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禅語を感じるコミュニティコミュの廓念無聖

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中国の梁の武帝の時代、
天竺から達磨大師が尋ねてきました。

武帝は達磨大師に問いました。
「私は今までに寺社を建立し、
経典を広めさせ、僧侶たちを教育してきたが、
それはどんな功徳に当たるのだ?」

達磨は答えて言いました。
「並びに無功徳(何の功徳にも当たりません)」

武帝は
「それなら、聖なる心理の第一義はどういうものだ?」

達磨は
「廓念無聖(聖なんてものは影も形も無い)」

武帝は
「私の前に座っているおまえはだれだ?」

達磨は
「不識(知らん)」

ここでふたりの会話は終わってしまいます。
どうして武帝には少しの功徳も無いと言われたのでしょう?
どうして達磨は自分のことを不識(知らん)
なんかと答えたのでしょうか?

コメント(10)

森羅万象と自分は等しい、という考えが
根底にあるのではないでしょうか?

功徳も聖なるものも目の前に座っている
一人の人間も、「ある」と同時に「ない」
ものなんですよね。
だって、自分(達磨)は相手(武帝)と
同義なんですから・・・。
”同じもの”に「おまえはだれだ?」って
聞かれても、”自分”が知らないものを
知るわけがありませんよね・・・。
たとえば 神も己も空も 自ずからある存在で
だから
「空はどうして青いの?」って空に聞いても
きっと 答えは
「自ずから 青い わしゃ 知らん」
って事でしょうかね?
単純な解釈ですけど・・・

自分の功徳の為の行いは功徳でないのでは

不識は
「我思う故に我あり」
あなたにとって私はいない、だと思ってました。それなら答えは「私はいない」ですよね。
自分は誰?の答えだったんですねー
無功徳ですね。
功徳を積むということは、無償の愛とでも言いましょうか、見返りを求めず、言いふらさず、自ずから湧き上がる純粋な善意の行為であるべきですが、武帝は違った。下心ある行いに功徳はありません。善い行いでも人に知らせたり見返りを求めたりすると色あせて功徳ではなくなってしまします。
不識とは、
やまねこさんとほぼ同意ですが、俗では達磨という名、姿、肉体があるかもしれないけど、それらは色であり、本当の自分の魂が何者なのか達磨も模索中であるいち雲水なので、不識とこたえたのではないでしょうか。
これは、禅の根本となる一本軸の禅語だと学びました。はじめまして。学校の研究で、禅語について写真とったり禅寺いったり・・・と。初心者で無知の私が、禅など語れませんが、とても良いコミュニティーですね。研究の参考にさせていただきたい!!回答できなくてすみません。ただただ、聞いて読んで理解することしかできません。修行が未熟なものは語れるほど理解していないようで悟りもわからず・・・。どの禅語も親しみを感じます。これからも楽しみにしてます!!!
 私的な想いとしては、
武帝最後の問いが山場かなー、と。
武帝は、達磨大師を聖だと思っていたのでしょうか。
「それでは(聖である)あなたは、誰なのでしょう?」
 達磨大師は、
「それこそ、私も知りません。」

 最初の問いを考えると、
功徳、というのははかれるものではない。
 第2の問いを考えると、
聖、というのは形なく、形がないので影すらできない。
最初の問いから続いている事を考慮すると、
功徳つんでいくことが、
聖へと近づくことだ、とも推測します。

 つまり、
「達磨、という名前は形あるものです。
はかることができず、形も影もない魂や精神、
それが功徳をつんでいくことになります。
それこそがまさに聖であり、
名前を付けることができません。
 その聖は何か、
という問いへの答えは、
はかることもできず、影も形もないないので、
不識、知りません。」
といったのなー、と思いました。


 と、自分なりに解釈しました。
長文、失礼しました(ぺこり)。
はじめまして〜
初めて書き込みします〜
「不識」

なんていう意味かは分かりませんが
一番かっこいい禅語ですよね。

達磨の性格が100%出てる言葉だと思います。

確固たる自信を持って「不識」答える意志が力強くて。

「聖」
は「聖」であると肯定するとその時点で「聖」じゃなくなるかなと思います。少しでもそれが「聖」だ、と思ってそれをやってしまえば、それは「聖」を求める自分がやっているものであって、その思いから汚されてしまう。何かを「聖」と決めてしまえば、そこには何らかの意志が働いてしまうので、そこで「聖」の意味づけは意味をなさなくなる。

「不識」はそこから生まれた言葉かな、と思いますが・・。
私は何かをした、このようなことは我を肥大するだけでなんともなんないです、「無功徳」どころか百害あって一利なしです。為す者がいなければ何をやろうとも自由自在なのです。肥大する根本がないのです、このことが「功徳」です。為したものごと、況や為した自分を認めてくれでは水の泡です。悟っても悟りを握ってしまったら我でしかないのです。
功徳を気にする心位にとどまっている限り、禅のど真ん中にはいつまでたっても入ってくることはできない。そこで、そんなもんはいくら積み重ねようと無功徳だ、いい加減にそんなことにはすべて見切りをつけて、やるべき第一等のことをすぐせよと親切に導いている。


禅のど真ん中に入ったならば、もはや聖も俗も自も他もなく、識りうる対象など何もない。いっさいの限定ととらわれが止滅している。

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