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お父さんへの千羽鶴コミュのともえちゃんのその後

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日本に残された最後の戦闘機、最後の爆弾を抱いて、敵空母へ突入したお父さん。

お父さんの魂は、懐かしい日本へ、家族や友人の元へと馳せ帰り、永遠に祖国を護る英霊と成ったことでしょう。

そして、遺された、あの可愛らしいともえちゃんは、その後どうなったのでしょう・・・?

ときた先生のこの作品をお読みになって、ふと、そう考えてご覧になったのは、きっと、わたしだけではないと思います。

そして、気高く臈長けた(ろうたけた)可憐な大和撫子に、美しい日本婦人に、成長していて欲しいと、心から願ったことでしょう。

でも、心配は要りません。

我々はここに、事実としての、ひとつの解答を見出すことが出来るのです。

それは、学徒出身の特攻隊員、植村眞久海軍大尉と、その愛娘、素子さんの逸話です。


わたしは折に触れ、靖国神社に参拝致します。

そして、遊就館を参観させて戴き、維新から先の大戦に至る日本人の艱難の歴史に親しく触れられることを、心からの喜びとしています。

館内を順路に従って拝観してゆく道すがら、大いなる偉業、戦功の事跡に目を奪われることは一再ならずありますし、忠勇義烈なる将兵の勇戦敢闘に胸を熱くすることも、しばしばです。

しかし、涙が滂沱と湧き起こり、前が曇って見えず、必ず足を停めて、人に気づかれないように顔を拭わねばならないところが、一か所、在るのです。

それは、特攻隊員の遺品、遺影を顕彰している箇所です。

そこには、上述の、植村大尉の遺影が、掲げられています。


    植村 眞久


大正 8年        東京都出身

昭和18年 9月23日 立教大学経済学部商学科を卒業

昭和18年 9月30日 第十三期飛行予備学生、三重航空隊(基礎教程)

昭和19年 1月 7日 高雄航空隊(練習教程)

昭和19年 3月24日 大村航空隊

昭和19年 5月31日 少尉任官、練習航空隊特修科学生

昭和19年 7月25日 佐世保航空隊

昭和19年 8月 1日 比島セブ基地へ進出

昭和19年10月26日 神風特別攻撃隊大和隊、第一隊々長として出撃

            レイテ島東方海面の米機動部隊に特攻、散華(享年25才)


これが、植村大尉の経歴です。

一部の方はお気づきになられたことと存じますが、この植村大尉はわたしの母校立教大学の、先輩です。

同じ立教の学窓から、飛行予備学生として海軍を志願、海軍航空隊の中核を担う学鷲(がくしゅう)として出征なさった大先輩。

遺影の前に参りますと、全身に戦慄が走り、思わずわたしは直立不動の姿勢になります。

そして、胸の中で、こう申し上げるのです。

「植村先輩、自分は昭和61年に文学部日本文学科を卒業致しました、○○○○であります。先輩、また会いに参りました」・・・・・と。

その途端、思わず、嗚咽をこらえねばならない程の熱涙に見舞われ、わたしは茫然とするのです。

植村大尉は比島の決戦に参加、来寇するスプレイグ中将麾下(きか)、米空母機動部隊の大群へ乾坤一擲の痛打を浴びせるべく、特攻隊員として爆戦(爆装零戦)に搭乗、爆戦五機・直掩戦闘機三機から成る大和隊第一隊長として勇躍出撃、見事敵艦隊へ突入、散華されたのでした。

ここに、植村大尉が比島へ赴任する直前、愛娘である三か月の愛児、素子さんへ遺した遺書の、全文を掲げさせて戴きましょう。

                *

 素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入つたこともありました。素子が大きくなつて私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。

 素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。私はお前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合せになつたのをみとどけたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても決して悲しんではなりません。

 お前が大きくなつて、父に会いたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれぱ、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。

 優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。

昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ

追伸、
 素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。

<昭和三十五年八月ゝ十月靖國神社社頭掲示>


                *


嗚呼、慈愛に満ちたこの愛娘への遺言を読み、ひとりとして泣かぬ者があるでしょうか。

殊に、「お前が大きくなつて、父に会いたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれぱ、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ」の件(くだり)。

これは、遺児素子さんにとって、どれほど大きな心の支えとなったでしょう。

大尉の、大勢の後輩の中のひとりに過ぎないこのわたしですら、九段に行けば、強く、優しい先輩が待っていて下さると思うと、感激に胸が熱くなるのです。

そして、国難に殉じた名誉ある特攻隊員の後輩であることの誇りに、打ち震えるのです。

このお話には、続きがあるのです。

素子さんはなんと、大尉の後を慕い、大尉と同じ立教大学へと進学、大尉の英霊が鎮まり給う靖国神社のみ社にて、文金高島田の艶やかな振り袖姿をもって、「桜変奏曲」の日舞を奉納なさったのでした。

その後、素子さんはこう仰ったそうです。

「お父様との約束を果たせたような気持ちで嬉しい」・・・と。

皆さん、如何でしょう。

ここに、ときた先生の描かれた可愛らしいともえちゃんの、美しく成長した、後の姿を量り識ることが、出来はしないでしょうか。

コメント(4)

長い年月を経て間違った過去を植えつけられたりするものww

こんなに素直に父を思う娘さんに成長したのは
やはり立派なお父様やお母様、まわりの方々の接し方が良かったのでしょう。
大尉も靖国神社で愛娘の成長と日舞を見られて満足されたのでは。。。。

名前にたくしたとおり素直な思いやりのある娘に育った素子さんに会えて^^
>あっぷさん

コメントありがとうございます。

仰る通り、大尉は、美しく成長された愛娘が靖国の社殿を訪れ、しかも日本婦人の正装である高島田に結い上げた髪で、舞いを披露なさったことを、必ず、心からお喜びであったと思います。

また、大尉は、そして英霊の全ての御霊は、我々一人一人が、毅然たる日本人であることを、同じくきっと喜んで下さるに相違ありません。
涙と鼻水が止まらないウニ泣き顔
こんなコメントしか出来なくてゴメンなさい。
>ケンケン先輩

ケンケン先輩も立大OBだから、植村大尉のエピソードには、感慨もひとしおでしょうねえ。
大学のチャペルの壁に、青錆びた銅板が嵌め込んであったのを覚えてらっしゃいます?
それには、「名誉ノ戦死者」となっておりまして、立大から学徒で出征して戦死した全てのOBの名前が刻印されているんです。
わたしはひとりでよくふらりと見に行ってましたが、粛然たる気持ちになります。
でも、ちゃんと学校が祀って下さるのは、なんとも有難いことだと感慨したものです。

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