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THE HARD-BOILED DIARIESコミュの「淑女」THE HARD-BOILED DIARIES

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「あなたは釣った魚に餌をやらないタイプね」

いつものバーで彼女が言った。カウンターにはいつものバーボンソーダがある。
おれはシシャモの燻製をタリスカーで流し込みながら言った。

「キャッチ・アンド・イートが身上なんでね」

「お腹に収まった魚だって、お腹を減らすのよ」

「この胃の痛みはシシャモのせいか」

大袈裟に腹を撫でてみたが、彼女は、プレゼントの話よ、
と軽口の応酬を終わらせた。
文字通り、手持ち無沙汰になった手のやり場に困ってしまった。

「おねだりってわけじゃないだろう?」

「そうね、別にねだっているわけじゃないわ」

と彼女は言った。まだ泡の立つバーボンソーダで喉を潤しながら続ける。

「私だってそれなりにキャリアを積んでるもの。
大抵のものは自分で買えるし、
別に男に貢いでもらおうなんて思わないわ」

彼女の収入は、おれをはるかに上回っている。
それに男に何かをねだる彼女なんて、彼女らしくない。
しかし、彼女は、でもね、と言葉を継いだ。

「女同士って、お互いを比較しながら毎日を過ごしているの。
誰が、どんな男と付き合って、どこに行った、何をした、何をもらった…」

「それで何が量れる?」

「自分の価値よ」

言いながら彼女は、ううん、と首を振る。
若さとか容姿の価値じゃないの、と続ける。

「男が女に何かプレゼントをくれたとするでしょう?
それが花でも、指輪でも、ハンカチでも、なんでもいいんだけど、
大事なのは、そのとき、彼は彼女のことを想っていたっていうこと。
彼女の欲しいものは何か、彼女の好みは何か、彼女に似合うものは何か、
何を贈ったら喜んでくれるか。
そして彼は、それを探すのよ。カタログを捲り、店に足を運び、
店員に尋ねながら、懸命に探すの」

彼女は、グラスを弄びながら言う。

「たぶん、女が欲しいのはそれなのよ。
男が自分のためにどれくらいの時間を使ったか。
どれくらい深く自分を想ってくれたか。
女はそれで自分の価値を量るの…」

でも、と彼女は言い淀んだ。おれはその言葉を受け取る。

「でも――、おれは君に何も贈らない。だから、君のことを想っていない。
そう思うのか?」

そんなふうに思いたくないけど、と彼女は俯く。
やれやれ。
レポートラインを飛び越えてまで上層部に噛み付く彼女と、
これが本当に同じ人間なのかと疑いたくなる。
しかし、これが彼女の可愛いところと言えなくもないのだが。

おれは、ずいぶん昔のことになるが、と前置きして言う。

「初めてバーに連れて来た時、君はこう言った。
――『私、茶色のお酒は飲めないんです』」

彼女は話題のズレに戸惑いながらも、懐かしそうに笑った。

「そうね。知ってるカクテルはグラスホッパーだけだったし。
初めてのバーでカチンコチンに緊張してたのを憶えてる」

「それから、二人でいろんなバーを巡り、いろんな酒を飲んだ」

「今の私なら、ウイスキーの百科事典だって上梓できるでしょうね」

「君の好きなウイスキーは、オールドクロウ、メーカーズマークなどのバーボンウイスキー。
カクテルなら、ソルティドッグ、ラスティーネイル、カミカゼ、チャーリー・チャップリン、ウオッカ・マティーニ、ディタフェアリー、ハーベイ・ウォールバンガー」

「ずいぶんなお酒飲みに育ったわね」

彼女は自嘲気味に笑ったが、おれの真意を測りあぐねているようだ。無理もない。

「おれはその間、君のことを考えていなかったと思うのか? 
ただずっと酒のことばかり考えていたと?
そんなことはない。
君に相応しいバーはどこか、カクテルは何か。
おれはそればかりを考えていたよ」

おれは自分の想いを、真正面からはっきりと告げた。
彼女は黙って頷く。

「形あるモノだけが、想いを量る対象じゃないはずだ。
今夜、一流と言っていいこのバーで、君は一人前のレディとして、
気後れすることなく酒を楽しんでいる。
恩に着せるわけじゃないが、それはおれの君を想った気持ちの深さと
時間の長さによる結果だと思ってる」

先に挙げた酒には、すべて思い出がある。
どれもこれもかけがいのない思い出だ。
モノなんかよりも遥かに大切なものを、おれたちは持っている。
それは、誰かの持ってる何かと、到底比べられるものではないと
気づいてほしかった。

彼女は俯いていた頬を上げ、バーボンソーダのグラスをゆっくりと押しやると、
あるカクテルをオーダーした。
バーテンダーが作業に取り掛かる。
ドライジン、ストロベリーリキュール、2種類のジュースと卵白がシェイクされる。

彼女はバーテンダーの所作を身ながら、艶然と微笑んで言った。

「私がイライザで、あなたがヒギンズ教授ってわけ?
そして、居酒屋しか知らなかった下町娘が、
あなたのおかげでバーという社交界にデヴューできたと?」

彼女の前に、フルートグラスに注がれた淡い色のカクテルが差し出された。
名は、『マイ・フェア・レディ』。
オードリー・ヘップバーンが主演した名画と同名のカクテルだ。

イライザは、映画の中でヘップバーンが演じた下町の花売り娘の名であり、
その花売り娘を淑女に育てあげたのがヒギンズ教授だ。
ヒギンズはプレイボーイで浮名を流したレックス・ハリソンが演じた。
彼女のオーダーは、おれの言葉への回答だった。
すれ違うイライザとヒギンズの恋は、最後には実るのだから。

彼女の回答におれは安堵した。
真っ正直に自分の気持ちを告げたのが気恥ずかしくもあったおれは、
彼女の問いに軽口で返した。

「レックス・ハリソンになぞらえてくれたのはうれしいが、
おれは彼ほど女たらしじゃないよ。女にだらしないのは認めるけどね」

彼女は『マイ・フェア・レディ』に口をつけ、微笑んだ。
軽口は聞き流されてしまったが、おれの言葉とカクテルには満足してくれたようだ。
おれはこの後の展開に備え、勘定にしようとした。夜はまだ早い。
ホテルに空室はあるはずだ。

「そろそろ出ようか。悪いが、」

割り勘で、と言いかけたところで、彼女は「ご馳走様でした、教授」と言った。

そして、ストゥールを降りながら、小声で付け加えた。

「こういうところでレディに財布を開けさせるなんて、紳士として恥ずかしくなくって?」

おれの、彼女への想いの深さやその時間の長さは確実に彼女に伝わったと思う。
しかし、おれの懐具合まで、見透かされたのは失敗だった。

颯爽とドアに向かうヒールの音を聞きながら、おれは泣く泣くカードを取り出した。
大したレディに育てちまった。が、なぜがそれが誇らしくもあった。

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