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200×年映画の旅コミュの2006年9月下旬(新作)

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2006年9月下旬に観た新作

「出口のない海」(9月24日 丸の内ピカデリー2)
2006年/監督:佐々部清

【★★ 立派な映画だとは思うが、戦争というメカニズムと向き合う姿勢が中途半端なため、印象も中途半端】

 佐々部清の監督作は、「カーテンコール」こそ観逃してしまいましたが、「陽はまた昇る」から「半落ち」「チルソクの夏」「四日間の奇蹟」と律儀に追いかけており、話の中身にはさほど感心しなくとも、その誠実な語り口には魅力を感じ続けてきました。
 今回は、空の“神風特攻隊”と対比して語られる海の“人間魚雷回天”を主題にした横山秀夫の原作小説の映画化ですが、「半落ち」に続いて横山原作を手がけた背景には、横山からの信頼が厚いということがあるのかも知れません。
 冒頭、狭い潜水艦の中で、艦長が発した“全員戦闘配置につけ”の命令を伝達する兵士が艦内を動き回るのを長回しの手持ち移動キャメラで捉えた場面から、艦内で攻撃命令が出るのを待っている4人の青年へと観客を導いてゆき、その中の一人で主人公の市川海老蔵が、学徒出陣に応えて自ら志願し海軍に入った経緯や、軍の中で回天特攻隊に志願するに至る経緯、そして回天の操作訓練を経てようやくこの潜水艦に同乗する形で攻撃に参加するに至った経緯などが語られてゆきます。
 その語り口は、いつもの佐々部映画と同様、実に誠実なものには違いなく、勝てる見込みのない戦争であることを薄々感じながらも命を賭した特攻隊員として、青春と呼ばれる人生の一時期を燃焼させねばならなかった青年たちの悲痛さには、同じ年頃の子どもを持つ親として、感じるところが多々あったことも事実です。
 立派な映画であり文句のつけようはないと思いながらも、どうも観ていて映画的な昂奮が一切味わえぬもどかしさを感じざるを得ず、次第に退屈するのを抑えることができませんでした。
 どこがつまらないのか、映画を観ている間はあまり意識しなかったのですが、映画を観終わってから考えたのは、戦争というメカニズムに対する政治的洞察が決定的に欠けていることが何よりもダメな点であるように思えました。戦争を美化するわけにもゆかず、したがって自爆テロの先駆とも言うべき特攻隊に死を賭して参加する青年たちの心情に寄り添うわけでもなく、だからといって逆に反戦を声高に訴えるでもなく、したがって戦争には懐疑的らしい主人公の父親・三浦友和の主張を丹念に描くことをせず、結果的に何やら曖昧な中間地点で表現を“置きにいっている”感じの居心地の悪さが、全篇を覆っているように思えるのです。
 決して悪い映画ではなく、そこそこの感動はもたらしてくれますし、海老蔵の口跡の悪さには閉口するものの役者たちの芝居は悪くないのですが、どうも面白くない映画。


「フラガール」(9月24日 シネカノン有楽町)
2006年/監督:李相日

【★★★★★ 応援し続けてきた李相日が、幅広い客層を狙ったメジャー作品で、伸び伸びと好打を披露】

 李相日の映画は、デビュー作「青 chong」を観て、在日朝鮮人三世の中にある被差別・差別の構造という社会性をしっかり押さえながら、瑞々しい青春映画として結実させる語り口の巧さ(北野武の影響を感じさせながらも、省略話法などは巧みでした)には非凡な才能を感じさせ、注目させられました。
 続く「BORDER LINE」は、初めてメジャーな商業映画という打席に立った気負いが強すぎるように思え、語りの滑らかさが失われている気がしましたが、世間的な評判は今いちだった「69」は、クリームの「ホワイト・ルーム」が流れた冒頭から、主人公たちが“造反有理”の時代を駆け抜けるさまが他人事には見えず、わたくしはその年のベストワンに選出してしまったものです。
 前作「スクラップ・ヘブン」も、遊び半分で始めた正義漢ごっこが小型テロへとエスカレートしてゆくさまが、鋭い社会性と適度なエンタテインメントの微妙なバランスをそれなりに実現しており、李の成長を嗅ぎ取ることができ、親戚でも何でもないこの李という男が自分の息子か弟分のように思えて、その成長ぶりに目を細めていました。
 その李が、新作では常磐ハワイアンセンター創立当時の地元フラダンス娘たちを題材にすると知った時は、「シコふんじゃった」あたりを嚆矢として、「ウォーターボーイズ」「ロボコン」「恋は五・七・五!」など、さんざん作られている“みんなで力を合わせれば困難や逆境を乗り越えられる”式物語という流行に李も取り込まれてしまったのか、と不満を覚えたものですが、これまでにない間口の広い客層を相手にしたプロジェクトではありますから、李の器の大きさが試される機会なのだとも思い、息子や弟分を初めて一軍スタメンに送り込むような不安と期待が交錯する気分を味わったのでした。
 冒頭、福島県いわき市の炭鉱町の掲示板に貼られた“ハワイアンダンサー募集”のポスターを、一人の少女がこっそり剥がして持ち去り、友人の蒼井優をボタ山に誘い出して一緒にダンサーに応募しようと打ち明ける場面へとつなげてゆくのですが、少女と蒼井が喋るズーズー弁の可愛らしさが観客の心を武装解除する一方、セピアを狙ったのか「プライベート・ライアン」以降世界中の映画界を席巻している原色を抑えたルックが物語世界には似合わない気がして、違和感を覚えていました。 1965年という時代背景を強調するためにキャメラの山本英夫と李はこのルックを採用したのだと思われますが、間口の広い客層を狙った娯楽大作なのですから、原色を鮮明に打ち出すルックのほうが相応しいように思え、ちょっと不安に駆られたのです。
 炭鉱がどんどん縮小され、この町を再興させる起死回生策としてハワイアンセンター設立が決まり、東京からフラダンスの教師として松雪泰子が招かれるのですが、彼女がいつもウィスキーの小瓶を持ってチビチビ呑むといったアルコール依存の強いキャラクターとして設定され、田舎町の暮らしに嫌悪感を露わにし、ズブの素人相手にダンスを教えることに落胆を隠さないという、よくあるステレオタイプの設定に収まりかえっていることにも、こちらが落胆したい気持ちで画面を眺めていました。
 しかし、いつまでもグジグジと文句を垂れている松雪に対して、ハワイアンセンターの責任者である岸部一徳が逆ギレしてズーズー弁をまくし立てるのをワンカットの長回しで捉えたあたりから、個々のキャラクターが活き活きと躍動し始めたのであり、設定が類型的であることなどあまり気にならなくなりました。松雪が独りでダンスの稽古場に立ち一心不乱に踊る様子を、フラダンス指導を希望する女性たちがこっそり覗いて松雪のダンスに魅了され、フラダンスを学びたいという意欲を強くするエピソードなど、松雪の踊りを捉えるキャメラのアングルや距離感がいいので、女性たちの羨望が観客にも共有できるような作りになっており、ますます感心したのでした。
 松雪も教え子たちの思いに次第にほだされ、教える側と教えられる側の絆が形成され、松雪は登場した時の怠惰さなどどこへやら、あっさり“いい人”に転じてしまうあたり、やや薄っぺらい設定ではないか、という思いも頭を掠めるのですが、蒼井を誘い込んだ張本人たる友人の徳永えりがフラダンスにのめり込んでいることを父親に悟られ、殴られて髪を虎刈りにされるという手酷い仕打ちを受けてしまった時、憤慨した松雪が徳永の父親・高橋克実のいる男湯に乗り込み、裸の男たちに臆することなく、湯船に浸かった高橋に殴りかかるという快挙を演じたあたりでは、すでに設定の陳腐さを超えてキャラクターが一人歩きして画面に息づいていたのであり、わたくしたち観客も松雪のみならず、フラダンスを一所懸命学んでいる女性たち一人一人のことを応援している自分に気づくという次第なのでした。
 父親の北海道行きのため徳永がダンス仲間から抜けて行く別れの場面からは、今度は泣かせのエピソードが次々と重ねられます。ダンス・チームがハワイアンセンター開業を宣伝するための巡業をしている最中、メンバーの一人・山崎静代(先日観た「ラブ★コン」で非凡な存在感を示した南海キャンディーズの“しずちゃん”です)の父親が落盤事故で瀕死の状態になりながら、娘の山崎はあくまでもダンスを貫徹させると決意表明するくだり。そうして親の死に目にも遭えなかった山崎のことを地元民たちが非難し、責任は自分にあると松雪が断言したことによって非難の矛先が松雪に向けられるくだり。その結果、町を出てゆこうとする松雪を思い止まらせようと駅に来たダンス・メンバーたちの中で、蒼井が静かにフラダンス独特の手話(ダンス特訓の最初に松雪が教え込もうとした手の振り付けです)によって松雪への信頼と愛を伝達するくだり。娘のフラダンス修業を認めていなかった蒼井の母・富司が、娘の真剣な稽古を覗き見て、フラダンスの魅力をたちどころに理解するくだ
り(この場面は、松雪が初めて稽古場で踊る姿を見て蒼井らが魅了された時の場面と対をなす形で演出されています。と同時に、かつて「日本女侠伝 侠客芸者」などで日本一艶やかな踊りを披露していた藤純子を目撃者としてキャスティングし、その娘役としての蒼井を見守る形で使っていることの妙を感じさせます)。フラダンスに理解を示した富司が、センターの椰子が枯れそうになっていると聞いて、近所からストーヴを集める作業を積極的に始めるくだり。
 そして開業初日、満員の客席の前で、娘たちのフラダンスが披露され、チーム・リーダーとしての蒼井が見事なフラダンスを実演するくだり。
 ……こうした泣かせどころに対して、わたくしの涙腺は脆くも崩壊してしまい、ボロボロと何度も涙をこぼしてしまう有り様でした。当初は類型的とすら思った設定なのに、なぜこれほどに涙腺が反応してしまったのか、自分なりに分析してみると、李の作劇の基本として、物語の背景を形成する社会性の丹念な掘り起こしという面があると思います。東京と田舎という対比、親と子、町というコミュニティにおける和と個、そして何より、物語世界を覆いつくしている“貧しさ”という主題。李は、前半から一貫してこうした主題体系を丁寧に細部にわたって塗り込めていたのであり、それがボディブローとして効いた結果が、後半での涙腺崩壊につながったのだろうと思います。社会性とエンタテインメントとのほどよい調和という面では、以前から巧さを発揮していた李ですから、そうした持ち味が花開いたのでしょう。当初は気になって仕方なかったセピア調のルックも、ラストのダンス場面などでは鮮やかな原色が強調されるに至ったため、許す気になっていたのでした。
 この映画を観終わった直後に友人たちに送ったメールを、ここに採録しておきます。
 「中身については詳述は避けるものの、今度の打席は来た球を素直にピッチャー返しの意識が徹底され、素直に振り切ったバットから放った打球はグングンとよく伸び、センターオーヴァーの大当たりを飛ばしたと思います。
 もともと選球眼やスウィングスピードという才能には恵まれていた上、球をバットの芯で捉える技術も磨き続けてきたことが奏功し、今回の好打につながったと思います。
 ダンス教師役の松雪泰子は、儲け役ながら、今年の賞レースに名乗りを上げたでしょう。
 炭鉱土着のオバチャンになりきった富司純子も、ご本人の芸歴との落差を巧く役柄に活かした芝居を披露し、助演女優賞の本命に浮上でしょうか。
 しかし、わたくし個人としては、またしても役柄を血肉にしてしまった蒼井優ちゃんに主演女優賞をあげたい気分。
 映画の後半は、涙腺が崩壊したかのごとく、ボロボロに泣いてしまいました。」


「キンキー・ブーツ」(9月24日 シャンテ・シネ1)
2005年/監督:ジュリアン・ジャロルド

【★★ 悪くないし、充分に合格点に達した娯楽作だと思うが、「フラガール」の次に観たのが不幸だった】

 傾きかけた靴工場の再生のため、ドラッグクイーンのためのブーツ作りに力を合わせることになった工場労働者と、ブーツのデザインを提供するドラッグクイーン。……イギリス映画では「フル・モンティ」あたりから「カレンダー・ガール」あたりまで盛んに作られ続けており、日本でも「シコふんじゃった」から前記「フラガール」に連なる流れと呼応するかのような“みんなで力をあわせれば困難や逆境を乗り越えることができる”式物語の1本です。
 押しは弱いが善良さが滲み出ている主人公の工場主と、アクが強いドラッグクイーンの組み合わせはなかなかユニークで面白いし、二人のシンミリしたやり取りなど、よく出来ています。このドラッグクイーンと保守的な職人との対立なども巧く絡めています。
 しかし、前記「フラガール」と似たような世界をたて続けに観てしまったため、どうしても比較したくなってしまい、この物語世界を覆っているものが「フラガール」の丹念さとは落差のありすぎる軽さとして描かれていることに不満を覚えざるを得ず、主人公の工場主が恋人をあっさり乗り換えてしまうあたりのいい加減さも含めて、こちらの映画を買う気が起きなかったのでした。
 別に悪い映画ではんし、実はよくできた映画だとすら思うのですが、何せ観た順番が悪かった。


「ストロベリーショートケイクス」(9月27日 シネアミューズ・イースト)
2006年/監督:矢崎仁司

【★★★★ 20代半ばの女性4人の生活感や心情を見事に掬い上げ、女優も頑張る。思わぬ拾い物の映画】

 矢崎仁司の映画を観るのは初めてです。「風たちの午後」(80)、「三月のライオン」(92)はわたくしが映画から遠ざかっていた時期なので観るチャンスはなかったものの、前作「花を摘む少女と虫を殺す少女」(00)はちょっと食指が動いたのに、どうもわたくしの好みとは肌合いが違う気がして敬遠してしまいました。
 しかし今回の新作は予告編を観て、女優たちの自然な素振りに魅力を感じて、観たいと思ったのでした。
 これが思わぬ拾い物。20代半ばという、決して若いとは言えなくなりつつある世代の女性が、東京で独力を頼りに生き抜いてゆく姿をヴィヴィッドに描き、彼女たちが抱えた孤独をごく自然な表情のもとに巧みに掬い上げているのであり、主要な登場人物たる4人の女優、脇に回った加瀬亮、安藤政信から最良に近いパフォーマンスを引き出しています。特に、デリヘル嬢としての職務では激しいプレーも辞さないくせに、片想いの男(専門学校時代から想いを捧げてきた安藤)の前に出ると学生時代の純な心情を見せてしまう女性を演じた中村優子、男に依存してしか生きられぬルームメイトの女々しさに嫌悪感を持ちながら、その彼女への同性愛的な想いも斬り捨てることができず、拒食症という形で己の肉体を傷つけずにいられないイラストレーターに扮した新人女優・岩瀬塔子の二人は、素晴らしい存在感をフィルムに刻み込んでいます。ちなみに、事情通の知り合いがブログに書き込んでおられることによると、この岩瀬塔子なる人物は、原作者の漫画家・魚喃キリコ本人が別名で演じているそうで、貧乳を画面に晒してまでして熱演する魚喃女史の凄味には、圧倒されてしまいました。
 矢崎の演出は、芝居をじっくり組み立ててそれを腰の据わった視線で追いかけ、陳腐な言い方ですが等身大の女性像を見事に描き出しており、この監督の映画はもっと観たいと思ってしまいました。


「愛妻日記」(9月27日 ユーロスペース1/レイトショー)
2006年/監督サトウトシキ

【★ 役者に今ひとつ魅力がなく、その芝居をダラダラと見せられて、眠気を我慢するのに必死になる退屈さ】

 情報誌ぴあを眺めていたら、渋谷のレイトショーで気鋭の監督たちを起用した中篇集が上映されていると知り、前記「ストロベリーショートケイクス」に続いて劇場に飛び込みました。
 重松清の短編小説集「愛妻日記」に収められたエロ系のお話6篇をそれぞれ60分程度のヴィデオ中篇として連作するという企画。
 まずは、ピンク映画界では有名なサトウトシキが監督を務めた「愛妻日記」。 子どもができないことを苦にしている夫婦が、原因を探ったところ、夫の精子に問題があることが発覚するのですが、それからは子ども作という生殖的目標を失った分、性の歓喜を求める間口が広がり、ある夜、夫が帰宅すると玄関先に吊るしてあった手錠を妻に嵌めて性戯に臨んで以来、この夫婦の間にサディスティック−マゾヒスティックな関係が成立するに至るというお話。
 主題自体、特に目新しいところがない上、永井正子という初耳の女優にせよ、インディペンデント系映画の脇役として重用されている戸田昌宏にせよ、まあ頑張っているとは思うものの役者としての魅力には欠け、役者の芝居が今ひとつ弾けないくせにサトウの演出は長回しを多用して芝居で押すばかりで芸がなく、正直なところ眠気を堪えるのに必死という状態でした。あまり買えない映画です


「饗宴」(9月27日 ユーロスペース1/レイトショー)
2006年/監督:緒方明

【★★★★ 肉体の曲がり角を迎えた中年夫婦の実感が捉えられ、身につまされるし、細部に説得力あり】

 この日のレイトショー2本立てにわざわざ足を運んだ最大の理由は、昨年わたくしがベスト1を献上した「いつか読書する日」の緒方明の新作が組まれていたからです。
 主人公は40代半ばに入ったと思しき中年夫婦。すでに自分の肉体に対する自信は薄らぎ、お互いの肉体に対しても魅力を感じられなくなっています。そんな夫婦が、ある時、戯れに購入した大人の玩具に夢中になり、それ以来、お互いの肉体を求め合うのではなく、ベッドで並んで横になりながら、お互いに触れ合うのではなくそれぞれが自慰行為に耽るという関係として、魂を求め合うようになるというお話。この夫婦関係に、主人公の夫が高校生の頃に恩師の奥さんと関係を結んだ際、恩師がそれを陰で眺めていたという体験が重ね合わされ、ラストでは自身もレスリング部の監督を務めている夫が、教え子を自宅に招き、恩師の妻が果たした役割を自分の妻に演じさせるというエピソードが用意されています。
 こうして粗筋を素描すると、まあくだらぬエロ映画とも思えてしまいますが、緒方の作劇は、お世辞でも何でもなく細部の組み立てがしっかりしていて説得力を持ち、役者も妻役の村松恭子という初耳の中年女性も、夫役を引き受けた杉本哲太も、前記サトウトシキ作品とは比べ物にならぬ繊細な芝居を見せているのであり、中年夫婦が初めて到達した新しい愛の形という主題だけを取り出せば前作「いつか読書する日」の延長上に位置する変奏曲とも思えるのであり、なかなかどうして刺激的かつ見応えのある映画体験ではありました。

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