ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

個人的作品置き場コミュの草原を渡る風(第二章)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント(12)

 荒涼とした大地には風の歌も届かない。
 一筋の長い行列が荒野とも砂漠ともつかない大地を横切っている。果てしなく続くその列の脇には見張りの騎馬兵士が等間隔で並走している。人々は幽鬼のように足を引き摺り、時折倒れる者がいてもその歩みが止まることはない。照りつける太陽に乾き、そしてまた一人が倒れた。
「姉さん!」
 前を歩いていた男が彼女を引き起こそうとすると、すかさず後方より騎馬兵が駆け寄る。
「おい、列を乱すな!」
 兵士は剣を抜きつらねる。その切っ先は鋭い眼差しで見上げるイズークをよそに、倒れるパレアへと向けられた。
「……もう、歩けない」
 聞き取れないほどのか細い声はそのまま大地に吸い込まれる。足の肉刺はつぶれて血が固まり、顔は垢に汚れ黒ずんでいる。
 倒れる者がいれば置き去りにされ、庇う者がいればその場で倒れた者を斬り捨てる。イズークは彼女を抱え上げるように立たせた。
「いい。置いてって……」
「しっかりしてよ」
 イズークが肩を貸してやっと、彼女は歩き始めた。
 行列のゆく先は陽炎の中。やがて城壁に囲まれた褐色の街が浮かび上がる。

 午後の日差しが舞い上がる砂ぼこりを照らし、街は金色のベールに包まれる。七色の花の咲き乱れる庭園がいたるところにあり、澄みきった水の流れる水路が縦横に走る。アフラシャブの丘に広がるこの美しいオアシス都市を、カルバキア王は王都と定めた。永遠の都サマルカンド。アラル海の南東、アム川とシル川に挟まれた肥沃なオアシス地帯。ソグティアナ(ソグド人の土地)と呼ばれていたその地に、オアシス農耕と商隊貿易に支えられ、この街は古くから栄えていた。
 サマルカンドに辿り着いた奴隷たちは水を求めてアム川の畔に殺到する。イズークとパレアも人を押しのけるように水を求め、這いつくばい川面に顔を突っ込んだ。その背中を誰かが踏み越えて川に飛び込む。嘆きと喜びの混ざり合った声が波立たせる水面。そして彼らはその川面に見たことの無いものが浮かんでいることに、暫く気付かなかった。
 いつからそこに浮いていたのか、黄金の装飾を舳先に施した船が何隻も現れ、ゆっくりと水の上を滑っている。一人の男が屈強な兵士に髪を引っ張られ立たされた瞬間、その船が一斉にざわめきはじめた。
 それはセリであった。髪を鷲づかみにされ立たされた男は、もう一人の兵士に着ていた服を乱暴に脱がされた。一人、また一人と服を剥ぎ取られ、肉付き、骨格などを吟味されながら買い手が決まってゆく。
 そんな中、ひときわ煌びやかな武具をつけた男たちが、水際をゆっくりと品定めでもするかのように歩いて来た。その中で一人、鎧の飾り立てが際立って派手な男が、従えていた兵士に何か指示を出す。すると兵士はイズークの服を剥ぎ取った。男はイズークの肉体を吟味すると再び従者に目配せし、その首に黄色く塗られた石の札を掛けさせた。同様に男の目に止まり札を下げられる者は、みな体格のいい男たちばかりである。
「これは……」
 その黄色い札には、カルバキア軍の紋章が刻印されている。
 イズークがその札を眺めている隣で、パレアが兵士に髪を掴まれ立たされた。服を引き裂かれようとも両手をだらりと前に垂らすまま、その眼差しは輝きを失っている。対照的に沸き立つ水上のセリ場。売られるパレアも、また隣で眺めるばかりのイズークも、とうに抵抗する気力など失っていた。言葉無くただ手を伸ばし、そのお互いの手が届かなくなることに絶望するばかり。川の浅瀬に集められ芋洗い状態になった服を着ない人々の群は、既に家畜に等しい。そして奴隷商人によるセリは、さらに盛り上がりを見せるのであった。
 日干し煉瓦を積み上げて建てられた家々が軒を連ねる街路を、パレアは小太りのソグド人男性に連れられ歩いていた。彼女は天幕に使うような厚手のフェルトを一本の縄で締めただけという、服とも呼べないものを身に纏い、その細い首には駱駝の革でできた首輪がはめられている。
 街路を抜けてポプラ並木の続く水路沿いの通りに出ると、彼女は黙したまま水底に映る水面の影の揺らめきを見つめた。空気中に漂う砂の粒子と、冬だと言うのに血液を沸騰させるような熱が体中に纏わりつく。
「ほら、もたもたすんな!」
 小太りの男の甲高い声。同時に革の首輪を強く引かれた彼女。よろめき、石畳に足を取られそうになる。砂漠から吹き渡る熱い風が遠くの市場の喧騒を乗せ、一瞬彼女の頬を掠めた。
「もう一声!」
「いやいや、これ以上安くはできないよ。この絹は漢から運ばれて来たんだ」
「さァさァ上等な黒テンの毛皮はいかがかな?」
 水路沿いの通りにはウラル山脈の金、タムリ盆地の玉、漢のシルク、ペルシャの陶器、その他近くで収穫される穀物から草原地帯より運び込まれて来る乳製品まで、多種多様な物が並べられていた。街には様々な言語が飛び交い活気に満ちあふれ、鼻を衝くような香の匂いと熟れた果実の匂いとが混ざり合う。
 やがて小太りの男はひときわ大きな屋敷の前で立ち止まった。巨大な石柱で組まれた門をくぐると、粘土が剥がれて日干し煉瓦の露出した古びた家。
「おかえりなさいませ、バグドー様」
 中庭では漢から連れて来られたのだろうか、切れ長の目に黒い髪の女性が出迎える。彼女は顔を伏せたまま、ちらりとパレアに視線を向けた。
「さァ、お前も今日からは俺の奴隷だ。いいな」
 バグドーと呼ばれるその小太りの男は、パレアを見ながら卑猥な笑みを浮かべた。一瞬パレアの脳裏にイズークやイリスの顔がよぎる。今ごろみんなはどうしているだろう。そして私の運命はこの先どうなってしまうのか……。
 黒い髪の女性が夜食を作っている間、パレアは石卓に、紺のペイズリー模様の焼き込まれたペルシャ製の食器を並べる。やがてその食器には大豆とミルクのスープが注がれる。黒い髪の女性は終始無言であった。
「やぁやぁ、お待ちしてましたよ、将軍」
 バグドーは両手を大きく広げて玄関に向かい、三人の男たちを迎えた。
「おっ、また新しい奴隷か?」
「へぇ、今朝市場で」
「なんだバグドー、また女か。お前も好きだなぁ」
「へへ、まぁどうぞ、お入りください」
 客人たちの視線がパレアに集まる。彼女はその視線から逃れようと、部屋の隅へと引きさがった。バグドーは三人の男が席に着くなり話を切り出した。スープの注がれたばかりの食器からは、温かな湯気が昇る。
「ところで将軍、ペルシャ侵攻はいつ始まるんで?」
「なんだまたその話か。まぁ、いずれにしても夏を迎えてからだろうな。まだ寒すぎる」
 この男こそカルバキアの軍事を司る将軍で、タルタゴという。彼は眉間にシワを寄せ、不快そうな顔を隠そうともせず水を一杯口に含んだ。
「そんな呑気なこと言ってるうちに、ペルシャは強くなっちまいますよ。攻め込むんだったら皇帝がササン朝に交代したばかりの今ですよ」
「国が混乱してるのはこちらとて同じ事よ。アルタイ族を使った騎馬兵団もちゃんと編成せねばならんし、準備すべき事が山ほどある」
 タルタゴの隣に座る男が口を挟んだ。バグドーはため息をつく。
「まぁハウズシャーとしてのお前の立場も解るがな」
「わかりました。では今しばらく待ちましょう」
「ああ、新規の兵団はなるべく早く編成するつもりだ。しかしそのためには……」
「わかってますよ。馬や剣、それに矢が要るんでしょう? すぐにでも調達しますよ」
 サマルカンドには古くからソグド商人と呼ばれる人々が住んでいる。彼らはオアシス農耕を営みつつ、同時に商隊(キャラバン)を組んで大陸の各地を廻っていた。商隊貿易と言う。その時に必要なのが旅の安全を保証してくれる軍事国家の存在である。彼らは長い歴史の中である時は東の騎馬民族国家に、またある時は西からやって来た巨大帝国にそれを求め、今はそれをカルバキア王朝に求めている。同時にカルバキアは資金や物資、情報などを彼らソグド人に提供してもらう。いわばスポンサーのような物であり、彼らは披支配民としての屈辱など感じない。作物が豊作で、かつ支配民族を利用する事によって商売で大きな利益を得られればそれで良しとする。巨大帝国の儚さを知っているのだ。もしカルバキアがペルシャを征服すればアラブ地域における商権や取引がおおいに有利となる。一年半前、カルバキアがアルタイ族との戦いで勝った事により最も利益を得たのは、アルタイの乳製品や馬、羊毛や奴隷などを商品化したこのソグド人たちであった。
「将軍。私はいずれカルバキアが大陸全土を覆いつくすような巨大王国に成長すると見てるんですよ」
 バグドーは口癖のようにそう言っていた。言いながら二人の奴隷に目配せする。それに答えてパレアと女奴隷は陶器瓶を傾け酒を注ぐ。部屋の中には香のきつい匂いと酒の匂いが充満している。
「また新しい香を見つけて来たな?」
「へへ、長安で見つけて来たそうで。何でも南のシャムから運ばれて来たとか……」
 言いながら彼は二度手を叩いた。するとそれに答えるように、女奴隷は服の帯を解き始めた。パレアは目を丸くして立ちすくむばかりである。
「どうした、お前も早く脱ぐんだ。将軍たちに奉仕して差し上げるんだ」
 アルコールの匂いとともに粘っこい男の声が纏わりつき、パレアは体を固くする。その時である。服を脱ぎ捨てた女奴隷がそっと近づき、パレアの耳元で囁いた。
「言う通りにしなきゃダメ。さもないと後でひどい目にあう」
 ハッとしてその女奴隷の目を見る。しかし彼女は再び口を閉ざし、男たちの前に跪いてしまった。
「おい、早くしねぇか!」
 首を横に振るばかりで声も出せない。
「なんだよ、あの漢商人め。全然調教されてねぇ奴隷なんか売りつけやがって」
「へへ、じゃァ俺たちが調教してやろうじゃねェか」
 タルタゴの連れてきた男の一人が、笑みを浮かべながら彼女に近づいてゆく。
「いや……やめてください!」
 言葉が通じないのだから何を言っても無駄である。いや、たとえ通じたとしても同じであったろう。彼女は後じさるがこの部屋はそれ程広くなく、やがて壁際へと追い込まれてゆく。彼女は体をガタガタと小刻みに震わせていた。香の匂いで目眩がする。
「いいかげん観念しな」
 男たちの目は血走っている。そして一人の男がパレアの服に手をかけたその瞬間であった。彼女は脇の石卓に置いてあった陶器の水差しを掴むや……
 ゴッ
 鈍い音がした。男は頭から血を噴き出してそのまま床へと倒れ込み、同時にパレアの着ていた服が、床が、そして天井が血に染まる。
「キャァァァァッ!」
 大声で叫んだのは女奴隷であった。床には男の流す血がゆっくりと広がってゆく。タルタゴともう一人の客人は、ただうろたえるばかり。パレアは今すぐこの場から逃げ出そうと扉へ向かって走り出す。強すぎる昼の陽光が部屋の中まで差し込まないよう小さく造られた窓。その窓からはとても抜け出せない。彼女はバグドーに行く手を阻まれてしまった。
「逃げ出そうなどと思うな! 貴様には大金を注ぎ込んであるんだからなっ!」
 血の匂いを纏った香の煙に視界を覆われ、パレアは少しづつ、戦っていたあの日を思い出していた。闘志は枯れ果て、生きる気力すら無くしかけていた彼女であったが、この血の匂いには覚えがある。
「うわぁぁぁぁっ!」
 叫びながら。殺気を纏いながら。しかし決して自由を求めているわけでもなく、ただ血の騒ぎに委ねて襲い掛かる。さすがにバグドーもその気迫に押され、咄嗟、頭を抱えてうずくまってしまった。

 突如パレアの目の前に広がる闇。背中に聞こえる喧騒から逃れるように、パレアはただ闇の中を走り続けた。
 青い月が赤黒い土を照らし行く手を示している。道に穿たれた影がおぼつかない足取りで彷徨う。やがて人の形をした影はふいに立ち止まり、天を仰いだ。草原の夜空を奔る銀色の月を想い、パレアは自分の運命をただ呪う。
「……おなか空いた」
 声に出しても仕方ないと思い直した時、三軒向こうの辻から人影が現れた。彼女は顔を伏せてやり過ごそうとするも、そのヤクのなめし皮で作った貧相な衣服を訝しげに伺いながら通り過ぎる男。パレアはたまらず駆け出した。しかし慌てたばかりに躓いて、地面の先に見える灯りは月が出ても閉まらない市場。
「さぁさ、アルタイ奴隷も残り少ないよ」
「今回は上質揃いさ。こんな機会はもう無いよ」
「安くしてくれよ。こっちはわざわざペルシャから足を運んで来てんだ」
 年に何度か、商隊が到着する時は特に盛り上がりを見せる市は明け方まで続く。細い通りに建ち並ぶ日干し煉瓦の軒は奴隷市場。ふと、パレアは熟れた果実の匂いに立ち上がる。そして赤土の塀沿いの闇溜りを、息を殺して進む。奴隷市場の手前、手の先には黒々と大きな粒をたくさん付けた、見たこともない果実。彼女は店の者が背を向けている隙にそれを掠め取る。罵声が追いかけるが、彼女は再び闇溜りに姿を掻き消した。
 貪り食う。月明かりから隠れ、路地の奥で貪りながら彼女は考えていた。イズークはどこへ連れて行かれたのだろう。イズークを連れて行ったのは煌びやかな武具に身を包んだ兵士。そこで先ほどバグドーの家に招かれていた男の話に思い当たった。奴隷を編成して軍隊を作るという話。まさか、とは思う。しかし、もしイズークが軍隊に連れて行かれたとしたら、もはや助け出す術は皆無に等しい。パレアは食べながら涙が溢れ出していることに気付いた。

 息が白い。市場から離れると街は静かに眠り更けている。アルタイとの戦争も落ち着いて今では開け放たれたままの城門を、うたた寝する衛兵に気付かれぬよう足音を忍ばせて潜り抜ける。
 街を囲む城壁を抜けると、周囲にはオアシスから潅漑用水が引かれた果実園が広がっている。そしてさらに街から離れれば、そこは大麦畑へと変化してゆく。サマルカンドは彼女の背後ですっかり小さくなってしまった。
 昇り始めた朝日に照らされて輝く大地を柔らかな風が渡り、金色の絨毯をゆっくりと波立たせる。同時に沸き上がる朝靄がその大地を覆い尽してゆき、空と大地との区別すらつかない。影のないその空間はまさに乳白色一色の世界である。 その時彼女は何頭かの馬の蹄といななきを耳にした。彼女は後ろを振り返ってみたが朝靄は濃く、四方ともに変わらぬ景色。
「誰?……誰かいるの!?」 大声で叫んでみた。だが何の返事も返ってこない。ただ蹄の音だけが近付いて来る。彼女の声が逆にそれを招き寄せていようとも気付かずに。
 突然、音が消えた。瞬間、一陣の強い風が大麦畑を吹き渡り、辺りの朝靄は瞬時にして払拭される。そしてパレアの前方遥か先に現れた、馬に乗る一人の男。
「ほう、これは……」
「あ……」
 男は彼女の前に馬を進めた。見事な毛並みをした漆黒の馬が彼女の目を引く。砂ボコリに汚れた羊革の上着に日に灼けた赤黒い顔。腰には見事な馬の頭の彫り物が施された黄金の鞘を携えている。パレアには見覚えがあった。あれはトックツ谷の攻防戦。あの時、自分を人質に戦線から逃れようとした男。そうだ、ラスク。確かそう名乗っていた。
「どうにも驚いたな。まだ生きていたとは。しかもこんなところで会おうとは」
 見下ろすラスクの顔を直視できず、パレアは顔を伏せる。
「笑うがいいわ。このぶざまな姿を見て」
 言いながらしかし、同時に軸足を引き姿勢を斜めにとり、重心を低くする。
「逃げて来たのか?」
「そうよ」
「馬も何も持たずにか?……野垂れ死ぬぞ」
「……」
 ラスクは荷袋の中からパンを取り出し、黙って差し出した。彼女がつい空腹に勝てず躊躇いがちに手を伸ばそうとしたその時。
「ハハ、アルタイの戦士とか言ってたお前も、今じゃこのザマか」
 パレアは顔を上げる。そう、私は昔、戦士だった。と、改めて思い出す。朝靄は空に消え、金色の大地が再び視界に広がる。伸ばした手が、震える。
「遠慮するな。どうせキャラバンから奪ったものだ」
 伸ばした手が拳に変わり、大地に打ち下ろされる。肩を震わせるパレア。その足元に荷袋が投げ落とされた。
「食い物だ。それを持って消えろ。俺に売り飛ばされる前に」
「慈悲なんかいらない!」
「ほぅ、面白い。なら俺を倒してその食い物を奪ってみるか?」
 鈍い響き。大地に一振りの剣が突き立った。目の前の剣を睨み、パレアは奥歯を噛み締める。馬を降り、突き立つ剣よりもひと回り大振りの剣を黄金の鞘から抜きつらねるラスク。朝の冷たい空気がキリキリと張り詰める。
 パレアは大地に突き立った剣を抜き、そして水平に構えた。それが合図だった。ラスクは大地を蹴り、一瞬にしてパレアの目前へと迫った。
 キィィィ……ン
 襲い掛かる剣を弾くのがやっとで、手の痺れを顔に出さぬよう相手を睨む。しかしその足は僅かづつも後ずさる。
「ハハ、それじゃぁ余興にもならんぞ」
 二太刀目、息を整える間をも与えず襲い掛かる剣に、パレアの剣は弾かれた。ずしりと重い衝撃に腕を持って行かれ、その剣は再び大地へとめり込む。
「どうした。昔の威勢の良さは」
「くっ……」
 目が熱を帯び始めた。次の瞬間、パレアは突き刺さった抜き身を足で蹴り上げ、切っ先が跳ね上げた土で一瞬相手をひるませる。と、同時に彼女は柄を掴み取り、音も無く彼の懐へと潜り込みそしてすり抜ける。風がラスクの前髪を揺らす。
 彼は笑っていた。いや、それは決して笑顔ではなく、楽しさにただ顔を歪めているのだ。お互いが身を捻り損ねていたならば、相討ちだったに違いない。
 振り返りざま薙ぎ払うとお互いの剣がぶつかり、鍔迫り合いとなった。射抜くような彼女の眼光を見つめ、ラスクは満足気に口の端を吊り上げた。
「パレア。確かそう言ったな。今のお前が生きて行くには盗賊にでもなるか奴隷になるほかに無いぞ。どうだ。お前、俺と一緒に来る気はないか?」
 キィン……
 囁くような声を弾き返し、パレアは切っ先を下ろした。
「誰が、貴様なんかと!」
 言い終わるよりも早く地を蹴って間合いを縮めるパレア。だがしかし、剣の切っ先をスイ、と掲げたラスクに一褸の隙もない。
「その腕、殺すには忍びない。今ここで斬られるもよし。俺を斬っての垂れ死ぬもよし。どうする?」
「……馬をくれ」
「ハハ、いいだろう。なら今から馬を奪いに行くとしよう」
 ラスクは剣を納めた。

 陽が沈み肌寒くなってきた荒野は静寂に包まれる。濃紺の地平にタシュケントの灯がおぼろげに揺れている。明朝、馬と食料を奪うため、あの交易都市へと忍び込む。砂漠に取り残されたこの廃虚群は、かつて匈奴による略奪を受けて滅んだか、あるいはオアシスの水が枯れて民に捨てられたか、定かではない。今では崩れかけた土壁と瓦礫しか残されていないが風はしのげる。一件の住居跡で星空の天幕の下、パレアは火を起こして積んであった食材から夜食を作る。月は雲に隠れ、辺りはすでに深い闇に閉ざされていた。作りながらパレアはゆっくりと語り始める。
「あなたの事ならオロハザさんから少しだけ聞いてる……」
 その突然の言葉にラスクは驚きを隠せなかった。
「オロハザ様が……生きているのか!」
「トックツ谷から北へ逃れて行ったのが最後よ。たぶん今でもみんなと一緒に遊牧をしてると思う」
 忘れようとしていたはずの過去が、ラスクに重くのしかかる。
「行ってみる?」
「バカな。今さら会ったってしょうがない」
 ラスクは苦い顔をしてそう言った。
「あんな無益な戦い、思い出したくもない。みんな死んだんだ。お前だってそうだろ」
「無益もなにも、あの頃はただ自分たちの暮らしを守るために必死だっただけよ。私はあの頃の方が良かったわ。少なくとも戦う事ができたし」
 パレアは自分の首筋を彼に見せた。首輪を外されたその細い首には、アザがくっきりと残されている。
「私ずっと首輪、はめられたままだった。まるで家畜みたいな扱いだった」
 薪のはじける音。揺らめく炎に照らされた彼女の顔に表情など無い。
「お前たちは負けたんだ。当然の結果だろ。生き残っただけでもありがたく思うんだな」
「あなただって、あの時、トックツ谷からよく逃げ延びれたわね」
「もう昔のことだ」
 ラスクは背を向けたまま、呟くように言った。
「ねぇ、何で盗賊なんかやってんの? カルバキアの兵隊じゃなかったの?」
「なんだっていいだろ。少し、静にしていてくれないか」
「なんで?……いいじゃない、べつに」
 少し口を尖がらせてそう言うと、彼はパレアを睨みつけた。彼女はその冷やかな視線に一瞬ビクリとする。しかし焚火を背にしているせいか、細かい表情は影に覆われ窺い知ることもできなかった。
 ラスクは後悔とともに苛立ちを覚える。一年半、盗賊としての戦いの中では全てを忘れる事ができた。友や恋人を失った悲しみ、そして死んでいった仲間たちの無念の想い。それらに時おり押し潰されそうになっても、戦いによってそんな現実から逃げ続けてきた。そして自分はこのまま孤独に朽ち果ててゆくのだと思っていた。なのに彼女はそんな自分を辛い現実へと引き戻そうとする。
 夜が更けてゆく。重苦しい沈黙は続いた。

 街の名はタシュケント。小高い丘の上に築かれた街は、その小さな外観の割に多くの人々で賑わっていた。パレアは自分がアルタイ族である事を悟られぬよう白いフェルト地の布を身に纏い、鼻先までそれを引き上げ街を歩いた。通りは途切れる事のない人々のざわめきで満ちあふれ、香や熟れた果実の鼻を衝くような臭いが漂う。中心には新鮮な水が豊かに溢れ出るオアシスがあり、彼女はそこでラスクの馬と一緒に乾きを癒す。ラスクは水袋に水を入れながら、水辺に繋がれている馬たちの品定めをしていた。
「どうせなら乗り換え用も含めて、あと2頭欲しいな」
「そんな簡単に盗めるの?」
「何言ってる、お前が盗むんだぞ? お前が乗る馬なんだから」
「ええっ!?」
「俺はちょっと市場を見て来るから、良さそうなやつ見繕っとけ」
 唖然として困った顔のパレアを残したまま、彼は歩いて行ってしまった。
 街を潤す湿った風がオアシスの水面を波立たせている。その水辺にうがたれた幾本もの杭に、馬やラクダたちが繋がれている。
「盗むったって……」
 辺りの視線が気になってならない。近くの通りを行き交う人々はみな、浅黒い顔か白い顔ばかり。彼女は陽射しと視線から逃れるように、狭い地裏へと入っていった。
 狭い石畳の上では洗濯物がたなびき、日中の強い陽射しを嬉しそうに浴びている。彼女はそんな景色を見上げながらペタンと腰を下ろし、日干し煉瓦の壁にもたれ掛って膝を抱えた。吹き抜ける風が顔を覆う布を揺らし、涼しさに目を細める。
 心地好さのあまり眠気に襲われるがしかし、そのまま睡魔に身を委ねる事は許されなかった。
「おほ、こいつぁ……」
 一人の太った男が彼女に近寄り、そして目の前に数枚の銀貨をちらつかせたのだ。パレアを売春婦か何かだと思ったのだろうか、それにしてもこんなに薄汚れた売春婦もないだろう。ところが当の彼女にはそれが何を意味するのか全く理解できず、ただ目を丸くするばかりであった。
「足りないかい? もっとくれてやってもいいんだよ」
 そこに彼女は見た。あの時の、サルマカンドで目にした三人の男たちの、気分が悪くなるような視線。自分の体をなめ回すように眺める猥雑に血走った目。男は苛立ち始めた。
「まだ不満か! これだけの銀貨があれば五日は食えるぞ。あんまりお高くとまってんじゃねぇ!」
 言葉を発していないどころか、まだ首を横に振ってすらいないというのに、男は勝手に興奮してゆく。彼女はその様を半分面白がって眺めていた。
 だが次の瞬間。顔を半分覆っていた布が、男の手によって払いのけられた。そこに現れた顔は……。
「ア、アルタイ族!」
 男はその目鼻立ちと肌の色、そして首筋に残る痣を見て驚きの声を上げた。そのほとんどが奴隷にされている筈のアルタイ族の女が、一人で白昼路地にたたずんでいるのだから当然であろう。
「へへ、こりゃァとんだ拾い物だぜ」
 男がじりじりとパレアに近づいて行ったその時である。ふいに彼女の纏っていた布が翻り、男の視界を塞いだ。地面に着いた左手を軸に体を浮かせ、捻るようにして繰り出した右足の一閃。見事、男の首筋に食い込み、そのまま頭を石畳へと叩き付ける。
 ゴッ
 鈍い音。瞬時にして男は沈黙した。フン、と、息をついた次の瞬間、狭い路地に誰かの絶叫が響きわたり、驚いた小鳥たちが一斉に飛び立った。男の頭部から赤黒いものが染みだしては石畳の隙間へと吸い込まれてゆく。
「ひぃぃぃ!」
 叫ぶ間も与えず、もう一人の男の懐へと飛込む。ふわり、と、前髪を揺らせ、男の腰に差してある鞘から剣を抜き取る。左脇腹から右肩へと走る切っ先。その血風の中で、パレアは舞うように男たちを倒していった。
 声を聞きつけて何事かと人々が路地に集まって来た。パレアは我に返り、その場から逃げるように大通りへと出る。
 夕日に赤く染まる大通りには露店の屋台が建ち並び、人々の喧騒で賑わっていた。突然路地から飛び出して来たパレアに街を行き交う人々の視線が集中する。返り血で赤く染まったフェルト地の布、赤黒い血を滴らせる長剣、そして純アジア系の顔立ち。その異様な風体に人々の目が釘付けとなった。そこここで短い悲鳴が上がる。群衆は野次馬となり、辺りは騒然とした雰囲気に包まれる。
 その時、ちょうど通りかかったのだろうか、八人からなる騎馬兵士が夕日を背に現れ、近づいて来た。タシュケントの治安部隊である。
「何ごとだ」
 そして、騒ぎを見て駆けつけた八騎の兵士に取り囲まれてしまった。
「クッ!」
 もはやこれまでか……。彼女はうろたえる。剣を握る手には汗が滲み、ポタリ、と落ちて石畳を濡らす。その 時であった。
「ギャッ!」
 一人の騎馬兵士が叫ぶと同時に、どう、と馬上から落ちたのである。一瞬何が起きたのか解らなかった。だがよく見ると、うつぶせに倒れる兵士の背中には一本の矢が。その矢は見事に心臓を貫き、どす黒い血が砂埃に吸い込まれ固まる。大通りは一瞬静寂に包まれ、やがて大騒ぎとなった。
 ややあって、辺りを囲む群衆の中から馬に乗った一人の男が現れた。男の手には、夕日に照らされオレンジ色に輝く長剣が握られている。ラスクであった。
「貴様、何者だ!」
「逃げた奴隷を連れ戻しに来ただけだ」
「な、何だと!」
 ラスクは群衆の中心にいるパレアに感情の無い視線を向けた。彼女は驚きで目を丸くし、視線をただ投げ返すのみ。群衆は固唾を呑んでその様子を見守っていた。
「でぇぇぇぃっ!」
 戦いは突然始まった。一人の騎馬兵士がラスクに襲いかかったのだ。遠巻きに眺めていた野次馬たちは、叫び声を上げながら蜘蛛の子を散らすようにして逃げ惑う。騎馬兵士が馬ごと倒れ、果実売りの露店屋台を薙ぎ倒す。色とりどりの果実が石畳に広がり、馬蹄に踏まれてその熟れきった果肉を撒き散らす。八人いた騎馬兵士を四人にまで減らしたが、同時にラスク自身も多少の斬り傷を負ってしまった。
 ラスクの動きが一瞬鈍ったその時である。一人の兵士が彼の頭上に剣を降り下ろした。彼は危うくそれを剣で受け止めるが、バランスを崩して落馬してしまう。すかさず路上に投げ出されたラスクに 襲いかかるが、彼はその兵士の操る馬の前足を凪ぎ払った。馬は前のめりに倒れ込み、乗っていた兵士は鞍から放り出された。路上でもがくその兵士にとどめを刺し、そして次なる敵を探したその瞬間、振り向いた彼の目前に斬撃。どうにかそれをかわしたが、彼はまた新たな傷を作ると同時に尻餅をついてしまう。
 気づけば三人の騎馬兵士が彼を取り囲んでいた。
「終わりだな」
 馬上、一人の兵士が息を切らしながらそう言い、剣を降りかざす。
「死ねェ!」
 次の瞬間、断末魔の叫び声が大通りに響き渡った。だがその声はラスクの物ではなかった。目の前に剣を降りかざしていた男が、馬から転げ落ちている。背中には袈裟掛けに斬られた跡が。残りの二人が振り向くと同時に、一筋の閃光が彼らを襲った。
「ラスク!」
 パレアであった。彼女はすでに倒された兵士が乗っていた馬に跨り、その小さな体とは不釣り合いなくらいに長いラスクの剣を、軽々と振り回す。そしてその軽快な身のこなし方は人々の目を釘付けにさせた。それはまるで荒れ狂う一陣の風のようである。通りは絶叫といななきとが混ざり合う修羅場と化した。
「私だって、昔はアルタイの戦士だったんだからね」
 ちょっと誇らしげに彼女が言った。
「バカが、無茶しやがって。俺が来なかったらどうなってたと……」
 やがて、残りの騎馬兵士は全滅した。街路には物言わぬ死体が横たわり、夕日に照らされる石畳はおびただしい血と踏み散らかされた果肉で鈍く光っている。例えようのない匂いが辺りに漂い、恐怖を帯びた群衆のざわめきに包まれる。
 石畳を轟かすような響きが近づいてきた。いよいよ治安部隊の本隊が駆けつけて来るようだ。
「逃げるぞ」
 荒げた息を抑え、ラスクは静かにそう言った。
 腕や足、いたるところから血が滲んでいる。パレアは軽くうなづき、そして彼に従った。群衆は逃げるようにして道を開け、二人もまた街を逃げるように出でいった。
「乗り換え用の馬もいるから、二頭は必要だったんだが」
「なっ……だって、しょうがないじゃない!」
 騎馬兵士から奪った馬に跨り、彼について行くだけで精一杯だった。文句を付けながらも笑い出したラスクにつられ、パレアの緊張も解けていった。しかしそれも束の間、ラスクの横顔を覗き見た時である。
「ラスク……?」
 眉間に皺を寄せ、脂汗の滲むその顔は苦痛に歪んでいる。傷が深かったのか出血がひどく、やや青冷めていた。

 陽も沈み切り、荒野は徐々に闇の支配する世界へと移り変わってゆく。街からはだいぶ離れた。何もない場所であったが、仕方なくこの荒野の真ん中で簡易式のゲルを張り、野営する事にした。
 彼女は火を起こし、そして地面にフェルトを敷くとそこにラスクを寝かせた。荷物にはたいした薬草も入っていなかったが、止血ぐらいならなんとかなりそうである。
「大丈夫?」
「大丈夫なもんか。痛くてたまんねぇよ」
「男なんだから少しぐらい我慢しなさいよ」
「なら、最初から聞くなよ」
 彼女はクスリと笑った。それに釣られてラスクも笑みをこぼす。考えてみればお互い久しぶりの笑顔であった。奴隷に盗賊。笑うことすら忘れてしまっていた日々。
「その……ありがとう、助けてくれて……」
 傷口を僅かな水で洗い、砕いた薬草を塗りながら目を見ずに言った。
「フン、世話の焼ける」
 顔を歪め痛みを堪えながら言う。
「よし……と。食事作るわね」
 ソグティアナの砂漠地帯も日が沈めばだいぶ気温が下がり、過ごしやすくなる。涼しい風が荒野を渡り、パレアの長い三つ編みの髪をなびかせる。
「……すごい汗」
「えっ?」
「汗よ」
 彼の額にはびっしりと珠のような汗が噴き出ていた。
「痛いの?」
「さっきから、そう言ってる」
 焚火がパチパチと乾いた音をたて、弱い炎をゆらめかせている。彼女はラスクの頭を膝に乗せ、丹念にその汗を拭ってやった。そしてそれが終わると今度は食事を口に運んでやる。こうしているととても冷酷で残虐なカルバキア人とは思えない。その表情はまるで子供のようにも見え、パレアはそんな彼を優しく見守っていた。
「わ、悪いな……」
 彼は人の温もりを感じながら、長い間味わっていなかった安堵感に包まれる。
「血も止まったみたいだからもう平気。一晩傷が疼くかも知れないけど、今夜だけの辛抱よ」
「……しばらく……このままでいろ」
 彼女はコクリとうなづいた。
 やがて夜も更け、焚火の炎も消えかかろうとしている。ラスクは彼女の膝の上で、時折汗を拭ってもらう。
「お前を見てるとミランナの事、思い出しちまう……」
「ミランナ? 誰それ」
「俺の妻だ。いい女だった。清純で素直で優しくて、それにおとなしかった」
「何それ。私への当て付け?」
 パレアは少しすねた顔を見せたが、彼はまったく意にも介さず続ける。
「お前の目を見てるとあいつの事思い出してな……」
「死んだ……のね」
「……ああ」
 自分は過去から逃げる事ができないのか……。いっそ慈悲の心を完全に捨て去り、自らを悪と認めてしまう事がてきたなら楽になれたかも知れない。そうラスクは思っていた。だが今の彼にはそんな勇気もなく冷徹にすらなり切れずにいる。そんな自分に苛立ちを覚えていた。
「……ミランナさんの事、心の底から愛してたのね。その首飾り、形見?」
 彼女は以前から気になっていた、その胸元に輝く銀色の首飾りに目をやって聞いた。ラスクがいつも肌身離さず身に付けている星の形の首飾り。
「そうだ」
 短い答え。しばし二人の間に沈黙が訪れ、やがて口を開いたのはパレアであった。
「今でも、ミランナさんの事、愛してるの?」
「……ああ」
 風が強くなってきた。吹き晒しの荒野を渡る風は、遠くから砂を運んで来る。火はもう消えようとしていた。パレアは簡易式のゲルを張り、その中にラスクを運び込んだ。そしてその狭い一人用のゲルの中で、朝が来るのをただじっと待つのであった。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

個人的作品置き場 更新情報

個人的作品置き場のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング