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霊・精神・身体医学 研究会コミュの「聖書の法則」と「脳の法則」・・・イキイキと生きるために

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「善悪を知る木の法則」と「命の木の法則」を用いて、以下のようなことを考えています。ご意見、ご感想などを頂けますと感謝です。

***


【聖書の法則と物理の法則、そして脳の法則…人がイキイキと生きるために。】


【本文の要約】

?「クリスチャンは、これはしてはいけない。これはしてもいい。」というアドバイスの仕方は、一見もっともなことを言っているようだが、実は視点を変えると、「そういう言い方自体が罪」となってしまう可能性があり、注意が必要である。

?「(キリストの)命の木の平面」での生き方は、脳にもともと備えられた機能にフィットした生き方であり、脳を活性化し、生かす生き方である。


【本文】

どのような分野でも「法則」が発見されると、とたんに見通しが良くなることがある。

例えば物理の世界では、ニュートンにより「運動の法則」が発見されることで、さまざまなことが、スッキリと理解できるようになった。
同じことが、聖書信仰にも言えると思う。


その法則とは、
●「善悪を知る木の法則」と「命の木の法則」・・・である。


イメージが浮かぶように、以下では、
●「善悪の平面の生き方」と「(キリストの)命の平面の生き方」
・・・・という表現を使うことにする。


***


「善悪の平面の生き方」とは「これはしても良いこと、これは悪いこと」と、いちいち考えながら生きる生き方であり、罪を犯すまいとか、善行に励もうとする生き方である。


また、「命の平面の生き方」とは、(内住する)キリストに焦点を合わせる生き方であり、キリストの命をエネルギー源として、心の深い所ではキリストに安息した上で、イキイキと生きる生き方である。

(図解:http://www.geocities.jp/bluewhitered34/kouzouzenakutoinochinokanryaku.htm
(オリジナルの図:ルークさんHPより:http://www.kingdomfellowship.com/Topics/Manindepth.html

【参考図】…【命の木と善悪の木:聖書全体の流れ】

http://www.geocities.jp/bluewhitered34/inotinonenpyou.htm

【参考図】…【命の木と善悪の木の生き方。。。。対照表】

http://www.geocities.jp/bluewhitered34/inotitozenakunohyounoinsatu.htm

***

(以下、続きます)

コメント(33)

この2つの「法則」が適用できると仮定すると、次の2つのことが明らかになる。

●これまで繰り返し議論されて、時には、堂々めぐりをしてきた問題に、実に明瞭な解答が与えられる。

●(驚くことに)一見、良いアドバイスをしているように思われても、実は、「命の平面から善悪の平面に、人を引きずり降ろしてしまう」ことがある。つまり、結果的に、重大な罪を犯してしまうことがある。

この2つである。特に後者は、これまで見逃されてきたことであり、意外な盲点となっている。
***

例えば、これまで繰り返し議論されて来た問題として、「キリスト者はアルコール飲料を飲んで良いか悪いか」という問題について考えてみる。(神学的には「アディアフォラ」と言う、聖書によって命じられてもいなければ禁じられてもいないことがらの中に入るようだが、教団によっては、事実上、なぜか禁じている。)

解答は、「その人が、(キリストの)命の平面で考え、決定する限りにおいては、飲むのも飲まないのも、その人の自由である。」という、きわめてシンプルな答えになり、分かりやすい。

具体的には次のようになる。
キリスト者はアルコール飲料を飲んで良いか悪いかという問題の設定が、そもそも、善悪の平面での問題設定である。
キリスト者は、キリストの命の平面で生きている限り、基本的に真理の自由の中にある。

(イエスご自身も当時のぶどう酒を口にされたために、「大酒のみだ」という悪口を言われたという事実は無視すべきではないと思われる。従って、「私たちの中にいる聖霊が悲しまれるから、飲酒はすべきではない」という考えは、無理があるように思われる。)

ゆえに、飲まないことにするのも自由であり、(聖書に、酒におぼれてはいけないとあるように)、おぼれないように留意して、たしなむのも自由であろう。

ただし、くれぐれも、アルコール依存にならないように注意が必要である。

しかし、「アルコール依存になる人がいるからアルコール飲料自体が、やはり、悪い物だ」と考えるべきではないであろう。なぜなら、アルコール依存の本質的な原因は、アルコールの存在にあるのではなく、その人が「命の平面にとどまり続けられるかどうか」にかかっているからである。
(つまり、依存症になる危険が少しでもあるからといって全面禁止
にする考えも分からなくはないが、やはりそれは「命の平面を無視した考え」であり、聖書信仰の本質からは、ずれているように思う。

聖書信仰の本質からずれた考え方は、たとえ一見安全で無難な考え方のようであっても、いつか ひずみを生じてしまう。(理由の一つは、後述するように、人の脳の機能とマッチしていないからかもしれない。)

***

また「十一献金をすべきか否か」についても同様に考えることができる。

***
先に、「この法則を適用することができると仮定すると・・・・(驚くことに)一見、良いアドバイスをしているように思われても、実は、命の平面から善悪の平面に、人を引きずり降ろしてしまうことがある。」と書いた。


具体的には、「クリスチャンは禁酒が当然ですよ」とか、「十一献金は、当然の義務です」という言い方は、一歩間違うと、命の平面から善悪の平面に人を引きずり降ろしてしまうことになってしまう。そして、こういう指導は「罪」になるのではなかろうか?

なぜなら「信仰によらないことは罪」と聖書にあるからである。
せっかく見出した「キリストの命」の価値を、ある意味台無しにしてしまうことになりはしないか。

これは注意すべき事であり、「命の平面と善悪の平面」というモデルを考えないと、なかなか気づかない盲点だと思う。

そして、重要なことは「命の平面での生き方は、脳の機能から考えると、脳の深い部分である辺縁系(情動に関係した部分)から命が湧き出るような生き方であり、動機付けとしては、人間にもっともふさわしい生き方と考えられる」ということである。

また、この「辺縁系に動機付けられた生き方」は、もっとも自然な生き方なのである。
これに対して、善悪の平面での生き方は、「辺縁系からの生き生きと生きようとするエネルギーを無視して、頭頂葉や前頭葉を中心として生きようとする生き方」といえる。一つ一つのことに対して、良いか悪いか判断しながら、「必死にがんばって」生きる生き方である。

これは、辺縁系からエネルギーが湧いて来ないのに、無理を押して生きようとするので、不自然であり、疲れる生き方といえる。
(例えば、朝から何も食べないまま、マラソンをするようなものであり、エネルギーがすぐに枯渇してしまう。)

このように、エネルギー不足のまま「必死にがんばって」生きる生き方は、時に、神経症やウツなど心を病むことがある。

善悪の平面での生き方は、一見 道徳的なように見えるが、このような視点から見ると、「危険を秘めた生き方」と言える。
このように、命の平面での生き方は、人の脳の機能にフィットした生き方と考えられる。脳が、「生き生きと機能し、働く」生き方である。

「命の平面」での生き方は、神による究極の「脳内革命」なのである。

***

【参考】

?「真理はあなたを自由にする」Drルーク・カラサワ著(リバイバル新聞社)p175〜
?「標準生理学」(医学書院)
?「愛は脳を活性化する」松本元著(岩波書店)
?「恵みの歩み」スティーブ・マクベイ(ファミリーネットワーク)

***

【追記】

以上のような話をあるクリスチャンに話したら、「でも、人は歯止めがないとダメだから、ある程度は「きまり」があった方がいいと思う。」と言われてしまいました。
しかし、「コツ」さえつかめば、常に「命の平面」だけで生きるのは、決して難しいことでは無いように思うのですが・・・・
(ただ、先入観が強い人は、なかなか この「コツ」が理解できないのかもしれません。)

(終わり)
【追記2】

「善悪を知る木の法則」と「命の木の法則」は、これまでのキリスト教界ではあまり、広くは用いられて来なかった概念のように思う。
(もしかすると、「善悪の木の平面」を用いた方が、教会の運営をしやすいため??)

しかし、この法則は、聖書の全体を理解するために、きわめて有効であり、重要な法則(≒概念、モデル)ではないだろうか?

(そもそも、創世記で、この二つの木が現われ、黙示録の最後で「命の木だけ」になっていることからして、「聖書の全体をつらぬく、大きな法則の一つである」と考えたとしても、不自然ではないと思うのだが。)

例えば、「キリスト者と戦争のかかわり」や、主日礼拝は土曜・日曜のどちらにすべきか?とか、主日礼拝を休んで旅行に行くことの是非など、この「法則」の応用可能な範囲は広いように思う。
これは面白いスレですね。私たちの大脳は旧い創造のものですから、辺縁系の影響を免れませんし、過去をひきずるわけです。これを規則や努力で制そうとするとクルシチャン(苦しちゃん)が生まれるわけで、それを"やれて"しまう人々が蔓延って、現在の倒錯したニッポンキリスト教現象が起きています。いのちのエネルギーが、旧い大脳や身体にさえも流れ込み、その機能を十分に発揮させてくれるとき、生き生きと生きる"健やかちゃん"となれるわけです。各領域の法則に委ねて生きることは実に安楽で楽しいのです。現状のキリスト教はこの法則に対する理解すら欠如していますから、各種倒錯現状が惹起しているわけです。

参考:法前仏後と神前法後(→http://www.kingdomfellowship.com/cgi-bin/diarypro/diary.cgi?no=650)

>10

コメントありがとうございます。

>それを"やれて"しまう人々が蔓延って、現在の倒錯したニッポンキリスト教現象が起きています。

なるほど、それを「やれて」しまう人々がいることが問題なのですね。
おっしゃる通り、「各領域の法則に委ねて生きることは実に安楽で楽しい」ことを多くの人に知って頂きたいと思います。

また、いろいろとコメントなど頂ければと思います。(最近、私ばかりが書いているようで、少し申しわけないので^^)
おっしゃるとおりですね、神学で生きたり、野心で生きたり、人目で生きたり、いのち以外の「何か」で生きるわけで、「やれて」しまうのはすべからくpretentionなわけです。これが私の定義するニッポンキリスト教。時代は「fakeの時代」、そして「篩い分けの時代」と認識しています。何によって生きるのか。それが実を決定しますから。いずれ「キリストの裁きの座」(ベマ、2コリント5:10→注)にて木、草、藁は焼かれるわけですから、今の時代にいのちによらないものはさっさと焼かれた方が幸いです。

注:この「座」は永遠の滅びを判定するものではありません。それは千年期後の「白い御座の裁き」です(黙示20:11)。クリスチャンが地上でなした事柄の査定を受けるわけです。千年期の割当てが決定されます。あるいは千年期に再履修とかもあるわけです。
はじめまして。
同じことを考えておられるのかも?と興味深く読ませていただきました。

「(驚くことに)一見、良いアドバイスをしているように思われても、
実は、命の平面から善悪の平面に、人を引きずり降ろしてしまうことがある」

ほんとですね。
自分の日記に書いたのですが、



ほんと、
地球に生まれてよかった。
ゴキブリに生まれなくてよかった。
70年前に生まれてたら、戦争があったし、
北朝鮮に生まれなくてよかった。

ということで、ほんと、ラッキーなんです。

でも、日本って、
幸福を感じるのがちょっと難しい国だとも思う。
小さいときから、学校で競争させられ、テストで比較され、
一人一人バラバラにされ、
仕事でも劣等感を植え付けられて。

で、劣等感をもったまま幸せを感じるのって難しい。

それをおしえてくれたのが斉藤一人さん。
そのメッセージを色々聞いたけど、
やはり、これが、いい。

怒鳴られてる人、自分は必要とされてない、とか
何か足りないと思ってる方にお勧めのメッセージ。


『劣等感の見分け方と克服』
http://s01.megalodon.jp/sound/33

ぜひ、同じようなことで困っておられる方にお知らせください。


さらにもっと聞きたいというかたには、その本文である

『劣等感の由来』
http://s01.megalodon.jp/sound/35
をお聞きください。

両方とも、「地球が天国になる話」に入っています。
そして、ダビング・コピーしてこのメッセージをひろめてください、と言っておられる。

劣等感がどこから来るのかその由来について明らかにし、

人を不幸にする劣等感を見抜き、天国言葉で克服するように、という

斉藤一人のメインメッセージで、いじめの原因などもはっきりします。




斉藤一人さんはカトリックの幼稚園をでておられるようです。
しかし、まったくキリスト教ではないけれど、

さっさと、心の病気、心の棘といえるような、こんな低レベルの不幸からは、

誰もが解放された素晴らしい日本・世界になって欲しいものです。

ではでは。
>神は愛なりさん。

コメントありがとうございます。
プロフィールのところを見せて頂きましたが、
おっしゃるとおり、「感謝すること」は、心も脳も生き生きとする基本ですね。
>meekさん。

いつもコメント下さり、ありがとうございます。

参考文献の?については、手前ミソですが、ブログで本の内容に触れたことがありますので、参考までにあげておきます。(次の、12月21〜25日のところです。http://geocities.yahoo.co.jp/gl/bluewhitered34/view/200512)

著者の松本先生(元・理化学研究所の脳科学総合研究センター、グループ・ディレクター)は、キリスト者ではありませんが、「田中信生師(米沢興譲教会)」に聖書の教えを受けたと書いてあります。
また、「脳科学から見たキリスト教」という項目では「聖書の基本精神は、脳の性質ときわめて良く整合することがわかる。」と述べており、興味深い内容です。
上の>16でも触れましたが、【参考】の、

?「愛は脳を活性化する」(岩波書店)

の著者の松本先生の講演内容が、下記のサイトに(長いですが)あります。
http://www.gpc.pref.gifu.jp/infomag/gifu/100/5-matsumoto.html


***


最後の、

「 われわれがこのような社会の中で生まれ育つと、繰り返し繰り返し、社会環境や慣習に曝され、 それに対処せざるを得ないので、 知らず知らずに脳がこれらに対処する仕組みを創りあげてしまう。

そして、 それらが【脳の本性】と合わない時、 人としての【真の苦しみ】を産む。 社会慣習が作る脳の慢性疾患とも言うべきものである。

脳を社会に適合させて創ってゆく時、 それを変えるべきか変えなくて良いのかの判断基準は、 脳のこころに適合しているかどうかが目安となる。【 脳のこころ (人の本性)】 に適合して脳を創る時、 人は「輝いて」生きる。 」 (【 】と「 」は追加)

・・・・・という部分は興味深い。

なぜなら、「脳の本性と合わない時、人としての苦しみを生む」というのは、「善悪の平面の生き方」であり、「人の本性に適合して脳を創る時、人は輝いて生きる」のは「命の平面の生き方」であると思われるからです。

このトピの初めの部分( >0・・・・と表わすそうですが)
に、「善悪の平面での生き方」と「命の平面での生き方」の図表を加えてみました。http://www.geocities.jp/bluewhitered34/kouzouzenakutoinochinokanryaku.htm
ご無沙汰しております。

この件に関して、私の個人的な解釈としては、心の内に「平安があるかないか」という判断基準だけで十分かと思います。

何が、善悪で何がいのちなのか、どうして見分けるのか?誰にそれがわかり誰に選択権があるのか? 

…当然自分にしかわからないし、自分で選び取るんです。じゃ、何を基準に選びとるのかですけど、「いのち」を自分に取り込んでいない人に、そもそもここで言う平安があるのかというと微妙ですけど、やっぱり良心がある以上、あるんでしょうね。

ただ本質的には、主を信じ、新しく生まれた人の持つ平安の基準とは違うのだと思います。
「わたしが与える平安は、世が与えるものとは違う」とあるから違うのでしょう。

私的には、ある意味日本のクリスチャンがどんな風にやってもらっても、「どうぞご自由に」というスタンスです。

「クルシチャン」になるのも自由ですし、真の平安を求めて、本当の「自由」を手に入れることも自由です。

求めたら必ず与えられるのですから、求めない人の分まで面倒みれるかよ…というのが本音ですね。

はじめまして
デンスケといいます。
わたしの母は、一時認知症がでて、食事介護、排泄介護に徘徊も出ていました。
しかし、奇跡的に俳句ができるまで回復しました。認知症が出ていたときのことはまったく記憶がないと言っています。

今は、生かされていることが感謝で、食べるものはすべておいしいし、すべてが楽しいといっています。
母も信仰を持っていますが、まさに6つの部屋のバランスが見事に取れているのではと思わされています。
>19.zeroさん。

コメントありがとうございます。
こちらこそ、ごぶさたしています。お元気ですか?

>この件に関して、私の個人的な解釈としては、心の内に「平安があるかないか」という判断基準だけで十分かと思います。

ご指摘の通りです。
ただ、私の場合、教会の「教育部」(・・・違和感があるので、「学習部」に改名したいのですが・・・)の奉仕があるので、「面倒をみなくては」ならないのです^^)



>21.デンスケさん。

コメントありがとうございます。

お母様の回復、素晴らしいですね。
回復される上での、何か重要なきっかけのようなものがあったのでしょうか。おそらく、ご家族の支えも大きかったかと思いますが。
引き続き、体調が守られますように お祈りします。



「命の木の生き方」と「善悪の木の生き方」について、教会の学び会で、フリー・トークをしました。その時の議論のたたき台として、図表を作ってみました。

http://www.geocities.jp/bluewhitered34/inotinonenpyou.htm
http://www.geocities.jp/bluewhitered34/inotitozenakunohyounoinsatu.htm

当教会のUSUI兄http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/とも意見交換ができて、いろいろ学ぶことができました。
>25

いつも、コメントありがとうございます。

非常に、学ぶ所の多い意見交換ができたと思いますが、せっかくですので、少し詳しく引用しておきます。

***


【U兄】

「自分の専門である、内発的動機付け(自分から進んでやること)、外発的動機付け(外から強制されてやること)と今回のテーマの関連について。最近言われているのは、大切なことは、最終的に『自分で』決めているかどうかである。受験勉強のように、

『外から強制されたことでも、最終的には自分で選び取って行なう』

ことが大切で、『自分で選び取っている』という感覚を持っていれば、いつでも、本来の内発的動機付けに戻れる。これは、教会内部の決め事に対する態度でも同じである。」

「そういう発想は、今回の図ではどうなるのかと思って聞いていたが。」


【私】

「内発的動機付けは、図の魂の「感情・情動」の付近と関係し、外発的動機付けは、図の魂の「知性」の付近と関係するのではないか。」

(注:これに関しては、今回は用いませんでしたが、次のような図も考えています。ルーク氏のHP内にもあったと思いますが、この世を動かしているのは「自己保存と自己実現(自己主張)」であるとすると、このふたつも、図に加えると便利かと思います。
http://www.geocities.jp/bluewhitered34/kouzouchildnojikobrain.htm

私の考えでは、内発的動機付けは「自己主張」に、外発的動機付けは「自己保存」に主に関係するのではないでしょうか。)

***


【U兄】

「外発的動機付けにも2つある。1つは、怖い先生などにやらされるもの、もう1つは、やらないとバチがあたると自分で縛るものである。エホバの証人などは、後者の発想と関係する。」

【私】

「異端は『善悪の平面』で生きており、真のキリスト者は『命の平面』という視点も可能なのではないか」

【U兄】

「人をコントロールするのは、善悪の平面の方がやりやすい」

「愛の特徴は、わがままを言わないことである。それが、表の『実』の箇所の『自制』なのではないか。そういうものが達成されると、(教会の中で、例えば、礼拝は10:00集合という申し合わせがあるとしても)自由なんだけど秩序も保たれるような人の集まりができると思う。」
【補足です】

>26に出てくる「図の、魂の感情・情動、魂の知性の付近」という箇所の「図」とは次の図のことです。

http://www.geocities.jp/bluewhitered34/kouzouzenakutoinochinokanryaku.htm
>>26

興味深いシェマですね。ただ「インナーチャイルド」なるものは実体としての存在ではなく、神(霊的次元)から切り離れた人の生き様における魂(精神)と身体の経験が、辺縁系の情動と結びついて、エネルギーが解放されずに皮質の中にブロックされている状態と考えられます。その実体は私の言う「霊感情観念複合体」であり、パウロの言う肉(flesh)の一側面(古い人の過去の残滓)ですね。

なお、ブログでも書きましたが、霊と大脳の相互作用がどのような機序でなされているのか、まあ、現在のクオリア問題、心脳問題とも絡んで、今関心を持っているところです。
>29

コメントありがとうございます。

>その実体は私の言う「霊感情観念複合体」であり、パウロの言う肉(flesh)の一側面(古い人の過去の残滓)ですね。

以前、書き込ませていただいた、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32322905&comm_id=2923551
の>15の、フロイトとの比較図(案)
http://www.geocities.jp/bluewhitered34/kouzoufreud.htm
では、それを念頭において、試作してみました。

ルークさんのHPにも書きましたが、「 霊と大脳の相互作用」のひとつの鍵は、素粒子物理の超ひも理論のあたりの、「10次元」などの「次元」という概念にあるのではないだろうか・・・・などと想像(妄想?)しています。

ペンローズでしたか、マイクロチューブ内の「揺らぎ」から自由意志が生まれるとかの説を唱えているのは。

実際、この自由意志は何なのか。まあ、カルバンあたりですとTULIPで、意志すらも全的に堕落して、正当に行使できないとなるわけですが。「アルミニウスVSカルヴァン」、すなわち「偶然論VS決定論」は、カオスの理論によれば決定不能なわけです。しかし私たちの意志と神の意志の関わり合いで今の私たちがあるわけで、この意志の起源は脳科学から見ても実に興味の持たれるところです。

参考:決定論と偶然論→http://www.kingdomfellowship.com/cgi-bin/patio090509/patio.cgi?mode=view&no=14

ちなみにリベットは、頭頂葉の運動準備電位が起こって0.35秒あとに、行為意志が意識されることを実験的に示しました。意志が意識される前に、大脳生理的には「何か」が起きているわけです。意志の起源が大脳における物理化学的現象に還元されてしまう可能性もあるわけで、すると人間の自由意志は脳内の物理化学的現象の揺らぎによって偶発的に生じるものとすら言えてしまうわけです。まあ、鶏と卵の話と同じですが、さてさて・・・・。
>6
>そして、重要なことは「命の平面での生き方は、脳の機能から考えると、脳の深い部分である辺縁系(情動に関係した部分)から命が湧き出るような生き方であり、動機付けとしては、人間にもっともふさわしい生き方と考えられる」ということである。

>また、この「辺縁系に動機付けられた生き方」は、もっとも自然な生き方なのである。

・・・と書きましたが、これと似たような事を直接的に書いてある本は、あまり見たことがなかったのですが、(いつものようにブック・オフで買った)

「学校を捨ててみよう:子どもの脳は疲れはてている」三池輝久氏(熊本大教授)著(講談社+α新書)

に同様のことが指摘されていました。(P84)
http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%82%92%E6%8D%A8%E3%81%A6%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%82%88%E3%81%86-%E2%80%95%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%AE%E8%84%B3%E3%81%AF%E7%96%B2%E3%82%8C%E3%81%AF%E3%81%A6%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%B8%89%E6%B1%A0-%E8%BC%9D%E4%B9%85/dp/406272135X
>32

情動や脳の辺縁系については、>0の図
http://www.geocities.jp/bluewhitered34/kouzouzenakutoinochinokanryaku.htm

でもふれていますが、
文部科学省が平成17年に

「情動の科学的解明と教育等への応用」

について、専門家による報告書http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/027/siryo/06021607/074.htmをまとめていることを最近知り、驚きました。
(あまり、教育の現場に生かされていないような気がしますが・・・)



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