ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの京アニ放火事件をキリスト教的観点から考える

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
あの凄惨な事件から約一ヶ月。
神よ、あなたは何故またしても罪なき人々の命を奪われたもうたのか。
そしてどれだけ多くのものを我々から奪えば満足なされるのですか。

Pray for Kyoani.

コメント(174)

ノンクリであっても死ぬ寸前に「神様!」と思わず叫んだ人だっているでしょう。
>>[137]
ヌーボさん、安心して良いと思いますが、カインの殺人、ソドムとゴモラの離反のあと、人類を滅ぼすために洪水を起こした神は以下のように誓いました。
創世記 口語訳1955
8:20 ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。
8:21 主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。
8:22 地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう」。
これは御子イエス・キリストの犠牲により、より確かなものとされ、誰でも滅ぼされません。

地獄はノアとの契約せいか、世に悪がはびこり過ぎ、後期ユダヤ教が西アジア、ヘレニズム世界から取り入れた概念。そもそもユダヤ・キリスト教には地獄とか悪魔の概念がなかった。
人がなぜ滅びるのか。罪があるからである。最初の人類の犯した罪によって世界は堕落し、人は罪の刑罰として死ななければならなくなった。罪と堕落により、世界は即座に崩壊して当然の状態にある。それなら、なぜ世界はまだ崩壊していないのか。この世界を崩壊しないようにしておられるのは神の恵みである。神の恵みなしにこの世界は、一瞬、一秒たりとも維持されない。

神の恵みには二種類ある。それは、一般恩寵と特別恩寵である。一般恩寵はすべての人に与えられており、堕落を抑える働きをもっている。しかし、一般恩寵は人を救いに導かない非救済的な恩寵である。一般恩寵しか受けていない人間にも恵みが与えられてるが、彼らは神の恵みに感謝して救われる事が出来ない。

救いは神の主権である。神ご自身が人類を二種類に分割なさっている。恵みを与えられるのは神である。二種類の人間とは何か。神の恵みのうち、一般恩寵しか受けず滅びる人々と、特別恩寵を受け救われる人の二種類である。
>>[133]

ユダヤ教もキリスト教も教理が出来てからはいわば国教だから、理が通らないのも無理はない。聖書も六法全書な体系になるというわけだ(古代の法律はこういう宗教書)。司法が未成熟な時代にあって為政者の頼みの綱で神はどんどん強くなり、救いにおける倫理観は強くなるわけである。
>>[136]
人類はその問題をもう何世紀も考え続けている。
>>[136]
行けます。○
が、地上の国の法による刑罰は受けなければならないかもしれません。また、地上の国の司法から逃げおおせても、良心の痛みから病になると思います。
良心の痛みのない方は責任能力がありませんので地上の国の刑罰もないわけです。
>>[148]
たとえあなたが太陽の存在を否定しても、太陽はあなたを照らし続けるでしょう。
遠藤周作風に言えば、神ってのは信じるものじゃなくって多分とらわれるものだと思う。
そういう意味ではヌーボさんのようなことを疑問に思う人はすでに神にとらわれている人なのかもしれない。
遠藤周作風に言えば、神ってのは信じるものじゃなくって多分とらわれるものだと思う。
そういう意味ではヌーボさんのようなことを疑問に思う人はすでに神にとらわれている人なのかもしれない。
>>[148]
その通りです。
しかし、いわば国教会した教会は入信の儀式を行い、教会員簿がないと困るわけです。国教会の制度というのは日本で過去になされた宗門改帳の対の制度です。
>>[148]

ただ、家族、特に子供がいる場合は信仰のガイドラインを伝えるためには教会という制度は便利かと思います。
>>[145]
自然神学、特にマクグラスという先生の考える「自然を神学する」では自然のうちに神を見出すことができるとしてます。高山に登山すると得られることは理系のブルーバックス「山に登る前に読む本」にも多くの経験として書かれてます。また、ローマ書1章にもあります。
私は既にキリストの顕現という現象を通して神の特別の恩寵も受けてます。これには個人差があるようです。自然恩寵でなく、いわば特別恩寵ですが。
>私は既にキリストの顕現という現象を通して神の特別の恩寵も受けてます。

こういうことを言う人間が一番胡散臭い。
>>[146]

残念ながら、旧東側という大失敗がありましてな。
>私は既にキリストの顕現という現象を通して神の特別の恩寵も受けてます。これには個人差があるようです。自然恩寵でなく、いわば特別恩寵ですが。



"狂信者と神の言

「サタンはしばしば、聖霊を讃美する多くの熱狂主義者をもって、余を苦しめた。それも三十年以上になっている。彼らは。神の言から、余を彼らの夢の中に引き入れようとした。
 ある人は次のように語った、『博士よ、余はわからずやの愚直な男であるが、軽蔑し給うな。神はかくの如きものによって、多くのことを成し遂げたもうからだ。余は夜も昼も断食して祈った。そして神を呼び求めた。そして聖書を繙き、まずこの書の正しいことを知った。その時聖霊は、余に正しき真理を啓示した。これが世の意見だ、云々』と。
 聖霊を誇り、特別な啓示と夢を求める人は不信仰な人であり、また神を軽蔑する人だ。そは彼らは神の言に満足しないし、神の言に満足しようとしないからだ。余は宗教のことにおいては、聖霊の啓示も夢も求めない。また望みもしない。余は明確に神の一言を持ち神の言にとどまる。すなわち聖パウロが神の言にとどまることを推奨し教えたようにする。天使が神の言とちがったことを教えても、それには従わない。余は世俗の外面上のこと、未来のこと、または神の怒りについて、預言者の預言について、これを認めはするが、救いに関係する宗教上のことについては、余は独りキリストの秣槽の許にとどまり、余のため処女より生まれ、苦しみ、十字架につけられて死にしイエス・キリストを信じる。人はこの真理から離れてはならぬ。われわれがこの信仰箇条を固持し、且つそれに固着するなら、われわれはすべての霊を追い払うだろう。同時に他の信仰箇条についても、祝福と勝利をもって討論し、すべての霊に対して、十分果敢に戦うことができるだろう」。"

(「ルッターの卓上語録」 佐藤繁彦訳 グロリヤ出版 pp.222-223
>>[156]
いわゆる「カトリック」「教団」に対して真か偽かは非信徒には関係ないと思います。
経験的事実だから仕方がない。
自分が確認してないことは人に云わない。

聖書に書かれている内容を経験した場合、書くことにしている。

そして、非信徒や家族、親族には教会には公式、定式があるので、最初はそれを習うことを勧めてます。あとはその人のすすみかた。強制はしない。
いずれにせよ、どのみち行っても普遍救済は間違いない。
経験してないことは神学や新約学・・で検討する
経験してないことは神学・・のみで検討する。
いわゆる「カトリック」の奇跡こそ、怪しい。
私派そこで全部は否定しない。勿論か原体験となる何か、科学的には心理現象はあったことは公認、未公認問わず否定しない。しかし、報告は「カトリック」の信条に余りにも彩られている。
伝承は発展したとしか?
ファチマもルチア自身が後年。いった内容と違うと異議を述べたニュースを見たが?
例えば、京アニ事件の事件もそこであった出来事はもう再現できない。被疑者に好意も悪意もない第三者がいて全てを見ていたら、事件は再現できるかもしれない。あるいは三方向くらいから映像カメラが常に被疑者を撮っていれば同じだろう。
しかし、そうでない。
たとえ、そうだとしても、犯人の心理は解らない。ひょっとしたら本人が一番解らない。
司法当局と弁護側が突きつけ、判事が判断し、法廷上の事実が作られ、判断されるだけかと思います。
>>[163]
出るものは利害による事実の相違と、判事の主観かもしれない。あるいは将来の地位も考えた統制への歩み寄り?

キリスト者として大切なのは京アニ事件を犯人へ憎しみを向けることでなく、また日頃の周りの人間へのストレスを向けることでもなく客観的に突き放して眺めて、責任能力がないとすれば、そうしたものが早期に癒やされるにはどうしたら良いか、また、被疑者が犯人になったらそうした犯人を出さないようにはどうするかを考えることかもしれない。
勿論、できる範囲で被害者へのカンパなども大切と思います。それと政府への保障の請求活動かと思います。
罪を憎む人間がする事がミュートとはw

いわゆる「カトリック」の奇跡報告だが、ルルドの聖母も事実報告は同様だが、特にベルネッタが聖化されすぎてないかと考えられる。死後腐敗が進まないはともかく理想の修道女。
奇跡は何かしらの事実の確認であり、一般の人の日常の他人との出会いに近いかと。
例えば、まだ外人がテレビでしか見られなかった頃、
ユダヤの婦人がこんにちわ、に近いかと。
「自分は神様に救われた」とやたら個人的な救済経験を強調し、そこはかとなく自分は他の人間とは違う神に選ばれた人間であるかのようなある種の選民思想のようなものを臭わせる。
こういう輩がいるからキリスト教徒は嫌われるんだよ。
>>[169]

おや?

「カトリック教会の存在こそ神の国の証」とか言っていた教会が過去あったような気がするんですが、気のせいですか?
>>[169]
そういうことはアブラハム、ヤコブは余りに伝説的でパスするが、ある程度、歴史性のあるイザヤ、エレミアなどにみられる。
ただ、疑念なのは既に彼等はユダヤ教徒で、カナンの神々の信徒だったがある日、主がやってきて呼んだ、人間がいないことです。みんな一様である意味、呼ばれたとするとオトク。
私の場合、なんのオトクでもない。ただ、調べたり、教会に行くと、!という感じ。特に福音派の方がよーく教えてくれて、訓練のムチとかで、多分ベルネッタやルチアと同じように厳しく?
>>[169]
やはり、その点ではユダヤ教徒であったパウロへとイエスの出会いが、私は一番説得力あると思えます。ルカが伝えているような出会いだったと思います。
非常にショックなことで視力を失う場合がありますが、そうしたものだったものに違いありません。
https://kotobank.jp/word/心因性視力障害-792295
しかし、アナニアとの出会いで、癒されて(原因の心因が除かれればすぐ回復する)彼はキリストを伝える伝道へと向かったわけです。手紙に明確に現れないのは、手紙を書いている時点では消化しきれてなかったともいえます。周りに語る方が早く、ルカの資料になったというのが自然です。
一応、アリア説、誰か書いていた気もする。
私も関係ないことに答えすぎましたが、133から話題ががずれている気がする。
まあ、スレ主なので答えたが。
>>[170]
左様、だからカトリック教会は同じクリスチャンからも嫌われるw

ログインすると、残り143件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

キリスト教(聖書)への素朴な疑問 更新情報

キリスト教(聖書)への素朴な疑問のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング