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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの新約聖書の科学的テクストについて。

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新約聖書のテクストは、主に以下の写本グループに分かれます。

パレスチナにおける、カイサリア・テクスト。
オリゲネスが用いたものですが、欠落が多いために、内容はあまり知られてません。

アレクサンドリア写本。
表現が短いことが多く、ギリシャ語の誤りが維持されてます。
この流れで一番古いのは、西暦350年頃のものである、シナイ写本です。

ビザンティン写本及び西方型写本。
実は、この流れが一番古いと考えられたりしていまして、文体上の誤りなどが直されています。
一番古いのは、フランスのリヨンに保管されているベザエ写本。五世紀のものです。
特にアンティオキアで校訂されたビザンティン版は、文体上の誤りが徹底的に修正されていまして、
よーするに、一番、手が加えられている写本グループです。

例として、アレキサンドリア写本グループのシナイ写本:
「新しいぶどう酒を古い革袋には入れない。そうでないと、ぶどう酒が革袋を破いてしまい、ぶどう酒が失われ、革袋も失われる。新しい酒は新しい革袋に入れるのである」(マルコ2:22)

西方型テキストのベザエ写本:
「新しいぶどう酒を古い革袋には入れない。
そうでないと、ぶどう酒が革袋を破いてしまい、ぶどう酒が失われ、革袋も失われる」(同)

写本生が、繰り返しを無駄と考え、文をすっきりさせました。
つまり、アレキサンドリア写本の方が古い。それが本文批評でのルールです。

で。

本文批評と聖書学が発展していくと、それに伴って日本語訳聖書の文章もそれに合わせて修正されていくわけです。
また、翻訳者の解釈によって、意味が正反対になる文章もあります。

クリスチャンの皆さんは、自分が慣れ親しんだ聖書本文テクストが「誤り」で、より科学的に「正しい」テクストによって改訂されていく流れを受け入れられますか?

つまり、「これが新しく明らかになったオリジナルに近い文章だから、今の聖書の文章を捨てて、こちらを正しいテクストと見なしてください」
という科学的アプローチに、何の葛藤も感じなかったりするのでしょうか。

コメント(55)

>>[10]
主の平和!
今晩は失礼します。
>重要な教義に関わらない些事にまでこだわる人なら気になるでしょうが。
写本というか翻訳文の大きい違いもある気もします。

新共同訳1987
1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

口語訳1955
1:1 はじめに神は天と地とを創造された。
1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

私には新共同訳が混沌からの創造、口語訳が無からの創造に見えますが?
訳出の意味は前者が捕因からの混沌から秩序を与えたあるいは神は既にあった素材を生かして創造したで、後者は全能の神は虚無から全てのものを創った。
マタイの違い
1955 口語訳
21:28 あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。
21:29 すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。
21:30 また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。
21:31 このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。

1987 新共同訳
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
なぜ、違いがあるかについては諸説あるが、私はこの兄弟のモデルがイエスの家でイエスの権威が求められるにつれ、直す必要が?と想像しました。
>>[16]

翻訳の問題はありますね。

日本聖書協会の訳は、明治元訳はKJV、大正改訳はRV、戦後はアメリカ聖書協会の影響が強く、口語訳はRSV、共同訳はどは当時各国の聖書協会で流行っていたユージン・ナイダのDynamic and formal equivalenceが採用され、日本語訳は失敗、それを何とか立て直して原典主義も取り入れた新共同訳はなんとか使える聖書になりましたね。

原語にない言葉で、挿入することで解り易くしたり読みやすくするのではなく、意味自体がまったく変わってしまうようなものも、全く直されることが無かったりしますね。そのまま標準訳(パイロット版)に引き継がれたりしていたりします。

さて、創世記のその個所も、

>私には新共同訳が混沌からの創造、口語訳が無からの創造に見えますが?

わたしには見えませんが。

一節で天地が想像されたと断言され、二節から「地は」と状態説明ですから。
なかには、穴が開くほど見つめられている方もいるかもしれませんが、改竄してないです。
まあ、脈略において神の霊感をうけた謝りなき規範であることは確かですが。
>>[17]

それは有名な個所ですが、

さて、それで神やキリスト、救い、人間、罪など福音がなにかそこなわれるでしょうか。
どこかに書くと、サイトに3つは「どうだ、凄いやろ」という文ができ、博士論文に書くことがなくなるのでこれくらいで(^^;。
三位一体が表されるとされる本文なんかも、色々と読みますと、新しい発見があるかもしれません。
>>[15]

こだわってるわけではなくて、
マルコ伝のエピローグや、
ヨハネ伝の罪深い女の話のように、
例示しやすいだけですよw
たとえば、新約聖書の正典は使徒由来が理由であるとするなら、
「罪深い女」という、感動的なエピソードは削除しないといけない。
これを入れるなら、科学的アプローチは受け入れないと表明しているに等しい。

もちろん、信仰的・感性的な話なら別。
ルターは新約聖書に階層性を認めて、

「最善の文書」…ヨハネ伝、ロマ書、ガラテヤ書、エフェソ、第一ヨハネ
「まだキリストを前進させるところのある」文書…マタイ伝、マルコ伝、ルカ書、使徒行伝、パウロ書簡の残り、第二ペトロ書、ヨハネの他の文書。
「避けられるべき文書」…ヤコブ書(「藁の手紙」)、ユダ書(「無益」)、ヘブル書と黙示録(「疑わしい」)等

…と評価した。
これはルターの感性であって、他の人の感性とは一致しないわけです。

しかし、科学的アプローチなら、否も応もない。
もっとも確かな仮説として、オリジナルに近い文書が、より「正しい」わけです。

>>[23]

一つ訂正します。

Trinitarian Bible Societyから出されているベザ版のTextus Receptusからのエターナル・ライフ・ミニストリーズによる邦訳、「TR日本語訳新約聖書」(http://www.bible-jp.com/ss/seisho-lineup.html)の2014年版を確認したところ、こちらではコンマ・ヨハンネウムが本文として訳されていました。

この団体はケネス・ヘーゲンの著作なんかを邦訳して販売していますね。

ケネス・ヘーゲンについては以下のような批判があります。
http://d.hatena.ne.jp/faith_hoshino/20110123/1295751463
http://0e45ba22c6.seesaa.net/article/168585543.html


福音書が模倣していると考えられているのは、ヘレニズム時代の伝記のスタイルで、
その中には、「神的な人」(テイオス・アネール)のテーマが繰り返し現れるものがあります。

たとえばクレタ人エピメニデスは、神的であり、浄めを行う者であり、古い儀式に通じていたために、テイオス・アネールとされたわけです。

マルコ伝のギリシャ語はそれほど洗練されておらず、セム語的な言い回しの直訳的表現も多い。
つまり、ヘレニズム世界における伝記のテンプレートに沿って、エピソードだけを知っていた福音記者マルコが適当にエピソードを当てはめていった可能性すらあるわけですな。
>>[25]

それが元の原典にないことは解っていますが、伝承自体が古いものであることも知られていますね。

また、ヨハネの福音書も多くの個所が後代の加筆ですね。

パウロの真正書簡とマルコを除けば、皆問題がありますね。

>>[26]

まあ、NKJVにもヨハネ断章はありますけどね。
問題の本質はその文章そのものではなくて、科学的アプローチの結果、誤りだとされた文章があれば、信徒としてそれを平気で捨て去って、
科学的に「正しい」文章を受け入れられるのか、という話。

翻訳表現ですら愛着が湧くのに、
まして本文に至っては、当然葛藤があって然るべきだと思うのですけど。
>>[29]

NKJVに限らず、KJVの単なる改訂版はそうですね。

King James Only movementなどまである始末です。

英語圏はKJVの呪縛から逃れられず、ドイツ語訳はルター訳から逃れられない。

ヒエロニムスのラテン語訳に対してアウグスティヌスがあまり当時のウルガータであるイタラから離れ過ぎないように要請したようなことが、現代でも起こっていますね。

>>[28]

そうです。
つまり、「正典とは何か」ですよ。

たとえば福音派は、一応、聖書の一字一句は十全霊感ということで、
全て正しいとしてますが(ただし、写本が無謬とは言ってない)、
その福音派の神学校などでも、本文批評を牧師志願者に教えたり、研究しているわけです。

クリスチャンたる皆さんが心のよりどころとし、誤りなき神の言葉と考えているテクストは、
一体どれなのか、つー事でもありますな。

まあ、バルトみたいに開き直っても良いですが。
>>[30]

大分前に、トマス福音書などを含んだ、クリスチャンとユダヤ人による新・新約聖書の編纂が行われる、というニュースを聞きましたが、
もし、その新・新約聖書が出来たら、クリスチャンは受け入れるでしょうか。

拒否するなら、何を根拠に拒否するのか。
使徒由来じゃない文書が入っているからですかね?
では、ルターみたいに、ヤコブ書を排除し、ユダ書は無益だから(神学的には第二ペトロと大同小異だが)拒否し、
ヘブル書と黙示録は使徒由来ではないので付録扱いする、という彼の感性を、
拒否する理由があるなら、これも何故か。

たとえば、シナイ写本には、「ヘルマスの牧者」と「バルナバの手紙」が含まれてますが、現在使徒教父文書と言われている、この二つの文書を入れない理由は何か。
>>[32]

使徒たちより伝わる信仰により、今の諸文書は受け入れられているのですから、そこからはじかれた文書を再び入れたり、キリスト教ではないユダヤ人の文書を入れたものは、受け入れられることはないでしょうね。

学者の趣味か、そういった多元論的考えの人には受け入れられる可能性はあるでしょうが。

>>[33]

ルターのヤコブ書の序文を読んでも、あくまでも序文において個人的見解を述べているだけですね。

実際にそれらの文書をルターは翻訳から外していないわけですから。

>>[34]

新約聖書正典は、350年のラオデキア公会議、
及びアウグスティヌスが召集した、393年のヒッポ、397年及び419年のカルタゴ会議に決定されるまで、定まってなかったわけです。
四世紀の間、クリスチャンは使徒の教えを継承してなかったのでしょうか。

まあ、そもそも、使徒たちは新約聖書を知りませんがw
>>[35]

そりゃ、ルター自身、アポクリファによる説教を残しているのだから、
彼自身にも色々考えがあったんでしょう。
>>[36]

おはようございます。

それらは地方会議なので、その地方での正典目録ですね。全教会(ローマ総主教管区)の目録はトリエント公会議までまたなければならないでしょう。

>四世紀の間、クリスチャンは使徒の教えを継承してなかったのでしょうか。

使徒から伝わった信仰があるから、諸文書がそれに適応しているかが測れるわけですね。

>使徒たちは新約聖書を知りませんがw

何を当たり前のことを

イエスの教えを受け取った弟子たちが、信仰を伝えて行き、その信仰はまた次に

使徒パウロの真正書簡の写しが最初に収集され

それに続いてマルコがその共同体で書かれ、広まり

そしてマルコを元にマルコを修正や否定する形でマタイやルカが・・

こんなことは新約神学の始めで習いますし、メッガーでも、アーマン、田川建三でも読めばわかることですね。

>>[38]

だからそういうことをルターはそれぞれの序文に書いていますね。
>>[40]

常識レベルの話をしたのは、別段おさらいをしたいわけではなくて、

現代の

クリスチャンにとって正典とは何か、つー問題提起。

トマス福音書のイエス語録部分を正典に入れたらダメという理由なんかないわけで。
実際、正教会で伝わる言葉も書かれてますし。
>>[41]

つーわけで、新約聖書のいくつかをリストラしても教義的には無問題では?
たとえば、科学的アプローチの結果として、
ヨハネ伝の罪深い女のエピソードを削除しても、
教義的には影響がない。
ルカ伝の「汗が血のように滴り落ちた」とかもそう。

古い写本が見つかって、結果、有名なエピソードなり聖句が付加と考えられた時、
科学的事実として、
その削除を受け入れられない理由は何か。
また、擬似パウロ書簡、牧会書簡が正典に入ってる必然性は何か。
擬似パウロ書簡は使徒由来ではないし。
>>[44]

それらは古い伝承であるのは変わらないですね。
>>[45]

使徒的であること、そしてすでに多くの地方教会で広く受け入れられていたことでしょうね。

>>[46]

いや、それは感性の話でしょ。
僕が言ってるのは、科学的に正しい本文なり文書なりを受け入れないのは、
たとえばヨハネ断章のある英欽定訳を未だに使うのに等しい、つーよーな話。
>>[49]

エターナル・ライフ・ミニストリーズやKing James Only movementなどの人たちは、ビザンチン型本文の方が正しい、原典に近いと考えているのですから、彼らからすると、

>科学的に正しい本文なり文書なりを受け入れないのは

こちら側という考えなのでしょうね。


エターナル・ライフ・ミニストリーズの「聖書のホームページ」
http://www.bible-jp.com/ss/tr-word.html

  聖書の歴史
http://www.bible-jp.com/his/history.html
>>[51]

ビザンチン本文をねぇ・・・なんですよね。

(ノ_-;)ハア…

イリアさん。

その問題に触れたら無神論に片足突っ込むことになるぞ。
悪いことは言わん、引き返せ。

意味が同じならテクストはどうでもいいだろう?
疑念が湧いたなら一心に祈れ。それで解決だ。
>>[53]

つーても、まともな神学校なら本文批評も高等批評も教えてますから、ねえ…
>>[25]
>「罪深い女」という、感動的なエピソードは削除しないといけない。
荒井献はこの箇所は共観福音書の伝承層に属し、イエスの発言が大胆なため収録されなかったものが、二度としないように、を加えて取り入れられたという。田川は批判的だが、私はやはり、文体が素朴で共観福音書的であり古く価値ありと思います。
キリスト教の発展を考えると興味深い。

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