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200×年映画の旅コミュの2007年4月上旬号(洋画旧作)

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2007年4月上旬に侘助が観た外国映画旧作

「キートンのセブン・チャンス」(4月1日 新宿歴史博物館)
1925年/監督:バスター・キートン

【★★★★★ アクションが雪だるま式にエスカレートし、それに比例して笑いが増幅するキートン喜劇の典型】

 この日の活弁つきサイレント映画の3本目は「キートンのセブン・チャンス」。70年代前半、チャップリンが次々とリヴァイヴァルされたことに対抗して、フランス映画社がキートンを続々リヴァイヴァル・ロードショーした時、その第一弾として公開されたのがこの映画でした。わたくしもその時に観て以来33年ぶりの再会です。
 冒頭、「夏、ビリーはメアリーのことが好きなのに、想いを告げられずにいた」などという字幕が出ると、キートンがメアリーの家の前でもじもじしている様子が映ります。続いて「秋、ビリーはまだ告白できずにいた」という字幕が出ると、キートンはやはりメアリーの家の前でもじもじしているのですが、二人の衣裳は秋向きになり木は枯葉を落としています。そして、メアリーが連れている犬が、夏の頃より一回り大きくなっているのです。このパターンが冬、春と繰り返され、キャメラ同ポジションの典型的な繰り返しギャグが展開するのですが、身体はもじもじしながらも顔の表情はまったく変えないキートンの持ち味が活きて、お約束ギャグだとわかっていながらも観客は笑いを抑えられないのです。
 キートンは友人との共同事業の資金繰りが困っているところに、祖父からの遺産が相続される話を知ります。ただし、27歳の誕生日すなわち今日の夜7時までに結婚して身を固めることが遺産相続の条件です。早速メアリーのところに求婚に行ったキートンは、あっさりOKの返事をもらって大喜びするのですが、口下手な彼は、まるで遺産のためなら誰でもよかった、といったようなことを口にしたせいで、メアリーのご機嫌を損ねてしまい、彼女は前言撤回して約束をご破算にします。
 メアリーと結婚できないなら遺産相続も無意味だとキートンは嘆くのですが、事業の相棒はキートンの我儘を諫め、結婚する気を起こさせます。場所はちょうど社交界の延長みたいなゴルフ場のクラブハウス。相棒は居並ぶ7人の女性をリストアップして、一人一人口説けば7回のチャンスがあると言うのです(タイトルの由来)。しかし7人からはあっさりフラれてしまうわけですが、プロポーズしては断られるという繰り返しを避けるためにキートンが施す省略の妙で観客を笑わせ、映画とは省略話法こそが命であることを思い起こさせるのです。
 このあとは、共同事業者の友人が花嫁募集の新聞広告を載せ、キートンが思わず居眠りしている間に、花嫁募集の指定場所となった教会は我こそはという女性たちで溢れ、目覚めたキートンは花嫁の大群を見て恐怖のあまり逃げ出し、その逃亡の過程でメアリーに結婚の意志があることを確認したため、今度はメアリーの家まで時間通りに辿り着けるかを命題に、まさしく命をかけた走りが展開されるわけです。
 アクションが雪だるま式にエスカレートし、笑いも比例して増幅するというキートン喜劇の典型作であると同時に、その笑いとアクションの増幅ぶりの凄まじさには、シュルレアリスティックな美学すら感じてしまうのですが、そんな屁理屈などお構いなしに、とにかく爆笑に次ぐ爆笑を呼ぶ傑作です。面白かった!


「周遊する蒸気船」(4月3日 シネマヴェーラ渋谷)
1935年/監督:ジョン・フォード

【★★★★★ これぞ映画の幸福感、これぞ映画の愉悦。これがあるから映画はやめられない】

 シネマヴェーラ渋谷では、“魅惑の20世紀フォックス映画の世界”と題して、今現在で上映可能なFOX映画の特集が始まっています。フォードやホークスを始め、長らくお目にかかっていない名作が何本もラインアップされていますので、できるだけ頻繁に足を運ぼうと思っています。
 まずこの日は、フォードの傑作「周遊する蒸気船」です(この映画は正確には20世紀FOXの作品ではなく、まだ20世紀映画と合併する前のFOX映画製作の作品です)。今から約10年前、三百人劇場だったかで観て以来の再会です。
 冒頭、川を下っている蒸気船の甲板で、“ニュー・モーゼ”と名乗る宣教師が、生活から悪を断てと説教し、聴衆の中からいかにも酒飲みふうのフランシス・フォードを見つけて断酒を命じる様子を描きます。続く場面では、甲板の別の場所に主人公のウィル・ロジャースが登場し、こちらは“ポカホンタス”と名付けた怪しげな強壮ドリンクを売っています。何やら胡散臭そうな宣教師と怪しげな強壮ドリンク。この二つが映画の後半に出会った時、まるで嘘のような奇跡が起こることになるわけです。
 自らもボロ蒸気船の船長であるロジャースは、この冒頭に登場する蒸気船の船長アーヴィン・S・コッブをライヴァル視しており、いつも張り合っている二人は、近く開催される川下りレースで、お互いの船を賭けることを約束します。レースに向けて自分のボロ船を整備し直そうと、ロジャースは、酔いどれ機関士のフランシス・フォードを船に招き、船内の化粧直しを始めるのですが、そんな時、ロジャースの唯一の身内である甥のジョン・マクガイアが、婚約者のアン・シャーリーを連れて船に帰ってきます。しかも、シャーリーを巡って彼女の地元である沼の男と喧嘩になったマクガイアは、その男を殺してしまったというのです。実際のところは正当防衛が成立するようですが、それを証明してくれる目撃者は、冒頭に登場した宣教師“ニュー・モーゼ”だけです。
 ロジャースはマクガイアを保安官に自首させ、あとは宣教師を探し出して甥の正当防衛を証明することにします。また、やってきた当初は沼の女たるシャーリーを快く思わなかったロジャースですが、沼から男たちがやってきてシャーリーを返せと言われたために反発し、もはやシャーリーは甥の嫁なのだと宣言し、彼女の世話を焼くことにします。
 米国南部、ミシシッピーに浮かんだボロ蒸気船を舞台に、歯に何かが挟まったようにクチャクチャとしたロジャースの喋り方が、なんともまったりした映画のリズムを決定づけ、フォードは何の衒いも凝った工夫もなく、役者たちが奏でる自然体のアンサンブルをニヤニヤと眺めながら、的確なカット割りと的確な構図の中に収めてゆくばかりです。
 真実を証言してくれる宣教師が見つけられない間に死刑判決を受けてしまった甥を助けようと、有能な弁護士を雇う必要性に迫られたロジャースは、潰れた蝋人形館の人形を譲り受けて南部ふうにアレンジして川の周辺を回ることで、弁護士を雇う金の捻出と宣教師探しの一石二鳥を狙うことになるのですが、ロジャースが新たに雇い入れた黒人助手の頭から抜けたような喋り方が観る者を拍子抜けさせ、映画を一挙に脱力系の幸福感のほうに連れ出してみせるのです。
 いよいよ甥っ子の処刑が近づく中で、お約束通り宣教師を見つけて船に乗せ、甥のもとへ行こうとしたその時、川は蒸気船レースのために封鎖されており、ロジャースの船も否応なくレースに参加することになり、ライヴァルのコッブの船がレースで先行する中で、ロジャースの仲間たちが船の各部を壊しては竈に投げ入れてゆく自己破壊的操船法が、キートンの傑作「将軍」を思い起こすデタラメの極みとして爆笑を誘い、さらには、ついに燃料が尽きたと思ったその時、ロジャースの本来の商売道具である“ポカホンタス”なる強壮ドリンクが爆発的な燃料となることが発見され、宣教師が先頭に立ってこのドリンクを竈にくべるという形で、映画冒頭とエンディングが有機的に繋がることになるのです。
 この幸福感こそ映画の愉悦!
 アナーキー極まりないデタラメが繰り返されながらも、まるでウソのようにすべてが丸く納まってしまうという映画の奇跡。古典的恍惚!
 わたくしたちは、こんな幸福感の片鱗でも味わうことができないかという期待感だけを胸に、劇場通いがやめられない中毒患者なのですが、こういう映画を観てしまうと、ますます中毒に拍車がかかってしまいます。
 わかっちゃいるけど、やめられない。
 わたくしは、長男が小学生の頃 “世界の歴史上最も偉大な人物はジョン・フォードにほかならない”と教え込んだものですが、それが決して誤りではなかったことが、この日また証明されたでしょう。


「ナイアガラ」(4月3日 シネマヴェーラ渋谷)
1953年/監督:ヘンリー・ハサウェイ

【★★ 辛気臭く、暗鬱な悪女もの。密告と裏切りが横行した50年代ハリウッドを象徴しているのか】

 大昔、まだモノクロ時代の自宅TVで観て以来ですが、面白くなかったという昔の印象が正しかったようです。
 冒頭からカラー・スタンダードの画面に、ナイアガラ瀑布が迫力たっぷりに滝壺へと流れ落ちる映像や、周囲に立ちこめる水しぶき、鮮やかにかかる虹などを捉えるあたり、“観光映画”としての魅力を発散しているのですが、バックに流れるジョゼフ・コットンのモノローグには思わせぶりな暗さが漂い、映像が示す明るさとはアンバランスな印象を導きます。
 コットンが宿泊中のモーテルに帰ると、ベッドには明らかに全裸の上にシーツを纏っただけという姿で寝ているマリリン・モンローが登場して、男性観客の視線を捕獲しにかかるのですが、彼女が夫たるコットンに向けて憎悪を込めた邪悪な視線を向けるという思わせぶりな態度を示すため、観客はモンローの能天気なエロティシズムに浸ることができません。
 このあとのドラマは、ナイアガラ近くに住む浮気相手と共謀して夫コットンの殺害を企む悪女モンローを描く一方、結婚後何年目かの旧婚旅行としてナイアガラを訪れた若い夫妻ケイシー・アダムズとジーン・ピータース、特にピータースがナイアガラ観光の際にモンローと浮気相手がキスしているところを目撃したことから、コットン‐モンロー夫妻のトラブルに巻き込まれてしまう展開となります。
 モンローの夫殺害計画はあえなく失敗に終わり、彼女は結局あっさりコットンによって返り討ちにあってしまい、そのあとは30分以上も主演女優不在のまま、ピータースがコットンの逃亡劇に巻き込まれるというお話に付き合わされることになります。
 コットンには朝鮮戦争による後遺症としての神経症が潜在しているといった設定からして辛気臭いのですが、密告と裏切りが横行した50年代赤狩り時代のハリウッドが抱えた暗さを、この映画も共有せざるを得なかったのでしょう。前述した「周遊する蒸気船」と比べても意味はないでしょうが、ちょうど続けて観てしまった立場からすると、サイレント時代のハリウッド勃興期と隣接した大らかな古典的時代とは大きく様変わりした、ギスギスとしたハリウッドの50年代を覆った影が、やはり個々の作品にも翳りをもたらしているのです。
 プロデュースと脚本に加わっているのは、ワイルダーと組んで「失われた週末」や「サンセット大通り」などの脚本に参画したチャールズ・ブラケット。かつてはルビッチュ喜劇にも参加し、ホークスの傑作「教授と美女」にも加わったブラケットですが、モンローの喜劇的な才能を見抜くことはできず、彼女の主演第1作として、かくも陰惨な悪女ものに仕立ててしまうあたりも、何やら陰気な時代が反映しているのでしょうか。


「紳士は金髪がお好き」(4月5日 シネマヴェーラ渋谷)
1953年/監督:ハワード・ホークス

【★★★ 姉妹ものと思われていた物語が、急に倒錯した話に思えてきて、スクリューボールコメディだと納得】

 「紳士は金髪がお好き」はこれまでに劇場で1回、TVやヴィデオでも何回か観たことがありますし、ホークスの中では今いちスクリューボールのねじれぶりも、デタラメさも欠ける映画ですが、スクリーンで観られるチャンスが今後どれだけあるのかわかりませんので、この際、シネマヴェーラ渋谷でのFOX映画特集に足を運んでおきました。
 冒頭、マリリン・モンローとジェーン・ラッセルが白い羽つき帽子と白のロングドレスに身を包み、「リトルロックから来た娘」を歌い踊る姿は、まるで姉妹のようによく似た二人の相似性が強調されているように思えます。じじつ、このあとの物語は、玉の輿に乗ることだけに向かって突進するモンローを、時に微笑ましく眺めながら、時に行き過ぎを諫めながら、ラッセルが姉のように振る舞うという形で、まさしく姉妹物語という展開を示しているかのように見えます。
 モンローとパリへ婚前旅行に行くはずたった富豪の御曹司トミー・ヌーナンが、父親からの反対に遭って行けなくなったため、ラッセルが代わりに大西洋横断の豪華客船に同乗し、ダイヤモンド鉱山王チャールズ・コバーンの誘惑に負けそうになるモンローを監視しながら、結局はモンローとヌーナンとの結婚を実現するキューピッド役を果たしつつ、自らもハンサムな探偵エリオット・リードを捕まえるというラッセルの役柄もまた、姉と呼ぶに相応しい輪郭に納まっており、この映画を“姉妹によるマンハントもの”と定義することに異議を申し立てることはできまいと思えます。
 わたくしもこれまでは、この映画におけるモンローとラッセルの姉妹性、相似性には疑いを持ったことはなかったのですが、今回スクリーンからラッセルが発散してくる匂いからは、モンローとは異質な、マッチョなまでの男性性を嗅ぎ取ってしまったのでした。それは、ラスト近く、金髪のカツラをつけピチピチのタイツ姿でモンローの身代わりとなってパリの法廷に現れたラッセルが、「ダイヤモンドは女のベストフレンズ」を歌う場面に、最も映画を昂揚させる瞬間を感じると同時に、まるで男がモンローのふりをしたかのような、倒錯的で猥褻な迫力を感じたことから導き出された印象です。
 そう思ってしまうと、この映画はホークスにとっては「僕は戦争花嫁」の系列に属する映画なのではないかとも思え、これはこれで見事なスクリューボールたり得ているのだと勝手に納得した次第です。


「唇からナイフ」(4月5日 シネマヴェーラ渋谷)
1966年/監督:ジョゼフ・ロージー

【★★ 話は荒唐無稽に過ぎて理解不能だが、画面の推移を眼で追いかけている限りは面白い映画】

 「唇からナイフ」を観るのは今回が2度目でしたが、以前観た時は話の中身がまるで理解できずに戸惑っただけでしたから、今回もどうせ話を追いかけても無駄だと思いましたので、話の中身は度外視して、ただ画面の動きだけを追うようにスクリーンを見つめていました。
 冒頭、ロンドンの一角で、いかにも英国紳士然とした男が殺され、英国諜報部の幹部が集められて会議が持たれると、殺された男は諜報部の一員であるらしく、そのあとなぜか諜報部は一匹狼の女性スパイを雇うことになり、モニカ・ヴィッティ扮するモデスティ・ブレイズ(この名前が映画の原題になっています)の登場と相成るといった展開からは、やはり物語を真面目に追うには値しないと思わせられ、ただ画面の推移だけを眼で追いかけることに集中したのですが、眼の前のスクリーンに映し出された1:1.66のヨーロピアン・ヴィスタの枠内に収められた絵の密度の濃さに圧倒されてきたのでした。ある絵のあとに、どんなアングルのどんな絵がくるか、多くの映画はわたくしの貧弱な脳味噌でも容易に想像されてしまう代物ばかりなのですが、ジョゼフ・ロージーの組み立ては、観客に次のカットを予想させず、常に観客をいい意味で裏切ってくれるのです。
 話の内容を度外視して画面を追いかけている限り、わたくしには面白い映画でした。話は理解不能ですがね。


「日曜日の人々」(4月8日 世田谷美術館講堂)
1929年/監督:ロベルト・ジオドマク、エドガー・G・ウルマー

【★★★★ 職業俳優を使わず、一般市民映像も交えたセミドキュメンタリーで、瑞々しい魅力に溢れる】

 前にも書いた通り、無声映画鑑賞会に加入して以来、活弁つきサイレントを追いかける趣味が高じてきているのですが、“ドイツ時代のビリー・ワイルダー”と銘打った上映会で、かねてより観たかった「日曜日の人々」がかかるので、砧公園の中にある世田谷美術館というところに足を運びました。今回の上映のために来日したオーストリアのピアニストによる演奏つきです。
 「日曜日の人々」は、若い男女がベルリン郊外の湖畔へピクニックに行く様子を軸に、休日を過ごす一般市民の記録映像を交えながら描くセミドキュメンタリー。
 主な出演者は、女たらしのプレイボーイで、ワインセールスを商売にしているヴォルフガング・フォン・ヴァルタースハウゼン、その親友でタクシー運転手のエルヴィン・シュプットシュテーサー、彼と同棲中のモデルであるアニー・シュライヤー、ヴァルタースハウゼンが街でハントした女優の卵クリストル・エーラース、その親友でレコード店員のブリギッテ・ボルヒャルト、という5人の若者です。彼らはいずれも職業俳優ではなく、劇中の役柄と同じ職業に就いており、この映画の撮影終了後は再び普段の仕事に戻っていったそうです。
 そんな彼らが湖畔に出かけ、水泳したり、居眠りしたり、ヨットに乗ったりしながら、最初はエーラースを口説いていたはずのヴァルタースハウゼンが、彼女の親友たるボルヒャルトに鞍替えし、そのことによってエーラースは小さく傷つき、男たちはと言えばヨットで遊んでいる最中に出会った別の女性たちに早くも心を移しているといった具合に、小さな心理的波乱を孕みながら映画が展開してゆきます。
 このように書くと、いかにも物語然としたお話が繰り広げられるように思われるかも知れませんが、実際の映画は、ピクニックに興じる若い男女を即興的にスケッチしたようなタッチが貫かれ、湖畔に遊びに来た一般人たちの様子も随時インサートされるのです。映画史の本には、ネオレアリズモやヌーヴェルヴァーグの先駆をなす作品だと書かれるだけあって、即興的な演出によって切り取られた映像が瑞々しく感じられます。
 登場人物の表情に刻まれる小さな喜怒哀楽を繊細にキャッチし、湖面に反映する光の煌めきをフィルムに写し取ってみせる名手オイゲン・シュフタンのキャメラが、文句なしの素晴らしさです。
 ピアノ演奏がやや饒舌に過ぎる気はしましたが、活弁の桜井麻美さんは喋り過ぎず、かといって黙り過ぎず、なかなかグッドでした。
 脚本に名を連ねたワイルダーが、このセミドキュメンタリーにおいてどのような役割を果たしたのか、その成果のほどは疑問ですが、ナチスが勃興する前のベルリンには、ワイルダーを始め、シオドマーク、ジンネマン、シュフタンといった有能な映画人が集い、これだけ瑞々しい映画を完成させていたのですから、ナチスがもしドイツに現われなければ、この国は世界に冠たる映画大国になっていたろうに、と思いました。


「火の玉リポーター」(4月8日 世田谷美術館講堂)
1929年/監督:エルンスト・レムレ

【★★★ ご都合主義に貫かれたハリウッド調のわかりやすい娯楽作だが、活弁に乗って楽しく観られた】

 この日の2本目は、ビリー・ワイルダーの脚本家としての第一作とフィルモグラフィーに記録されている「火の玉リポーター」。
 NYからベルリンへ観光にやってきて、悪漢に誘拐されてしまった富豪の令嬢たちを、熱血新聞記者が八面六臂の活躍で救出するお話で、ハリウッド調のわかりやすい娯楽作です。主演のエディ・ポロはハリウッド俳優だそうですし、製作はユニヴァーサルですから、ベルリンにはハリウッドのヨーロッパ支店といった役割があったのかも知れないなどと思ってしまいました。
 悪役は絵に描いたような悪役で、主演のポロは敵に銃撃されても怯まずにいるなど、あまりにもリアリズムからは遠いご都合主義に鼻白む面はあり、映画としての出来は前述の「日曜日の人々」とは比ぶべくもありませんが、澤登翠さんの快調な活弁でアクション場面が畳み掛けられ、楽しく観られました。
 活弁には映画を等身大以上のものに見せてしまう効果があるようです。


「若き日のリンカーン」(4月13日 シネマヴェーラ渋谷)
1939年/監督:ジョン・フォード

【★★★ 実在の大統領をモデルにしたせいか、作り手たちの遠慮が働き、リズムが悪いが、ラストの雲は見事】

 「周遊する蒸気船」の項でも書きましたが、わたくしは、世界の歴史上最も偉大な人物はジョン・フォードだと半ば本気で子供に教えてきましたし、わたくし自身もそう信じているのですが、だからと言ってフォードの映画は洩れなく観ているかというと、残念ながらそのようなことはあり得ず、この「若き日のリンカーン」は初めて観る映画です。
 アメリカ映画の真の黄金時代を表わす年号1939年に作られたフォード映画としては、何と言っても「駅馬車」がまず浮かびますが、その「駅馬車」の直後に作られたこの映画に対しても、当然のように期待は持っていました。
 1830年代、ミシシッピー川沿いの小さな町で、若きリンカーン(ヘンリー・フォンダが付け鼻をして、よく容貌を似せています。ものまねそっくり大賞ものです)が、選挙に立候補する挨拶をしている場面から映画は始まります。控えめに政策を呟き、「できれば自分に投票してほしいし、もし議員になれれば感謝するが、落選したとしても感謝する」などという演説には、リンカーンの人の好さを表象しようとしているのでしょうが、フォードらしい大らかなユーモアに欠けるため、どうもギクシャクしたリズムを感じ、笑みが浮かびません。
 このあと、雑貨屋という商売をしているリンカーンのもとに幌馬車で旅する一家が訪れ、商品の代金の代わりに法律書を置いていったことから、若きリンカーンは法律の研究を始めることとなり、川沿いで恋人らしき女性と法律家になる夢を語らう場面も出てきます。続く場面では、どうやら時間が飛んでおり、さっきまで出ていた女性の墓の前でリンカーンが佇む場面が描かれますので、彼女がその後死んだことが了解されるのですが、こうした一連の流れの中でのリンカーン像は、法律家になるという理想は語るものの、人間としての生々しい感情は描かれず仕舞いのため、エピソードも人間味を帯びることがなく、したがってユーモアにも欠け、ただお話がお話として観客の前に突き出されているだけのように感じてしまいます。
 町に小さな法律事務所を構えたリンカーンが、男たちの借金トラブルを理知的に解決する様子も描かれますが、ここでもユーモアを感じることはできず、机に足を乗せて椅子の脚を浮かせてバランスをとるポーズ、即ち、この7年後に作られる「荒野の決闘」におけるワイアット・アープ得意のポーズとして有名になるのと同じヘンリー・フォンダの身のこなしが、むしろ尊大さを感じさせる態度として機能しているように思えます。
 このあと、町のお祭りが開かれ、綱引きやら、丸太切りレースやら、アップルパイとピーチパイの味比べやらといったエピソードが繰り返されるのですが、これまたわたくしには、リンカーンの人間性が伝わらないがゆえに、テンポの悪い、どこかギクシャクした場面に思えるばかりでした。
 この祭りが行われている片隅で、ある幌馬車家族の兄弟と、これをからかおうとする町人との諍いが起き、その結果、町人の一人がナイフで刺し殺される事件へと発展し、幌馬車兄弟の二人が犯人として疑われ、裁判にかけられることになり、リンカーンがこの兄弟の弁護を行うという展開になります。事件を目撃していた兄弟の母親は、どちらが最後にナイフを握っていたかを語ろうとはせず、したがって、兄弟のどちらが真犯人なのか特定できないまま、判事や検事はやむなく兄弟二人とも死刑台に送ろうとします。そんな中で、どちらが真犯人かを目撃していると称する男が現われたことから、事態は急変を告げてゆくのです。
 アメリカ人観客からすれば、リンカーンの若き頃というのは伝説になっているのかも知れず、そもそも偉大な大統領として持て囃される人物のことですから、監督のフォードも、脚本のラマー・トロッティ、プロデューサーのザナックともども、実在の英雄をヘタにいじくることができず、腕が縮んでいるようにも見えます。わたくしに言わせれば、そんな政治家より遥かに偉大な人物の本人がメガフォンを握っているのですから、ここは大胆にリンカーン氏の若き無邪気ぶりをからかってしまえばよかったろうに、という気もします。しかし実際は、すっかりリンカーン氏になりきったつもりのフォンダの尊大な芝居に代表されるように、実在のモデルを重視する姿勢が強過ぎるのか、映画は伸びやかなリズムを作り出せませんでした。
 しかし、ラストシーンで逆光の中に浮かぶ雲を捉えたバート・グレノンのキャメラは素晴らしく、あんな形の雲をフィルムに残しただけで、やはりフォードは偉大だと思ってしまいました。


「三人の妻への手紙」(4月13日 シネマヴェーラ渋谷)
1949年/監督・脚本:ジョゼフ・L・マンキウィッツ

【★★★★★ マンキウィッツの説話が際立ち、撮影、美術、編集などハリウッド黄金期の技能が見事に機能】

 1972年2月、淀長さんの“日曜洋画劇場”で観て以来の再会ですから、35年ぶりとなります。あの時1回しか観ていない映画ですが、面白かったので印象は強く、今回観直して、細部はさすがに忘れていたものの、話の筋立てなどは結構覚えていました。
 主人公は3人の若い人妻。彼女たちは、朝から地元の子供たちに奉仕するヴォランティアのピクニックに向かう予定になっている中、普段とはちょっと様子の違う夫の素振りが気になりながら、ピクニックに向かう遊覧船の船着場に集合します。そして船が出発する直前、3人がよく知る女性から3人に宛てた手紙を受け取ります。曰く「あなたたちの夫の一人と駆け落ちします」という宣言。3人は夫が残っているはずの家に電話しようと思い、電話ボックスに視線を向けますが、お互いに牽制し合ううち、船は出発の汽笛を鳴らし、船着場を離れます。
 ここからは、船内、ピクニック先の小島、小島の中のクラブハウスなどに場所を移しながら、海軍兵士という経歴は自慢ながら田舎生まれであることを恥じる女性ジーン・クレインと夫のジェフリー・リン、今や夫の収入を超える稼ぎを持つ放送作家のアン・サザーンとしがない教師の夫カーク・ダグラス、財産目当てで結婚したリンダ・ダーネルと百貨店王の夫ポール・ダグラスという3組の夫婦が、それぞれに抱えたヒビ割れ、冒頭の手紙の主であるアディという女性と夫たちとの関係(彼らにとってアディは若い頃からの“マドンナ”的存在であり、3人とも少なからずアディと駆け落ちする理由を持っているのです)などが、3人の妻の回想を通して描かれてゆき、3人のうち夫を失うのは誰なのかというサスペンスを醸成してゆくのです。しかも、現在の場面にも、回想場面にも、モノローグとしてアディの声が出てくるものの、彼女の姿は一度もキャメラの前には描かれないという工夫も凝らされています。
 脚本家としてのマンキウィッツのストーリーテリングの巧さが、縦横無尽に張り巡らされた構成によって際立ち、きわめて自然に選び取られたアングルの中で役者たちは自在に動き、カッティング・イン・アクションを基本とする自然な繋ぎによってテンポを生み出すといった、ハリウッド黄金期の職人たちによる技能の正確無比な機能ぶりを堪能しました。
 結婚前のダーネルの実家が、列車が走る線路脇にあり、ダーネルをデートに誘い出しに来たポール・ダグラスが、列車の震動の凄さに眼を丸くするといったエピソードが笑いを誘い、放送作家のサザーンが夫に収入のいい仕事を斡旋しようと招いたラジオ関係者夫妻の俗物ぶりが、当時の社会世相を反映しています。


「わが谷は緑なりき」(4月15日 シネマヴェーラ渋谷)
1941年/監督:ジョン・フォード

【★★★★★ やはり何度観ても美しい映画。この映画の前では、どんな言葉も無力たらざるを得ない】

 TVやヴィデオで2〜3回、劇場でも1回観たことのある映画ですが、いい映画は何度でも身体に浴びることが健康にもいいはずだと思い、シネマヴェーラでのFOX映画特集にかかったのを機に、足を運びました。
 すでに廃坑となっている炭鉱町の荒れ果てた光景に男のモノローグがかぶり、「自分は間もなくこの町をあとにしようとしているのだが、自分が幼い子供だった頃、この谷は緑だったのだ」と語りながら、画面はいつしか語り部の主人公が少年時代に遡っているという魅惑のオープニングからすでに、真のマスターピースだけが可能な神々しいまでの美しさを放っています。姉が幼い弟に「ヒュー!」と呼び掛けると、弟は「アンハード!」と姉の名をカン高く呼び返す声が、まるで山びこのように耳に響く快感!
 本来なら西ウェールズの炭鉱町でロケーション撮影する予定だったのに、第二次大戦が勃発してイギリス・ロケが不可能になったため、ハリウッドに程近いサン・フェルナンド・ヴァレーに広大なロケセットが組まれたことによって実現した、あの谷の傾斜、屋根の連なり、遠くに見える高い煙突から上る黒い煙……そうした景色の細部までもが、神話的な舞台装置として物語に奉仕するのです。
 そして、そうした光景の中で、労働を終えた者の誇りと疲労を黒い煤という形で顔に塗り込め、胸を張って歌いながら帰宅してゆく男たちと、わざわざ白いエプロンを結び直して彼らを迎え入れる女たちとが奏でる黒と白のアンサンブルが、この神話的世界に鮮やかなコントラストを導入するのです。
 家庭内の権力が父親一人に集中し、父親の一存で肉の塊が取り分けられるという、典型的な家父長制は、わたくしのように日教組的な戦後民主主義教育に毒された頭からすると、否定すべき敵と見なす癖がついているのですが、この映画のもたらす幸福感の前では、否定する気にはなれません。
 そもそも、この美しい映画を前にすれば、わたくしがここで並べている御託などまったく無力でしかなく、どんな名文家がこの映画に抗おうとしても必ず敗北するに決まっているのであり、だからこそ “ジョン・フォードは世界の歴史上の人物の中で最も偉大である”というわたくしの信念が導き出されてもいるわけです。
 確かに、炭鉱の賃金の安さに抵抗するために労働組合の結成に立ち上がろうとした息子たちが、結局はなし崩し的に海外へと移住してゆくという展開は、社会的主題を曖昧にしているようにも思えましょう。労働者の正当な権利を主張するためにストライキに打って出た者たちを、暴徒のように描いてしまい、このストライキには批判的な態度を貫く父親を称揚する描き方は、あまりにも資本家寄りであり過ぎるという批判も可能でしょう。こうした社会的な主題を、母と幼い主人公が凍った沼に落ちるという事件のほうに観客の興味を逸らせることによって曖昧にする作劇を、微温的なメロドラマに堕してしまったと指摘することもできるかも知れません。
 しかし、長男の結婚式の夜に延々と繰り広げられる歌と踊り、末っ子が学校に通うようになってから受けた教師からの不当な扱いに対して、元ボクサーとバリー・フィッツジェラルドが行う痛快なお礼参り、等々、あらゆる細部に宿った幸福感を前にすれば、わたくしたちはただ「美しい」と呟くほかありません。
 やはり「わが谷は緑なりき」は、この上なく美しい映画だと思います。


「おしゃれ泥棒」(4月15日 シネマヴェーラ渋谷)
1966年/監督:ウィリアム・ワイラー

【★★★ 着せ替え人形のファッションショーに苛つかされながらも、途中からは乗せられて、楽しく鑑賞】

 ヘプバーンというセカンドネームを聞いてわたくしがまず思い出すのはキャサリンであり、オードリーのほうは苦手にしています。妖精にも喩えるべきオードリーのことを嫌いだなどと大それたことを申し上げるつもりはさらさらありませんし、特に日本において絶大な人気を誇る彼女を貶めるつもりもありませんが、それほどファンだというわけでもない、というのが正直なところです。このため、彼女がワイラーと組んだ3本目たるこの映画には、なんとしても観なければという義務感が持てず、これまで観逃してきました。つまり、恥ずかしながら「おしゃれ泥棒」を観るのは今回が初めてなのです。
 そして実際に対面した映画の前半は、着せ替え人形じゃあるまいし、ジヴァンシーを次々と見せられるだけの展開にイライラさせられ、話は一向に弾まないと不満を覚えてしまいました。
 絵画オークションで、自分が描いた贋作が高額で落札され、上機嫌な父親ヒュー・グリフィスに対して、このまま贋作を続ければいつか足がつくに違いないと諌めるために帰宅したオードリーは、自宅に帰るためだというのに、真っ白なジヴァンシーのドレスに真っ白いフレームのサングラス姿。真っ赤なミニカーを運転する姿は、確かにファッショナブルではありましょうが、リアリティとは程遠く、観る者の気持ちを萎えさせるに充分です。
 チェリーニのヴィーナス像に模した贋作が美術展に出品されるといういきさつやら、ピーター・オトゥール扮する探偵が贋作の調べをしようとグリフィス宅に忍び込んだ際、オードリーに見つかって泥棒と間違われる展開やら、正直なところテンポも弾まず、名手ワイラー演出も凡庸に思え、ほとんど退屈しかけていました。
 しかし、ヴィーナス像に保険がかけられるという契約書にグリフィスがサインしたことによって、ヴィーナス像には科学鑑定が義務付けられることになり、そうなれば贋作であることが露見してしまうことから、オードリーがヴィーナス像泥棒を決意してオトゥールに持ちかけ、オトゥールが返答を思案しながらも、子供たちが河辺でブーメラン遊びをしているのを見て、何やら閃くといった展開あたりからは、ぐいぐいと乗せられて、結局はよく出来た泥棒コメディとして痛快な思いをさせてもらったのでした。
 せっかく螺旋階段が装置として描かれながらも演出的には活用されないなど、ワイラーにしては気合いの感じられない出来だとは思いますが、肩の力が抜け伸び伸びとした余裕の仕事ぶりでした。
 そもそも、こういう映画に対してワイラー演出がどうのこうの、と作家主義的な視線を向けること自体がナンセンスなことに違いなく、ジヴァンシーとオードリーの麗しさに溜息をついていればいいだけなのでしょう。

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