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200×年映画の旅コミュの2007年5月上旬号(米英新作)

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2007年5月上旬に侘助が観た米英映画新作です。

「ブラッド・ダイヤモンド」(5月3日 サロンパス・ルーブル丸の内)
2006年/監督:エドワード・ズウィック

【★ 本来B級アドヴェンチャーが相応しい題材なのに、ご都合主義的な社会性を前面に立てて呆れる】

 舞台は1990年代のアフリカ大陸西部のダイヤモンド産出国シエラレオネ。ダイヤモンドが生み出す富を欧米と適宜分け合うことによって基盤安定を維持しようとする現政権派と、人民革命を標榜しながらも実は富の独占を企む革命軍が対立する状況の中で、ジャイモン・フンスー演じる無辜の民が革命軍に捕らえられ、ダイヤモンド採掘に駆り出されます。そしてフンスーは、ピンク・ダイヤモンドと呼ばれる巨大な原石を発見します。
 政府軍の急襲という混乱の中で、フンスーが咄嗟に地中に埋めて隠したこの原石を巡って、南アフリカ生まれのダイヤモンド密売人ディカプリオと、フンスーが原石を埋めるのを目撃した革命軍幹部が鎬を削るアクション映画。……こう書くと、「インディ・ジョーンズ」シリーズや「ロマンシング・ストーン」に連なる宝探しアドヴェンチャー映画だと思えるかも知れません。じじつ、この題材は、ハリウッドB級アクション映画の伝統を思い起こすものです。
 しかし実際の映画は、革命軍の残虐非道な振る舞いによって家庭の絆を引き裂かれるフンスー一家やら、非合法的な密輸ダイヤモンドをも囲い込むことによって世界のダイヤ市場の高値安定を企むイギリス資本やらといった“社会性”が前面に押し出され、B級アクション・アドヴェンチャーの要素は陰に隠されてしまいました。
 ところが、革命軍の悪役ぶりはまるで絵に描いたように単純化される一方、政府軍の性格は曖昧に誤魔化されるなど、シエラレオネという国家が抱えた状況に対する分析が極めて薄っぺらい代物で、観る者を呆れさせるばかりであり、欧米資本がアフリカ大陸を食い物にしているという批判的視点も、「ナイロビの蜂」や「ダーウィンの悪夢」ほど明晰なものではなく、取ってつけたような印象しかもたらしません。
 そんな中で、所詮は私利私欲のために原石を求めているに過ぎぬ、守銭奴にして掠奪者たるディカプリオに対して、フンスーが協力してしまうあたりの必然性が理解できないばかりか、結局はディカプリオ一人が美しい家族愛のために殉死する英雄として祭り上げられる地位に納まってしまうというのですから、呆れて開いた口が塞がりません。
 スター映画なのだからスターが祭り上げられるのは当然だ、という意見もありましょうが、スター映画ならもっと観客を幸福なる笑顔に導くべきなのであり、妙な社会性など振りかざさずに、B級アクション・アドヴェンチャー路線に徹するべきだと思うのです。
 エドワード・ズウィックは「ラストサムライ」の時も、本来はB級西部劇に仕上げるべき題材を、妙に勿体つけた武士道を振りかざすことによって、主演者トム・クルーズの虚栄心を満足させることにのみ貢献する映画にしてしまったのですが、今回もまた、喜んだのはオスカー候補に押し上げてもらったディカプリオくんだけだったようです。その意味ではズウィックという監督は、役者からは持て囃される監督なのかも知れません。

「サンシャイン2057」(5月3日 スバル座)
2007年/監督:ダニー・ボイル

【★★★ 設定の荒唐無稽さには戸惑うが、ゾンビにエイリアンといったB級要素に自覚的な作りが潔い】

 21世紀半ば。太陽の光が弱まっているという人類の危機を前に、太陽の活動を再生させるため、太陽の中に核爆弾を打ち込むという計画が立てられます。すでに一度、同計画を実施するミッションを帯びた宇宙船“イカロス1号”が発射されたものの、行方不明になっていたため、人類最後の望みとして、地球上に残された核物質をかき集めた“イカロス2号”が打上げられ、太陽に接近しているという状況です。
 太陽が光を失いつつあるという設定は、地球温暖化やらCo2削減やらといったことにも関係していそうで、理科系オンチのわたくしのような人間にも、どこか身近に思えるお話ながら、その太陽に核爆弾を打ち込むことによって光が再生するといった設定が、どこまで真実性を持っているのか、わたくしには疑わしく思え、どうにも荒唐無稽にしか感じられなかったがゆえに、イントロから暫くはお話に乗れなかったのですが、わが日本代表として出演している真田広之が乗組員を統御する船長という役割で出演している様子をちょっぴり誇らしげに眺めながら画面の推移を追ってゆくうちに、合計8名の乗組員が搭乗するイカロス2号船内において、イカロス1号からの信号を傍受したため、2号は、水星の近くに位置するという1号に向かうことになるといったあたりから、何やらミステリアスな冒険小説めいた展開となり、ようやく映画が面白くなってゆきます。
 そして、アジア人乗組員ベネディクト・ウォンの計算ミスによるパネル破損事故が起き、その修理を巡って真田があっさり死んでしまい、発見されたイカロス1号にはどうやら生存者がいたらしいことや、その1号と2号の連結事故によってさらに2名が死んだ事態などを受けて、この太陽への旅が、次第に乗組員同士が命を削り合うというサヴァイヴァル・ゲームの様相を呈するに及んで、映画は、ガーランド脚本・ボイル演出コンビによる前作「28日後...」が持っていた終末観が前面にせり出してくるのです。「28日後...」が持っていたゾンビものの要素も次第に色濃くなってゆく一方、サヴァイヴァル・ゲームの舞台が宇宙に浮かぶ船内に限定されることによって、明らかに「エイリアン」から借りてきたと思われる密室劇のサスペンス要素も加わってゆきます。
 ゾンビ、エイリアンといった、ハリウッドB級アクション映画の伝統に自覚的なキッチュな演出が強調されている分だけ、ちょうど直前に観た「ブラッド・ダイヤモンド」のエセ社会派の薄っぺらさが逆照射される形となり、こちらのガーランド−ボイル・コンビのほうが賢く見えます。題材が持つB級的なチープさに自覚的で、そのチープさに依拠した話作りに徹した点が潔いのです。
 しかも、太陽が力を失うという、わたくしたちが一般的に抱く近未来の不安を巧みに掬い上げつつ、その終末思想にドップリ浸かっていい気になるのではなく、不安の先に希望を見出そうとする健全さを併せ持っていることに、作り手たちのいい意味での誠実さを感じたのでした。結構面白かったです。

「バベル」(5月9日 シネマメディアージュ・シアター2)
2006年/監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

【★★ 期待が大きすぎただけに、点が点として散在するばかりで、繋がりを見せない展開に不満を持った】

 ギジェルモ・アリアガ脚本、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督というコンビは、「アモーレス・ペロス」「21g」と続いていますが、特に前作「21g」は強くわたくしの胸を打ちました。2001年9月11日に米国を襲った同時多発テロ事件以降、自衛意識を強めて疑心暗鬼になっている米国民感情を物語の中に落とし込み、そこに生と死を巡るドラマを見つけようとする視点が鮮やかだと思ったのです。そうした意味で、「21g」は、すぐれて“ポスト9.11”の時代を反映した映画だと思いました。わたくしが勤務先の部署で発行していた情報誌に書いた文章のうち、この映画に関する記述を、長くなりますが引用します。
 <(21gという)この題名は、人間が死ぬ時誰もがこの重さの分だけ軽くなると言われている量で、人間の魂の重さを表象している。つまりこの映画は、人間の生と死の重みについて描いた物語なのだが、中では911テロ事件については、一言も言及されていない。
 麻薬禍を克服して今は家庭の安定を得ている主婦、心臓移植を待ちながら絶望だけを噛みしめている末期癌の男、過去の犯罪歴を清算し今は敬虔なクリスチャンとして暮らす男、という3つの異なる生を生きる人物が、ある交通事故を契機にその人生をクロスさせるに至る。事故で夫と娘を突然失った主婦は、当初は茫然自失しているが、次第に事故を起こした運転手であるクリスチャンに対して殺意を増幅させる。事故で死んだ夫の心臓を移植されたことによって命拾いした末期癌患者は、自分の心臓を提供してくれた人物に対する興味を募らせるうち、遺された主婦に接近し、次第に彼女の殺意に荷担するようになる。
 物語を以上のように要約してみても、そこには911と直接関係する部分は皆無だ。
 しかし、突然肉親を失った主婦が茫然自失した先に、加害者への殺意を募らせる過程や、相手を抹殺すればその被害感情が癒されるわけではないという真理に辿り着く展開を見るうち、どうしても911以降の米国民感情が登場人物の設定に反映していることを感じざるを得ない。しかも、交通事故の加害者であるクリスチャンが、右の頬を打たれれば左の頬を差し出すべしという、キリスト教原理主義に殉じた人物として設定されているのだから、この物語に含蓄されたものは、21gという題名の軽さとは裏腹に、重く観客の胸にのしかかるのだ。>
 ……去年のカンヌで監督賞を受賞したほか、オスカーレースでも前評判の高かった今回の新作も、「21g」が持っていた世界観を推し進めたものに思えましたので、期待が大きく膨らんでいたのでした。
 しかしながら、実際に観た映画は、残念ながら前作ほどハートに響かず、ちょっぴり冷ややかな思いを胸に劇場をあとにしました。
 映画はまず、トルコの山間にある小さな村で、一人の男が1挺のライフル銃を持って、知人の家を訪ねてくるところから始まります。この知人宅は羊飼いをしているのですが、野生のジャッカルが羊を襲うことに難儀しており、ジャッカル退治のために銃を譲り受けることにするのです。そして、実際に羊の管理をしている兄弟(兄はハイティーン、弟はローティーンくらい)にライフル銃は渡されるのですが、主に銃を持つ兄のほうは射撃がヘタなのに対して、弟は天性の射撃センスを持っているらしく、初めて手にした銃でも、やすやすと目標に命中させてみせるのです。その兄弟が、戯れに眼下の道を走ってくるバスに向けて銃を試し撃ちしてしまうことから、悲劇が起きてしまうのです。
 このトルコの兄弟を皮切りに、銃撃されたアメリカ人夫妻、メキシコのベビーシッター、日本の聾少女など、別々に展開する複数の物語が、次第に互いの関連が明らかになることによって結び付いてゆくという劇構造は、「アモーレス・ペロス」や「21g」と共通するアリアガとイニャリトゥのコンビらしい方法です。
 しかし今回は、4組の登場人物のそれぞれが抱えたストレスと、“今ここ”で起きつつある事件との間に、直接的な関連性が見出せませんでした。例えばトルコの兄弟の場合は、頭脳的には優っている兄が、運動神経においては弟の後塵を拝してしまうというコンプレックスが劇の真ん中に置かれているはずですが、弟が発射した銃弾によって引き起こされた混乱と、兄のコンプレックスとは、直接クロスすることがありません。これと同様に、妻が撃たれたという事態と、この夫婦の間で抱えられている次男の突然死という体験は、どうも乖離していますし、メキシコ人ベビーシッターが無謀なる甥っ子の暴走によって、預かっている子どもたちを危機に直面させてしまう事態と、彼女が不法入国者であるという現実とは、関係が見出せません。結局観客は、劇中の彼や彼女たちの中に生成される感情的な振幅に共感することができないまま、いわば他人事として眺めるしかないのです。
 4組の登場人物の中では、強いて言えば、菊地凛子が演じた聾少女の孤独と疎外感だけが、なんとか万人の共感を呼ぶ普遍性を持ち得ていたと思いますが、父が所有していた凶器が悲劇を引き起こしたという事実が、彼女の“今ここ”に反映しているとはわたくしには思えなかったため、感動にまでつながりませんでした。
 そもそもイニャリトゥ的な作劇とは、最初はバラバラの点に見えていた人物たちが、次第に相関を現わすに従って線分として繋がり、その線分が他の線分と交わることによって渦状のうねりを生じさせて観客を巻き込むのが特徴だったはずですが、今回は、繋がっているようでいて実は、点が点として散在しているだけで終始してしまっていると思えたのです。
 しかし友人がミクシィに書き込んだ感想をあとで読むと、菊地の孤独と疎外感の原因を形作った母の自殺は、父の持っていたライフル銃によって起こされたものであり、父がその忌まわしい凶器をトルコの現地ガイドに譲り渡したことが、結局は大きな悲劇を呼ぶに至ったというふうに解釈すべきだということでした。つまり、この銃がもたらした悲劇が、菊地の“今ここ”に二重の重さとしてのしかかっていると見ることが、この映画の正しい観方なのでしょう。わたくしは画面を追っている限り、それに気づかなかったのですから、ここではわたくしの浅慮を大いに恥じたいと思いますが、その一方、わたくしと同様に、そうした事実を見落としてしまった観客が複数いたことも確からしく、こうした劇の要の部分をちゃんと誰しもが解釈できるように演出を施していないイニャリトゥの思わせぶりな作劇に不満も感じましたのでした。
 不満と言えば、そもそもの悲劇の引き金となったトルコの兄弟による射撃自体が、あまりにも浅慮な行為であって、説得力が欠けているとも思いました。トルコあたりの無学な輩なら、そのように野蛮な行為もやりかねないだろう、という作者の思い込みが、醜い偏見に充ちているように思えたのです。
 オスカーレースの候補となった菊地凛子、メキシコ人ベビー・シッター役を熱演したアドリアーナ・バラーザなど、役者たちには瞠目させられましたが、トータルとしては、期待が大きすぎただけに、欲求不満が残る映画でした。

「スモーキン・エース 暗殺者がいっぱい」(5月15日 スバル座)

【★★ 大量の銃弾と大量の血が観たかった映画だが、半分は目的を達したものの、半分は余計な理屈に辟易】

 この日、会社帰りに1本観ようと思って選択したのが「スモーキン・エース 暗殺者がいっぱい」。大量の銃弾が撃たれ、大量の血が流れるだけの、いわゆる“おバカ映画”が観たい気分だったのです。そして、半分くらいは期待通りでしたが、残り半分は期待外れでした。
 FBI捜査官があるマフィアのドンの家を盗聴していると、そのドンが“エース”という人物の心臓に100万ドルもの賞金を懸けていることを知るというオープニング。ところがそのあと、FBIによるさらなる分析結果、エースの命を狙おうとする女殺し屋同士の打ち合わせ、逆にエースの弁護士から依頼されて彼の命を守ろうとする保釈保証人たちの会話などによって、エースという人物がラスヴェガスの人気マジシャンであること、次第にマフィアとの付き合いを深くして犯罪に手を染めるようになったこと、今は逆にマフィアから狙われてタホ湖畔にあるホテルに立て籠もり、FBIが保護してくれるという結論が出るのを待っていること、エースの命を狙っている殺し屋が大挙してこのホテルを目指していること、などといった設定の一切を、呆れ果てるほど長々とした科白で説明されるのであり、最早スクリーンを真面目に見詰める元気が失われました。喋りすぎです。
 しかし、設定の説明が終わればようやく映画は走り出し、予告編では一番最初に名前が挙げられていたベン・アフレック扮する保釈保証人が、いざホテル入りしようとする直前で、殺しを快楽とする3兄弟によってあっさりあの世に送られたことを皮切りに、期待した通りの銃弾の量と出血量が画面上に飛び散ります。登場する殺し屋にはサイコ・キラーも含まれるのですが、爪を剥ぐとか、目玉を突くとか、局部を切り取るとかいった、観る者にも痛みを強いる残虐表現は最小限に抑えられ、ただひたすらドンドンパチパチと銃弾を浪費し合うだけのアクションシーンが続きますので、観ているほうは至って健康的なまでにカタルシスを味わっていればよく、これではまるでぬるま湯映画だという感想すら脳裡をよぎったのですが、この日のわたくしは最初から能天気な銃弾の浪費こそが観たかったのですから、文句は言えません。
 そして、エースが立て籠もる部屋の玄関前で繰り広げられる最大量の銃弾消費場面をピークとして、いよいよ物語が収束に向かおうという段になります。
 どうせ底の割れた話なのですから、あっさりエースなる人物の身柄をFBIにでも保護させるか、それともマフィアのドンによって殺させれば晴れてエンドマークだと思っていると、瀕死のエースはホテル近くの病院に運び込まれ、やはり死に瀕したマフィアのドンと並んで病院のベッドで横たわっており、その横では主人公格だったFBI捜査官ライアン・レイノルズにとっての上司たるアンディ・ガルシアが(FBI副長官という設定です)、ご丁寧にもエースとドンとの間にある本当の関係を逐一説明しているのであり、おいおい、また科白劇かよ、と呆れ果ててしまいました。こういうラストを蛇足と呼ぶのでしょう。
 わたくしとしては、妙な屁理屈など持ち込まず、タランティーノと流血量を競い合うような、理屈抜きのアクションに徹してほしかったと思いました。
 聞くところによると、この映画の脚本・監督を手がけたジョー・カーナハンなる人物は、この前に作った「NARC」なるアクション・ドラマが大スター・トム・クルーズの眼に止まり、一度は「M:I−3」の監督に抜擢されたこともあるそうです(その後、現場でクルーズと対立したカーナハンは監督をクビになり、代わりにJ.J.エイブラムズが「M:I−3」の監督になります)。「NARC」を観た人によれば、周到に張り巡らされた心理葛藤劇がアクションに結実する映画だったらしく、そういう方からすれば、今回の「スモーキン・エース」で作者が狙ったドンデン返しは“ビターな締めくくり”ということになるらしいですから、わたくしの今回の感想文は、あくまでも最初から“おバカ映画”を期待した者の勝手な繰言だとご理解いただきたいところです。

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