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200×年映画の旅コミュの2007年1月下旬号(新作)

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2007年1月下旬に侘助が観た新作映画。

「恋人たちの失われた革命」(1月20日 東京都写真美術館)
2005年/監督:フィリップ・ガレル

【★★★★ 68年5月革命は敗北だったという正しい認識に貫かれ、苦々しさがリアルに伝わる刺激的な映画】

 この日は前夜の痛飲で寝不足状態ながら、恵比寿の東京都写真美術館にて、フィリップ・ガレルの「恋人たちの失われた革命」を鑑賞。
 3時間を超える長尺を寝不足の頭で睡魔に負けずに耐えられるだろうかと案じていましたが、ウィリアム・ルプシャンスキーによるコントラストの強いモノクロ・スタンダード画面の力強さは常に瞳を惹きつけ、ガレルの思索的な作劇も脳を絶えず刺激し続けるため、睡魔に付け入る隙を与えず、一度も眠ることなく観ました。
 68年の5月革命を題材に選んだガレルの念頭には、同様の題材を扱い、同じ俳優を起用したベルトルッチの「ドリーマーズ」があったことは間違いないでしょう。
 「ドリーマーズ」は、わたくしにとっては大嫌いな映画です。68年5月の体験を誇らしげに追想し、あの時カルチエ・ラタンに身を置いた自分をノスタルジックに全肯定する姿勢が、臆面もなく自己愛を披瀝する醜い振る舞いに思えたからです。
 「ドリーマーズ」という映画について、わたくしが「2004年映画の旅」8月上旬号に綴った文章を、長くなりますがまるまる引用しておきます。

 ベルナルド・ベルトルッチの新作は、1968年5月革命のパリを舞台にした話で、シャイヨー宮にあるシネマテークを根城にするシネフィル(ここでは「映画オタク」と訳されています)のアメリカ人留学生が、やはり映画狂の双子の姉弟と知り合い、奇妙な三角関係を築くという展開です。
 アンリ・ラングロワが開設したパリのシネマテークは、フランスには一度も足を踏み入れたことのないわたくしにとっても、映画狂の“聖地”として羨望の存在であり、私淑する映画評論家・山田宏一氏の代表作「友よ映画よ」なども熱い思いを込めて読み耽ったものですが、この映画の冒頭近く、シネマテークの観客席が映され、サミュエル・フラーの未見の映画「ショック集団」が上映されている光景が描かれたりすると、やはり胸が高鳴る思いがいたしました。
 アンドレ・マルロー文化大臣によってラングロワがシネマテーク館長を解任され、これに抗議する映画人がシネマテークをバリケード封鎖してラングロワ復権を叫んだ事件は、ジャン=ポール・ベルモンドやフランソワ・トリュフォーの姿が映った当時のニュース映像を使いつつ、ジャン=ピエール・レオのアジテーションは当時の映像と今のレオ本人が交互に映し出されるという手法が取られています。ここでベルトルッチが年老いた今のレオの姿をキャメラの前に晒した意図はよくわかりませんが、「俺とレオは、あの時代を生き抜いてきたのだ」とでもいったような、68年へのノスタルジアに浸るナルシズムを感じてしまいました。
 シネマテークが閉鎖されて行き場を失ったシネフィルの米国人留学生と双子の姉弟は、急速に接近し、映画の科白から題名を当てたり、名場面を再現して題名を当てたりするクイズごっこに興じたりするのですが、こうした行為は映画ファンなら一度はやった経験があるはずだけに、どこか気恥ずかしい思いを抱きながらも、微苦笑とともに眺めていられる場面です。劇中で引用される映画群「ショック集団」を始めとして、ルーベン・マムーリアン「クリスチナ女王」、トッド・ブラウニング「フリークス」、ロベール・ブレッソン「少女ムシェット」、ハワード・ホークス「暗黒街の顔役」、ジョゼフ・フォン・スタンバーグ「ブロンド・ヴィナス」などを選択する趣味の良さにも、まあ映画ファンとして納得させられます。
 このあと3人は、姉の発案で、ゴダールの「はなればなれに」で描かれたルーヴル美術館を何分何秒で駆け抜けられるかという“世界記録”に挑戦することにします。この場面は、ゴダールが撮った構図からキャメラポジションまでまったく同じに再現してみせているのですが、これを観ていて、「映画には、やっていいことと悪いことがある」という不愉快な思いが湧き上がるのを抑えることができませんでした。
 以前(4月上旬号)わたくしは、ガス・ヴァン・サント監督「エレファント」の項で、ヴァン・サントがヒッチコック「サイコ」をカット割りまでそっくりにリメイクした行為は、デリカシーを欠いたマスターヴェイションに過ぎないと断じたことがありますが、このベルトルッチの「はなればなれに」の再現にも、下品なマスターヴェイションを感じてしまったのです。「はなればなれに」でルーヴルを駆け抜けたアンナ・カリーナ、サミー・フレイ、クロード・ブラッスールの3人は、若さという特権を謳歌する美しさで輝いていましたし、それをキャメラに収めるゴダールもまた、若さを共有する稚気に溢れていました。しかし、「ドリーマーズ」でその行為を再現する3人も、それを見つめるベルトルッチも、無残なまでに老成していて醜いばかりです。
 このあと、3人は双子の住むアパルトマンにシケ込み、外で繰り広げられている“異議申し立て”の喧騒をよそに、ひたすら淫靡なセックス・ゲームに浸ってゆくのですが、映画クイズなどを散りばめながらお互いの性器を弄び続ける3人からは、やはり醜い老残ばかりが感じられて仕方ありませんでした。
ちょうどつい先日わたくしたちは、李相日が同じような時代背景を撮った「69」を観たばかりですが、無謀なまでにアナーキーに疾走していた妻夫木聡や安藤政信が表現した運動感が、この「ドリーマーズ」の3人には決定的に欠如しており、目を覆いたくなります。
 ラスト、3人は遅ればせながら5月革命に身を投じてゆくのですが、こうした若者の姿にエディット・ピアフが「これでよかったのだ」などと囁くように歌うノスタルジックなシャンソンを重ねてしまって幕を閉じるベルトルッチは、68年という時代を追慕して自己肯定に浸る醜い姿を晒したに過ぎないと思います。このような題材に「夢見る人々」などというタイトルを冠して涼しい顔をしていられる神経が、わたくしには信じられません。
 実に下品な映画。わたくしたちを魅了したあの「暗殺の森」や「暗殺のオペラ」の監督は、どこに行ってしまったのでしょう。

 一方、この「恋人たちの失われた革命」におけるガレルの姿勢は、ベルトルッチとはまったく対照的に、5月革命とは、傍観的で惨めに警察から逃げ回るだけの、苦い敗北の体験であったことに自覚的であり、その苦々しさが全編を覆っているのです。じじつ、5月革命の場面は、カルチエ・ラタンの路上に積み上げられたバリケードの後方に据え置きにされたキャメラが、バリケードの後ろでじっと様子を窺っているだけの学生たちを映し出すばかりであり、威勢よく火炎瓶を投げたり、警察隊に向かって投石したりするような行動的な人物は一切見当たらず、警察が一斉に前進して学生たちを検挙し始めると、ひたすら逃げ回り逮捕を免れようとする逃亡者としての姿が強調されて描かれるのです。こうした学生たちの姿は、フランス革命時と思われる中世の格好の人物たちによる夜陰に乗じた大砲の運搬という描写の挿入と対比されてすらいます。こうした描写は、ベルトルッチの「ドリーマーズ」での威勢のよさとは対照的です。
 そしてガレル自身、ベルトルッチに対して挑発的な目配せをしているのであり、それは劇中でヒロインが「革命前夜は観た?」と友人に語りかけたあと、わざとキャメラ目線で「ベルナルド・ベルトルッチ」と口にする場面を用意していることからも明らかでしょう。
 そもそも5月革命のエピソード自体は映画が始まって30分であっさり片付けられ、あとの2時間半はただひたすら、自堕落な若者たちが麻薬とセックスに明け暮れる様子を淡々と綴ってゆくのですから、ガレルの作劇には68年5月の体験への悔恨と諦念に貫かれているのです。
 わたくし自身、時と場所は異なるものの、60年代末〜70年代初頭、全世界で同時多発的に勃興した若者たちによる異議申し立ての一端を体験した者として、能天気にノスタルジックな気分に浸る気には到底なれず、ポール・ニザンが書いた「二十歳が人生で一番美しい季節だなどとは誰にも言わせない」という言葉の決定的な正しさを噛み締めるほかありませんでした。
 ガレルの映画を観るのは、恥ずかしながら「ギターはもう聞こえない」に続いて2回目に過ぎませんが、「ギター〜」という映画もなかなかにリアルな触感を残す刺激的な映画であったことを思い出すと、ガレル映画はわたくしたちに刺激的な体験をもたらしてくれると思います。


「愛の流刑地」(1月20日 日劇2)
2007年/監督・脚本:鶴橋康夫

【★ 陳腐な話、工夫のない演出、長谷川京子という女性の論外の芝居、最低の法廷劇。情けない出来】

 渡辺淳一の三文小説には何の興味もありませんが、寺島しのぶが観たいのと、富司純子との母娘共演が観たくて足を運んだ映画です。また、読売テレビに鶴橋ありと言われた鶴橋康夫(わたくし自身は彼の演出したTVドラマは野沢尚原作・脚本の「砦なき者」しか観たことがありません)が初めて手がけた映画でもありますから、彼の演出ぶりにも興味がありました。
 冒頭から主人公の豊川悦司と寺島しのぶが激しいベッドシーンを演じているのですが、鶴橋演出は、朝焼けの太陽をしつこいくらいに二重焼きに重ねており、その朝焼けに何を仮託しているのか知りませんが、思わせぶりで、ただ画面を無駄に汚しているとしか思えませんでした。
 この情事の最中に、寺島が洩らす「このまま私を殺して」という言葉に誘われるように、豊川は寺島を扼殺してしまいます。そして警察に逮捕された豊川は、担当刑事の佐藤浩市の取り調べに対して殺意はなかったと主張し、身柄を検察庁に送られたのちは、検事の長谷川京子による調べと並行して、豊川と寺島の出会いから不倫の深みにはまってゆく過程が描かれます。
 流行作家ながら最近は作品を書けずにいた豊川が、熱心なファンである寺島に逢ったことによって創作意欲を取り戻すなどという、あまりにもありふれた展開を平気な顔で綴ってしまう渡辺某の厚顔ぶりには呆れるほかありませんが、鶴橋の脚色・演出にも工夫のあとは見られず、実に凡庸なお話がダラダラと繰り広げられます。
 信じ難いほどひどい代物だったのが、検事役にキャスティングされた長谷川京子の芝居で、必死に眼を剥いて訴えかけるような臭い芝居を続ける彼女はただただ画面から浮き上がっていたのでした。わたくしはあまりTVドラマを観たことがないので、この女性が動いているのを観たのはCMしかありませんでしたが、まさか芝居がこれほどひどいとは思っていませんでした。こんな女をキャスティングした人物が悪いのでしょうが、このような芝居をフィルムに焼き付けてしまった演出家鶴橋も犯罪的だと思います。
 犯罪的なのは長谷川の芝居だけではなく、このあと物語の舞台を法廷に移した裁判場面のひどさで、殺人罪に問おうとする検察側に対して、豊川の弁護士である陣内孝則(長谷川に負けず劣らずの臭い芝居!)は寺島の依頼を受けて殺人に手を染めたという嘱託殺人を主張するという形での攻防が繰り広げられるのですが、刑事裁判の一つでも傍聴すれば直ちに了解されるはずの法廷手続きのイロハもできていない上、傍聴席に座っていた人物を証人席に立たせたり、その人物(仲村トオル演じる寺島の夫)にわざとらしく叫ばせたりといった具合に、TVの2時間ドラマ並みにお粗末な法廷劇が組み立てられており、同時期に公開された周防正行の「それでもボクはやってない」に描かれた刑事裁判手続きの精緻さと比べるとあまりにも情けない代物にしかなっておらず、こんな程度の映画しか作れないからTV屋はダメなのだ、と言われかねない出来に終わっています。同業者として情けないです。


「マリー・アントワネット」(1月21日 日劇1)
2006年/監督・脚本:ソフィア・コッポラ

【★★ カラフルでポップな王妃像を作ろうという意図はわかる一方、古臭い作劇も散見され、中途半端な印象】

 ソフィア・コッポラは、監督デビュー作の「ヴァージン・スーサイズ」にせよ、話題となった第2作「ロスト・イン・トランスレーション」にせよ、音楽や現実音を繊細に組み立てながら、登場人物の揺れるような想いに寄り添いながら物語を描いてゆく上品な作りを見せ、女性らしい感性を画面から立ち昇らせていました。
 そのソフィアの新作が歴史上最も名高い王妃であるマリー・アントワネットを取り上げるということを知り、どのような新しい解釈を採り入れるのか興味を持つと同時に、同時代の物語と格闘するのではなくコスチューム・プレイの中に逃避するような狡猾さを感じたものです。
 クラシック音楽の合間にロックを加え(むしろ、ロックの合間にクラシックが挿まれると言うべきでしょうか)、宮廷衣裳にカラフルでポップな味付けを施して、“悲劇の王妃”の孤独と悲哀を現代風に蘇らせようという試みはわからないではありません。予告編を観た時から感じられたように、ポップな現代的意匠の中にヒロインを置くことによって、彼女が抱えた孤独が“今ここ”の主題として現代の観客にも共有されるだろうというソフィアの目論見は、ある程度は成功しているとすら思います。
 しかし、王妃が宮廷内で夫の性欲不足に悩まされ、ハンサムなスウェーデン軍人との秘密の逢瀬を楽しむという作劇のメロドラマ性や、最後は潔く国民の批判を受け止めて、王宮の前に詰め掛けた民衆に向かって頭を垂れるという英雄主義的な人物像は、驚くべきほど古臭いパターン通りであり、前半にあったポップな現代性は後退してしまったかに思えます。
 そもそも、イーストウッドが99%日本語で成立するアメリカ映画を作っている時代に、フランス王宮の話をアメリカ人俳優たちが英語で演じるという「SAYURI」並みのアナクロ的茶番を、時代のフロントランナーたらんとするコッポラの娘が作ってしまうとは、どうも情けない気もします。
 ファッションやスィーツのカラフルさを観ている限りは、女性観客にとっては楽しい部分はあるかも知れず、そうしたファッション性あふれる映画を作ることによって現代の観客に訴求してみせるソフィアのプロデューサー的資質は父親譲りの商売上手を証明しているのでしょうが、新しいマリー・アントワネット像を作り出すのか、これまでに流通してきた王妃像を踏襲するのか、という選択が中途半端だったのだと思います。


「不都合な真実」(1月21日 日劇3)
2006年/監督:デイヴィス・グッゲンハイム

【★★★ 地球温暖化の危険性が切実に胸に迫り、説得させられる一方、政治プロパガンダには鼻白む】

 この日2本目は、「エラゴン」なるファンタジー映画の思わぬ不入りから、急遽日劇での上映に繰り上がったドキュメンタリー映画「不都合な真実」。東宝系のメイン劇場たる日劇で、3番手の“日劇3”という小振りな小屋とはいえ、ドキュメンタリー映画が編成されるなどということは従来なら考えられなかったことであり、去年31年ぶりに日本映画と外国映画の興行収入が再逆転して日本映画優位になるなど、ハリウッド大作が不調な時代を反映した事態だと思えると同時に、マイケル・ムーアあたりが先鞭をつけて、ドキュメンタリーが立派に商売になる時代が到来していることを実感させられます。
 さてこの映画は、米民主党の前大統領候補であり、自称“一瞬だけ大統領になった男”でもあるアル・ゴア(じじつ、全米の得票率ではブッシュを上回りながら、接戦であったフロリダ州を落としたがゆえに惜しくも大統領の椅子に座り損ねたのでした)が、己のワイフワークとして取り組んでいる講演、すなわち地球温暖化現象の危険性を説き、政治的決断を促そうとする講演を記録したものです。
 地球の温暖化現象は、ここ30年間ほどで、もはや危機的な状況を迎えてしまっており、それは映画が始まって5分もしない段階でゴアが示す、キリマンジャロの山頂を常時覆っていた雪や北欧の氷河が最近は失われて、茶色い地肌が晒されてしまっている比較写真によって直ちに理解できるのであり、このあとゴアが様々なデータやシミュレーション映像によって示してゆく具体的な危険性(北極海の流氷の消滅、南極大陸の溶解、海面の6メートル上昇、地上の水不足、生態系の崩壊、等々)が実に現実味を帯びて感じられることになります。
 ゴアは、こうした講演を世界中で千回以上やってきたと豪語するだけあって、どのような順番でどのように語れば説得力を持つか知り尽くしており、この映画の作り手たちも、ゴアの主張をわかりやすく絵解きしてゆきます(去年末に観た「ダーウィンの悪夢」など、この映画の半分ほどの構成力があれば、遥かに説得力を帯びて傑作になったろうに、と余計なことを考えてしまったほどです)。
 その結果、京都議定書に調印すらせず、世界の中でも突出した量のCO2を吐き出し続けているアメリカ合衆国や、急速にエネルギー消費量を増大している中国に対する義憤が胸に沸き起こると同時に、わたくし自身がとりあえず着手できることとして、環境省が唱えるチーム・マイナス6%に協力して、スーパーのレジ袋謝絶を始めようなどという殊勝なことを考えさせられることになったのでした。
 しかしその一方で、ゴアが訴えていることは、地球温暖化をストップさせるには政治的な決断が必要で、要するに選挙ではこの問題を政策に掲げる自分のような政治家に投票すべきだというプロパガンダに尽きてもいます。ゴアがこの問題に真剣に取り組むようになったのは、自分の息子が幼い時に自動車事故に遭い、この子が長らえる環境を作ることが人生の重要課題になってからだ、などというお涙頂戴の美談をこれみよがしに描くあたり、どうも胡散臭さを感じてしまうのであり、せっかくの感銘も半減といったところでした。


「ディパーテッド」(1月21日 サロンパス丸の内ルーブル)
2006年/監督:マーティン・スコセッシ

【★★ オリジナルを随所で改悪しておきながら、オリジナルに対する敬意を欠く。話の面白さに★1つオマケ】

 スコセッシのことは、「アリスの恋」で日本に初登場して以来、「タクシードライバー」や「レイジング・ブル」「最後の誘惑」「グッドフェローズ」を経て、傑作「エイジ・オブ・イノセンス」に至るくらいまでは、出来に多少の波はあるものの、好きな監督の一人だったのですが、ここ数年はがっかりさせられ続けています。
 そのスコセッシが、近年の香港ノワールの傑作「インファナル・アフェア」のリメイクを手がけたというニュースに接した時は、安易に出来合いの企画に乗ってしまうという尻軽さに呆れ、どうも期待できそうにないと直感しましたし、試写などでこの映画を観ていた人々から洩れ伝わってくる評判も芳しくなかったのですが、アメリカ本国ではなぜか評判がよく、オスカー・レースの前哨戦たるゴールデン・グローブ賞ではまんまと監督賞を受賞してしまう有り様であり、ここはひとつ出来栄えを確認しておくか、と思って、劇場に足を運びました。
 ローリング・ストーンズの名曲「ギミー・シェルター」がバックに流れる中で、ボストンのスタンド食堂の息子がジャック・ニコルソン演じるマフィアのボスに眼をかけられ、彼の命令によって警察学校に入ってゆき、マット・デイモン演じるスパイとして成長する過程や、同じ警察学校には意欲に燃えたレオナルド・ディカプリオがいるという様子が、テンポよく描き出されてゆきます。既存のポップスをバックに流して時代背景を説明しつつ、その音楽のリズムに映画の編集リズムをシンクロさせるというのは、「グッドフェローズ」や「カジノ」あたりからスコセッシが得意としてきた演出法ですが、確かにこの映画でも冒頭部分ではその手法が巧く機能していると思います。しかし、この手法の多用が次第に煩わしく感じてくることも事実で、この映画でも中盤以降は登場人物の会話のバックに薄く既存曲がかぶる音が耳にうるさく感じました。
 さて、「インファナル・アフェア」の面白さについては、2003年10月にオリジナル版を観た時、わたくしは「2003年映画の旅」10月下旬号に次のように書いています。
 “これまでスパイものはあまた作られてきて、マフィアから警察へ、または、警察からマフィアへ、一方通行の潜入者はいくらでも描かれてきたのですが、双方向というのは、この映画の発明品です。コロンブスの卵というやつで、アイディア賞を献上してもいいでしょう。”
 オリジナル版の出来自体については、逃れようのない無間地獄を表わす「無間道」という原題が象徴するように、潜入者としての苦悩をクローズアップした重々しいタッチで展開され、ひたすら苦虫を噛み潰した二人の主人公を勿体ぶって強調するばかりで、アクション映画としての切れ味はやや鈍かったと思います。
 しかし、双方向に交わったスパイ同士が、お互いに潜入先のボスからの信頼を得て、組織内のスパイ炙り出しを命じられるという皮肉が交差するといった展開は、今までは味わったことのないサスペンスに浸ることができ、まさにオリジナルな面白さに溢れていたことも事実です。
 このオリジナリティをまるまる頂戴した本作が、面白いのは当たり前な話なのですが、脚色のウィリアム・モナハン(フィルモグラフィを調べると、リドリー・スコット「キンブダム・オブ・ヘブン」と本作の2本が記録されているライターです)と監督スコセッシは、オリジナルに対していくつかの改変を施しています。その主なものは、オリジナルではアンソニー・ウォン一人が演じていた警察のボスの役割を、マーティン・シーン、アレック・ボールドウィン、マーティン・シーンに割り振っていること、オリジナルでは警察に潜入するマフィアたるアンディ・ラウの恋人をサミー・チェンが演じ、マフィアに潜入する警察官のトニー・レオンの恋人をケリー・チャンが演じていたところ、本作ではディカプリオとデイモンの共通の恋人としてヴェラ・ファーミガという女優に一本化されていること、などです。
 しかし、その改変が悉く失敗しており、オリジナルが持っていた魅力を半減させる“改悪”にしかなっていません。わたくしの友人の指摘を借りれば、“アンソニー・ウォンとエリック・ツァンのような確執が警察側とジャック・ニコルソンにないのが大いに減点”ですし、“双方の恋人を一人に絞ったのだが、それってリアリズム的にどーなのよ?「合わせ鏡」を表現するにゃベタすぎやしませんか?”ということになります。また、ファーミガを挟んで成立されたはずのディカプリオとデイモンの三角関係についても、友人の指摘通り“まったく無視ってのはどういうことなのだろう”と疑問に思わざるを得ません。さらには、ディカプリオとデイモンがついにビルの屋上でご対面という段になったものの“ドラマが異様に薄い”という結果しかもたらさず、ニコルソンが実はFBIと通じたスパイだったという改変についても、友人が“脚本も重厚なドラマを目指してるわりには書き込みが足りないぞ。ニコルソンのFBIとの繋がりも新たに書き足したなら、ボストン市警とFBIの確執も描きこめるだろう。台詞だけになっていないか?”と指摘する通りです。
 このようにオリジナルをヘタクソに改竄しておきながら、原作のクレジットはメインスタッフと同等の大文字にはならず、その他大勢のスタントが終わったところで、ようやく小文字で出すなど、アジア映画へのリスペクトが感じられぬ扱いに憤りを覚えてしまいました。
 この映画でゴールデン・グローブの監督賞にスコセッシを推した人たちは、恐らくオリジナルの「インファナル・アフェア」を観たことがないのでしょう。わたくしがアイディア賞ものと称した設定の面白さゆえにスコセッシを評価したとしか思えないからで、オリジナルを観たことある人なら、このような改竄を快く思うはずがありません。スコセッシはオスカーにもノミネートされているわけですが、アカデミー会員もゴールデン・グローブの選者とどうせ同じようなものですから、この出来の悪いスコセッシがついに念願のオスカー取得、なんて結果をもたらすのかも知れません。


「悪夢探偵」(1月23日 シネセゾン渋谷)
2006年/監督・脚本・美術・編集:塚本晋也

【★★★ 荒唐無稽な設定や展開だが、無機質な都会で繰り広げられる狂気にリアリティを感じ、嫌いになれず】

 塚本晋也の新作は、これまでは新興洋画配給会社としてイーストウッド「ミリオンダラー・ベイビー」やハギス「クラッシュ」などを輸入していたムービーアイが、自主制作に乗り出して作った映画で、他人の悪夢の中に入り込めるという特技を持った青年を主人公にした荒唐無稽なお話です。塚本やムービーアイの構想には、あわよくばシリーズ化したいという思惑があるようですが、果たしてどうなりますことか。
 さて塚本が荒唐無稽な話を作ったといっても驚きはまったくなく、彼の映画は常に荒唐無稽な土壌の上に立脚しているとすら言えましょうが、今回の設定は昨年末に観た今敏のアニメーション「パプリカ」とよく似ており、公開時期が近かったせいもあってオリジナリティという点では損をしたかも知れません。
 映画はまず、原田芳雄扮する初老の男の夢の中に嫌々ながら入った主人公・松田龍平が登場し、彼は原田の悪夢の原因を探し出すものの、原田のほうはこの悪夢の中にいることを心地よいと感じ始めてしまっており、松田が悪夢から覚めて現世に戻ろうと促しても聞く耳を持たず、松田がようやく原田の悪夢の中から現世に戻った時には、現世の原田は死を迎えてしまっているという展開を示します。探偵といっても、颯爽と事件に立ち向かうという姿勢は一切なく、疲れて、嫌々ながら他人の夢に入ってしまう男として主人公が印象づけられます。
 このあとメインタイトルを挟んで本題の物語が始動するのですが、こちらは、自殺志願の若い娘が道路脇のガードレールに腰掛けながら、自分と同時に自殺してくれるという何者かと携帯で連絡をとったのち、その何者かに操られるように悪夢に誘い込まれ、その悪夢の中で何者かに切り刻まれた娘は、現世においては己の肉体に自ら刃を何度も突き立てるという異様な光景となって、血まみれの中で自殺することになります。
 この事件の捜査に当たるのが、キャリア組から現場捜査に従事するようになったという設定のエリート女性刑事のhitomiとヴェテラン刑事の大杉漣、そして後輩の若手刑事たる安藤政信の3人で、このあとも同じような事件が相次ぐことから、警察は松田扮する悪夢探偵の力を借りて事件解決を果たそうとするのです。
 塚本の作劇は、誰しもが心に宿す孤独に対する恐怖や自殺衝動を時代固有の病理と捉え、そこにホラー表現の契機を見つけ出して、これでもかと流血の惨事を積み重ねてゆきます。
 全篇を通じて徹底される手持ちキャメラの揺れはわざとらしいし、hitomiの芝居は学芸会レヴェルだし、そもそも他人の夢に入ってゆくという荒唐無稽な設定を絵に置き換えるリアリティが欠如しているし、といった不満を挙げればキリがありません。
 しかしながら、コンクリートに囲まれた都会の無機質な景色が意図的に多用され、その硬質なイメージと対比される形で人間の肉体の柔らかさや血液のヌルヌルした質感を置くことによって、都会の中で増殖してゆく狂気の異形さを表象してみせる作劇にはリアリティを感じてしまい、実に怖い映画に思えました。
 面白い映画だと手放しで褒める気はしませんし、作者の思惑通りシリーズ化するとは到底思えませんが、塚本の描く狂気にはどこか可愛げなところがあり、嫌いになれないのです。やや甘い評価だな、と自分でも思いながらも、★3つを献上することにします。


「刺青 堕ちた女郎蜘蛛」(1月23日 ユーロスペース1/レイトショー)
2006年/監督:瀬々敬久

【★★★★ 谷崎原作を自由に翻案し、博愛が殺人を引き起こすという逆説に現代的病理を見ようとする力作】

 前記「悪夢探偵」のあと、同じ渋谷を移動して、この「刺青 堕ちた女郎蜘蛛」のレイトショーへ。この映画の宣伝を担当している友人から、上映が今週いっぱいなので観てほしいと言われていましたし、瀬々敬久が久しぶりに井土紀州と組んで谷崎に挑戦したという題材も気になっていました。
 しかし、確かに谷崎潤一郎原作とクレジットされますし、女性主人公が背中に女郎蜘蛛の刺青を入れてから、彼女本人はもとより、彼女を取り巻く人物たちにも不可逆的な変容が到来してしまうという大まかな筋立ては原作に依拠しているとはいえ、時代背景や人物設定、および展開などは井土脚本が自由な発想のもとで翻案しており、谷崎原作からは離れた内容になっています。
 映画はまず、小部屋に集められた10人ほどの男女が車座になり、松重豊のマインドコントロールの下で“自己啓発セミナー”を受けている場面から始まります。受講者の一人であり物語の主人公である和田聰宏は、「大形船が難破し、救命ボートには10人しか乗れない時、お前ならどうする?」という松重の問い掛けから自己犠牲の必要性を学びとり、すっかり松重の教えに感化されてしまうという、いわば純情無垢なる青年として描かれるのですが、妻子を捨ててまでして松重のセミナー経営に加担する和田の無垢さは常軌を逸したものでもあり、彼は結局狂気へと傾斜してゆくことになります。
 この和田が、松重の手先としてセミナー経営に協力する過程で、出会い系サイトのサクラとして男を騙し続けている女性・川島令美と知り合い、和田が川島を松重に引き合わせると松重は直ちに川島をホテルに連れ込んだ上、彼女に刺青を強要することとなり、川島のほうも刺青を入れることに同意したため、彫り物師の嶋田久作は渾身の力で川島の背中に女郎蜘蛛の刺青を彫り上げるのです。
 こうして話の展開を言葉で説明しようとすると陳腐で通俗的な代物に読めてしまうでしょうし、このあとの展開も言葉に置き換えることが難しいのですが、川島が刺青を背負った時から、これまでサクラとして男を騙し続けた立場を転換させて、許しを乞う女性となって男性たちに身を捧げるようになる一方、川島の刺青は和田の人生も狂わせ始めることになり、和田は冒頭のセミナーで体得した自己犠牲というテーマを追求した挙げ句に、松重を殺し、川島が寝た相手のヤクザを刺殺するという犯罪に手を染め、転落人生を歩むこととなるのです。
 和田がこのように人生を転落させる引き金となったのは、資金難から閉鎖を余儀なくされた孤児院を助けたいという自己犠牲と博愛なのであり、博愛が殺人を引き起こすという皮肉の中で、和田は精神のバランスを崩してゆきます。誠実であろうとすればするほど、時代からとり残されてしまう和田の悲痛な姿に瀬々‐井土コンビはきわめて現代的な社会病理の一端を見つけているのであり、そのリアリティが観客の胸にも迫るのです。
 瀬々‐井土コンビがまたしても刺激的な映画を作ってくれたと思います。


「それでもボクはやってない」(1月27日 アミューズCQN・シアター1)
2006年/監督・脚本:周防正行

【★★★★★ 一度目に観た時の不満が解消された上、裁判描写の正確さに改めて感嘆】

 去年10月に試写で観た映画ですが、実に素晴らしい出来だったので、もう一度観たいと思っていたところ、友人に誘われたので、この日、二回目の鑑賞に足を運びました。
 一回目の時は、全体の出来の良さに隠れていたものの、いくつかの部分で気になるところがありました。
 まず、主人公と留置場の同房になる本田博太郎やアパート管理人・竹中直人のやりすぎ芝居が、全体のバランスの中で浮いていたこと。しかしこの点について二回目の今回は、全体がシリアスに、求心的に直進する中で、いわばアクセントとして有効に機能しているように感じました。多少の緩みがないと、全体が堅苦しくて余裕がなくなるところ、本田や竹中がもたらす小さな笑いが、観客に適度な句読点を与えていたと思うのです。
 第二は、裁判の前半のヤマ場である被害者中学生への尋問場面。周防演出は、証人席に囲いを作って、興味本位で来ている傍聴席の出歯亀たちから被害者のプライヴァシーを保護したことに倣って、検察官や裁判官の尋問を受ける被害者の顔を映し出すことなく、彼女のか細い声をオフとして響かせながら、その声に耳を立てる傍聴人や検察側、弁護側、裁判官、被告席などのリアクション芝居を延々と繋いでいたのですが、このあと、弁護側の尋問に移ると、堂々と被害者の顔を画面に晒すようになります。わたくしの不満は、そのように被害者の顔を映すのだったら、思わせぶりに隠す部分が長すぎると思え、もっと早く被害者中学生の顔を出せばいいじゃないか、ということでした。しかしこの点についても、二回目の今回は、彼女の顔が隠されている時間がそれほど長いものとは感じず、許容範囲内に収まっていると思ったのでした。
 ことほど左様に、一回目に観た時の不満は今回解消され、ますます周防の計算高い演出とその巧さに舌を巻いたわけですが、今回ますます感心したことは刑事裁判手続き描写の確実さであって、わたくしがかつて1年半ほど報道局の司法記者クラブに所属して数多くの裁判を傍聴した経験から申し上げても、日本でこれまでに作られた裁判もの映画の中でも、その描写の正確さでは随一と断言できる出来に達しています。周防は、法廷の隅々にまで視線を巡らせ、そこにあるべきものをすべて配置した上で、それが何なのかを観客にも一つ一つわかるようにさりげなく説明してやっているのであり、いわば近く日本でも導入される裁判員制度への水先案内人としての役割を自ら買って出ているのだろうと思えました。
 この映画の横に置いて論じるべきものではないと知りながらも、この映画における法廷場面の正確さと比べると、先日観た「愛の流刑地」の酷さがまた腹立たしさとともに思い出されてしまい、鶴橋康夫のバカヤローと、いらぬことまで考えてしまう始末です。

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