ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

200×年映画の旅コミュの2007年2月下旬号(池部良)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
2007年2月下旬に侘助が観た池部良主演映画


「トイレット部長」(2月22日 フィルムセンター)
1961年/監督:筧正典

【★★★ 他愛ない話ではあるが、性の話題をアクセントにして時代相を浮き彫りにし、手堅い娯楽作にした】

 フィルムセンターでの撮影監督特集の1本、池部良主演「トイレット部長」です。
 冒頭のアヴァンタイトル、原始時代の排泄処理法から、古代、戦国時代などを経て、メインタイトルを挟んで観客を現代のサラリーマン家庭の朝に招き入れるオープニング。
 主人の池部良はトイレに新聞を持ち込んで読み耽って出たところで、妻・淡路恵子から「息子が真似するからやめてちょうだい」という叱責を受けています。そして、向かいの家の亭主・松村達雄に無理やり誘われて松村のマイカー(二人乗りのマツダ車、あれは何という名前の車だったでしょうか)に乗せられ、車ラッシュの始まった東京の街を移動してゆきます。
 丸の内の国鉄本社に勤務する池部の役職は営繕課長。具体的には駅のトイレを設計、管理、修理するお役目で、妻の淡路恵子は人に話せない仕事だと恥ずかしがってばかりいますが、池部自身は仕事に誇りを持っています。仕事の面で、家庭の夜の生活で、息子の教育面でと、気持ちがすれ違い、倦怠期に入ったこの夫婦のもとに、池部の姪である浜美枝が居候を始め、その浜が池部の部下である久保明と恋愛関係になるといった話を絡めながら、トイレ管理に燃える池部の仕事ぶり、生活ぶりを描いてゆくのです。
 トイレという下ネタを扱いながら、あまり下品な話題ばかりを前面に出すわけにもいかず、金隠しのない便器を開発した池部が、果たして人は駅の公衆便所でドアを背に事に及ぶか、ドアのほうを向いてするのか、といった他愛ないことを問題提起して、それに藤木悠をはじめとした大の男たちが必死に議論する姿を描いており、いかにも東宝らしいぬるま湯的な題材処理だとは思いながらも、実にほのぼのして微笑ましい光景です。
 その一方、松木ひろしの脚本は随所に夫婦の性生活の話題をくすぐりとして盛り込んでおり、田舎からやってきた闖入者たる浜美枝など、義理の叔母たる淡路から恋人との関係を問い質されて「セックス?それはまだ」などと平然と言い放つ有り様です。それが1961年という時代だったのでしょう。
 そして、そうした話題が、淡路の艶っぽさに巧くマッチして映画にアクセントをもたらし、ぬるま湯のようなサラリーマン・コメディにピリリとした隠し味を付けることに成功しています。
 筧正典の演出も切れ味は鈍いものの手堅さはあり、なかなかどうしてウェルメイドな娯楽作にしています。


「青い山脈」「続 青い山脈」(2月24日 新文芸坐)
1949年/監督:今井正

【★★ 石坂原作の先取性を池部良や杉葉子の肉体に仮託しようという意図は悪くないが、今井演出が×】

 フィルムセンターで観た前記「トイレット部長」も池部良が主演でしたが、池袋・新文芸坐でも池部良主演映画の特集が始まりました。ワイズ出版から池部の本が出たことを記念した上映です。
 まず初日は「青い山脈・正続篇」。わたくしが大学生だった頃に観たことがある映画で、約30年ぶりです。
 港に船が入ってくるロングショットからオーヴァーラップして、船から降りてくる女学生・杉葉子を描き、その杉が街中にある金物屋に入ってゆきます。その店では池部扮する高校生が店番をしているところで、杉は池部に向かって鶏卵を買ってほしいと掛け合います。池部はその卵を調理してもらうことを条件に購入を決め、こうして池部と杉は知り合いになるのです。
 数日後、杉のもとに高校生男子を名乗る者から不審なラヴレターが送られますが、それは男性からではなく女学校の同級生から送られたものだと見抜いた杉は、そのことを担任教師の原節子に告発します。杉が池部と一緒にいるところを目撃した女学生が、からかい半分で杉に偽ラヴレターを送ったというわけです。
 こうした事態を受けて原は、自由恋愛が認められた民主主義社会において、このような偽ラヴレターを送るなどという行為は恥ずべき卑劣な行為であると生徒を詰るのですが、偽ラヴレターに加担した女学生たちは、男子高校生と仲良く歩くなどという不純異性交遊は学校の清き伝統を踏み躙るものだと反発し、ここに、新しい自由・民主主義を称揚する原・杉らの一派と、旧来の価値観を維持しようとする一派の対立構造が鮮明になります。
 この映画が作られた1949年からみると、約60年後の日本で「15歳の母」なるドラマがあまねく全国の家庭に放送波を通して送られることになるとは、卒倒ものの事態でしょうが、49年の日本ではまさしく女学生が高校生と仲良く歩くこと自体がスキャンダルたり得た時代なのです。
 そして、そうしたスキャンダルを田舎の港町に置くことによって、45年8月15日を境にこの国に生じた価値観の転換の象徴としてのドラマを編んでみせた石坂洋次郎の戦略は決定的に新しかったのだと思われます。また、そうした石坂文学が表象した戦後の明るく開放的な価値観を、池部や杉らの伸びやかな肉体性に仮託しようと発案したプロデューサー藤本真澄の戦略もまた、決定的に新しかったのだと思います。
 しかしながら、いわゆる守旧派の面々を徹底的に愚かな存在として図式的な鋳型にはめこみ、何かというとピーピー泣かせたり、空威張りさせたりして悪しきメロドラマ性の中に矮小化させる今井正演出の硬直した石頭ぶりは、本人が新しい民主主義を謳歌していると勘違いしているだけにタチが悪く、まさに唾棄すべき醜悪さだったと思います。題材はよかっただけに、今井以外の人間が監督すれば遥かに素晴らしい映画ができたろうにと、残念でなりません。
 ちなみに、この日の上映後、池部良ご本人が登場してトークショーが行われたのですが、その中で池部は、この映画で18歳の高校生を演じた当時、実際の年齢は33歳であったことを明かしていました。


「暁の脱走」(2月25日 新文芸坐)
1950年/監督:谷口千吉

【★★★★ 山口淑子演じるヒロインの激情に圧倒され、兵士たちの焦燥や諦念を抉り出す演出にも圧倒される】

 前日に続いて池袋・新文芸坐の池部良特集で2本を鑑賞。まず「暁の脱走」は、これまで何度も観るチャンスがありながら逃してきたため、恥ずかしながら今回初めて観た映画です。
 田村泰次郎の反戦小説「春婦傳」を黒澤明と谷口千吉が脚色し、谷口が監督しているのですが、原作では文字通り春をひさぐ従軍慰安婦という設定だったヒロイン春美を、慰問団所属の歌手と設定している点からして、この原作を忠実に映画化しているのは鈴木清順のほうだと言うことができるでしょう。
 しかし、設定をマイルドにしたからといってこの「暁の脱走」がヤワな映画になったかと言うと、そんなことはなく、春美が三上上等兵に向ける激しい所有欲(性欲)や、敗戦濃厚な戦況の中で日本軍兵士に充満した極度の疲弊や諦念なども厳しく描かれており、圧倒されたのでした。
 冒頭、“昭和20年、北支戦線”と字幕が出て、広大な砂漠の中を疲れたような進軍ラッパに合わせて行軍する兵士たちの長い列が描かれます。足どりは重く、靴はボロボロに破れて、彼らがこれまでに過ごした戦場体験の過酷さが偲ばれるのですが、キャメラは兵士一人一人の顔は捉えず、いわば無名性や匿名性が強調され、しかもこの行軍が日本軍基地に入ってゆくまで延々と映されるその時間的な長さに次第に圧倒され、監督の谷口がこの映画で戦争というものと本気で格闘しようとしている姿勢を感じ取ることができるのでした。
 行軍の列の後ろのほうに、怪我をして頭に包帯を巻いた池部と彼を庇って歩く山口淑子の姿がようやく見えてきます。二人は中国軍の捕虜になっていたのち、帰されて日本軍基地に戻ってきたのです。
 捕虜になるということは日本軍においては不名誉なこととされ、しかも生きて戻ってくるなど、日本兵の恥と呼ばれてしまうのであり、池部は捕虜になった経緯などを中隊長である清川荘司に調べられます。その調べに答え、池部が回想する形で、彼が山口と遭遇し、軍の副官たる小沢栄のお付きとしての任務を忠実に果たしつつ、小沢が山口を我が物にしようと繰り返す非道も見て見ぬふりをしながらも、山口が自分に向けてくる激情に次第にほだされてゆく経緯が綴られてゆくのです。
 そうした二人の主人公のラヴストーリーを縦軸に置きながらも、前述したような兵士たちの焦燥や諦念を丹念に描くのであり、冒頭の行軍があった夜の場面として、兵士たち多数が慰問団が経営する酒場に集い、やけくそな調子で「ツーツー、レロレロ、ツーレーロ」とがなり立てて現実逃避しようとする一方、捕虜から解放されて帰ってきた池部の身にこれから降り掛かるだろう災難を案じて急に黙りこくってしまう姿を描いて、忘れ難い場面にしています。この場面から臭ってくる男性臭さは、実に黒澤らしいと思いましたし、谷口の持味でもあるのだろうと思いました。
 そして、物語の主流を形成する池部と山口のラヴストーリーのほうも、前述したように、「三上がほしい」「三上はわたしのものよ」などと眼をギラギラさせて言い放つ山口の所有欲・性欲の凄さには圧倒されたのでした。
 小沢の保身のために死刑確実となった池部がついに軍の非人間性に目覚め、同僚の伊豆肇や柳谷寛の助けを得て、山口と一緒に脱走を企てるものの、小沢が撃つ機関銃によって行く手を阻まれてしまうラストには、自由に向かって走る池部と山口の前に広がる砂漠の広大さが強調され、さらには走る場面の時間的な長さが強調されることによって、悲痛さが強まっているのでした。
 実に堂々たる力作でした。


「破戒」(2月25日 新文芸坐)
1948年/監督:木下恵介

【★★★★ 正攻法の脚本、腰の据わった演出などが、藤村原作の部落差別反対という主題を真正面から訴求】

 新文芸坐の池部良特集でのこの日2本目は、木下恵介の「破戒」。約30年前にフィルムセンターの木下特集で観たことがありますが、例によって細部は覚えていません。島崎藤村原作は市川崑監督・市川雷蔵主演でも映画化されていますが、こちらのほうはデビュー作として初々しい姿を見せた藤村志保(原作者の藤村と役名の志保から芸名がつけられました)が印象に残っており、わたくしの中では市川版のほうが上かな、と思っていました。
 しかし今回改めて木下版を観直すと、部落出身者としての己の出自に苦悩する瀬川丑松の誠実極まりないキャラクターが、池部の持ち味とフィットし(あまりにハマり過ぎで意外性がないくらいです)、志保役の桂木洋子もまずまず健闘しており、久板栄二郎の脚本(木下にしては珍しく自作のシナリオでなく久板の本に依拠して、自らは演出に専念しています)も正攻法の直球勝負を貫き、大船から京都撮影所に乗り込んだ木下も、キャメラの楠田浩之やチーフ助監督の小林正樹など身内で固めて、じっくりと腰を据えた演出に徹し、文句のつけようのない力作になっていると思いました。
 丑松を励まし続ける宇野重吉の絵に描いたような善人ぶり、部落出身者差別を平然と口にして、丑松に冷笑的な視線を送る山内明の俗物ぶり、四民平等運動に全霊を捧げた末ついには反動的暴漢によって倒される滝沢修の美談など、あまりにも図式的に過ぎないかという不満も頭をよぎるものの、久板・木下コンビが力説する部落差別反対の正論に説得力があるゆえ、やはり背筋を正して向き合わざるを得なかったのでした。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

200×年映画の旅 更新情報

200×年映画の旅のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング