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禅語を感じるコミュニティコミュの趙州狗子

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無門関からの公案です。

1人の僧侶が趙州和尚に問いました。
「犬にも仏性はありますか?」
趙州は答えて言った。
「無」と

「無」って何のことでしょうね?
ちなみにこの「無」は
ものの「有無」とかの「無」ではないですし、
「虚無」の「無」という意味ではないということです。

「無」と言うものを全身全霊を使って
感じてみましょう。

コメント(268)

230 Ruu@Ya(*'-'*)Waliさん

>また、なんか検討はずれな事言ってたら指摘してください。

いいえ、気にしないで、どんどん聞いてください。 悟ったからいい先生になれると限らないので、私も日々勉強中です。 ですので、よろしくです。 またずっと議論に参加できる時間も無いので、メッセージを直接送ってくれても構いません。

>「その本質を見、また見続け、体現している存在」と理解したのに、何が妨げるんでしょうか。

その人がすばらしい、神だみたいな感じになっちゃいます。 実際なところで、悟り=ひとつの誤解が解けったことだけなんで、すばらしいでもなんでもありません。あんまり高く見られて困りますwww

>やはり概念や、概念と本質とのいったりきたり、まだ自己概念の架空性を理解するということが完全には掴みとれてない、ということでしょうか?

もうちょっと今の状態について詳しく教えてもらいませんか?

>鏡になにも映らなくなるまで、、、といいますか。まだまだ映る、映ってしまうなーって。
それについてはどう思われますか?

鏡で実際試したことがないんで、それがつまりどういう状態?それについてもっと詳しく教えてくれないと、判断がつかない。
Ruu@Ya(*'-'*)Waliさん

>ここでいう悟りが、イコール「ひとつの誤解が解けた」ってことだとすれば、悟りはいくつもある、ということですか?

そのひとつの誤解は、つまり自分を自分ではないものと思い込んでいることです(自己概念による囚われ) それがはっきり言ってただの誤解です。しかし、赤ちゃんのころから身についたもので最も消えにくい誤解でもあります。 しかも、頭で理解して消える誤解ではないんで、そこが難しいところです

>だれそれに何かいわれた、憤る自分、
それは自分の中にもあるものを単に指摘されたから憤るのです、まだそこに自我があり、自己概念はこういうものだ、と抱えこんでいるゆえの反応ではないかと。

そうですね。人に自分を侮辱されたから怒ったり、褒められたから有頂天になったり、そういうのはすべて自己概念の仕業です。 しかし、怒りと悲しみに「自己」と絡んでいない別な原因もあるので、悟った人間が怒らない、悲しまない、完璧な、神のような人間だと勘違いされると困ります。
悲しみ:
ー悟った人間が極めて少なく、地球がもうこんな状      態なのに。 
ー親友の死(たぶん今飼っているハムスターが死んだら、悲しみます。)
ー惨めな人間を見たとき(食べ物を乞う人をみるたびに落ち込みます)

怒り:
ー他人の強いエゴを見たとき、無神経な人を見たとき
ー蒸し暑い日になるとちょっと怒りぽっくなったり?(でも、やっぱ人に迷惑なんで、極力克服します)

でも、別に怒りがどんな原因であれ、どんな形であれ、人に迷惑なんで、抑えるべきです。

      
      
>>誰が見てるんでしょうか。

>それも言葉の限界を超えていて、なかなか伝えられません。 その辺は、どうぞ、悟りを得てから体得してください。

悟りは得られないというこのトピの定説なんですけど、得られるんですか。誰が得るんでしょう。というのは得る人の不在が悟りということですからね。

>今は、自己概念の架空性を理解することに専念してほしいと思います。

瞑想ってそういうことですよね。毎日坐禅させてもらってます。

ところで、えんちゃんはどういう修行をして悟ったんですか。導師はどういう法脈の方でしょう。導師に悟りを認めてもらったんですか。
>悟りは得られないというこのトピの定説なんですけど、得られるんですか。誰が得るんでしょう。というのは得る人の不在が悟りということですからね。

はい、得られません。 元に戻るだけで、誤解が解けるだけなんです。 なにかが得られるから、禅をすると、逆に妨げになります。

>ところで、えんちゃんはどういう修行をして悟ったんですか。導師はどういう法脈の方でしょう。導師に悟りを認めてもらったんですか。

主に、会話と理解を通して。 はい、導師に認められましたが、別に意味ありません。 認可不要で、自分でわかるものですから。 ちなみに、日本に今正師がいないかもしれません。
>>悟りは得られないというこのトピの定説なんですけど、得られるんですか。誰が得るんでしょう。というのは得る人の不在が悟りということですからね。

>はい、得られません。 元に戻るだけで、誤解が解けるだけなんです。 なにかが得られるから、禅をすると、逆に妨げになります。

とすると禅はしない方がいいということですか? 何をすればいいのでしょう

>>ところで、えんちゃんはどういう修行をして悟ったんですか。導師はどういう法脈の方でしょう。導師に悟りを認めてもらったんですか。

>主に、会話と理解を通して。

会話と理解・・・ということは言葉を理解することを通して言葉の背後にあるものを理解した、ということですか。

>はい、導師に認められましたが、別に意味ありません。

どうして意味がないのでしょう。方脈は何ですか。
 
>認可不要で、自分でわかるものですから。 ちなみに、日本に今正師がいないかもしれません。

正師がいない、となると師に付いて修行している人には望みがないことになりますね。ん?しかし、えんちゃんの悟りを認可してくれた師も正師ではないのですから、望みはあるのか・・・。

あとは悟りを宣言する人が本当に悟ってればいいわけですけど、それを確かめる術もないということで・・・悟りとは厄介なもんですね(笑)

しかし、悟ったという人に会うと、何となくいい雰囲気に包まれているものですから、それを拠り所として自己判断するしかないようです。

悟りを語って傲慢とか、悩み多しとか、愛がないとか、目がにごってるとか、対人恐怖症とか・・だったらしょうがない。悟った人とはステキな人のはずですから。
Ruu@Ya(*'-'*)Wali さん、

>では、慈悲とはなんでしょう。

慈悲は、自他の境界を超えたところから来ます。 他人の苦しみに以上に敏感になります。 とにかく、他人のこと、地球のことが放っておけない。世話好きとまた違いますけどw 

>あまりその怒り、哀しみに
慈悲のようなものは感じません。凡人のそれとおなじ。
悟ったものはかくあるもの、という作られたイメージというものがあるからかもしれませんが。

そうです、神のような存在になったりしますよね。本当に困ります。 自分が悟ったと勘違いしている人間たちが、自分と他人の違いを強調して、わざとそういうイメージを他人に与えようとしているせいでもあるとおもう。 

しかし、悟ったあとに、穏やかでやさしい気持ちがずっと持続して、寂しさをまったく感じないのも、事実です。 心の安定を得たことに似ているのかな。 寂しさを感じないのは、自他の境がないからです。 自分のことばかり心配になったりすることもありません。

でも、もちろん、忙しいとき、いらいらしたり、ストレスを感じたりします。 そのへんは、前と変わっていません。

>「悟った」と導師に言われ、そして自らも悟ったものだと、名言している、ということで間違いないですか? それは、ある日導師から突然言われたの?それとも、自ら聞きましたか?(すいません、ここの部分は私個人的興味の範囲です)w

いいえ、それとまったく違います。 導師は私の友人でもあって、いつも友人みたいに会話します。 自分の変化について喋ったら、“そう、そう、そういうもんです”って言ったの。あんまり、冠を授かるみたいな儀式的なものじゃありません。 でも、別に認可があっても、なくても、同じです。

>ですが、本人達がそう言うので、そうなのだろう、、というしかありませんでした。
でも、かれらのなかに、私は自身の正師だと思える人物はいませんでした。

そうです、慎重になることが本当に大事です。 変な方向に導かれると、一生無駄に過ごしたりします。 やはり、自分の問題意識が大事ではないでしょうか? 私は、ずっと腑に落ちないことがあって、その感覚が私の最大な師であった。今でも、勉強を続けています。

>人にはその人の”段階”によって自らの正師というのを見出す、といいますか”出会う”のではないでしょうか。

そうかもしれませんが、やはり最初から変な方向に導かれると大変なことになります。 国際的にも、有名な正師が本当に邪師だったしますので、人の言うことに常に疑いを持って、自分の感で判断してください。




 
訂正:

“他人の苦しみに以上に敏感になります”

=>非常に敏感になります
>とすると禅はしない方がいいということですか? 何をすればいいのでしょう

そんなことを言っていませんよ。 また勝手な推測をしています。 だから、何かを得ようとして、禅を組んでいると、効果がないと言っただけです。 

>会話と理解・・・ということは言葉を理解することを通して言葉の背後にあるものを理解した、ということですか。

もちろん、言葉の背後を理解します。 私のアプローチを君がそのまま採用しても、同じ効果が得られると限らないんで、禅なり会話なり、自分にとって適切なアプローチを見つければいいと思います。

>どうして意味がないのでしょう。方脈は何ですか。

だから、導師に認められる必要がないんです。もう自分のことなんてどうでいいです。 師匠の認可をほしがるうちに、まだ自分のことを心配しているのです。 エゴの仕業です。

>えんちゃんの悟りを認可してくれた師も正師ではないのですから、望みはあるのか・・・。

はい、本当の正師です、でもアメリカ人ですw 英語が読めるのなら、紹介します=> www.friendsofreality.org

>悟りを語って傲慢とか、悩み多しとか、愛がないとか、目がにごってるとか、対人恐怖症とか・・だったらしょうがない。悟った人とはステキな人のはずですから。

そうですね。素敵だけどwww、完璧じゃないです。 その人が悟ったかどうか、感で確かめるしかないですねw
完璧って何でしょうね。それも勝手な概念だったりしてね(笑)

お師匠さんに関する記事ざっと読みました。徹底した観の修行によって覚醒した人のようですね。しかも無師独悟。だから長年苦労したようですが、無師で行ける素養を持った人だったのでしょう。

インタビュー記事の中でこういうのを見つけました。

I have been told by many that what I have shared with them
has helped change their lives for the better. Many now
understand the problem we all have faced, yet only about
two have had anything close to a real awakening.

えんちゃんがこの内の一人ですか。
>243 しかも無師独悟。だから長年苦労したようですが、無師で行ける素養を持った人だったのでしょう。


そうですね、その人、幼少期をアメリカの犯罪率の高い地域ですごしたので、いつも“Why there is so much hatred?" という疑問を持ちながら、悟りの世界に入ったんです。 そういう意味で、最初から自分ではなく、真実や世界の現状に目を向けていたみたいですね。 だから、自分を見つめると同時に、時事や世界の現状に目を向け、現状をそういう風にしてしまったのがいったい何でしょうーーーその真髄を探求してみるのも、いいアプローチでかもしれません。 

無師であるゆえに、教えによる条件付けもなかった。それも本当の覚醒につながったのでしょう。 

あと、私の言っている理解は、気づきのことです。 

>えんちゃんがこの内の一人ですか。

いいえ。その記事が書かれたとき、またその人に出会っていませんでした。
>Ruu@Ya(*'-'*)Wali

はい、ちょっといました、北米にw 

近頃、ボランティアで一部のエッセーを日本語に訳してみようかなと思っていますがw またできたあとに、知らせますね。
>247

私の下手くそな日本語でよいのであればねww。 多分、夏休みの間にトライします。 では。
君達ちょっと落ち着きたまえ!!
あんまりにも難しすぎて
ついていけません!!
ちょっとコーヒーブレークしなさい!!
えんちゃんの日記を読んだんですが、雪担さんはえんちゃんのアメリカン正師のことを正師ではないと言ったんですね。ややこしい事ですね(笑)で、えんちゃんは雪担さんの事を正師と認定したと。

正師がいるのに別の正師を認定するというのも変ですが、この認定というのは、あー、この人も分かってるな、というぐらいの意味でしょうか。

正師に正師を否定されるのはいかがなものですか。
>253

いいえ、そのときの感想ですから、べつに今はせったんさんを正師だと思いません。 でも、それもゴシップの範囲になりますから、今後個人に対するコメントを控えさせていただきます。 
Ruu@Ya(*'-'*)Wali さん、

>ずっと上の方での書き込みに、ありましたが、
悟り=変化というののことの意味がちょっとつかめませんでした。

はい、そのとき、神秘体験との区切りをつけるためにそういうふうに言っただけです。 そうですね、元に戻ることですよね。もっと、せいかくに言えば、自分を自分ではないものと認識している誤解から解放されることです。 ですので、人間の本質が変わることとまったく違います。 もともと、架空であるものが消えるだけですから、本質がそのままです。

個人的には、大悟小悟がないと思います。 しかし、悟りが一回で急に訪れてくるものでもありません。 毎日、少しつつ自己概念の架空性に気づいて、無意識のレベルでどんどん解放されて、ある日意識のレベルでの解放を感じたとき、一つの区切りとして、悟ったといえるのでは? その日を界に、自分で意識し、昔のようにもう架空であるものにだまされることがない。

>それと、悟った人は素敵なものでしょう、というのも
やはり概念の域をでないのではないでしょうか?

心の素敵を指しています。もちろん、その人が乞食のおばあさんだとしても、心が素敵であれば素敵です。

>無と悟りは同義でしょうか

その人の「無」に対する理解によるんですが、このスレのトピになった趙州狗子の無と同じ意味であれば、同義です。
禅語を理解する、というのは多分、頭で理解することを脱して

頭ナシで理解すること=そういう存在になること、だと理解します(笑)

坐禅には何も要らない。本も読まない。会話しない。思考要らず。思い出さない。心配しない。欲をかかない、主張しない・・・ただ全休して在る・・・頭不要・・・何を理解するというのか・・・頭不要ということを理解するんじゃないですかね。
「ボールを持てば私が主役だ。決定するのは私で、だから創造するのは私だ」
〜ヨハン・クライフ〜

「サッカーに人種はない。」
〜ミシェル・プラティニ〜

「私はありとあらゆる悪いことを行った、しかし、フットボールを汚したことは、一度も無い」
〜ディエゴ・マラドーナ〜

「いつまでも試合が終わらず、このままプレーしたいと思うときがある」
〜ジネディーヌ・ジダン〜

「強いものが勝つのではない・・・勝ったものが強いのだ」
〜フランツ・ベッケンバウアー〜

「今を戦えない者に次とか来年とかを言う資格はない」
〜ロベルト・バッジョ〜



『急にボールが来たので、足の内側で蹴ればよかったが、外側で蹴ってしまった』
〜柳沢敦〜
以上、サッカー語録v
一日為さざれば、一日食らわずよ!!
分かった!!
どの語録も素晴らしい。特にマラドーナは印象に残った。
無いと言えば 嘘になる
有ると言っても 無と一如

悟っていないと言えば 嘘になる
悟らぬものなど 一人もいない

悟ってると言えば 悟るものがいる

知るもののいない 知らないが 空に舞う


ひとつ↑ 

為さざれば 食うものも無し
有名な公案ですね。私は質問自体が「無」であると感じます。
すぐ上の人と近い感覚でしょうか。
要するに「有ると言うほどには無く、無いと言うほどには有る」のです。
この公案を「猫に仏性はあるか」と代えたら、答えは違ってくるでしょうか。
さらに「あなたに仏性はあるか」と代えたなら。
そして「仏に仏性はあるか」と代えたなら。
・・・
風呂が炊けたようなので、入ってきます。
こんにちは nobuyanと申します

私 この問答は「悉有仏性」という言葉と対にして捉えておりますが、いかがでしょうか

1人の僧侶が「犬にも仏性はありますか?」と問う前提として、僧侶には「悉有仏性」という禅僧としての学習知識があるのだろうと。

それで、趙州さんは 「無」と言ったのではないかと

僧侶よ、お前は「悉有仏性」という言葉を学んで常識だと思っているから、そういう質問をするのであろう。しかし、本当に、「悉有仏性」を実感しているかな?お前さんの常識など本物かどうか怪しいぜよ。本物を見極めるには常識を打ち破らないとだめだよ。だから「無」なんじゃ。

つまり、耳学問の常識を疑い、打ち破り、本当の処を見出すために「無」といったのでしょう

まあ 「学習知識や常識を疑え」ってことではないでしょうか
北京さんワロタ

難しい文章はかけないし
説明できませんが、ハートにキックです。
犬に仏性があるかどうかなんて、自分に関わりのない離れた所を理論的にああだこうだと頭を悩まし、頭の中を観念で満たすよりも、そんな観念との戯れこそをいっさい無くしてしまえ!無!

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