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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの第二バチカン公会議の肝とは何か

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意外なことにカトリックの現役信徒さんの中には第二バチカン公会議を
よく思われてない方々もおられるようです。

例えばラテン語ミサが懐かしいというのもその類かもしれません。

そこで第二バチカン公会議の肝とは何であったか、みなさんのお考えもお尋ねしたいと
思います。

参考に
http://www.pauline.or.jp/concilium_vaticanum_secundum/cv2_01.php
女子パウロ会Kのページ

「それまでは「ヒラ信徒」という呼び方さえあったように、信徒の役目は、ただ 「従い、祈り、献金する」(Obey, Pray, Pay)と思いこまされてきた人たちが、自分たちが教会なのだという悟りを得て、受け身の生き方から「主体」としてイエスに従う者の共同体つくりに参加するようになりました。」

コメント(566)

カトリックの人にわかりやすいのは、
市民法と教会法の関係ね。
二重規範なわけ。
戦後民主主義斜の川島武宜は、「成文法」と「生ける法」と言ってますな。

これは、別にカトリックが特別どうとかではなくて、
規範の一元化をしてしまったプロテスタントが特別なだけ。
で、たまたまプロテスタントが近代世界システムのバックボーンを提供してしまった。

で、日本はまだ、近代世界システムの中核なわけね。
だからある意味面白い。
実は日本人は世界でも共同体意識、
心理学でいう内集団バイアスが特別に強い民族なんですな。

心理学の実験では、ジャンケンで分かれた程度のグループ分けでさえ、
ただちに集団内と集団外の人間の嗜好の評価に内集団バイアスが強まったそうな。

にも拘らず、日本は未だに近代国家に留まってると称してるわけで、
これはなかなか面白い。
>>[525]
なるほど。

では、
ある見解が、大勢のヒトにおいて、その証言や著書において共通する場合、

「皆がああいっている訳だし」

とそれに従順に追従する態度も、
近代的自我とは程遠い訳ですな。

おおっと、日本国が本当に近代国家かはまた別。

一応、近代国家という事になっている、つー話。
>>[529]

そう。
端的に言えば、本来、使徒の証言だけでイエスを神と信じるキリスト教徒は、
近代性からほど遠いはずなわけ。

それが、あなたがたのところのトマス・アクィナスが、理性で到達出来る自然法とか言い出して、
後にプロテスタントのジョン・ロックが展開した。

パラドックスの歴史なわけね。
ロックの自然法思想が、
国家に奪われない自然権の一つとして提示してたのが所有権。

ホッブズは、生存権が奪われそうになれば、
社会契約は破棄されたと考え、抵抗権を行使すべきとしたが、
ロックは、所有権が国家に侵されれば、と主張したわけね。

所有権の絶対、つーのは、神の主権の人間バージョンで、
これがないと資本主義にならない。

つまり、自然法思想の広がりが、資本主義を生み、近代国民国家と、自由民主主義を形成させたわけ。
>>[531]
まあ、
すべからく皆が使徒の証言それ単体だけで信仰に至ったり、かつ当時に使徒の証言が社会通念からしても多数派に属した見解であるのでしたら、まあパラドックスの歴史云々ということになるでしょーな。

で、
実際には?
>>[533]

うん。
で、実際のキリスト教の歴史は、
理神論と有神論に分裂した。

後者は聖書や伝承に基づく伝統的なキリスト教で、
ここに固執した側は非近代に留まった。
あなたがたのところが、フランス革命の際に、
反革命十字軍を考えたように、
明確に反近代になっていった。

プロテスタントでもこちら側は、19世紀になってもなお、牧師が、
「彗星は、愚かな人間を戒めるために神が遣わしたものだ」と説教してた例もあったそうな。

で、理神論。
こちらは、イエスの物語は寓話として、
優れた設計技師としての神を信じるクリスチャン。
近世の王侯貴族などは大抵理神論に行っていて、
名誉革命のあとに英王になった人は、
伝統的な「触手儀礼」(神から王権を与えられた王に触れられると、病が治るとされた儀礼)を馬鹿馬鹿しいとやめたがっていたが、
庶民が信じるから継続した。
理神論は、自然哲学、自然科学を生んで、
神がつくった素晴らしい世界を知るために、つー動機まで与えた。
後に不可知論者になるダーウィンも、当初は自分の著作をキリスト教界が批判するのが理解できなかったらしい。

彼の言い分としては、そういう理性的な目で自然現象を捉える事こそキリスト教界がしてきたことだ、つー話らしい。
まあ、やっぱりダーウィンは不可知論者になるのだが。

で、気がつけば。

科学による自然法則の解明に、
神という仮説が不要な事が分かった。
すなわち、近代的な意味での無神論も、キリスト教の産物なんですな。
>>[535]
ちなみに、
理神論とやらの前には、自然科学など、一切無かった訳で?

なお、
有神論である場合、当人は即時に貴方が定義した近代自我を持ち得ないことになるの?
>>[536]

古代ギリシャの科学は自然科学と言える…つーかね、自然哲学というのはアリストテレス哲学の直系なんですよ。
(自然哲学者としてのアリストテレスの主張が継承されていたという意味ではない)
本質や実体ではなくて現象を捉えるという手法という意味でね。

>有神論

これは当時の文脈上の言葉だから、多分あなたの反発したい気持ちも分からないではないが、
歴史的経緯で、理神論側に行った人々が近代というのをつくりあげてしまっただけで、
当時の概念での有神論者が現代で近代的自我を必ず持たないかと言えば何とも言いようが無い。

日本人クリスチャンはキリスト教の歴史を知らないから仕方ないが、
ジョン・ロックの「キリスト教の合理性」や、ジョン・トーランドの「少しも神秘的ではないキリスト教」、
カントの「純然たる理性の限界内でにおける宗教」、ティンダルの「天地創造とおなじく古いキリスト教」という一連の著作が当時はあって、
寓話や奇跡ではなくて、理性的な倫理観や道徳観の提供源と、秩序を担保する宇宙の設計技師としての神、つーのが流行していたわけね。
トマス・ウールストンは「宗教への回帰」を主張したが、彼は「奇跡論」で、奇跡を詐欺師同然の聖職者が行ったペテンと言っている。

この理性的キリスト教の極致が、フランス革命時の理性崇拝、「最高存在の祭典」というヤツになるが、それはさておき、
当時は「理性神学」「自然神学」みたいな概念が強かった。
これを否定する側は、大抵根拠を伝承と内的感情と教会という組織に置いたので、定義上、やはり近代的自我からは遠いでしょうな。
そういう<現象>を捉えるアリストテレス主義を導入したのが、まあ、あなたがたのトマス・アクィナスなわけで、
何度も書くが、西洋の諸文明というのは、「カトリックも含めて」キリスト教の産物なんですな。

ただ、途中でカトリシズムが反近代へ行ってしまっただけで。
ヴォルテールはフランスの理神論者だが、彼はニュートン流の、そしてトマスが先鞭をつけた、
目的論的神の存在証明を好んだ。
事実上無神論者として扱われるヒュームなんかは、「自然宗教についての対話」のなかで、自分の時代の中で一番てごわい証明と紹介しているやつね。

まあ、今で言えばインテリジェントデザインと同じ。

この目的論的神の存在証明は、ペイリーの「キリスト教の証拠」の中で提示され、ケンブリッジ大の学生だったチャールズ・ダーウィンも読んだわけですな。
この目的論的存在証明というのは、アリストテレスが考え、トマス・アクィナスが「神学大全」で提示した、
第一原因のことね。

ヴォルテールは
「あらゆる迷信を憎悪しつづけたまえ。
だが、自然全体にあらわれている意向そのものを、従って、この意向のあらわし手、つまり、
あらゆるものの始原的かつ究極的な原因を…私とともに崇拝したまえ」
とか言ってる。
当時は第一原因の概念すら十分科学的に見えたわけね。
>>[537]
反発というか、
貴方がいう「近代自我」なるものの定義がよく解らなくてね。


設計技師としての神っつー、貴方がいう「当時の流行」に乗っかったものが理神論だとすると、貴方が当初に定義した「近代自我」なる概念に、それこそ遠い気がせんでもないし、

あと、

「近代」なる「時代」を作った?とのが理神論に与したヒトだと言う貴方の理屈も、よく解らない。

何をもって「◯◯」時代っていう基準次第で、誰が「時代」を作ったかなど、何とでも言えるような気もしてね。

まして、
皆がこうとらえているから、西暦◯◯年以降は「◯◯」なる時代なのだと言われても、そういうスタンスも、当初にいう近代自我に程遠い気が。

むしろ、
まずもって「近代自我」の定義の、突き詰めた形が少し違うのでは?言わんとすることは解らなくもないが、言葉的に少し、ね。

あくまで、
私の動物的勘ではあるが(笑)
>>[541]

なかなか難しい注文をしますな。
で、ペテンをよくぞ見破ったw

平たく言えば、宗教改革で宗教的支配が強まった十六世紀から十七世紀前半、
理神論の発生と啓蒙思想の時代である十七世紀後半から十八世紀、
古典的近代の時代である十九世紀、
通常、「現代」と言われる二十世紀以降と、世紀ごとに考えるぐらいですな。

そしてね、「近代的自我」というのは日本の主題であって、西洋のそれではないんですw
西洋の文脈だと、経験的自我、実態的自我、先験的自我、絶対的自我、純粋自我という形で議論が継承されているだけで、「近代的自我」と殊更称せられるような概念はない。

何せ、西洋での「個人」概念の発祥は、カトリック教会が田舎にまで浸透した十二世紀だとされていて、
いわゆる戦後民主主義的な意味での恋愛の概念もこの時代に生まれた、つーのが西洋史での話し。

あくまでも近代的自我というのは、西洋のクリスチャンの、神との垂直関係のトレースのことで、
それを主題に明治と戦後民主主義が日本人論を形成していただけなんですなw
何たって、ヒュームなんか、「自我というのは知覚の論理的構成に過ぎない」ぐらいな事を言っているんだから、まあ、よーするに、
ウェーバー流の「近代人」をモデルとした状態を「近代的自我を持っている人間」と考えていただけなんですな、
明治と、そして特に戦後民主主義のイデオローグたちはw
ちなみに、デカルトの「われ思う故にわれあり」なんてのは、デカルトのオリジナルでも何でもなくて、
既にアウグスティヌスが、「全ては疑わしいが、疑っている自分は確かだ」と言っているw

西洋が千年かけてつくりあげた紆余曲折の西洋人の合理性を、
高々明治維新から数年と、敗戦から十数年ぐらいで手に入れてやろうと考えた、
日本の近代主義者たちの夢が「近代的自我」ですw
えっ?
ウェーバー流の「近代人」とは具体的に誰かって?

そりゃ、ベンジャミン・フランクリンと、そして…


「ロビンソン・クルーソー」です!!!!!
アーメンです!!!!



…

石を投げないで下さい。
フィクションじゃん、とかいう的確な突っ込みもやめてください(泣)
あくまでもモデルです。
(注…一応、ロビンソン・クルーソーには実在のモデルがいる。アレキサンダー・セルカークという人らしい)
>>[542]
あー。

固有名詞には、滅法ヨワいクサビさんではあるが、

〜[545]に至る書き込み

ノリとして、何となくではあるが楽しめました(笑)
小難しい理論はともかく、誰でも、理論を超えた言語化する事が難しい、神との個人的な交わりがあって、初めて「神を信じる」ものだとばかり思っていました。
むしろ、
ヤセ我慢・格好つけでも何でも、常に御婦人の前では常に素敵な紳士たらんとする矜持を貫くのがね、まあ男子たる所以といいますか。

理屈を駆使しまくっては、貴女の麗しさを誉め称える言葉を、手を変え品を変え角度を変え、そりゃもう紡ぎまくり、

その内のひとつでも貴女のココロにカスって微笑んで下されば、それにて不詳・私これに勝る悦びなしってやつよ。
驚いたことに現役のカトリック信徒さんの第二バチカン会議に対する評価として
「「天主への讃美中心」教会から、「わたしのための」教会へ すりかわっていた」
というような感想があった。

かなり嫌っている人たちがおられるようだ
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