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ラテン(イベロ)アメリカ文学コミュのカルロス・フエンテスと国民文学

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 フエンテスはエベントやら新著のプロモーションでスペインにすでに三週間、滞在している。

 新著は、他のトピでも触れられているLa voluntad y la fortuna (Alfaguara),「意志と富」とかいう作品。

 これでフエンテス生涯にわたってのメキシコ・シティ三部作が完成したとかいわれる。

 処女長編「La región más transparente 」(1958)にはじまって「Cristóbal Nonato」(1987)、そして今回の「La voluntad y la fortuna」。

 もちろんフエンテスの関心は多岐にわたっているが、とりわけメキシコ・シティへの執着はつよい。

 マドリードでの新著発表会では、コロンビアの若手作家との対話というかたちながら、モノローグ的に自らの執筆活動のエッセンスに触れている。

 フアン・ルルフォの「ペドロ・パラモ」が出版されてからというもの、もうメキシコのいなかやら、カシーケについて書こうとするひとはもういなくなった。

 「La región más transparente 」では、あくまでも主人公はメキシコ・シティなのだ。

 この作品は刊行当時は、ずいぶんとけなされたもので、おやじの友だちのなかには、はじめの十ページ読んだだけで屑かごに放り込んだひともいたくらい、毛嫌いされたが、なかにはあたらしい道を感じてくれたひとたちもいた。

 中学のころから仲良くなり、メキシコの月並みさにあきたらず、それを乗り越えるために政治の世界にはいった二人のおとこが、有象無象のメキシコのシステムに巻き込まれていき、麻薬シンジケートのバイオレンスや暗殺のなかで揺り動かされていくかが語られる。

 メキシコのかなりナマな現在のメキシコの政治やら犯罪があつかわれるわけだが、あくまでもここではメキシコシティを扱っているのではなく、メキシコシティを舞台にして沸き起こる物事に触れていることになる。

 ここでは、意志と必要と運命がどう絡み合うのかにおおきな関心をもった、とフエンテス自身は語っている。


 ・・・・・・・・・・

 幼いころからあちこち行き来してきたフエンテスだけあって、多くの作品には国際性が際立っている。
 この国際性と、メキシコ(の歴史)への関心こそが、フエンテスの文学空間の広さと深さを保証づけていることになる。

 しかしそれでも問わずにはいられない。
 いま、20世紀、21世紀の文学作品を問うとき、移動、移民、声をもつことができないひとたちの声をどう拾っていくか、書き表していくかが課題となっていると思う。

 さもないと、各作品が、国民文学化し、国のアイデンティティを助けることにつながってしまう。

 国のアイデンティティが、確固としたものとして存在してしまえば、その国家、政体へのアプリオリな信任へとつながってしまう。

 それはたとえば、パスのあの名著のほまれのたかい「El laberinto de la soledad」についてもおなじことがいえるはず。

 要は、国民と国家の峻別でしかないと応えるのはたやすいが、新興国、とくに明治期のニホンもふくめ、話はそれほどシンプルではない。

(その意味では、フランス国人ではないフランス語作家のル・クレジオの存在意義は、これからさらに評価されるべきものであるとおもわれる)


http://www.jornada.unam.mx/2008/10/28/index.php?section=cultura&article=a09n2cul

 

コメント(1)

 上でのフエンテスへの叙述は、やや酷なところがあったかも、と反省中の身の上。
 フエンテスの作品には、ひとつの系譜を都市小説に見出そうとすれば、それも可能であるが、そのほかにも海外のいくつかのくにを舞台にしたもの、あるいは歴史に真っ向から挑んだものと、多くの世界が併存しているという印象をうけることができる。

 1950年の後半を軸にしてメキシコでは叙述の中心が、地方から都会へと移動。
 以後、メキシコを描く、メキシコの全体像を意識するためには都会を場とすることが欠かせなくなる。

 もちろんニホンも似通った事情があり、地方よりも都会という図式が実在する。
 しかしメキシコにくらべると、それでも地方を通じてニホンの全体を描くことがいまだに可能であるらしい。
 たとえば大江の四国、中上の紀伊とか。

 大江とカルロス・フエンテスの場合は、環境がまるっきり異なっていて、フエンテスは生まれて以来の国際派、大江は自分のいなかにこだわる。
 しかし、どちらもフランス(文学)への憧憬を基にして生長し、身につけたものにはぐくまれながら見事に独自の世界を築くにいたる。
 だが世界とのかかわり方にはいちじるしい違いがありそう。
 そんなところから、おそらくだれも考えてこなかったかもしれないが、大江のナショナリズムなんていう命題があらわれるかもしれない。

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