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ドゥルーズ資料館コミュの「ドゥルーズにおける思考の概念 」-2

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しかし、私は、ドゥルーズ自身の発言に抗して、『差異と反復』の最も重要な章は第二章「それ自身へ向かう反復」であると考える。なぜか。その理由は、第二章こそが<私>一<自我>システムにおける思考の条件そのものを考察しているからである。たしかにその考察は具体的ではない。とりわけ、「時間の第三の総合」としての「永遠回帰」は、ほとんどアイデアの域を出ていないように思える。加えて、『差異と反復』以降のドゥルーズは永遠回帰という言葉を重視しなくなる。少なくとも、その言葉が彼の本からほとんど姿を消してしまうのは確かである。だからといって、永遠回帰を解釈するドゥルーズの恣意性を指摘するのは性急ではないだろうか。仮に、ドゥルーズの解釈が恣意的であったとしても、その恣意性が持つ意味を考察せずに、厳密さという価値を前提にした批判は、永遠回帰のみならず、その後のドゥルーズの活動全般 の意味も取り違えることになるだろう。
 第二章「それ自身へ向かう反復」では、<私>一<自我>システムをひび割れたものにする「時間」の考察が為される。デカルト的コギト(私は思考する、ゆえに、私は存在する)は、思考する<私>と存在する<自我>を「ゆえに」という言葉で短絡させた。つまり<私>と<自我>は瞬間的に同一なものとされる。しかし、カント的コギトはデカルトが<私>と<自我>が一致しえないこと、その原因としての時間を考察しなかったことを批判する。デカルトが思考する<私>と存在する<自我>に関係性を見出したまではよい。しかし、それらがどのような関係を持つのかを考え始めると、彼の主張は途端に意味を失ってしまう。カント的コギトにおいては、もはや「ゆえに」は正当性を持たない。思考する<私>と存在する<私>は一致しないのである。この不安を回避するために、<私>と<自我>を一致させようとする試みがアイデンティティーの確立である。だが、思考する<私>と存在する<自我>が自己同一性を保つためには、むしろ思考することは放棄されなくてはならない。あるいは思考する<私>は放棄されなくてはならない。つまり、アイデンティティーに執着することは思考の放棄につながる。そして、そのような自己同一性(への執着)が現代においては危機に直面 していることも確かである(本当は現代と限る必要はないが)。ゆえに、存在における思考の在り方を考察しなくてはならない。問題は<私>と<自我>を一致させることではなく、思考する<私>と存在する<自我>の関係の考察である。カントによれば<私>と<自我>は原理的に一致しえない。それは両者が時間という形式によってひび割れているからなのだが、その具体的な考察に入る前に、時間の根本的性質である「縮約」について解説しておくべきだろう。

 ヒュームは、互いに独立した同じ諸事例あるいは似ている諸事例は、想像力のなかで融合される、と説明している。この場合、想像力はひとつの縮約の能力として、言わば感光板として定義される。想像力は、新しいものが現れてきても、以前のものを保持している。想像力は、諸事例や、諸要素や、もろもろの振動や、いくつもの等質な瞬間を縮約し、それらを融合して、或る種の重みをもった内的な質的印象をつくるのである。(…)こうした縮約は、絶対に、記憶ではないし、また知性の働きでもない。つまりこの縮約は、反省ではないのだ。この縮約は、厳密に言えば、時間の総合を形成するものである。(…)時間は、瞬間の反復に関わる根源的総合のうちでしか、構成されない。根源的総合は、互いに独立した継起的な諸瞬間を累積的に縮約していくのである。このようにして、根源的総合は、生きられた〔体験された〕現在を、あるいは生ける現在を構成する。そして時間が展開されるのは、まさにその現在においてである。(2)

 縮約あるいは想像力は、諸瞬間や諸事例をまとめあげることで時間を構成する。本論の文脈では、諸瞬間や諸事例は<自我>ということになる。つまりこういうことである。論理的には、瞬間ごとの存在する<私>=<自我>は独立している(これは<自我>に限らない。わたしたちは、論理的には別 物であるはずの事物を、同一のものとして把握することができる)。昨日の私と、一時間前の私と、現在の私は、論理的にはそれぞれ別 物のはずである。にもかかわらず、私はそれらが一貫した私だと感じる。<私>─<自我>システムにおける縮約とは、本来なら独立しているはずの存在する<私>=<自我>を、思考する<私>が想像的にまとめあげることである。そして、その縮約が<自我>ではなくて諸事物に向けられた場合、論理的には無数にあるはずの太陽が、一つの太陽として同一性を獲得する。これが時間の第一の総合としての「習慣の受動的総合」である。
 問題はここからだ。縮約は確かに諸<自我>をまとめあげるのだが、それはつねに現在においてである。たとえば、私は、昨日の私や一時間前の私を、現在において一貫したものと捉える。これを権利問題からとらえると、「昨日」や「一時間前」という時間性がなければ、私は諸<自我>を縮約的に捉えることはできない。ところが、現在の私は、昨日の私や一時間前の私によって構成されているのである。ここには、現在が過去を構成(あるいは再構成)するにも関わらず、その現在は過去によって構成されているという「時間のパラドックス」がある。現在から過去を捉えるか、過去から現在を捉えるかという、このパラッドクスはきわめて複雑なものとなっており、性急に解決すべきでない。
 とりあえず、両者の立場がどのような働きをするのかを分析しよう。現在を諸事例の縮約として捉えるということは、必然的に、現在・過去・未来という時間を前提にしていることになる。先ほど私は、昨日の私や−時間前の私と述べたが、それは時間を前提にしていたからであり、さらにいえば、それらを「記憶」していたからである。つまり、諸事例や諸自我と言ったときすでに、時間や記憶を前提にしているのである。諸事例や諸自我が「記憶」という能力によって、現在・過去・未来という時間に配置されることを、ドゥルーズは時間の第二の総合としての「記憶の能動的総合」と呼び、それが諸事例の表象=再現前化の原理になるという。
 習慣の第一の受動的総合が諸事例を縮約することで時間を構成し、記憶の能動的総合がそれら諸事例を時間のなかに再配置する。両者のうちでどちらが優先されるということはない。しかし、前者の立場が受動的であり、後者の立場が能動的であるのはわかる。ともかく確実なことは、いずれにせよ縮約の反復が蝶番となって、両者が循環するということである。<私>は<自我>の単なる集積ではない。<私>は思考することで、<自我>を表象=再現前化する。そのさい<私>が利用するのが、表象=再現前化の原理としての記憶なのである。ここに至って、時間が<私>一<自我>システムにどのようにひびを入れているかがわかる。存在する諸<自我>が縮約されることで<私>が構成されるが、その途端に<私>が存在の中に<自我>を表象=再現前化する。<自我。が縮約されるためには時間が介在しなくてはならないが、同時に、その時間は<私>が<自我>を表象=再現前化するための条件にもなる。つまり<私>─<自我>システムが機能するためには、それ自体循環する時間という形式が不可欠なのである。
 ところがドゥルーズは、このような円環を破壊する第三の総合を提示する。それが「時間の空虚な形式」とされる永遠回帰である。ドゥルーズによれば、永遠回帰は、受動的な<自我>における縮約も、能動的な<私>における表象=再現前化も破壊する。これは筆舌し難い事態である。すでに述べたように、永遠回帰は具体的に説明されない。ドゥルーズによれば、それは「あらゆる場面 で選別を行う(差異をつくる)」「存在論的反復」であり、「<自我>の類似と<私>の同一性を失わ」せる反復である。さらに端的に「永遠回帰は存在の一義性である」とも言っている。ここには前二者の反復とは違う、暖昧な胴に落ちなさがある。それをわかり難さと言い換えてもよい。しかし、だからこそ永遠回帰を考察しなくてはならない。『ツァラトゥストラ』においても永遠回帰は明確に語られることはなかった。なぜだろうか。ドゥルーズのいうように永遠回帰が存在の一義性であるなら、ここにはハイデガー存在論(およびそれを継承した現代西洋哲学)が陥った、「思考しえないものを思考する」ことが要請されるからではないだろうか。そもそも「思考しえないものを思考する」という問題はハイデガーが創始したわけではない。それはプラトンのイデア論や、あるいはもっと以前からあった、形而上学(メタ・フィジック)の根本的な問いなのである。これを回避すれば哲学は哲学ではなくなる。この根本を確認したうえで、ドゥルーズ固有の問題を探っていこう。
 ドゥルーズにおける「思考しえないもの」は「同一性を解体するもの」である。これは『アンチ・オイディプス』では「分裂症」あるいは「器官なき身体」と呼ばれ、『千のプラトー』では「戦争機械」や「平滑空間」と呼ばれる。ドゥルーズはそれらの隠輸の差異を利用しながら、自己同一性を中心に築きあげられた体制を攻撃する。このような試み自体は目新しいものではない。ゆえに、この闘争のなかに新しさを見いだすためには、読む側のスタンスが自覚的に選ばれなくてはならない。このような場合、一般 的には、ドゥルーズの使用した隠愉系の働きを精微に分析し、その射程や効果を見極めるという方法がある。しかし、私はその試みを当然行うことを前提に、むしろそれを行うための前提として、ドゥルーズが同一性を批判する方法自体をも解読しようと思う。
 シンプルに考えるならば、永遠回帰による同一性の解体とは、昨日の私と現在の私が一致しない状態を意味する。より正確に言うなら、一分前の自分と一秒前の自分と現在の自分がつねに一致しない状態である。あるいは自分に限らず、目の前の諸事例が一瞬ごとに別 のものに思える状態。これは分裂症患者の典型的なパターンでもある。『アンチ・オイディプス』は、資本主義社会が分裂症を生み出すプロセスと、精神分析(フロイトのオイディプス・コンプレックスを理論的中心に置いた)が、それを家族の三角形に押し込める(抑圧する)プロセスを分析したものだが、注意すべきは、ドゥルーズーガタリが主張しているのは「分裂者分析」であり、べつに分裂病になれと言ってるわけではないということだ。この違いを見落とすと、のちに述べるように、「ドゥルーズは分裂症を肯定するわりには自分自身は少しも分裂病ではない」という反論が起こる。ドゥルーズ=ガタリは分裂者がいいと言っているのではない。ただ、現代の資本主義社会は原理的にスキゾフレニーとパラノイアを生み出すのであり、自分たちの立場は、スキゾフレニーのなかに資本主義自体から逃走する力を発見しようとしているのだとしか言っていない。分裂病自体は、あるいは同一性の解体自体は価値の条件でしかない。分裂症自体が資本主義の産物である以上、たとえ自らが分裂病になったとしても、資本主義のもう一つの産物であるパラノイアを倒すことはできない。両者は原理的にカップリングしているからだ。脱中心化する力と中心化する力がともに資本主義によって産出される。ドゥルーズ=ガタリは脱中心化するスキゾのなかに、さらに遠く、資本主義からも逃走しうるような力を認めている。自らがスキゾになるのではなく、スキゾのなかに資本主義自体に抵抗するような力を発見すること、つまりスキゾ分析がドゥルーズーガタリの立場である。
 永遠回帰は同一性を解体する。しかし、それを強調するドゥルーズ自身は、自らの自己同一性を失っていないように思える。これは矛盾だろうか。わかりきったことだが、この矛盾を理由にドゥルーズを批判しても、それは何ら生産的なものにはならない。そのような批判は終局的には、自分のやれることだけを主張しろという結論を導くだけだが、ところが、思考とはそもそもへ反時代的一な抵抗のことを言うからである。かといって、この矛盾を無視することは、思考することの本質的な困難を切り捨てることになる。前述の通 り、思考の本質が現状への抵抗である以上、それは自らの存在と派離せずにはいない。そうであるなら、この禿離を無視することもまた思考を放棄していることになる。
 ドゥルーズは思考の条件としての<私>一<自我>システムを精微に分析した。これを逆から見れば、ドゥルーズは自らの思考が表象=再現前化を免れ得ないのを自覚していたことがわかる。思考することとは<私>一<自我>システムを循環させることであり、その循環を断ち切るのが永遠回帰である。そのとき無数の差異が出現する。しかし、この無数の差異はたちまち縮約され、同一性に回収されてしまうだろう。だからこそ永遠回帰は反復する。循環を断ち切るはずの永遠回帰自身もまた別 の循環に与するのだとしたら、重要なことは、永遠回帰それ自体に至ろうとすることではなく、永遠回帰に含まれているだろう力をいかに解き放てるかを思考することである。この問題設定は『アンチ・オイデイプス』に明確に表れている。

 <それ>は作動している。ときには流れるように、ときには時々とまりながら、いたるところで<それ>は作動している。<それ>は呼吸し、<それ>は熱を出し、<それ>は食べる。<それ>は大便をし、<それ>は肉体関係を結ぶ。にもかかわらず、これらをひとまとめに総称して<それ>と呼んでしまったことは、何たる誤りであることか。いたるところで、これらは種々の諸機械なのである。しかも、決して隠愉的に機械であるというのではない。これらは、互いに連結し、接続して、〔他の機械に動かされる〕機械の機械なのである。(5)

 この文章を引用したのは『アンチ・オイディプス』を解読するためではない。強調すべきは、ドゥルーズは<それ>=潜在的なものが「いたるところで」「作動している」と考えていることである。それは「差異と反復』においてはこう示されている。

 ラカンの教えるところでは、現実的対象は、現実原則のゆえに、どこかに存在するかあるいは存在しないかのいずれかであるという法則に従っているのだが、潜在的対象は反対に、それがどこへいってしまおうと、それが存在するところに存在し、かつ存在しないということを特性としているのである。(2)

 いたるところに存在しかつ存在しないもの、つまり潜在的なものをドゥルーズはどのように肯定するのか。ここで永遠回帰の定義を思い出してほしい。ドゥルーズは「永遠回帰とは、存在の一義性のことであり、この一義性の現実的な実在化なのである」と言っている。『差異と反復』で使われる「存在の一義性」は、しばしば言われるようにドゥンス・スコトゥス─スピノザという系譜よりむしろ、ハイデガー存在論から捉えるべきであるとは既に強調しておいた。そこから見れば、上の二つの引用が共に<存在>を指しているのがわかる。<存在>それ自体を経験することはできない。しかし、むしろ経験の条件として、<存在>はいたるところに広がっている。これは前提の確認である。

 注目すべきは、『差異と反復』と『アンチ・オイディプス』の間で、潜在的なものを捉える態度が微妙に異なっていることだ。『差異と反復』では「存在の一義性」の下に、ハイデガーの存在論やニーチェの永遠回帰あるいはラカンの対象aが接続される。プラトンのイデア(かなりドゥルーズ的解釈を帯びているが)を加えてもよい。そこでは、これらの諸潜在的なもの(諸機械)の差異を分析する態度は見られない。ドゥルーズはそれらを一丸にして表象=再現前化を批判している。ところが『アンチ・オイディプス』でのドゥルーズはいう。「これらをひとまとめに総称して<それ>と呼んでしまったことは何たる誤りであることか。いたるところで、これらは種々の諸機械なのである」。

 ドゥルーズは諸機械の差異を自覚している。ところがドゥルーズの欲望はそれらの諸機械の区別 には向かわない。『アンチ・オイディプス』や「千のプラトー』においても「差異と反復』同様、それらは同一性を強いてくるものへの抵抗として、さながら連合的に語られる。なぜだろうか。<私>一<自我>システムが示す通 り、思考とは、諸事例や諸自我を受動的に縮約することで、能動的に表象=再現前化を進めるプロセスである。『差異と反復』のドゥルーズはニーチェとハイデガーを想像的に縮約する。ここには矛盾がある。真に差異を肯定するのなら、むしろ両者は分けるべきではないか。しかしこの批判は的外れである。なぜなら、たんにニーチェとハイデガーの差異を区別 することは、両者を表象=再現前化において分けることに外ならないからだ。真に差異を肯定するためには、両者の言説内容における差異を定めるのではなく(表象=再現前化は,思考の原理であるため、そこで定められた差異は必然的に同一性に従属するから)、あえて,思考の原理である縮約=想像力を働かすことで、潜在的なもの=欲望する諸機械=<それ>=差異を流し、それによって永遠回帰たる同一性の破壊を何度も到来=反復させ、その選別 =テストに耐え得る力としての差異を見出さねばならないのである。真に差異を肯定するためには縮約=想像力を働かせなくてはならない。もちろん、想像力によって異なるものを結び付けることは、言説の意味内容を論理的に区別 すること同様に、表象=再現前化における試みでしかない。しかし、ドゥルーズは自らの方法において想像力を多用するだけでなく、その言説においても想像力を肯定している。

 潜在的なものをその反復の基底にまで追求してゆくのが思考の仕事であるならば、現実化のもろもろのプロセスをそのような繰り返しあるいは反響という観点から把握するのは想像力の仕事である。諸領域、諸レヴェル、そして諸水準を横断するのは、まさに想像力であり、この想像力こそが、いくつもの隔壁を打ち倒し、世界と同じ広がりを持ち、わたしたちの身体を導いてわたしたちの心に霊感を与え、自然と精神の統一を了解するものなのである。想像力とは、絶えず学から夢へと、また逆に夢から学へと移りゆく幼生の意識である。(2)

 意味内容を想像的に縮約することも、分析的に区別することも、ともに表象=再現前化のプロセスである。前者が「諸領域、諸レヴェル、そして諸水準を横断する」のだとすれば、後者はその横断が不可能であることを示す。そして両者は互いに交じり合いながら果 てしない循環を続けている。表象=再現前化を駆動するもの、つまり「いたるところで」「それが存在するところに存在しかつ存在しない」ものが差異であるなら、それを発動させる方法として想像的縮約を選ぼうと分析的区別 を選ぼうと同じことだ。ではなぜドゥルーズは想像力を肯定しかつ使用する立場を選んだのだろうか。この点をドゥルーズに向けられた二つの批判を手掛かりに具体的に分析しよう。



 ガヤトリ.C・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』は、フーコーとドゥル−ズの間に交わされた対談「知識人と権力」において、一見両者が西洋的「主体の主権性を掘り崩そうとするものであるかのような幻想をあたえるが、実際には」「この知の主体を隠蔽するための覆いを提供している」ことを示している。つまり「主権的主体について広く喧伝されている批判」は「現実にはひとつの主体を立ち上げているのだ」。二人の間で交わされた対談をスピヴァクはこう要約する。

  第一には、権力/欲望/利害のネットワークはきわめて異種混交的なものであって、それらを首尾一貫した語りへと還元することは反生産的であり、このような還元の試みにたいしてはたえざる批判が必要とされるということを明らかにしたこと。そして第二には、知識人は社会の他者の言説を明るみに出し、知るように努めるべきであると主張したこと。ところが、二人とも、イデオロギーの問題およびかれら自身が知的ならびに経済的な生産活動の歴史のなかに巻き込まれているということにまつわる問題については、これを一貫して無視している。(6)

 たとえばそれは、二人がフランス知識人界における「マオイスム」とそれのもたらした「ヌーヴォー・フィロゾフ」という現象を語るときに、「毛沢東主義」という言葉を無邪気に使用することで、中国におけるその言葉の持つ固有の意味を抹消していることが挙げられている。スピヴァクは、他者が語ることの必要性を主張するフーコーとドゥルーズが、実際に具体的な他者と向き合おうとはせず、いわば抽象的に他者を自らの言説に組み込んでしまうことを「ヨーロッパ的主体」と呼び、その点において二人を串刺しにする。このスピヴァクの批判は妥当に思える。しかし問題は、妥当か不当かを判断することではなく、なぜこのような主体が立ち上げられてしまうかである。

 その理由として、スピヴァクは「もろもろのシニフィアンが〔シニフィエとの関係を断たれて〕勝手にふるまうがままに放っておかれるとき」に生じる「言葉の横滑り」を挙げている。「毛沢東主義」が「マオイスム」と回収され、前者におけるシニフィエ(その語の中国におけるコンテクスト)が無視されると、そこに言葉の横滑りが生じる。ドゥルーズの場合、その根本的な問題は「ルプレザンタシオンreperesentastion」という語の解釈にある。ではルプレザンタシオンとは何か。『差異と反復」でドゥルーズが一貫して批判し続けた「表象=再現前化」である。この語はもともとは「表象」と訳される。ところが、それはその語形から「re再び−presentation表現される」というニュアンスを帯びることになる。さらにそこから「代表」という意味も出てくる。つまりルプレザンタシオンは一種の多義語なのである。「表象=再現前化」は主に芸術の領域で使われる。「代表」は当然ながら政治の領域で使われる。それら二つの一致しえないシニフィエの差異を、字面 が同じという理由で抹消してしまうとき、具体的かつ政治的な他者は、芸術的な他者として抽象化されてしまう。このことは「差異と反復」でのドゥルーズが他者を「可能的なもの」と考えていることに重なる。他者とは私では「ない」ものである。にもかかわらず、私は私では「ない」ものによって可能になる。つまりドゥルーズにとって他者とは私の条件である。しかし、彼の理論において他者とはあくまで表象=再現前化を可能的に保証するものであって、「出会うもの」ではけっしてない。

 ドゥルーズの理論構成は必然的に他者との出会いを排除する。これは事実である。ならばその理由は、スピヴァクの言うように、ドゥルーズがルプレザンタシオンの本来区別 されるべき意味を想像的に短絡させたからなのだろうか。私は、ここでのスピヴァクが意図的に本質的な問いを回避しているように思える。以下に取り上げる樫村晴香「ドゥルーズのどこが間違っているか?」は、スピヴァクが恐らく敢えてそこで止めておいた問題を、ドゥルーズの思考の根本を批判するまでに拡張している。

 樫村はドゥルーズが「差異の称揚と神経症の否定を語りつつも、精神分析その他の科学的材料を、単一のパースペクティブヘと強引に同化─縮減し、結局、伝統的な哲学と同じ、世界観(=幻想)贈与的な振る舞いをなしていると判断する」。その理由として、ドゥルーズが「ニーチェの〔永遠回帰の〕体験を一般 化し、強度を強度の隠職として扱うことで、結果的に、ハイデッガー的差異(=存在論的差異)とニーチェ的強度を短絡させたこと」、および「ラカンのファルス盗まれた手紙の理論がもつのと同様な詐術性が彼の論理内部に引き継がれていること」を挙げ、そしてそれが「彼のなかで小説読解的な素朴な態度として変換し増幅すること」を指摘している。さらに樫村は「本稿は、あらゆる幻想とそれをめぐる力動(政治的情熱であれ文学的熱情であれ)を神経症的とみる、科学主義的、エピクロス─スピノザ主義的態度から構成されている」と自身のスタンスを告げる。
 この主張はドゥルーズの問題点を正確に突いている。本論でも何度か主張してきたように──というよりドゥルーズの本に目を通 せば一見して明らかなように──ドゥルーズには細部の差異を捨象して概念を接続する傾向がある。たとえば永遠回帰が存在論的差異である理由は説明されない。両者は乱暴に接続される。この性質が「単一のパースペクティブヘ」の「強引」な「同化─縮減」である。樫村はこのようなドゥルーズ自身の性質は分裂症的ではなく、むしろ神経症的なのだという。私はラカンとハイデガーに関しては別 の意見があるが、ニーチェとハイデガーに関しては概ね彼の指摘は正しいと思う。
 この批判を真筆に受け止めるならば、ドゥルーズの世界観を共有しかつドゥルーズ語を操るのに躍起になっている者は、幻想に戯れる神経症者ということになる。それは間違っていない。しかし、重要なことはこの事実それ自体にあるのではなく、この事実を指摘する者もまた、何らかの幻想を完全に拒絶しうる場所には立ち得ないということだ。たとえば、スピヴァクはドゥルーズがシニフィエを無視したシニフィアンを横滑りさせることで(表象と代表という別 の意味をrepresentationという語によって短絡させることで)、他者を排除したと批判するのだが、彼女自身がフーコーとドゥルーズというシニフィエ(両者はまさに「政治的」に快を分かった)の差異を「ヨーロッパ的主体」というシニフィアンで抹消してしまう。一方で樫村はドゥルーズに「病の収集活動がある」というが、それはドゥルーズ固有の「持ち味」を「彼のいう流体的、尿道的なもの、高い所にあり、あるいは上へと立ち上がる感じ」に見て取る樫村自身にもある以上、彼はドゥルーズと自身の違いを示さなくてはならない。ドゥルーズが樫村の言うように小説的=幻想的であり、樫村自身が科学的=分析的立場というのはよくわかるが、すでに述べたように、この一見したところの対立がそもそも対立ではなく、互いに他方を含みながら循環し続けるというのがドゥルーズの認識だった。だとすれば、その循環のなかでどちらの立場につくかということは、それこそ「政治的」な決断なのである。フーコーが『アンチ・オイディプス』を倫理の書と呼んだのはその意味においてだ。もし本気でドゥルーズを批判するのなら、それは彼の幻想に向けられるだけではなく、彼が幻想を選んだという政治的事実をも批判しなくてはならないだろう。ドゥルーズは想像力による思考の果 てに永遠回帰を何度も到来させ、破砕された同一性のなから真に肯定すべきもの=差異が結晶化するというビジョンに賭けた。「概念を創造すること」とはそのプロセスに外ならない。
  それに対して「科学的」な分析は何が対置できるか。それは神経症だという批判は批判になっていない。ドゥルーズが幻想─分析の循環を条件とみなしている以上、たんに分析を肯定する態度は状況に応じた恋意的なものとしか映らないだろう。つまりその言葉は意味をなさないだろう。このとき、「最も冷静な道」を「一歩ずつ歩を進めていく」という樫村の言葉こそがむしろ幻想的に聞こえてしまう。樫村は「理論が最大限に分節されるなら、それは現実と同じになる」と言うが、そのような現実はむしろ幻想ではないだろうか。もし現実があるとすれば、その発言が政治的関係つまり現実の他者との関係においてこそ成立することに、と同時にその幻想を幻想として抹消しない限りにおいてしか成立しえないことにあるのではないか。

 私は本稿を「科学的」に書いた。と同時に「想像的」に書いた。両者を分けることが可能だと信じること自体が幻想である。そして、実を言えば、その両者のどちらの立場を選ぶかは意志によって決定されるのではない。とはいえ、何がそれを決定するのかと具体的に追求しだすと、途端に幻想に陥ることになる。なぜならそれは、つねにすでに他者との現実において決定されているからだ。現実を変えようとする熱情も、熱情を冷ややかに見つめる分析も、ともに現実(の他者)を排除する。思考とはその循環である。とすれば思考するとはどういうことか。それは現実の逃避以外にありえないのか。
 私は絶えずこの想像─分析という循環それ自体を破砕するような「分析」を探して来た。つまり、諸事例を統合するのでもなく、より細部に向かうのでもない「分析」である。私は説得力があり、かつ根本的な問題に触れていると感じた二つのドゥルーズ批判を取り上げた。そして、それがなぜすれ違うのかを見定めようとした。ドウルーズにとって「概念を創造すること」は、想像力と同一性を利用し、思考を徹底して脱中心化させるなかに、「いたるところ」にある存在論的差異を流し続け、それを表象=再現前化の破れ目から逃走させることだった。この決定的なドゥルーズの認識に向き合うとき、私には二つの道が残されている。ひとつは、ドゥルーズの言説のなかに差異あるいは潜在的なものが逃走している箇所を見出し、それをさらに逃走させるために新たな言葉で語ること。もうひとつは、「思考しえないもの」を出現させる「分析」を原理的に考察し、それをもってドゥルーズの言説を「分析」すること。私の欲望は明らかに後者にあるが、それが具体的にどう実現されるのかは未だわからない。だが恐らくそこでは「想像力」が不可避になるだろう、という予兆だけは確かに感じられる。

(出典〜不明)

コメント(2)

とても刺激的でしたのでコメント致します。
私は永劫回帰と同一性の破裂がなぜ繋がるか全く意味不明だったので、本稿のおかげで前を向いてドゥルーズを読めそうです。
しかも、デカルト的同一性に対するカントの批判へドゥルーズのハイデッガー的方程式が接続されていく様子と、排除されるものごとの救済を求めてニーチェ的力の源泉をごっそりリサイクルしようとしたドゥルーズの不可能性への批判を超えようとする模索など…。鮮やかでした。ありがとうございます。
がんばってるなーという感じがする力作です。所々論旨の飛躍があって突っ込みいれたくなりますが。例えば「想像力」と言うものや「幻想」と言うものに、ドゥルーズ自身はそれほど頼っているわけではないからです。

も少し言うと「差異と反復」における哲学的主知主義が「資本主義と分裂症」の非説明的な論述との間に、差異をもたらしていると言うのは、「無意識における欲望する諸機械の自動的アジャンスマン」を後者が理論的に前提とするようになったため、つまり無意識のうちの判断を自明としたため、論述の仕方が異なるようになったためです。

得てして、「資本主義と分裂症」を哲学書と読めない方々が「ポエム」などといいますが、哲学者とても日常的には無意識のうちに何かしているわけで、ましてや民衆が分析的思考を日常生活でしているはずはないのです。とりわけ労働というのは無意識的なものです。この点にたって、対象に応じた論述の仕方のほうを性急に選んだ書が「アンチ・オイディプス」であると言えましょう。

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