮気をなじる会話が車の中で交わされ、それが冒頭の場面につながるのですが、ロウとペンの仲には決定的な亀裂が走ってもよさそうに思えるものの、ロウとペンは、ビーという精神の病を抱えた少女を媒介として離れ難い関係にあることを示して、映画は終幕。
観ようによっては男の浮気が都合よく許容され、世界は壊れるどころか、あっさりと丸く収まってしまう点に軽薄さを感じなくもないですが、ロウ、ビノシュ、ペンといった役者たちのアンサンブルに乗せられてしまいました。
 ジュード・ロウは今年前半だけでも「オール・ザ・キングスメン」「ホリディ」に続いて3本目ですが、色男で芝居もできて、引っ張りダコなのもわかります。


「パッチギ! LOVE & PEACE」(5月21日 シネマメディアージュ・シアター6)
2007年/監督:井筒和幸

【★ 前作で抽象化されたはずの国境を殊更に強調し、二者択一を登場人物にも観客にも迫り、心揺さぶられず】

 前作は60年代末という時代の転換期を舞台に、己の存在基盤がこの島国にあるのか半島にあるのか、自己同一性を掴み難い在日二世兄妹と、その妹のことを好きになってしまう日本人少年を軸に物語りながら、国境なるものが所詮は抽象的な観念にすぎぬという、当たり前の事実へと観る者の思考をいざなう刺激的なフィルムだったと思います。
 島国日本にも半島にも、双方と等距離を保たざるを得ない“引き裂かれた自己”たることを余儀なくされた兄妹に対して、思春期ならではの感受性ゆえに感情移入を深めてゆく日本人少年・塩谷瞬が、わたくしたちの共感を受け止める存在として重要な役割を果たしていたのです。
 しかし、続編の「LOVE & PEACE」では、この塩谷の立場を、国鉄をクビになるという設定の藤井隆が担うのですが、兄妹が置かれた曖昧な存在基盤に対して彼の感受性が揺さ振られるといった場面が用意されることもなく、ただ妹の美貌に魅入られるだけの善人に過ぎないため、わたくしたちの共感を呼ぶことができないのです。
 そもそも兄妹二人の存在基盤も、島国にも半島にも等しい距離をとらざるを得ないという前作の立場は消え、島国をとるか半島をとるかの二者択一を己に迫るばかりで、前作では抽象化されていたはずの国境を殊更に強調するため、わたくしたちが感情移入できる余地がないのです。
 そして映画はクライマックスとして、兄妹にとっての父親が南の島で日本軍兵士の暴行から逃れて生き延びる場面と並行して、この映画とほぼ同時期に公開された、某都知事が関与した映画を思わせるような大和魂の押し売り映画に出演した妹が、己の存在基盤は半島にこそあることを自覚するという場面を置き、兄妹の二者択一の結論は半島のほうだったという事実を示した際には、誤解を恐れずに言えば、2階席の国粋主義者たちが叫んだ「だったらこんな映画に出ないでさっさと半島に帰れ」という言葉のほうが正しく思えてしまったほどでした。
 少なくとも兄妹の父親のことを描く際に必須なのは、彼が日本軍に反逆して朝鮮人としての誇りを高らかに宣言した場面ではなく、朝鮮人としての誇りは持ちながらも、やむを得ぬ事情から祖国を捨て、島国へと渡らざるを得なかった屈辱の場面のほうだったはずでしょう。
 アンソンを演じた井坂某も、妹役の中村ゆりも、表情に変化が乏しく一本調子でした。
 観ている間、ただの一度も心が揺さ振られることはなく、泣ける場面も笑える場面も皆無でした。期待していた映画だけに、残念です。
 ところで、前作と今回の時代背景が68年と74年に置かれていることは、決定的な差異としてこの2作を隔てています。
あの時代に身を置いたことのある人間ならば皮膚感覚として覚えているはずの、この2つの年号の絶対的な差異。何かがすでに始まっていることの昂奮に日々胸を踊らせたのが68年だったのに対して、74年とは何かが終わってしまった虚脱の中で、日々は均一化し、人々はただ経済的に貧困から脱するためだけのために同じ方向しか向かなくなったという年号なのだと思います。
 前作においては全篇を覆っていた“貧しさ”という実感が、今回は一掃されたとすら思えるのは、実に正しい選択だと思う一方、経済的安定と引き替えに、彼ら在日は何を捨てたのかをじっくり見据える映画こそ作られるべきだったと思います。 井筒と羽原大介は、74年に設定すべきではなかった。70〜72年をこそ描くべきだったと思います。
 そもそも、74年に動労はスローガンを車体に書き殴った電車を都内に走らせたりしたのでしょうか? 国士館と朝高の車内乱闘にしても、74年より数年前から鎮静化していたのではないか?
 まあ、井筒も羽原も、そのへんの時代考証はしっかりとやったでしょうから、疑いを抱いては失礼なのでしょうが、わたくしのように68〜72年こそが戦後日本の分水嶺だったという歴史観にこだわる人間からすると、どうもこの映画の歴史認識には異議を唱えたくなってしまうのです。


「しゃべれども しゃべれども」(5月28日 シネスイッチ銀座1)
2007年/監督:平山秀幸

【★★★★ 人付き合いが不器用な男女の間に、落語を媒介にして共感と連帯の輪が広がる過程が笑みを呼ぶ】

 個人的には楽しみにしていた新作で、近所の飲み仲間である二つ目の噺家さんがチョイ役で出演していることもあって、前売りを買ってありました。この噺家さんは、末広亭の楽屋で荷物を畳んでいる前座の役と、出囃子の太鼓を叩く役で3シーンも出ていました。顔ははっきり見えませんけどね。
 また、この映画の原作となっている小説は、数年前に友人に薦められて読んだことがありました。
 物語の主人公は、新作をやろうという同僚噺家の誘いを決然と断り、古典一筋を貫くものの、今いち伸び悩んでいる二つ目の噺家・国分太一。師匠の伊東四朗は、なかなか一皮剥けずに焦る国分を巧みにいなしながら、国分が自らの力で突破口を見つけることを待っています。
 国分は、踊りの師匠である祖母・八千草薫と一緒に住んでいるのですが、祖母の弟子にあたる女性から、関西弁が抜けない甥っ子・森永悠希に江戸言葉を教えてあげてほしいと依頼されます。その頃、師匠・伊東がアルバイトで出向いた話し方教室に付き添った際に出会った、むっつりと不機嫌そうな表情ばかりしている娘・香里奈と知り合い、彼女にも話し方を教えるという名目で、落語を教えることになります。さらには、祖母からの噂話を聞きつけた元野球選手・松重豊も、引退後の解説者としてなかなか話が巧くできないことを理由に、国分の落語教室の生徒に加わります。
 こうして、国分も含めて人付き合いが不器用な男女4人が揃い、彼らの間に、落語を媒介にした共感と連帯の輪が徐々に形成されてゆく過程が、観る者の頬に自然と笑みをもたらすことになるのです。
 香里奈ら素人に与えられる落語の課題は「まんじゅうこわい」で、関西出身の小学生・森永の場合は、桂枝雀版の「まんじゅうこわい」が教材となります。中では、森永の喋りが素晴らしくて驚かされるのですが、それもそのはず、森永はオーディションの席で落語を一席とうとうと語ったそうで、それゆえ難なくオーディションを勝ち抜いたということです。一方、国分の相手役としてヒロインという立場を割り振られた香里奈は、普段からいつもブスッと仏頂面を通すという役柄で、可愛げがないのですが、それでも物語が進行するうちに、次第に彼女が魅力的に見えてきたのですから、それだけ脚本・演出の人物造形が素晴らしかったということでしょう。
 プロの噺家という役柄の伊東や国分ですが、昔は自らもトリオ漫才師として舞台経験がある伊東は、さすがの貫禄を示す一方、今回の役作りにあたって落語を徹底的に鍛えたと思しき国分は、劇中で大作「火焔太鼓」に挑戦させられるという酷な設定を背負わされながら、なんとか頑張って、役柄に説得力をもたらしていたと思います。不器用だが誠実という主人公のキャラクターが、国分本人とうまくフィットしたのでしょう。
 とにかく、このような映画が作られてしまうのですから、今は落語ブームの渦中なのだと言えるのだろうと思います。そして、この映画を観ていると、なんだか無性にプロの噺をもっと聴きたいと思ってしまうのですから、そうした点でも、映画は成功を収めていると言えましょう。
 ところで、役者の中で一番おいしいところをさらい、実力でも抜きん出ていたのは、八千草薫だったのであり、たとえ伊東といえども彼女の年の功には敵わなかったのでした。

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