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ドゥルーズ資料館コミュの『リゾーム』(『千のプラトー』第一章)抜粋

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「リゾームになり、根にはなるな、決して種を植えるな! 蒔くな、突き刺せ! 一にも多にもなるな、多様体であれ! 線を作れ、決して点を作るな! スピードは点を線に変容させる! 速くあれ、たとえ場を動かぬときでも! 幸運の線、ヒップの線、逃走線。あなたのうちに将軍を目覚めさせるな! 正しい観念では
なく、ただ一つでも観念があればいい。短い観念を持て、地図を作れ、そして写真も素描も作るな! ピンクパンサーであれ、そしてあなたの愛もまた雀蜂と蘭、猫と狒狒のごとくであるように。」(宇野邦夫他訳)

(注)「リゾーム」とは、「根茎」とも訳されるが、インターネット状の相互関連する組織を言う。同じ幹から細部に枝分かれしてゆく権威主義的な「樹(ツリー)」と対照される。

コメント(14)

ひさびさに読み返してみて、↑でちょっと納得いかない部分を変更。日本語訳なんていくらあってもいいじゃんってことで。間違い読みが大事。

NやN-1で書くこと、スローガンで書くこと:

リゾームしろ、根っこじゃない。根を張ってちゃだめだ(間違っちゃだめだ)。種を蒔くんじゃなく(蜂のように)刺せ。個でも多でも無く、あらゆる多様性でいろ。点なんかじゃダメ,線になれ。点は速度で線になる。すばやく動け。たとえその場にいてもだ。ラッキーライン、ヒップライン、逃走ライン。自分の中の「一般性」を呼び起こすな。「ワン・アイディア・ジャスト」でなく「ジャスト・ワン・アイディア」[ゴダール]。ショート・アイディアを持て。写真や絵でなく地図を作れ。ピンクパンサーになって、蜂と蘭(きっと蘭の肉体)とかヒヒと猫 (なんかの映画)みたいな愛をしろ。...


訳注/

ご存知ドゥルーズは大の映画ファン。蜂と蘭・ヒヒと猫 はきっと何かの映画にでてくるカップル(あくまで想像)。きっと遊んでみてるんだよこの人。まちがってたらごめんなさい。ジルは間違いも楽しんでくれるよね。

リゾームは竹が次から次へとタケノコを生み、切っても切ってもムニュっと再生産されるようなイメージだと思う。「根」という言葉じたいがフランス語で「基礎」「正しさ」みたいな意味を想起させるのを嫌ってのチョイスなのかなあ。

「ジェネラル」、確かに大文字で始まると「将軍」だけど,この場合意味的には「一般性」としておいて軍隊っぽい色づけしたほうがすらっと行くと思うけど...

全体的に「ラップ」っぽくしないと宇野さん訳ではぎゃくに「将軍」/ミリタリー/権力行使になっちゃって、文脈的に変なのではと思うのは僕だけでしょうか。
訳注2/

ちょっとしたことだけど、
本文中 NE VOUS PLANTEZ PAS 「 根を張ってちゃだめだ」はその前の文とかぶっちゃうのだけど、なぜわざと繰り返すかというと、動詞PLANTER には植えると同時に立ち止まる・固定するという意味があり、そこのダブルミーニングで遊んでる感じをうける。「間違っちゃだめだ」って書いたけど「立ち止まるな/動け」って方が適切。失礼。
私もがんばって訳してみました〜


n、n-1という方式で書くこと、スローガンの叫びで書くこと:

根元ではなく根茎になれ。決して垂直に根を張ってはならない。種をまくな、突き刺せ。一にも倍数にもなるな。多種多様体であれ。線になれ、点になるな。迅速であれ、たとえその場にいても。チャンスのライン、ヒップのライン、逃走線。

自分の中に<一般>を呼び起こすな。正確な観念などいらない、ただ一つのアイディアを呼び起こせ(ゴダール)。その場しのぎのアイディアを集めればいい。写真やデッサンじゃなくて、地図を作れ。


訳注3

 私も、ラップのような軽快な口調だと思いました。スローガンだから、というのもあるんでしょうけども。で、調べてみるとスローガンって戦争の時に挙げる叫び声らしいんです。やっぱり戦闘的な色づけがあるんでしょうね。でも統率のとれたミリタリーじゃなくて、自主的に集まったミリタントって感じかな。nやn-1は、実体を名指さないで匿名の運動を記述したいってことかな。

 内容は存在論ですよね。存在の現われを動的に捉えているのんだと思うんです。だから実体として根付くんじゃなくて、どんどん横に伸びていく根茎のイメージ。1でも複数でもなくて、計算なんてできない複雑な何か。一個一個完結した数えられる点じゃなくて、そういう点が無限に連なったような直線。ちなみに数学だと微分って、ぶれや動きを持った点を考慮しますよね。そんな点を想像しました。Generalは私も、一般の意味の方が強いと思います。一般や普遍とのつながりで、観念が出てきて、しかも正確に事物と合致した観念。でもそんなものはいらなくて、アイディア、つかの間のアイディアでいいんだ、と言うことかな。だから写真やデッサンみたいに対象を正確に写し取ったものじゃなくて、行動するために記号化された地図でいいんだ、と。

 ところで、「種をまくな、突き刺せ」って…何かとても男性的な感じ(笑)。そう思いません?
お〜、楽しいじゃん。ドゥルーズ・テニス。
はじめまして、サクロンボさん。

邦訳、必要以上に硬いものが多いですよね。デリダとかレヴィナスは本文もカタイからいいけどこの頃のドゥルーズって現代の口語体で書いてるから意味の把握は別として音的には非常に読みやすいはずなんだけど。きっと始めに訳し始めた方々の単語をひろっていくと難しくなっていくのでは?

訳注4
「蜂と蘭」、「将軍/一般性」手前の方のページにでてきてます。やっぱちゃんと読まんといかんなあ。

でもリゾーム理論からいうとこの部分の文章だけ採ってきても、そっから伸ばしていけなきゃいけないんだよね。レッツ脱領域化。

訳注5
ところで仏語では「Faites rhizome」つまり「Do rhizome」で始まるのだけど、みなさんどちらかっつーと「Be rhizome」になってますよね。フランス語でBEはETREなのですがこの言葉はドゥルーズさん極力さけてらっしゃいます。特にスローガンの場合。日本語に仏、米語ほどの拘束力が無いとはいえやっぱりちょっと気になります...

「リゾームでやろう。」ってな感じになるのかな?
はじめまして。私はフランス語の原書なんて読んでいないのですが、日本語訳で「絵」あるいは「デッサン」となっているフランス語は何でしょうか?「絵」と「デッサン」ではかなり違うような気がしなくもないのですが、いかがでしょうか?デリダやクリステヴァにおいてデッサンは、普段は意識されなり観念が解き放たれたものとして、出来上がった絵画よりイメージの起源をさぐるための研究対象になっています。デッサンという訳だとある意味地図にも通じるその場しのぎのアイデアという感じがしてしまいますが、どうなんでしょうか?地図っていうのも、こう行ってあそこに行って、それから・・・・みたいな感じの正確かどうかもわからないちょっとしたメモみたいな感じなんでしょうかね?あとドゥルーズは「シネマ」という大著がありますが、映画と違って「写真」というものには何か考えがあったのでしょうか?ドゥルーズもそれほど知らないのに書き込みしてしまいすみません。場違いな質問だったら本当にすみません。
勘違いのないように始めから僕もあやまっておこう。僕もドゥルーズなんて大学の論文を書くために(建築で哲学じゃないです)斜め読みしたくらいでちゃんと読んでません。きっと人生をかけて勉強してらっしゃる方もいるだろうから、批判がある方はよろしく+お手柔らかにお願いします。ここのトピックは素人向けと言うことで。

ノリさん始めまして。確かに原書では『DESSIN』(デッサン)となっています。同時にフランス語では『DESSEIN』(神の思し召し)という同音異義語がありまして(特にクリステヴァやデリダはこっちの言葉に引っ掛けてる感、彼らはもっと厳密に単語を選んでる、また調べてみます)一概には「その場しのぎの」ともいえないのです。特に『CROQUIS』(クロッキー)『ESQUISSE』(エスキース)や『SCHEMA』(スキーム)など数ある単語の中からなぜ『DESSIN』を選んだのかはわかりません。僕はそれが単に一番ポピュラーだからだと思うのですが。これらを汲んで日本語でもっとも短絡的に「絵」だとおもったのです。デッサンが絵画に対する「地図」の役割、つまり「素描」ならば文のつじつまがあわなくなるわけですよね。

あと「写真とデッサン」についてはBlackcherryさんの明晰な意見と全く同感でリプリゼンテーション(再現)を目的とした「写真とデッサン」と「地図」とを対峙させて、行動を生み出す契機となる「地図」を表現したかったのだと思う。本文をちゃんと読めば『CARTE』(地図)が『CALQUE』(トレーシングペーパー)と対になっているので疑問は生まれないのですが。やっぱり本文を読まれることをオススメします。さすがにこの章はくどいほどしっかり説明してあります。

「シネマ1+2」も斜め読みしかしてませんがとにかく「動的なもの」にドゥルーズはそうとう熱中してます。これが彼の性癖なのかフランス語に対する苛立ちから来るものなのか分かりませんが。きっと「シネマ1+2」の中に「映画」と「写真」の差異を扱ってる章があるはずです。感覚的に言うと『PHOTO』ってちょっと子供っぽいイメージがあるんですけど。
おはようございます〜


タツロウさん、レスポンスありがとう。faireですが、辞書を調べてさっき気づいたのですが、etre(be)に近い意味があるようです。

・経験などを積んで、〜になるという意味で
Il veut faire (un) artiste
(彼は芸術家になりたがっている)

・物が〜の形を呈するという意味で
La route fait un coude
(道路が、(肘のように)くの字になっている)

Etreを忌避するような内容なのに、Soyez rapideと普通に言ってたりするので、ここではスローガン的な文体と割り切っているのかもしれませんね。でもタツロウさんがあえて、Be動詞的な訳を避ける配慮も理解できますよー。


ノリさん、フランス語で絵に当たる語はたくさんあるらしいですが、絵あるいはデッサンとなっているのなら、そのままdessinである可能性が高いと思いますよ。辞書を引くと、フランス語のdessinは、絵の具を使わないで線で絵を描くことだそうです。絵の具を使うと絵画(peinture)になるんじゃないかな。日本語でも、「絵描き歌」の絵や「絵文字」の絵は、デッサン(線描)のことですね。クレヨン、絵コンテ、鉛筆など一色だけで線描した絵は、デッサンに含めてよいのだと思います。もしデッサンが絵とも言われているとしたら、そういう意味での絵を想定するのがよいのではないでしょうか。

 それから、地図とデッサンはどちらもその場しのぎな部分を共有してると思います。でも、デッサンは対象を見てある程度写実的に描いたものですが、地図はそうじゃないんですよね。地図は絵そのものではなくて、イメージと文字や記号の両方を含む独特の媒体だと思います。つまり地図は、記号化の度合いがデッサンよりはるかに高く、デッサンとは異なり鑑賞よりプラクティカルな意図が重視されていると思うんです。この箇所で写真やデッサンではなく地図を出てくるのは、写実性や審美性より、制度化や実体化に対抗する(戦闘的)実践が語られているためだと思います(もちろん芸術も含めて)。

 あと、デッサンに関するデリダやクリステヴァの議論、私も興味ありますよー。よかったら、どの著作のどの辺(章とか主題とか)も合わせて紹介してくださるとうれしいです。ドゥルーズの写真論は私もまったくわかりません。

それではー
あらら、タツロウさんの書き込みに気づかずに書き込みしちゃいました・・・。シネマの中に写真を扱った章があるんですか。情報感謝♪
タツロウさんBlackcherryさん返事いただきありがとうございました。Desseinに神の思し召しという意味があるとはビックリしました。エスキースというとどうしても出来上がった作品の前段階、ないしは前々段階、前前々段階(素描作品でも)という感じがあるのであれですが、クロッキー、スキームではなくデッサンという言葉があえて選ばれてるのはなぜでしょうね。クロッキーとかスキームはやはり確固とした対象に向けられてる感じなんでしょうかね。いずれにしろ原書をあたらないとダメですね。
「シネマ」については随分前にフランス語による講読会に出ていたのですが、他の芸術家(画家、建築家、音楽家)との比較は覚えているのですが、写真との差異を述べたとこはどうしても思い出せないです、どこらへんかもしおわかりになったら教えてください。ロラン・バルトにおける「写真」と「映画」というのが、ある意味くっついていたのですが、ドゥルーズの場合はそれとは違う差異があると思います。
クリステヴァのは「斬首の光景」というタイトルでみずずから翻訳が出ました(デリダの「盲者の記憶」もみずずだったかな)。様々な首斬りのイメージ(ほとんどがデッサン)から人間の欲動をあぶり出すという感じの論文です。私はすごい苦手な本たっだので、もし読まれたら感想などお聞かせください。
私はどうしても美術の方に興味が行ってしまい、無理やりそっちに持って行ってしまったようで恐縮です。
どうも。あいまいな記憶をたよりに書いていますが、「写真」と「映画」そのものを論じてる章は「シネマ」にみあたりませんね。この辺が素人のうろ覚え。どっかで読んだ気がしたのだけど。

話はかわるけどネットで探してるうちに1981年のパリ第8大学の講義にでくわしました。音つきなのはいままで気づかなかった。結構フツーに先生してるのが面白い。休憩はさんで毎回50分x2講、話しっぱなし。有名なサイトみたいだけど。
http://www.univ-paris8.fr/deleuze/article.php3?id_article=7
>クロッキー、スキームではなくデッサンという言葉があえて選ばれてるのはなぜでしょうね。クロッキーとかスキームはやはり確固とした対象に向けられてる感じなんでしょうかね。いずれにしろ原書をあたらないとダメですね。


 そうですね。原書に当たるのが一番だと思いますー。

 ただ、私が確認したかぎりで語感を言いますと、エスキス(esquisse)は下絵っぽい意味、スキーム(schemeは英語かなぁ?)は、図式や計画っぽい意味、クロッキー(croquis)は省略的に書いたスケッチだと思います。つまり前三者は未完成品で後者は完成品なんですね。デッサン(dessin)は恐らく、これら四つを含んだ総称的で一般的な用いられ方をすると思います(原語をつけておいたので、気になったらご自身で大きな仏和辞書を引いて確認してみてくださいね)。

 さて、哲学者(例えばこの一節でのドゥルーズ)が「写真とデッサン」しか挙げていないとすれば、恐らく絵画的なものをデッサンで代表させただけで、別に網羅的に語るつもりはないんじゃないかな(スローガンですし)。あと他の哲学者の場合でも、デッサン以外ほとんど出てこないとしたら、彼らが美術にそれほど詳しくないか、あるいは術語を細かく使い分ける必要のないレベルで議論をしているためかもしれません。

 デリダとクリステヴァの著作については紹介ありがとうございます♪

 ところでドゥルーズの写真についての記述ですが、ウェブ上で見れるドゥルーズの講義録に少しありました。

http://www.webdeleuze.com/php/texte.php?cle=72&groupe=Image%20Mouvement%20Image%20Temps&langue=1

このページの最初の方に、「写真についての長い一節」という部分があります(他にもいくつか出てきます)。おそらく内容は『シネマ』と重複しているので、この著作にも同様の言及はありそうです。英語でも、Deleuzeと、photo、photograph、photography辺りで検索するとたくさん出てくると思いますよー。がんばってくださいね♪
※ジル・ドゥルーズ ●「リゾーム(根茎)」理論を想起

ドゥルーズという哲学者の存在感を際立たせたのは、デリタと共同で生み出した「リゾーム」理論である。この理論を生み出すにおいて、ドゥルーズは、まず進化論の系統図に目を向けた。それまでの進化論は、唯一の起源から多様な種が発生し、その多様な種が唯一の頂点に収束するツリー(樹木)状の図式によって説明されていた。そこではバクテリア→植物→昆虫→爬虫類→鳥類→哺乳類→人間という、根っこから樹木のてっぺんまでの一種の階級を示していた。
 しかし、実際の自然界は、そのような整然とした図式では成り立ってはいない。植物が腐敗すればバクテリアの食べ物となり、昆虫は植物によって生かされ、爬虫類は鳥類の卵を食べ、頂点に立つ人間にはバクテリアが寄生する。バクテリアが人間を支配して操るSF小説『パラサイト・イブ』などは、そうした固定観念的な上下関係の逆転を象徴している。つまり、実際の自然界は、一本の樹木のような整然とした上下関係にはなく、多種多様なものが雑然とつながりあった、無秩序にも思える状態をなしているのだ。その状態は、地面から空に立った樹木よりは、地中で四方八方に根を伸ばしているリゾーム(根茎)にたとえるほうがふさわしい。
 ツリー状の図式は、官僚機構や会社の組織図に当てはめることができる。多くの人間はその図式にだまされて、支配と被支配の関係に身をゆだねてしまうが、自然界と同様、人間の世界もリゾームの状態にあると考えることができるのだ。
 この考えを、ドゥルーズは、カフカの『変身』を使って説明している。『変身』の主人公グレゴール・ザムザは、ある朝目覚めると一匹の虫に変身している。人間世界とのつながりを失い、家族からも見捨てられるグレゴールは、突然に降りかかった悲劇の犠牲者に思える。だが、リゾームの根は、てんでんばらばらにあらゆる方向に伸びており、その一本一本の先に、ツリー状の秩序から思わぬ出口があるかもしれない。そう、グレゴールは、虫に変身したことによって、その出口の一つから人間界の秩序の外へ「脱出」した・・・。ドゥルーズはそう解釈したのである。

※私の関心はドゥルーズより
初期パスカル・コムラードの音源をコレクションすることですが・・

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