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200×年映画の旅コミュの2007年3月上旬号(日本映画旧作)

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2007年3月上旬、侘助が観た日本映画旧作


「吸血蛾」(3月1日 新文芸坐)
1956年/監督:中川信夫

【★★★ 名手・小国英雄が脚本に加わりながら話は取り散らかっているが、雰囲気を盛り上げる中川演出は可】

 新文芸坐における池部良特集の1本。池部が金田一耕助を演じる横溝正史原作もの。名手・小国英雄が西島大とともに脚色し、中川信夫が監督しています。
 久慈あさみ扮するファッション・デザイナーの周囲で、猟奇的な殺人事件が起きます。モデルが行方不明になったと思ったら翌日にはマネキン人形の箱にバラバラ死体として入れられて送り付けられたのです。
 怪しげな昆虫学者(蛾のコレクター)東野英治郎や、狼のような形相をした謎の男が容疑者として浮上しますが、決定的な証拠も挙がらないまま、ファッション・ショーの舞台に胴体のない脚だけが登場したり、久慈のライヴァルである中北千枝子が殺されたり、久慈のパトロンである斎藤達雄までが殺されるなど、連続殺人事件はエスカレートする一方です。
 観客も、何が何やら要領を得ないうちに事件が相次いで、茫然とするほかなく、小国が脚本に加わりながら何やら取り散らかった展開を見せる体たらくに愕然とすらします。そしてようやく久慈が口を開いて、彼女が欧州に修業に出ていた頃同棲していた恋人が、狼つき(キツネつきの狼版)となってしまって彼女の前から姿を消したこと、その狼つきの男が作ったデザイン画を久慈が日本に持ち帰り、それをもとに彼女が今の名声を手に入れたことなどが告白され、物語の進展の中で、東野扮する昆虫学者と狼つき男は双子の兄弟であることが観客にも説明されます。
 なるほどいかにも横溝が好きそうなビザールな設定だとは思うものの、こうした説明によって筋立てが理解できたかと言うとそんなことはなく、ますます取り散らかったような印象を拭うことはできないのであり、一度は狼つき男が持っていた銃で撃たれて川に落ちたはずの池部・金田一がラストに都合よく登場して、真犯人は狼つき男でも昆虫学者でもなく、久慈の近くで事情を知る立場にあったマネージャー有島一郎だと分析してみせるくだりにも、納得とは遥かに遠い地点で茫然と立ち尽くすほかありませんでした。
 しかし、お話を理路整然と追いかけることなどとっとと諦めて、ただ画面に身を委ねていれば、随所におどろおどろしい雰囲気の記号をちりばめながら、的確なリズムでカットを積み重ねてアクションを組み立ててゆく中川の演出は冴えており、光と影が織り成す怪しい画面を楽しむことができるのでした。
 久慈の回想場面に出てくるヨーロッパの古城の内部、昆虫学者の屋敷の前に川とともに広がる空間、斎藤が狼つき男に殺される公園の中、ラストのアクション場面の舞台となる解体作業中のビルなどの舞台装置が、見事な照明設計に基づいたカット割りによって、物語に相応しい空間として眼に映るのは、やはり中川演出の功績なのだろうと思います。


「33号車応答なし」(3月1日 新文芸坐)
1955年/監督:谷口千吉

【★★★ 後半、わざとらしい偶然の積み重ねに鼻白むが、前半からの細部描写やクライマックスは魅力的】

 この日の池部良特集2本目は、池田一朗と谷口千吉が書いたオリジナル・シナリオを谷口が演出した「33号車応答なし」。
 年末クリスマスの東京の夜、パトロールカーで巡回する池部と志村喬の警察官コンビが、いたずらの通報や酔っ払い、妻が産気づいた若い夫婦、猛スピードのタクシーなどに振り回されながら、ついには警官殺しで逃走中の凶悪犯・平田昭彦の逮捕に貢献するというお話で、のちの「警視庁物語」などの先駆けでもある映画です。
 冒頭、買い物帰りの司葉子が登場し、これから夜勤に出掛けようとする夫・池部を見送りながら、ついつい貧しい生活ぶりの割りに危険が多い警察官の仕事について夫に愚痴をこぼす場面が用意され、口喧嘩になって夫を送り出したあとむしゃくしゃした司が、姉の中北千枝子に誘われるまま夜のクリスマス・パーティに行く約束をする場面も描かれるなど、警察官の家族に対しても気が配られています。
 パトカー内部から見える東京の夜景や繁華街の人混みは、スクリーンプロセスを使ったものではありますが、師走のせわしなさを巧く表わし、池部・志村の会話は日常生活に即したリアリティを持ち、警視庁の本部から再三再四送られてくる無線連絡の命令や確認が、急き立てるように物語を先に進ませる効果を発揮して、映画はテンポよく進んでゆきます。
 そしてさらに、一家で無理心中を図ったものの自分独りだけ生き残ってしまった男の貧しさと孤独、子供のためにリモコンの自動車玩具をクリスマス・プレゼントとして買ったものの、何者かに殺されてしまうタクシー運転手の悲哀、身重の妻をリアカーに乗せて運ぼうとするところをパトカーに助けられた夫が、妻を励まそうとして吹く口笛といった細部が、1955年の世相を反映しつつ、物語を豊かにしてゆくのです。
 こうして映画は、次第にクライマックスに向けて組織化されてゆき、冒頭近くから警察官共通の敵と措定されていた凶悪犯・平田の隠れ先を、志村が偶然捜し当てるという展開になるのですが、平田を匿っていたのは、映画の中盤で渋谷署において志村・池部が遭遇する篤志家の老人・沢村宗之助であったり、その沢村が育てた養女が、やはり志村・池部が偶然出会ったタクシーの客・根岸明美であったりと、映画が終盤に近づくに従って、前半部分に仕掛けた伏線を偶然の連続という形でご都合主義的に収穫してゆくのであり、鼻白むのを抑えられませんでした。せっかく終盤までは自然な流れができていたのに、それを台無しにしたとすら思いました。
 とはいえ、平田に捕らえられた志村を助けようとして逆に捕まった池部が、パトカーを運転させられて平田と根岸の高飛びに手を貸すことになった過程で、池部はわざとパトカーを横転させた末、結局は砂利の山とベルトコンベアのある工事現場みたいな場所で素手による格闘へと至るラスト近くの展開は、無言のアクションを的確なカット割りによって畳み掛ける谷口演出の男性的ダイナミズムに酔うことができたのでした。
 ラスト、再び場面を池部のアパートに戻し、結局は夫を支える決意を新たにした司には昨夜の英雄的冒険譚を打ち明けるでもなく飄々と夫婦の日常に戻ってゆく池部の姿が、実に彼のキャラクターに相応しいがゆえに微笑ましく思えました。
 この映画には、沢村が育てている孤児の一人で、沢村によってシャブ中にされて操られる子供の役で、子役時代の石橋蓮司が出ており、達者な芝居を披露していました。


「マークスの山」(3月6日 シネマヴェーラ渋谷)
1995年/監督:崔洋一

【★★★ 精緻に組み立てられた原作の世界観は駆け足で再現するだけだという不満はあるが、頑張っている】

 シネマヴェーラの“廃墟としての90年代”特集で、「マークスの山」を鑑賞。観逃していた映画なので、初めて観る映画です。
 高村薫の原作は、ここ15年間くらいにわたくしが読んだ小説の中ではベストの一つに数え上げられるもので、数年前に改訂文庫版が出た時も読み直しました。キャリアとノンキャリの確執、本庁と所轄の確執など、警察組織の内部を克明に調べ上げて書かれた捜査経過が、高村特有の細密な筆致で再現され、わたくしが報道局で社会部に在籍した経験からみても、実にリアルな警察小説として感心したものです。
 今は権力の一部を形成する大学学長やら弁護士やら法務省刑事課長やらのエスタブリッシュメントが、昔の忌まわしい内ゲバ事件を揉み消そうと躍起になるといった筋立ては、残念ながらありふれていたと思いますが、精神を病んだ青年と年上の看護士が肩を寄せ合いながらつつましく暮らすラヴストーリーの側面は、リアリティを感じ、感情移入したものです。
 丸山昇一と崔洋一が脚色し、崔が監督した映画化版は、高村原作の筋立てをかなり忠実に再現したと思いますが、警察組織の内情は端折ってしまったため、わたくしには物足りなく思えました。頑張っているとは思うものの、やはり原作を駆け足で追ってしまったとも思います。
 冒頭、雪山の中の一本道で、車が路肩に突っ込むような形で停まって、ワイパーだけが虚しく動いている車内では、運転席と助手席の人物は突っ伏したまま動かず、後部座席から幼い少年が出てきて、横殴りの雪がビュービューと吹く中をゆっくり歩き始めます。どうやら親子心中が企てられたものの、息子だけが生き残ったようです。キャメラ位置が180度変わると、少年の眼前には雪山の頂きが暗く聳えています。ワンカットの長回しが効果を上げ、計算され尽くした照明設計が画面に奥行を与えて、冒頭から観客を惹きつけます。
 場面が変わると東京の閑静な住宅街の早朝、道路の真ん中に横たわった人間の体がピクリとも動きません。キャメラは次第に明るさを増そうとする朝の東京新宿の高層ビル群をロングショットで示し、そこにメインタイトルがかぶります。
 道路に横たわったこの死体(井筒和幸扮するヤクザ)の頭部に穿たれた穴(先端が螺旋状になった金属性の物体によるもの)から犯人探しが始まります。
 スーツに白いスニーカー、決して饒舌ではなく、やや強引な捜査手法を貫きながらも、真実へ最短距離で迫ってゆくキャリアの一匹狼という合田雄一郎像は、高村原作のファンにすれば、それぞれ頭に思い描くものがあるのでしょうが、中井貴一はわたくしが脳裏に持っていた合田像と符合する部分が少ないものの、まあまあ頑張っていると思います。
 こうした井筒殺害事件の捜査過程と併行して、知恵遅れの青年・萩原聖人(それが冒頭の雪の中でさまよっていた少年の長じた姿であることを観客はすぐに察知します)が、看護士の名取裕子とつつましい同棲生活を送る様子が描かれます。
 そして、井筒事件と同様に、先端が螺旋状の勤続で頭部に穴が穿たれた殺人事件がもう一つ起きる(今度の被害者は法務省刑事課長というエリート検事です)ことから、事件は複雑な様相を呈すると同時に、合田たちの捜査も、法務省・検察庁と警視庁幹部との腹の探り合いの中で、難儀することになるのです。原作小説では、こうした検察と警視庁との綱引きの生々しさが、キャリア、ノンキャリの確執とともに浮かび上がってきて、主人公・合田の孤独を逆照射することに貢献していたのですが、映画版は、そうした部分を端折って駆け足で進めたため、原作の魅力を充分には伝え得ていないという嫌いがあります。
 総じて、映画版は小説に書かれた世界観を駆け足で再現しているという印象は否めず、不満も覚えるのですが、高村文学のクールな文体を映像に置き換えるという点では頑張っているとも思え、今のところ高村小説の映画化作品では、これが一番の出来だという世評には頷くことができると思いました。


「バウンス ko GALS」(3月6日 シネマヴェーラ渋谷)
1997年/監督・脚本:原田眞人

【★ リアルさからは遥かに遠い絵空事をダラダラと綴る、能天気で唾棄すべき代物。原田某の下品さが露呈】

 シネマヴェーラの90年代特集のもう1本。「マークスの山」のついでに観たのですが、こういう機会がなければ一生観ることはなかった映画でしょう。
 今もそんな言葉が通用するのかどうか知りませんが、一時期確かに日本で流通していた“コギャル”なる現象をテーマに据え、援助交際と名付けられた売春行為、体を許すふりをして金だけ奪って逃げる技、着ていた制服や下着を“ブルセラショップ”なる店に売却する行為など、コギャルたちの破廉恥な生態を暴いてゆく映画です。
 冒頭から、女子校で女の子たちが独特のヴォキャブラリーを駆使して会話する光景や、渋谷109の前でプータローふうのスカウトマンたちがたむろしてふざけ合っている光景などが、手持ちキャメラと隠しマイクを使っていかにも隠し撮りしたみたいなタッチで描かれているのですが、まずそうした偽のドキュメンタリータッチがわざとらしくて醜いです。
 物語は、矢沢心扮するコギャルが堕胎手術を受けた当日の午後、中年オヤジを騙して金を巻き上げようとしたところ、引っ掛けた役所広司は本物のヤクザで、矢沢は逆に携帯や身分証を奪われてしまったことから、矢沢にとっては頼りになるリーダー格の佐藤仁美が役所との対峙を迫られるといった形で展開し始め、田舎から家出してきて、NYに行くための資金を稼ごうと渋谷にやってきた岡元夕起子、彼女を手助けすることになる佐藤康恵(佐藤仁美とは同級生ながら反目し合っているという設定です)、岡元に一目惚れしたスカウトマン村上淳らが絡んで、ある1日の午後から翌日の早朝までの出来事が綴られてゆきます。
 ヤクザの役所に対面した佐藤仁美の度胸のよさを役所が認めて二人には紳士協定が結ばれたり、一度は闇組織によって奪取された大金が最後には都合よく少女たちの手元に戻ってきたり、反目し合っていた両佐藤が岡元を媒介にして仲直りしたり、NYに向かう岡元が明るく真面目な高校生としての未来像を熱く語ったりと、お話はリアルさからは遥かに遠い絵空事を能天気に繰り返すばかりであり、まさに唾棄すべき代物です。さらに、女子高生との連帯を謳歌しようと役所がカラオケでインターナショナルを歌うあたりの原田眞人演出の悦に入った醜さには、本当に吐き気を催しました。
 原田某という映画監督のことは、「インディアン・サマー」なる映画で、川谷拓三にジーン・ケリーの真似をさせ、「雨に唄えば」とまったく同じカット割りとキャメラワークを再現するという馬鹿げた演出を見せられて以来、決して許すことができないのですが、この映画においても浅慮で下品な無能ぶりを露呈したと思います。


「兄いもうと」(3月10日 フィルムセンター)
1936年/監督:木村荘十二

【★★★★★ 展開は科白に頼っている面はあるが、映像は力が漲って隙がなく、緊密な組み立てに圧倒される】

 フィルムセンターの撮影監督特集で、戦前版「兄いもうと」を鑑賞。今回の特集の中でも観るのを楽しみにしていた1本です。
 室生犀星の同じ原作は、成瀬巳喜男と今井正が戦後に撮っており、いずれも水準以上の映画にしていますが、ものの本によると戦前の木村荘十二監督版がピカイチの出来だとのことで、実際にこの眼で確かめてみると、この木村版は噂に違わぬ傑作だと思いました。
 冒頭、近衛秀麿作曲の流麗な音楽に乗って、川の中で黙々と仕事をする男たちの姿が描かれます。褌一丁を締めているだけでほぼ裸の男たちが、川の中に杭を打ち、竹を割って編み合わせ、それを石で川底に固定し(川魚を採る仕掛けみたいに見えました)、親方である小杉義男の叱咤激励の声だけが響くほかは男たちは声を発せず、黙々と仕事している様子を、キャメラは多彩なアングルや動き(後退移動、横移動、クレーンショットなど)を組み合わせて描いてゆくのですが、そのショットの積み重ねが実にリズミカルで素晴らしく、すでに傑作を確信しました。立花幹也のキャメラが絶品です。
 このあと、小杉の妻である英百合子が弁当を持って夫の仕事場にやってきて、その英が次女・堀越節子とともに自宅に帰ると、そこには長女の竹久千恵子が帰省中であるといった具合に、観客の視点を竹久のドラマへと移行させてゆきます。
 竹久は、奉公先で学生と恋に落ち、彼の子供を腹に宿して帰宅したという設定で、英はそんな娘の身体を気遣いますが、竹久は自分を妊娠させた学生に生活の面倒を見させることなどできず、自分で子供の面倒を見なければならないと覚悟を決めています。そんな竹久の苦悩半分、投げやり半分の気持ちを代弁するように、木村荘十二の演出は、竹久を畳の上に身体を投げ出させて腹這いに横たえ、英と堀越は隣の部屋できちんと座らせるという対照的な格好をさせています。さらには、そうした竹久の格好をキャメラは低い位置から捉えてみせ、彼女の足の裏を大胆に画面の中心に据えたカットまで挟んでみせるのです。
 この映画の見せ場は、タイトルが「兄いもうと」となっている通り、このあと、長男で石工をやっている丸山定夫が帰宅して竹久と対峙し、どこぞの学生によって妊娠してきた妹をなじり、そんな兄の攻撃に竹久はいたたまれなくなって家を出るという展開となります。
 そしてある日、竹久を妊娠させた当事者である大川平八郎がこの家を訪れ、英や小杉に鄭重な詫びを入れた上、金を置いてゆこうとするのですが、彼に恨みを抱く丸山が大川の帰りを待ち伏せ、暴力を振るうことになります。
 その後、家の前の空き地にくる郵便配達人を、秋から冬、さらには春、夏という季節の変化の下に置くという手法によって時間経過を表象して、たぶんお盆休みの時期を迎えます。バスに揺られてくる竹久は、タバコをくゆらせる蓮っぱな態度から、荒れた生活ぶりが偲ばれるのですが、車窓からは奉公先の休みをもらって帰省中の妹・堀越を見つけ、二人で自宅に帰ります。
 そして、竹久の腹にいた子供は流産に終わり、奉公先の御曹司と関係を持ったしまった以上、そこで働き続けるわけにもいかぬ竹久が、今は水商売の女になっていることが観客に示され、そこに兄の丸山が帰って来たことから、丸山は妹の愛人だった大川を痛めつけた体験を話し、これに怒った竹久が丸山に食って掛かり、兄妹の間で取っ組み合いの激しい喧嘩が展開されるに至るわけです。
 竹久の現状や兄妹の心境などはすべて科白で説明され、それも、長くて説明調の言葉が立て板に水のスピードでまくし立てられるのを耳にするのは、やや苦痛にも思えるほか、その間の映像展開は、緊密なアングル処理や人物配置、光線設計などによって、実に隙のない、全カットに力が漲った映像で埋め尽くされるため、観る者の緊張が強いられるほどです。もう少し弛緩した部分も作ってくれないと、息苦しいと思えるほどですが、61分という上映時間が、なんとか緊張の持続を可能にしてくれるのでした。

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