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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの非神話化について。

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さて、難しい話はさておき、
ブルトマンの非神話化論は世界中を席巻しました。

ところが、かのティリッヒは、「ブルトマンは神話の意味を知らない」として、
非神話化論を批判するわけですな。

ティリッヒによれば、神話というのは理性による自律的学問が成立する以前の、
神律的世界における表現形式であって、
自律的理性によっては、決して非神話化できないものだったわけです。

さて。

中世において、ギリシャ神話が、「神格化された人間たちの物語」扱いだったのは、
キリスト教世界では常識でした。
トリックスターの神ヘルメスは、メルクリウス・トリスメギストスとして、
アダムからの系譜に連なる錬金術師扱いされたりしたわけです。

で。

旧約聖書、新約聖書の物語群は、
神話なのか、そして非神話化出来るのか。
みなさんはどう思いますか。

コメント(121)

>>[72]
>「聖書が聖なる書物とされることで、本当のところは聖書の言葉の解釈は、一義的ではなりえないはずなのに一義的になってしまう

ああ、簡単にいえば、それぞれの派の教理に即して一義的ということだろう。
%%
上村先生は踏み込みが足りない。
非神話化は前世紀の方法論で、今は脱構築、再構築という時代と一言いるかも知れない。
>>[81]

>でも一神教の排他性で強制するようなことではないんだよね。

英米型キリスト教の原理主義では、強制性、回心するまでしつこくまとわりつくという現象があるようです。しかし、それはイエスの言葉と真反対の行為です。メッセージを語って、相手が受け入れないならさっさと足の塵を払って別なところへ行くということを無視するから嫌悪感を持たれてしまいますね。

聖書も異教徒が異教の神を信じ崇めることを否定はしていません。神との契約に入った民が他の神に仕えることを禁止しています。

習合性のある多神教は、大体教義が体系化されていないいろいろな部族ごとの伝承で、それぞれ人間の都合の良いものや後利益のあるものを崇めただけのことでしょう。現代の学者などがいろいろな伝承・神話を集めて、神話として読めますが、古代は自分の村と近隣の村の伝承以外知らないようなものですからね。

トゥトゥアンクアテンによるアテン信仰による宗教改革は、財力も権力も肥大化したアメン神官と王家との問題が発端みたいなものですから。エジプトも住んでいるところで受け入れられている神も伝承も違いますね。古代は庶民が隣村に行くだけで命がけみたいなところありますから。知らないもの、知ることはあっても関わらないものには無関心でしょう。

>>[82]

相変わらずのお一人様ですね。

使徒達から連綿と伝わる共同体の信仰とは縁遠いですな
訂正

トゥトゥアンクアテン→アクエンアテン
>>[83]

大きなククリで言うと、神概念が違うんだよね。
多神教世界では、神は無限に存在する。
だから、知らない神、外国の神、よその部族の神はいるのが普通。
神というのは、精霊とか、原理とか、モノそのものの化身とか、
とにかくなんでもいいのよ。
スピノザ的な汎神論は、まだ法華経的でしょ?
仏性があらゆるもの、森羅万象に宿るみたいな。
それよりももっと、事象自体が個別に神性を帯びているのが多神教。
だから、隣の村と違う神で争っても、
根本原理というか、信仰のシステムに於いては一緒だから、
排他性がゆるい。

ユダヤ教が異常なんだよ。
やっぱりバビロン捕囚中に「ユダヤの結束」が弱くなりすぎて、
それを強制的にまとめる必要があったから、
「超排他的な一神教」を作り上げた。
それまでのユダヤ王国では、普通にミトラを信仰していたりしたでしょ。
そういうのを一切許さない制度にした。

ここから、2000年に渡る人類悪になった一神教ドグマが生まれるのよ。
共産主義とかヒトラーと同じ。
絶対原理がある。
多神教に絶対善とか絶対悪はないんだよ。

この辺の差。
>>[86]
まあ、キリスト教の大学では余り習わないが、そういう考え方もある、解らなくはない。
>>[86]

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は神ご自身がご自身を啓示された宗教であり、啓示された神との契約の宗教であるので、これは多神教との大きな相違でしょうね。

>>[88]

多神教世界における神って、
「自然現象」なんよ。

だから、善悪が存在しない。
台風とか、火山とか、太陽とか、夏とか、冬とか。
そんなものに善悪はないでしょ。

でも、一神教を作った人たちの神は「行動規範を伴った絶対善」なわけ。
だから、時代に合わなくなるし、
一元的な正義を振りかざして結局、大殺戮集団になる。
キリスト教原理と、
ナチや共産主義、天皇陛下万歳の思想的根幹は同じです。
この「倫理縛り」が多神教は極めてゆるい。

このトピのもともとのテーマ?
「非神話化」ってドイツ語のEntmythologisierungからいうと、
「脱神話」のほうが適当。

ブルトマンの都合を柔らかく言うと、

「聖書なんか、2000年前の人間が、
 当時の習俗とか掟みたいなものとかを反映して、
 当時の価値観で作り上げた神話なんだから」
    ↓
「そりゃあ現代には合わねーよ」
    ↓
「そういった神話を、一字一句まともに受け取らないで、
 エッセンスを抜き出して解釈すべきだろ!」

つまり、「脱神話のすすめ」だったわけで。

でもキリスト教は基本的に、
「聖書は神の言葉」「一字一句大切です」のポジションを崩すと、
いろいろやばくなるから、はいそうしましょうとは言えない。

特に、
「聖書なんて、2000年前の未開土人が勝手に書いた、
 ポンコツおとぎ話なんだから」
という前提を認めるには問題がありすぎる。
このあたりが、一神教の壁なんだよね。




>>[89]

それって一神教の壁ではなく

それぞれの英米キリスト教の原理主義思想の壁なんじゃないですか。

聖書の十全と無謬を唱えているのは伝統的教派ではなく、まさに英米国型のキリスト教(福音派や聖霊刷新運動)ですね。

>>[90]

聖書無謬はともかく、それに近いことはキリスト教的一神教は、
「絶対原則」なんだよね。

トーラーを否定したり、
クルアーンを否定することはできないでしょ?

これは、三つ子一神教が抱えるどうしようもないドグマ。

「神は、唯一絶対で」「完全に正しい」
     ↓
「その根拠が聖典」

この段階で、
聖書とその仲間たちは「絶対神による絶対正しい言」に成り上がる。

「正しい神の言葉だから、聖書は正しい」
「聖書が正しいから、神は実在する」
「神が実在するので、聖書こそが唯一無二の正義」

なんでこんなにバカなのかな?って思うけど、これが根本だから。

だから、聖書がブルトマンの言うような、
「昔のポンチな人間が昔の理屈で書いたポンコツおとぎ話」
であることなんか絶対に認められない。

多神教はこういうのもゆるいよ〜〜
聖典はあるけれど、基本「物語」の認識だし、
「教え」「倫理」といった行動規範にならないからね。
なので、物語自体も時代時代の作者が面白おかしく書き換えていくし。
>>[91]

単におおっさんが聖典のある宗教、人間の上に神があることがダメで、自分の上に神を立て聖典を立てる生き方をする人たちが嫌いなだけでは?

きっちりしたパンツが嫌いで、ゆったりしたパンツが好きみたいな

>>[92]

それは違うね。
少なくとも私は感情的なことは一切書いてないけど?
それswどうして、そういう勝手で失礼な個人批判になるわけ?

あなたのお気持ちで返すって随分幼稚だね。
ヤソ悪罪レベル。
>>[93]

個人批判ではなく、おおっさんが聖典宗教の信仰者に対して、そういう生き方をする人たちがおおっさんとしてあり得ないと考えるのは、相手がバカにしか見えず、本能的に受け付けない、どうして信じられるの?という感じなんじゃないかと思った感じです。

>>[94]

バカにしか見えないっていうのは事実だね。
ブルトマンの言う、「脱神話」を受け入れられない人が多いから。

だってさ、「古事記を信じてます」「リグ・ヴェーダを信じてます」
って言われたら、バカだろって思うでしょ?
そういう感覚。
>>[89]
>「聖書なんて、2000年前の未開土人が勝手に書いた、
 ポンコツおとぎ話なんだから」
##
この辺りが、どうも偏見だと思いますが、祭政一致の古代においては司法、文科省の役割もあったのと、当時はまだ、人権意識かなかったというのが「ポンコツ」に見える理由だと思います。
しかし、よく読むと、神から啓示された愛というものが見えます。
>>[89]
もう1つ、軍の情報省の役割もありましたね。
>>[96]

「ポンコツ」っていうのは言葉のあやというか、使い方?
つまり、
「2000年前の諸事情を詰め込んだ人為的創作物」だと。
そういう「今見れば爆笑ものの変な話」が満載されている。
それを認めないとダメって話なんだよね。
ブルトマンの言う「脱神話」は。

そうして、
「イェスースの真の教え」を現代に沿うように正しく導くことこそ、
必要だと。
それがアリアさんの言う「神から掲示された愛」でもあるかな。

つまりね前提として、
「聖書は当時の人が当時の事情で書いた創作物」だということを認めて、
いらないものを捨てないとダメよと。

世界中のキリスト教徒が旧約聖書、
中でも創世記とか出エジプト信じているわけじゃないでしょ?

それは新約にも同じことが言えて、
「全部が全部信じるべきものではない」
ここなんですよ。
言葉を変えれば、
「新約聖書自体は大昔の妄想が混じったポンコツ神話」だから、
「その中から純粋な何かを抜き出さないとダメ」ってね。
>>[95]

>だってさ、「古事記を信じてます」「リグ・ヴェーダを信じてます」
って言われたら、バカだろって思うでしょ?

別に信じる分には構わないですね。

ただそれを史実だ、現実に起こったことだと言ったら「えっ!?」と思いますし、そういう人たちの圧力で彼等の信じる歴史によって学問や歴史を変更しようと強制すれば反対ですけどね(福音派や聖霊派の原理主義者のトーラーなんかの記述の取り扱いに反対意見を書いているのと同じようにするでしょう)。

>>[99]

うーん、じゃあ言葉が違うな。
「史実として信じる、客観的事実と信じる」って言われたら、
バーカ?ってことで。

聖書ってそういうこと言う人かなりいるよね?
それを私は、はあ?脳みそ大丈夫?って素直に思っている。
まだ"おおっ"がいるのか...。

>>[89] おおっさん
>「聖書なんて、2000年前の未開土人が勝手に書いた、
 ポンコツおとぎ話なんだから」

1,
旧約聖書が成立したのは3,000年前。
2,000年前はローマ時代のローマ帝国で新約聖書が成立した。
勿論現代にも通用するローマ法の当然の法理は既に存在した。

自然人の自然状態の未開人と、ローマ時代の文明国家であるローマ帝国を混同してないか?
「Pacta sunt servanda. (パクタ スント セルワンダ).(契約は履行されねばならない)。」
「なんぴとも(民事訴訟の)原告となる事を強要されない。」
「死人を街中で埋葬してはならない。(hominem mortum in urbe ne sepelito. )」
等、文明社会ならではの法律・現在の法律に通用する当然の法理が既に存在している。

歴史学上古代に分類されるが、それでもアリストテレスの時代よりも数百年後の世界。

実際、パウロがギリシャに伝道したとき、「未だ知られざる神に」という一項目を設けて祈りを捧げていた。つまりアリストテレスから数百年も経ると、市民レベルで"カテゴリー表"という観念を持っている訳だ。つまり「部分の集合は全体ではない」というのが大原則であるが、その部分が集合になる各項目を"範疇"と言い、その範疇を全て集めると"範疇表"が出来上がる。そこには欠けはない。

"古代人"は"自然人の自然状態の原始人"とはちがうのよ。


2,
以前書いたはずなんだが、古代人には古代人風の真理の表現様式がある。
「占星術」もそうだが「神話」もその一つ。神話は古代人の妄想ではない。
ただ、近代人の思考様式では読み解くのが却って難しい。

占星術が示しているものの実例を少し挙げると、占星術のホロスコープを作成してみると私は「太陽/海王星 合(コンジャンクション)」である。これはエジソンの創造性に関する座相と同一である。副作用まで同じ。エジソンは天然ボケで有名だったが、私も天然ボケだ。自分で道を歩くと迷子になる。地図を書くと後で「迷いました」と言われる。道を教えると後でやっぱり「迷いました」と言われる。占星術の教科書レベルでは「薬に注意」と出るが、これストレートに言うと「酒、その他の依存性薬物」のことを言っている。実際、私は酒に飲まれやすい。だから酒を断ったのが2004年秋、18年前のこと。

さて、ホロスコープを描いたその10年前、大学で職業適性検査という名の心理検査を受けさせられた。大学の金で受けた。当然大学はその検査機関を信頼している。私は、大学に入る前からフロイトなどを読んでいたし、大学一年からも各種心理療法その他、心理g買うの勉強をしていたので、
「こういうものは、どんなに恥ずかしい結果が出ても良いつもりで、正直に答えるべきだ。」
という心づもりで検査に臨んだのを覚えている。すると蓋を開けてみたら、「独創性」の項目が。左から右までメモリ一杯に表示され「これ以上はありません」という意味だった。

占星術という古代人の手法だろうが、心理検査という近代人の手法だろうが出る結果は同じに決まってるでしょう。私は同一人物なのだから。同じ結果が出ない方が問題だわ。

もう一つ実例を挙げると、古典占星術以来の定説として、「ASC(第1ハウスの起点)に、金星がソフトアスペクト(トラインやセキスタイルというアスペクト)を形成している女性は美しいか、若しくは魅力がある。」というものがある。私の知人で、超絶美女がいるのだが(彼女の30代後半の頃なんて、同年代のそこらの女優では先ず勝てない)、彼女の事実とこの定説は符合していると思う。本人は未だにそんなことは知らないのだがw。

検証もせずに判断を行う行為は非科学的な手続きと呼ばざるを得ない。
大昔は「精神分裂病に効く薬なんてあるわけない」と思われていた。だから、精神病院は患者をできるだけ長時間眠らせっぱなしにする(ことで、患者の苦痛を減らす為)目的で、臭化カリを大量に購入していた。

それが、フェノチアジン系の抗ヒスタミン剤のプロメタジンの鎮静作用をもっと強化しようとして、合成して出来た一つが、クロールプロマジンだった。薬学界では徹底的にスクリーニングを行い、鬱病にも神経症にも効かないが、「分裂病には効く」ことを発見した。まぁ最初期の低力価薬だったが。後、ドラッグデザインによって、より幻覚・妄想に効く高力価薬も開発された。

つまり、科学の世界は検証しないと何の判定もできないのよ。
占星術(若しくは四柱推命)を検証もせずにバカにするのは、それこそおバカさんよ。
(続く)。
>>[101] ヤソ悪罪

まだこんなゴミhがいるのか。
お前早く消えろよ、能無しクズ。

家かえって占いでもやってろ。頭の悪いお前にはぴったりだよ。
それにしても「またみゅーとしま〜〜す」とか逃げ口上ぶちまけといて、
何やってんのお前?
閑話休題。
聖書、特に旧約聖書の神話表現を読み解けるようになると、その凄さ恐ろしさに驚く。
例えば、預言者エレミヤ(ダビデもそうだが)は(油注がれた者故)戦に必勝である。

これね、「『将棋に必勝の手はない』という。でも預言者エレミヤは生身の人間でありながら必勝であるだと。・・・・やっぱり所詮は古代人の作り話か・・・」と思いそうなものだ。

そもそも、エレミヤ書に登場する時点での預言者エレミヤは30歳程度(29歳ぐらいかもしれない)。
生身の人間であり、得手不得手がないとは考えられない。しかも、モーセだってたかだか40歳の時点ではユダヤ民族の統率者の役は務まらなかったことを考えるとかなり若い。

歴代誌上16:22、詩篇105:15に、
「わが油注がれた者にさわってはならない。わが預言者たちに害を加えてはならない。」
と記されている。ともにダビデの口から神は言わせている。でもここには下の句が書かれてないのね。

・・・では、触れてはならない"アンタッチャブル"に触れた者はどうなるのか?
これはエレミヤ書に記されている。

「イスラエルは主のために聖別されたもの、その刈り入れの初穂である。
 すべてこれを食べる者は罪せられ、災いにあう。」エレ2:3。

これは、ヘブライニズムに固有の歪んだ思想ではないと思う。
日本人だって知っているでしょう。
「触らぬ神に祟りなし」と。

ところで、これらの記述が本当のことだったら、あなたどうする?
私なら身震いするほど恐ろしいと感じる。そんな奴に遭遇したくない。自分がその本人であって本当に良かったと思っている。

古代人の智慧をバカにしてはいけない。
確かに近代人が闡明した古代人の迷信は沢山ある。だから近代人は「古代人ってバカなんじゃないの?」と思い始めるようになった。だが、古代人の表現である「神話」は近代人の思考様式ではむしろ解読するのが難しい。(これ以前mixiで書いた話なんだけど)。だから、人類界最強の創造性・独創性が無いと解読出来ない。しかも、それだけでは足りず、本人なりの内的必然性が無いと解読出来ない。具体的には"十字架上の苦悩"ほどのトリガーが必要となる。

少なくともR・ブルトマンのような、文献学しか能の無いアホンダラに解ける十字架上の死からの"復活"ではないよ。「私はこれから聖書の実存論的解釈を提示しようと思う」と世間に公表するなら、"復活"まで解読出来てから始めるべきでしょ?ところが、彼、"復活"のくだりを「神秘である」などと言って済ませた。私は頭に来た。これでは私の時間の無駄遣いだ。これでは理趣経・観音経や、真言・陀羅尼でも読誦している方がマシだわ。

何故こういうことが起こるのか?
普通研究者の道を行こうとする人は、京大大学院とか東大に入学出来る能力で研究の仕事をしようとする。こういう人の能力は、古典語の勉強をして文献学を研究するには向いている。だが神話解釈に必要な能力はそれではないのだ。だからフェルマーの最終定理が、340年程度かかって証明されても、"十字架上の死と復活"は2000年経ても解読出来ないのだ。解読するのに必要な能力が違うからである。

少なくとも"おおっ"レベルの人間が扱って良い問題ではないよ。
SGTさん

ほら湧いてでたでしょ?
「笑われ甲子園出場常連者」が。わーい(嬉しい顔)

>占星術という古代人の手法だろうが、心理検査という近代人の手法だろうが出る結果は同じに決まってるでしょう。私は同一人物なのだから。同じ結果が出ない方が問題だわ。

幼稚園以前の問題だっての。
こんなのに粘着されるこっちの情けなさったら無いわ。
自分の思い込み(ほとんどでたらめな妄想)に適合しないと、
誹謗中傷しかしない。ついフェミかよ?
まともな論理が一切通じないからね。

  *ある意味トンスル入谷に通じるところがあるけれど、
   あいつは「息を吐くように嘘を吐く」タイプの人種で、
   嘘を吐いていることをおそらく自覚しない。

結局この脳タリンの中では、占星術は「科学でありファクトである」ってのよ。
そういうレベルでなんでも物を言うわけですよ。
で、根幹がウソでsることを理解できないししようともしないから、
あとはフジコるだけ。
ほんといらねこいつ。


>>[104] クソ悪罪

おまえレベルの人間が他人を動向言っていい問題ではないよ。
両親がないてるぞ。
>>102,103
"おおっ"か?キミは来るなと何度も言っている。何の才能も学問もないのだから。お呼びでないの。
教わりにくるならその限りではないが。コミュニティ名を見ろと何度言わせるのか?

ハッキリ言って、あなたは合掌しながら念仏でも題目でも唱えていた方があなたの(人生の)ために良いよ。

合掌自体が最もシンプルな気功だからね。合掌で手を合わせた時間数だけ力が付く。それで物事がいろいろ動いたりまぁ本人に取って良きことが色々起こる。変な女と深入りすることも防げる。これは全て科学的測定の対象である"氣"の力に過ぎないのだが、古代人は神・ホトケの力のお陰と思い込んだのね。創価学会員なら「ご本尊様がパワーの源」とか「お題目の力」だと思い込んでいる。これでは赤子と産湯を取り違えている。まぁ21世紀の現代的ではないわな。

現代人なら、現代人らしい宗教の理解をすべきだと私は思う。


3,
ちなみに、私の亡くなった最初の恩師、岩井義人先生(宗教哲学者・旧文学博士、2000年没)は、あ の 片山正直先生(!)から論文博士で博士号を受けた人だが「三代前からのクリスチャンだ」という。
そして旧制中学時代に神道系新宗教巡りをしたことがあるという。そしてその頃から亡くなるまで、ずっと祈りは合掌でやっておられたという。

下記にアップロードした気功本、王瑞亭『気功師になる為の気功 少林気功 内勁一指禅』ベースボールマガジン社、1995年、78頁以下。に、私は合掌が最もシンプルな気功な気功であることを見いだして、禅宗出身の私は背筋を伸ばして合掌で祈り始めた。決して師匠の真似をしたわけではない。

師弟ともに、別経路で同じ仕方で祈るようになっていたのだから、やっぱり師弟だなぁと思う。
先生は神学者が何かと揶揄したがる哲学者だが、祈りの人だった。

先生も言っておられた。「(合掌出祈っていると)手がビリビリしたり、額がムズムズする」と。
背筋を伸ばして合掌で祈り続けると、(真冬以外は)私も背中に汗が流れるが、掌がビリビリし始めるのは40分過ぎ50分過ぎてからである。30分連続で祈った程度ではビリビリしない。ということは、先生は60分ぐらい連続で平気でペロリと祈る人であるということだ。

実はこのことは、私よりも30年も古いお弟子さんも知らなかった。
だから先生の没後15周年記念会(2015年)で、(その半年以上前に兄弟子に事前に話して、暗黙の了承を貰ってから)この話をした。

クリスチャンの皆さんも、(冬以外は)背中に汗が流れても祈り続けて欲しい。
最低でも、創価学会・顕正会員に手を合わせる時間で引けを取ってはならないと思う。
>>[100]

>聖書ってそういうこと言う人かなりいるよね?

そういう感じの人はそうでないと信仰を保てないのでしょう。

マタイ福音書は使徒マタイが書いたものでなければならず、創世記の創造叙事詩や族長たちの物語もその通り起こっていないと、信仰までも間違ったものに感じてしまうんじゃないですか。

実際にちゃんと聖書の古写本が多数あるにもかかわらず、ずっと後代の書き換えられてきた写本の方が正しいなんて言う原理主義者もいますからね。

>>[108]

>そういう感じの人はそうでないと信仰を保てないのでしょう。

実はそういうことをなんとかしないとダメだなって思うけどね。
最近、ローマ教皇がそこそこ間違いを認めるじゃない。
地動説なんかその典型。
でもそういった「あたりまえの事実を認める」ことが、
けっこうなニュースになる。
そういう「否定しちゃいけない」歴史があるのよ。

中世の神父が一切「神なんて信じていなかった」というのがあるでしょ。
事実に触れれば触れるほど、「神の嘘」がリアルになる。
でもそれは、信仰上認めてはいけないのが一神教では強い。
三つ子一神教の教義や経典は「無謬」であり「神託」だから。
そういうことにしないと、
超排他的システムである一神教が保てないんだよね。


>>[109]

四世紀のローマの公認宗教の一つから国教化されて行く中で、二世紀・三世紀ごろからキリスト教に入り込んできた異教の禁欲主義とそれに伴う修道制、独身修道者による司祭職やエピスコポス(監督・主教・司教)職の独占とそこから派生する既得権益、歴史が進むにつれ信仰なき聖職者による聖職と要職占有と教会組織の権威付け、など歴史の中で腐った結果、都合の悪い真実の抹殺と信徒としての信徒の無知化をしましたからね。

>>[110]
そう。
だから、プロテスタントだとか「解釈論」で対抗しだすわけよ。
そのまま腐り果てた大系を「神の意志」にできるんだし。
抗うには、「聖書の解釈」を変えるしかない。

でも、原典そのものの「間違い」を取り出さないでしょ?
だから、限界がある。

ムリにおかしな解釈をまさに屁理屈で作るよりも、
*プロテスタントの拝金主義なんかまさにそう!
矛盾だらけの聖書を一回解体したほうがいいんじゃね?
と思ってもできないんだよね。
>>[111]

プロテスタントでも伝統的教派の方が聖書の中にある歴史的な誤りなんかを認める傾向にありますね。

マルティン・ルターの「一つの本文には歴史的文法的意味しかない」というhistorical−grammatical hermeneuticsという伝統があるからでしょうね。

しかし英国の非国教派・清教徒・ウェスレアン・アルミニウス主義などはそういう解釈から離れて、聖書の逐語霊感・十全性を強調して誤りなき神の言葉と位置づけから原理主義の罠に陥りましたね。
>>[112]

そうなのよ。
頭のいい人というか、普通な感覚を持っている人は、
「聖書はその時代の人が書き記したもの」
っていうのを、自然に理解しているでしょ。
どの時代でも。
間違っても、口に出しては言わないだろうけどね。
非常に面倒なことになるから。

ブルトマンはそれを公然と認めようぜと言ったに過ぎない。

逆に、ブルトマンみたいなやつがでてこないように、
「がっちがちに信仰させる」
文句言うな黙って信じろ!っていうやつ。

ずっと言っているけど、こういうところがね。
一神教ダメなんだわ。
>>[113]

キリスト教は一枚岩ではないですからね。

イスラムも昔の時代の方がもっと自由度高く発展していましたが、イスラム法が網の目のように張り巡らされるとクルアーン(コーラン)から逆に離れて行き、発展も自由もなくただ堅苦しくなりますからね。

>>[114]

>キリスト教は一枚岩ではないですからね。

派閥抗争とか、異端審問、宗派内での殺し合いも、
一神教の特徴なんだよね。

世界最大の多神教であるヒンドゥーでは、そういうことは一切ない。
多様性が基本だから。

仏教でも、一神教的になればなるほど攻撃的になる。日蓮系のように。
「他者(つまり異解釈)を認めない」
っていうのが一神教スタンスだから。

イスラム世界って、大発展したときは、
アラビアンナイトにイメージされるような、
戒律や敬虔さよりも、人間性重視でしょ?

これは中世を支配したキリスト教によって大暗黒時代があって、
ルネサンスという「人間性に戻った」文化的発展と同じ。
一神教支配は、文化を殺すね。
でもそうして、人間が退廃し庶民生活が苦しくなると、
原理主義者が現れて、
「清貧」とか「敬虔さ」をアピールしだす。

なんでこいつら、神なんていうインチキを想定しないと、
倫理のかけらも持てないのか、なぞ。

イリヤもドヤ顔で言っていたが、
「神のないところに倫理なし」なんだそうだ。
痛いやつだし、こういうところが信仰者の限界。

倫理に神は不要。
そんなこともキリスト教徒はわからないのか?とはよく思う。



>>[115]

>異端審問、宗派内での殺し合い

異端審問って自派の信徒になされるもので、他教派には「異端者」というレッテルと罵倒がなされるだけですよ。

「宗派内での殺し合い」だいたい宗教を名目の理由にしているだけで、実際には民族問題やいろいろなヒエラルキーからくる問題が本当の理由だったりしますからね。国と国、地方と地方の戦争や抗争の場合、宗教的なものは普通脇に追いやられて顧みられませんが、日本時間ら見るとキリスト教徒同士で殺し合っているように見る人がいますが、自分が死ぬ間際と習慣以外宗教について考えてもいないでしょう。

>世界最大の多神教であるヒンドゥーでは、そういうことは一切ない。

ヒンドゥー教はイスラム教徒昔から血生臭い対抗争と殺戮繰り返していますし、仏教徒との争い、近年なんかはキリスト教徒を襲って何回もニュースになっています。

ヒンドゥー教内で起こり辛いのは、そもそもカースト制度で理不尽に虐げられている階層があるからじゃないですか。いいはけ口としてそういう層が理不尽な理由で殺されたり虐げられたりしているからとも見えますけどね。



>>[116]

言っていることと違うね。
どこでも殺し合いはあるんだけどそういうことじゃない。

「同一信仰内で」殺し合うのは、ほぼ一神教だけって話だ。
しかもその理由が、教義解釈。

多神教世界では、別の神を信じるのが「普通」だから、
村の神Aのグループと、村の神Bのグループで対立があり小競り合いや、
最悪殺し合いがあったとしても、
それは「信仰や教義によるものではない」
そもそも多神教世界には、「統一教義がない」
宗教戦争をおっぱじめる下地がないんだよ。
「カトリックとプロテスタント」シーア派とスンニー派」
こういうタイプの対立はまずない。

それから異端審問。
異論や教義解釈における異説を許さない。
で、最悪殺す。
これは、当然「身内である同一宗教信者」に対して行われるが、
一神教オリジナル的な行為。
>>[117]

カトリックや正教で異端審問やカトリックの魔女裁判がなされた時代って、正典である聖書がまったく顧みられなく、王侯貴族が高位聖職を金で買うようなことが普通にあった時代、プロテスタントでの中世型の異端審問はカルヴァンがセルベートを火刑にした(このことをのちに後悔したらしい)のと英国とアメリカにおけるピューリタンによる蛮行で、近現代ではもうこのような形では行われていないものですからね。



つくづく「SGTさんは親切だなぁ」と思いますわ。
"おおっ"なんぞ相手に、一々丁寧に説明の手間を惜しまない。
"おおっ"がここでやっていることは詭弁術の初歩である「説明の手間を相手に押しつければ、その議論は半分勝ったも同然」と言う奴。ところが、その手口すら通じていない。SGTさんと"おおっ"ではそれほど積み上げた学問に大きな差があるってことの証左よ。


私も以前「"おおっ"の言いたい方向性の話は、キリスト教批判の聖典であるフォイエルバッハの『キリスト教の本質』に書いてあるから、それを読むと良い」と書きこもうとして、書く前に岩波文庫の訳本(訳者は船山信一さんだからマルキシストね)を引っ張り出して来て、一寸眺めてすぐに諦めた。(ちなみにドイツ語の原書は部数が沢山出ているのか、円安の日本円でも500円未満で買える)。

この『キリスト教の本質』の本文中に、頻繁に"Wesen"というドイツ語の単語が出てくるわけだが、訳者は「本質(存在者)」と2つの訳語を当てている。このどちらがカントを、どちらがヘーゲルを念頭に置いたものか"おおっ"には分からないでしょ?だから「駄目だこりゃ。"おおっ"が読もうとしても理解出来る本ではないわな」と思って勧めるのを断念したことがあった。


私も高校時代アンティクリストだったことは既に書いたかしら?

禅宗(曹洞宗)出身で、汎神論的傾向があった。だから人格神を信仰するってのが、「頭が悪いのか、頭がおかしいのか?」とすら思っていた。それで佛教を引き合いに出しながら何かとキリスト教の悪口を言っていた。まぁバチが当たったと見えて、同じくアンティクリストだったパウロのように身も心も魂も、そして最後の血の一滴までもキリストに捧げ尽くすハメになったのは自業自得だと思っている。

"おおっ"はキリスト教批判をしたいなら、少なくとも大学レベルの話を持って来て欲しい。"おおっ"の言う事は高校生レベルだからこちらも嫌になってしまうのよ。少なくとも(アンティクリストだった)高校時代の私以上の話でないと、読んでいてウンザリするのは当たり前でしょう。
>>[120] くそ善悪財

おまえまだいたのか?

ミュートしたとか「何度も何度も」言って、
ちょっと間があくと、幼稚な悪口を書きまくる、
そのくさった性根は両親譲りか?

お前、DNAレベルでクズだろ?

今までは、ただのクズバカで、
思い込みだけのしったか以外なにもない、
「自分は知っている自分賢い」と妄想している使えないゴミだったけど、
今は、性根の隅々まで腐りきっている汚物だな。

悪臭がするぞ。

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