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数学的帰納法は帰納法じゃないコミュの「1」という概念

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数字の「1」というのは考えれば考えるほど、難しい概念だと思います。

満月   りんご   山羊座

上の絵文字に共通した「1」という概念を抽出したのは人間が共同社会を形成し、分配する必要性に迫られたからでしょうね。

では「2」は「3」は・・・もっともっと大きな数の概念を定義するときに困ることが起こります。
人間の身近にあるものは有限だからです。
極端に言いますと宇宙の素粒子の総数以上の数は定義できなくなります。具体的な根拠が無くなるからです。

そこで「ペアノの公理」の登場となります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%81%AE%E5%85%AC%E7%90%86

コメント(23)

寄り道です。
おもしろそうなコミュニティ、私も遅ればせながら参加させていただきます。

数学についてのよろず投稿の場、と考えてよいかと思いますが、私も「数学」についての感想を一言。

数学とは人間の頭の中の産物で実体は何もない、とどこかで聞いたような聞かないようなーーー、そんな気がします。まず、幾何学からして実体は何もないのでは?

そもそも「直線」、「円」なんてこの世の中に存在するのでしょうか?

「直線」の厳密な定義は分かりませんが少なくもこれが「直線」と具体的に示すことは出来ません。定規を使って鉛筆で”直線”を引いても、虫眼鏡でみれば幅は場所によりまちまちでギザギザもはなはだしい。

要は「直線」とは、「円」とは、というものを頭の中だけで定義して、幾何学というものを組み立てている。

はたしてこの宇宙のどこかに人間よりもっと高級な(?)生き物がいるとして、その生き物にとっても「数学」というものが存在するのかと考えることがあります。

その生き物にとって、「直線」も「円」も存在せず、全く異なる学問(?)、理論(?)が存在するかもしれない。あるいはーーー。

何を書いても良いと思い、ふと思ったことを書きました。
数学の世界と技術の世界。

先日の朝日新聞を見ていると、銀河系のあらゆる星の位置を計算し3次元マップを作るとのこと。

大変な作業で時間もかかるそうですが、数学的には三角測量の原理だけとのことです。

十万分の一度のオーダーの角度を正確に読み取る技術、大気による光の屈折の計算が大変なようです。

数学的にはあまりにも基礎的ですが、それを使うための技術力の困難さとのギャップに、驚きを感じました。
寄り道さん、コメント有難うございます<(_ _)>

実体がないというご指摘はその通りだと思います。
現実世界のほんの一部を抽象化した概念を元にして、矛盾が起こらないように再構成したものですから・・・

「直線」は「数直線」として定義し直しています。つまり、実数全体を構成し、その実数全体に大小関係(順序という概念です。実数全体の場合は全順序)を導入し、遠近関係(距離をその差の絶対値として定義)を更に加えたものです。

それらは有理数全体から拡張された大小と遠近関係です。

この「数直線」と古来からイメージされてきた「直線」とが同じものかどうか・・・同じものとする立場が今の現代数学の主流です。

円は数平面上である点からの距離が一定の点集合と定義します。これが概ねイメージされてきた円と一致していると考えます。

「直線」も実数以外にまだ「数」があるとする立場が超準解析だと思います。
ライプニッツが提唱していた無限小の概念を取り入れたものです。
でもこれは今は非主流です。

宇宙人が違う数学を構成しているかどうかはその宇宙人が住んでいる空間が歪んでいるかどうかでしょうね。
幸い、我々は歪みの少ない空間に住んでいますのでユークリッド幾何学を論じ、直線とか円とか平行線公理を得ています。
寄り道さん、銀河系マップのお話ですが・・・(^^;

地球も動き、太陽系も動いている状態で、しかも大気に影響を受ける観測で三角測量でマップを作成するというのは大変なことだと思います。

観測精度の問題もありますが、空間自体も歪んでいるでしょうし・・・

昔は変光星を目安にして星間距離を推定していたようですが、随分と世の中は変ったんですねぇ・・・(^^;

数学者の多くは技術的な問題にはあまり関心がないのが普通です。
解釈は勝手にやってくれって感じですね(^^;☆\(▼▼#)
でも最近は物理の影響も受け、物理的な不変量が数学的な不変量の動機になったりしています。
高校生までは数学が好きでしたが、大学に入って高木貞二(だっけ)先生の「解析概論」が教科書に出てきて、数学が好きでは無くなりました。嫌いになった訳ではありませんが、数学が非常に遠くにあるものと感じられたと言った感じでした。

高校の時、小さな世界の物理=材料科学=化学に興味を持っていたので、大学では化学を専攻したのですが、量子力学や量子化学はまだ身近に感じられたのです。物理や化学を理解するための道具としての数学、私の中では数学とはそんな道具でなければならなかったわけです。

しかし、ε-δや集合論などは身近のものとの何ら関連性が感じられず、へりくつをこねくり回しているだけで、頭に入ってこようとしないのです。

面白いのは、教養の時に群論を習って、さっぱり分からず理解する意欲も無かったにもかかわらず、量子化学を習っている時に群論を使うと便利であることが分かると、とたんに群論に対する理解が深まった経験があります。

私は、実際そこにあるものを弄るのが性に合っているようで、理解も直感に頼りがち。自分がちっちゃくなって、分子や原子の気持ちになって考えると、そこで起こりうる反応が想像されるのでした。そんな世界と数学の世界は、あまりにもかけ離れています。

純粋に理論としてだけで数学を理解できるほどの頭の良さが無いだけなのだろうと思います。

何にせよ、何らかのイメージ(制止画と言うより動画)が想像できないと理解が出来ないのです。

*****

「1」がなにやら難しいと言うのは、よく分かりませんです。
「1」があれば、「2」も「3」も等価であり、「0」がなにやら特別なように感じられるんです。境界にあるものに特別な感情を抱くのはやはり工学の感覚なのでしょうね。

私のようなタイプが標準的だとは思いませんが、最近の理系離れと言うのは、ある意味理科と身近のものとのつながり、理科が分かれば、こんなことが出来る、とかこんなスゴイことが出来る、とかそのような教え方が出来ていないのだろうと、感じています。

大学で出会ったε-δ、大小関係のなにやら分からない理屈は、私には無味乾燥でした。今の中高生には、物理や化学が同様に無味乾燥であると感じているから、理系離れするのではないか?そんなことを思います。

自分で何かを作って、それが完成し当初の目論見通りに機能することの喜び、これが理科の神髄ではないかと思います。

「金儲けして何が悪い?」と言った人に実刑判決が出されましたが、お金を右から左に動かすことと、何かを作り出すことの違い、その感動を若い世代にうまく伝えることに、最近の教育は失敗しているのではないでしょうか?

それが具体的に何かの役に立つことが分かれば、私は今からでも大学時代に敬遠していた数学のある分野も、非常に興味を持って勉強したくなると思います。
YASUさん、こんにちは。
高木貞治さんですね。日本の最初の世界的な数学者です。
この先生の著書はどれも名著で現在でも復刻され、出版されているものもあります。
「解析概論」も名著の誉れが高い本なのですが、抽象的な議論が多いと思われたのも尤もだと思います。
実数論から始まっていたと思います。実は私はきちんと読んでいません<(_ _)>

「εーδ論法」はそれまでの曖昧な概念であった「極限」というものを厳密に定義したものです。
「近づく」というのは曖昧な概念ですよね(^^;
「極限値」の定性的な定義は「限りなく近づいた時の値」というようなものですね。高校でもそのような説明だったと思います。
しかし・・・数学には「時間」が無いのです。それでも多くの専門書には「どんどん近づく」とか「並べた」という表現が使用されていますが、これは感覚的な表現しか過ぎません。

「εーδ論法」は定量的な定義であり、そこには「時間」がありません。

>何にせよ、何らかのイメージ(制止画と言うより動画)が想
>像できないと理解が出来ないのです。

このお言葉が高校までの数学がお好きだったこと、大学での数学がお嫌いになったことをよく表していると思います。

「数学には時間がない」

ということなんです(笑)

「1」については別コメントに致します<(_ _)>
「1」について・・・

数の概念がない段階で、「1」という概念は自然界では何に対応するのでしょう?
個数の概念がない場合、頼りになるのは我々の指になり、指の本数で個数を表していた時代が長かったと思います。
指で間に合わなくなった個数は「たくさん」としか表現出来ないでしょう。
ちょっと横道に逸れますが、「無限」に対して皆同じように思うのも古代の「たくさん」という表現しか出来ない状況に似ていると思います。
古代の人が20個の「たくさん」と30個の「たくさん」が「たくさん」なので同じだと思うことを考えますと、「無限」にも色々あるかも知れないということが理解できるでしょう。
「無限」が色々あるということを本当に分かろうとしますと集合論を勉強するしかないのですが、これは数字の位取り法が大きな数を表すために必要なのと同じでしょうね。

「1」の話に戻ります。
指で数学の「1」の定義をすることは出来ません。
どう定義すれば良いか・・・難しいでしょう。

それに・・・もし「1」の定義が可能だったとしても・・・
「1」を定義し、「2」を定義する。「2」が定義されたら「3」を定義する・・・

これはいつまで経っても終わりません。そこで現代数学では一挙に「自然数全体」を「自然数」よりも先に定義します。
このために「1」の意味を放棄します。

無味乾燥のような感じを受けられるかもしれませんが、形式的な定義をすることによって煩雑な「意味」を避けています。

「1」という概念は数学的には難しいから形式的に定義することになったということです。
YASUさん、理系離れの問題ですが・・・

文系官僚、弁護士等のほうが出世や収入が多いという現状もあるでしょうね。
高度な機械が身近にあり、素朴な実験に興味を示さなくなったこともあるかと思います。

数学屋は原則的に「応用」には興味を示さないのが悪癖でしょうね。
もっと面白く教えようと思わない傾向があるのでしょうね。
専門書も「定義」→「定理」→「証明」の繰り返し・・・
証明が面倒なのを練習問題にしたり・・・

最近では多くの大学で「εーδ論法」が理解されないので教えていないようです。ちょっと寂しい・・・・(^^;
かいさん#
岩波新書の「数学入門(上)」(遠山啓(ひらく)著)

なんかが良いと思います。同じく岩波新書の「数の体系」(弥永昌吉著)も良いでしょう。

数学では時間を考えない、とても納得しました。
ベアノの公理をちらっと本屋やWebで眺めてみましたが、なんだかよく分からない。議論のどこが始まりでどこが終わりなのかも分からない。

なんとなく雰囲気として感じたのは、自然数全体を定義するとき、同時に規定される部分集合(無限個ある)に本質的な意味を与えていて、1、2、3…は単なる記号、ラベル或いは標識のようなもの。

あってます?
YASUさん#
基本的には「自然数全体」というのは唯一の存在ではなく、ペアノの公理を満足する集合なら何でも良いということです。
従って、「1」も一つではないということです。数学ではそのようないくらでもある「自然数全体」の一つを固定して実数や複素数まで構成していきます。
ですから、「1」に「意味」はなく、利用するときに「意味」を与えているに過ぎないとも言えます。
ミズさん、初めまして<(_ _)>
コメント、有難うございます。

哲学は難しいですね(o^^o)
「時間がない」というのは数学は静止状態の学問だと思うからです。物理に数学を応用するときには実数をパラメータとして使用し、「時間」として解釈していると思います。
「εーδ論法」は無限列を考えるというよりは近傍系を考えていることだと思います。
勿論、イメージは大切ですが、数学的に定義するときには動的なイメージは避けています。
「1」については仰る通りだと思いますが、大変難しくなります。数学では形式的な定義で十分だと思っています。

「1」というのは代数学の一分野である環論では「素数」ではなくなります。
「イデアル」という「数」の概念を拡張したものでは通常の素数(たとえば2や3)は「素イデアル」に拡張されますが、「1」は素イデアルにはなりません。
また自然数が素数の積に一意的に分解されるという基本的な定理がありますが、「1」を素数としますと「一意的」ではなくなってしまいます。「一意的」を残そうとしますと「素数として1は除く」という断りが必要になります。
それで「1は素数ではない」としたほうが「便利」だと言っているのでしょう(o^^o)
ユックさん

私のイメージがほぼ間違いないらしいことが分かりました。自然数からペアノの公理を満たす集合への写像は全射であり、全単射ではないこと、1は使う時に初めて意味を持つと言う点で単なるラベルであると言う点。

さらに全射であることから、実数にも適用できることも直感的に理解できます。
ところで複素数に対しては、実部と虚部それぞれに部分集合を互いに独立に規定すれば、それで終わりと考えて良いのでしょうか?

つまり、複素数は2つの数直線で規定でき、定義の段階ではそれぞれの数直線の要素を具体的に結び付けなくて良い、といったイメージです。
ミズさん

初めまして

自然数集合は、白地図のようなもので、車を運転する時初めて自分の居る地点を地図にブロットします。そして移動するたびにブロットする場合、新しい白地図にブロットする。つまり、どの白地図にもブロットは1個しかない。物理的な移動を考える時は、プロット1個の白地図を全部重ねて透かして見ることで、初めて時間変化を見ることができる。

私は以上のような理解をしました。

ユックさん、如何でしょうか?
ミズさん#
哲学は本当に難しいですね。プラトンのお話も難しい・・(^^;

コーシー列というのは距離空間だけで考えられますが、距離空間でなくてもハウスドルフ空間であれば、コーシー・フィルターという近傍系を拡張したものを考え、有理数から実数を構成したように完備された空間を構成できます。
こういう意味でも連続という概念は近傍系で定義されているとも言えるでしょう。
YASUさん#
自然数がまだ存在してないという状態でのペアノの公理を満たす集合を「自然数全体」と定義します。
このような集合なら何でも良いということです。

複素数のことですが・・・
単に平面の点と看做すのでは「数」とは言えないのではないかと思います。
複素数の特徴は仰るように実部と虚部に分かれ、一意的に和の形で表現できますが、それだけでは二次元ベクトル空間となってしまいます。
もう一つの特徴は加減乗除が可能であることです。
絶対値の自乗が共役な数の積になるのも掛け算が出来るメリットです。

YASUさん#
自然数のイメージですが・・・

もう一つ分かりませんm(_ _;)m

言葉尻を掴まえて申し訳ありませんが、数学は「状態の学問」ですから「プロットする」というよりは「プロットしている」というほうが良いと思います。

動詞は「be動詞」しか使えないと思います(^^;
be動詞の説明はやはり数学は静的な状態を議論していると言うことに繋がるのですね。

感覚的には、まだ理解が及ばないようです。
もう少し、咀嚼してみますね。

またたとえ話は、適当では無いのかも知れないと思い始めました。勝手な発想を一旦封印して、もっと謙虚に論理を追ってゆく作業が必要なようです。

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