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200×年映画の旅コミュの2007年2月上旬号(新作)

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2007年2月上旬に侘助が観た新作。


「幸福な食卓」(2月4日 東劇)
2006年/監督:小松隆志

【★ リアルな日常生活に拠って立つべき描写をそっちのけにして、ブンガク的戯言に興じるセンスがダメ】

 瀬尾まいこという人の原作は知りませんが、吉川英治新人文学賞を受賞したそうですから、小説としてはそれなりの出来なのでしょう。しかし、小説がよくても映画は全くの別物であり、わたくしには映画として全然ついてゆけませんでした。
 冒頭、黒味の画面が長く続き、やおら男の声で「父さんな、今日から父さんを辞めようと思うんだ」などと、実にブンガク的で臭い科白が聞こえてきたと思うと、わざとらしく黒味からフェイドインするという出だしからして、カッコつけやがって、と嫌味に思えました。それでも、その嫌味はすぐに解消するはずだろうし、この“父親廃業宣言”の先にこの家族(どうやら母親が不在で、兄と妹、父の3人家族のようです)がどのように現実と立ち向かうかという姿が描かれるはずだろうと思って、画面を眺めていたのですが、父親を辞めると言い出した羽場裕一は、教師という職業も、父親としての家庭内の役割も放棄して、もう一度学校に入り直したいなどという戯言をほざくばかりで、3人家族が食べてゆくための経済的措置など、生活感に即した言葉を口にすることはありません。この映画が、いわばファンタジーとして機能しているなら、わたくしもこのような無粋なことは言わないのですが、日常生活に即した表現こそ求められるタイプのリアリズムに立脚した物語が展開するだけに、この父親が吐いた能天気な戯言は許すことができませんでした。
 さらに、このあと登場した母親の石田ゆり子(羽場とは別居中)もまた、娘の北乃きい(この映画でデビューした新人)から羽場の父親廃業宣言のことを聞いて、「家計はどうするのよ?」などと常識的なことは一切口にせず、ただ「ふーん」と曖昧な不満を仄めかすに過ぎません。
 この一点の不満を抱えてしまうと、もうほかのドラマにはついてゆけなくなり、石田は何歳という設定で、何歳の時に長男の平岡祐太を生んだのだろうか、それとも彼女は後妻か、などということが気になって仕方なくなりましたし、中学3年生という設定の北乃のクラスに転校してきた男として登場する勝地涼が、どう見ても中学生には思えませんし、平岡が学校をそっちのけにして鶏小屋にばかり夢中になるのもよくわからず、石田があとになって夫との復縁を示唆するのも理解できず、なぜこの題材にシネスコが選択されたのかもわからずと、何から何まで不満なままラストまできてしまいました。
 ラスト、北乃が勝地の死を乗り越えて、これからも生き抜いてゆこうという決意を胸に歩く、長い移動ショットに、Mr.Childrenが歌う「くるみ」が流れるという場面となり、「くるみ」はわたくしも大好きな曲だけに、耳には心地よい場面だったのですが、だからといって映画のことは許すことができませんでした。


「キムチを売る女」(2月4日 シアター・イメージフォーラム2)
2005年/監督・脚本:チャン・リュル

【★ 男たちによって受難を蒙る女性の話だが、科白も、キャメラの動きも、起伏も少なく、眠くなる】

 渋谷のシアター・イメージフォーラムでは、“韓国アートフィルム・ショーケース”と称した上映企画が始まっています。最近日本に入ってきている韓国の娯楽映画には、一時期の勢いを感じられずにいるのですが、キム・ギドクやホン・サンスなどのアート系映画にはまだ元気があってほしいという願望もあって、そのショーケースの第1弾であるこの映画に足を運びました。
 韓国を舞台にした映画だと思っていたら、中国の一部に住む、朝鮮族と呼ばれる韓国系中国人女性を主人公にしたお話で、この主人公と幼い一人息子は朝鮮語を話すものの、ほかの登場人物はみな中国語を話す人ばかりでした。
 主人公は無口な女性スンヒで、三輪車で自家製キムチを売り歩いて生計を立てているのですが、どうやら夫は犯罪に手を染めて収監され、スンヒが女手ひとつで幼い息子を育てながらこの地にやってきたという設定です。そして、彼女に接近する男たちは、彼女の肉体を求め、彼女のほうも夫と別離している寂寥を男たちとの関係によって埋めているようです。
 ところが、彼女に親切にしていた男は女房持ちであり、スンヒと密会しているところに乗り込んだ男の妻はスンヒを売春婦として告発します。こうして留置されるに至るスンヒ……。
 要するに、男たちによって受難を蒙る寡黙な女性の物語が展開するわけですが、科白の数はもちろん、キャメラの動きも、物語の起伏も少なく、ついウトウトと眠くなってしまい、後半はところどころ寝ていますから、話がつながらない部分もあります。
 特に、ラストでスンヒは、自暴自棄のようになって、大量殺人に手を染めるに至るのですが、彼女がなぜそこまでしなければならなかったのか、正直なところ、その直前のエピソードを観ていないので、わたくしには語るべき言葉がありません。
 ところで、この映画を観ながら、韓国には似たタイプがいないのではないか、むしろ中国のジャ・ジャンクーのほうに近いタイプではないか、と思っていたのですが、ラストまで見通すと(途中寝ていたとはいえ)、韓国のホン・サンスが一番近いかも知れないと思うに至りました。


「幽閉者テロリスト」(2月9日 ユーロスペース)
2006年/監督・脚本:足立正生

【★★★★ 足立正生が30数年ぶりに映画に帰還しても、今なお力のある表現者であることを実証した】

 60年代末〜70年代初頭の日本映画における足立正生は、若松孝二映画に政治的主題を盛り込みながら「犯された白衣」「処女ゲバゲバ」など母胎回帰幻想を持ち込む脚本を提供して若松映画に詩情を付与したほか、大島渚映画の脚本グループに参加して政治的主題を映画的に脱構築する大島的アプローチに重要な役割を果たすと同時に、足立自身が日大映研時代から追求してきた性と聖の境目という主題に斬り込む監督として、時代のフロントランナーの一人だったのでした。
 彼がパレスティナに渡って重信房子の日本赤軍に加わって以降は映画とは無縁の人生を歩み、わたくしの興味の埒外に去った人物だったのですが、レバノンで逮捕監禁されたのち2000年に日本に強制送還され、しばらく名前を聞かないと思っていたら昨年にはなんと新作映画を監督しているというニュースが伝わり、しかもその映画は足立の同志であった岡本公三をモデルにした話だと知って、何はともあれ完成したら観に行かねばなるまいと思っていただけに、会社帰りにノコノコと劇場に足を向けてしまったわけです。
 21世紀も7年目に入り、かつて政治少年だった団塊の世代が次々と社会人としての現役をリタイアしようという今どき、足立の新作が作られる意図は、団塊世代のノスタルジアを刺激しようという浅ましい商売根性からきたものに違いなく、こんな意図に踊らされることは恥ずかしい限りの醜態だろうと思われますが、実際にわたくしが眼にした足立の新作は、永遠に革命を夢見る夢想家の甘ったれたロマンティシズムという臍の緒をぶら下げながらも、そうした夢想が、長引く拘禁によって肉体も精神も文字通りの犬と化した主人公が、狂気の先に幻視した見果てぬ夢として描かれ、そこには足立自身による切羽詰まった体験と、同志岡本に対する尽きせぬ哀惜が込められた表現として強い説得力を持ち得ているのであり、映画作家としての足立が今なお、そんじょそこいらの駆け出しより遥かに力を持った表現者であることを実証したと思います。
 冒頭、満開の桜の下で、日本人テロリスト戦士3人が、パレスティナ服を着たゲリラ・グループによって抱擁されて送られてゆきます。3人のうち田口トモロヲは桜の花に手を添え、その花を愛でる仕草を見せます。3人が送られるのは、空港テロ事件の最前線であり、3人はマシンガンを手に空港ロビーへと踊り出してゆくのですが、このあとの惨劇は直接キャメラには収めず、マシンガンの銃声の轟きが聞こえる中、桜の花が空中を舞っている映像によって事件を表象するあたりに、足立のロマンティストとしての体質が露呈しています。
 このあと、仲間二人は次々と手榴弾を自ら抱えて自爆テロを貫徹させてゆく中、田口一人は手榴弾が不発に終わったため、警察に逮捕されて監禁生活が始まるのです。自分だけが不本意にも生き残ってしまったことで、田口は当局に対して「殺してくれ」と懇願するのですが、当局は彼を拘禁症状に至るまで“幽閉”を続け、彼の自己同一性を奪おうとします。そして当局の狙い通り、彼は拘禁症状の末、文字通りの犬と化してしまう一方、時折明晰になるイメージの中では、永遠なる革命継続のためのディスカッションを夢想し、彼の中学生時代の性的体験を追想し、少年期の自分を導いた長姉のイメージをパレスティナ解放戦線同志の女性リーダー(もちろん重信房子のこと)と重ね合わせ、見果てぬ夢に胸をかきむしる日々を送ることになるのです。
 テルアヴィヴ空港事件で実際に生き残ってしまった岡本公三の苦渋はわたくしたちの想像の範囲を超えるものでしょうが、近くにいて岡本を見ていた足立が、いつか彼のことを映画にしようと虎視眈々と観察していたことは容易に想像できるのであり、足立はパレスティナの地にあって民族解放戦線の戦士として生活している間も、結局は映画作家としての視線を失うことがなかったということが、わたくしには感動的に思えました。
ところで、この日の上映には、俳優の西島秀俊くんも来ていました。本当に映画が好きな青年です。


「どろろ」(2月12日 有楽座)
2007年/監督:塩田明彦

【★ 予告篇の段階から危惧した通り、大味で素っ気ない子供騙しのアクション映画に終始し、乗れず】

 「どこまでもいこう」「月光の囁き」以来、応援してきた塩田明彦ですが、「黄泉がえり」からはTBS・東宝のお抱えとなって彼の資質に相応しいとは思えぬ題材を任されており、「この胸いっぱいの愛を」みたいな駄作には実にがっかりさせられました。
 そんな中で今回の「どろろ」、手塚治虫原作は読んだことがありませんので、何の予備知識もありませんでしたが、予告篇の段階からどうも大味なアクション映画なのではないかと危惧していたところ、周囲での評判はまずまずだったものの、わたくしには危惧した通りの大味なアクション映画にしか見えず、またしても失望させられました。
 戦国時代、父親の政治的野望の実現とひきかえに、生まれたばかりの肉体を魔物に奪われてしまった赤ん坊が、フランケンシュタイン博士みたいな科学者に拾われて人造臓器や人造の肢体を与えられ、長じて百鬼丸と名乗った彼は、48体の魔物に奪われた肉体各部を取り戻すために魔物を倒す旅を続けるという話。
 旅の途中で、女性としての本性を捨てて男の泥棒になりきり、殺された父母の仇をとろうとしている“どろろ”と行動をともにする一方、百鬼丸自身も、自分の肉体を魔物に売り渡した張本人が実の父親だったことを知るに至り、父との対決が物語のクライマックスに用意されることになります。
 冒頭から、原色を抑えたセピア調という最近流行のルックが選ばれており、原色ギラギラで展開すれば漫画チックな虚構性がますます強調されることを嫌ったように思えますが、わたくしにはその選択が不満で、こういう漫画チックな話こそ徹底的にギンギラギンに撮るべきだと思え、最初の部分から乗れません。
 琵琶法師の中村嘉葎雄が柴崎コウ扮するどろろに百鬼丸の生い立ちを話して聞かせる形で、コケシというより蓑虫みたいな体をして、目と口の部分だけが窪んだような生物体を拾ったフランケンシュタイン博士役の原田芳雄がサイボーグの化け物を作り上げてゆく過程は、医学部出身の手塚治虫らしい人体創造願望が反映されているようで面白かったですし、いよいよ百鬼丸による魔物退治が本格化して、生け捕りにした子供たちを餌としていた魔物をやっつけて子供たちの魂が解放されるあたりは塩田「黄泉がえり」を連想させて、あんた、これがやりたかったのかと苦笑を浮かべもしました。
 しかし、木のお化けとの対決や、岩場を舞台にした鳥の怪物との対決など、わざわざ香港からチン・シウトンを招いたというアクション場面は、大人の鑑賞に耐え得るレヴェルにギリギリのところで踏み止まれず、子供騙しの怪獣決闘場面に若干の毛が生えた程度に終わっています。
 そして百鬼丸とどろろがついに諸悪の根源たる城主・中井貴一(当然、百鬼丸の実の父親でもあります)の城下町に入り、いよいよ物語が動き始めるのを期待したにも関わらず、予算の関係か、このあとの話は一気に端折られてしまった印象のまま、中井のもう一人の息子・瑛太や中井の妻・原田美枝子が都合よく百鬼丸のいる原っぱにやってきて、百鬼丸と中井との殺風景な対決の場へと導いてくれる展開となります。そして、怪物たちの集結も中井の配下の集結もないまま、だだっ広い原っぱで百鬼丸と中井による二人だけの対決という、寒い光景が展開した上、呆気なくクライマックスが終わってしまうことに茫然としたというのが正直なところでした。
 塩田は、広げた風呂敷を一度畳んで、「月光の囁き」や「害虫」といった世界ともう一度じっくり向き合ってほしいものです。


「魂萌え!」(2月12日 シネカノン有楽町)
2006年/監督・脚本:阪本順治

【★★★★★ 女性心理が実にリアルに捉えられ、風吹ジュンが健闘し、三田佳子の貫禄に圧倒される。お見事】

 この日2本目は桐野夏生の小説を阪本順治が脚色・監督した「魂萌え!」。
 阪本には「顔」や「ぼくんち」という女性主役映画があるにはあるものの、どちらかと言えば「新・仁義なき戦い」「KT」「亡国のイージス」など、骨太の男性映画のほうが得意というイメージがあっただけに、今回の題材選定も驚きましたし、女心をここまでリアルに描けることにも意外な印象を受けました。阪本は、昨年公開された日本映画監督協会の製作映画「映画監督って何だ!」では女装して花魁役を演じていましたが、まさか、そういうケがあるのではないか、などと余計なことも脳裏を掠めた次第。エピソードの多くは桐野原作に依拠しているのだろうと思われるとはいえ、この映画における風吹ジュンの喜怒哀楽には、それほど実感が籠もっていました。
 定年を迎えた夫が、コロッと死んでしまい、彼の健康に気遣わなかった自分を責めていた60歳手前の女性が、実は夫に浮気相手の女性がいたことを知り、それを機に自分自身の生活にも決定的な変容が訪れるというお話。
 なんといっても、主人公の風吹が、夫の浮気相手・三田佳子と直接対決する場面に圧倒されます。愛人と正妻の対決場面としては、貫禄という点ではつい先日観たばかりの倉本聰ドラマ「拝啓、父上様」での八千草薫・森光子の顔合わせに軍配が上がるでしょうが、まだお互いに“現役”同士によるフェロモン対決として、三田佳子の迫力には圧倒され、風吹も精一杯健闘したと思います。
 風吹はわたくしが学生の頃、「拝啓、父上様」の原典とも呼ぶべき倉本ドラマ「前略おふくろ様2」において、主人公サブちゃん(萩原健一)の高校時代の同級生役で登場して以来、ひそかにファンを続けていた女優さんであり、決して演技派ではないゆえ、今回の主役は荷が重いという気もしますが、今回の役は彼女には相応しく思え、風呂場の場面ではバスタオルで隠していたとはいえ、セミヌードすら披露するなど頑張っています。
 風吹とは高校時代からの親友という設定で、藤田弓子、由紀さおり、今陽子が出てきますが、このうち由紀と今は、わたくしがつい最近観た「恋の大冒険」で恋敵を演じていただけに、彼女たちが60近い役をやっていることに感慨を覚えました。わたくしも年をとるはずです。
 男の目から観ると、 “魂萌え”のような現象が世の奥様族全般に伝播するかと思うと、そういう時代には厄介な思いを禁じ得ませんが、女性一般が家庭のくびきから解放されて己の未来と向き合う事態は、歓迎すべきなのであり、風吹が映写技師として「ひまわり」の画面を見つめる横顔には、頑張れと声をかけたくなったのでした。

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