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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュのキリスト教と安保法制反対運動

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私事ですが、先日の復活祭のミサが終わった後、少し不愉快な出来事に遭遇しました。
ミサ後のパーティーの最中、とあるご婦人が「戦争法に反対する署名に協力してください」と言ってきたのです。
私は安保法制に決して反対ではないし、それにできるだけ政治的には中立の立場でいたいと申し上げて署名をお断りしたのですが、そのご婦人はワイマール憲法に非常大権を認める条項があったからそれを悪用してヒトラーが台頭したとか、憲法9条がどうのこうのとか、キリスト教の教えとは関係のない、まるでどこかの左翼政党の党員みたいなことを言って署名を迫ってきました。
以前から私が通っているカトリック教会では、安保法制のことを戦争法と呼び、毎回ミサが終わるたびに協会の役員の方がそれに反対する署名を呼び掛けています。
そのことに疑問を感じた私はある日、勉強会の席上で司祭様に「宗教はあまり政治に関わるべきではないし、それに安保法制を戦争法と呼ぶのは少しバイアスがかかっているのではないか」とお尋ねしたところ、「うちの教会では決して署名を強制してはいない」というお返事をいただきました。
にもかかわらず、復活祭という記念すべき日に署名を迫られるような真似をされ、何か釈然としないものを感じております。
一体安保法制のどこがキリスト教、特にカトリックの教義に反しているのでしょうか。
確かカテキズムには正当防衛及び自衛権は認められるとはっきり明言されているはずですが、個別的自衛権と集団的自衛権とを区別しているのでしょうか。
もしカトリック教会が集団的自衛権を認めていないのならば、例えばNATOのような軍事同盟に加盟して実際に集団的自衛権を行使しているヨーロッパ諸国は反キリスト教的となってしまうのでしょうか。
そもそも、日本の安保法制についてバチカンの法王庁が反対表明を出したとかそんな話は聞いたことがありません。
バチカンが反対してもいないのに、日本のカトリック教徒が独自の判断で、しかも教会ぐるみで安保法制反対運動を行うのはおかしいのではないのでしょうか。
いろいろと勝手なことばかり書いてしまいましたが、皆さんは、キリスト教徒が安保法制反対運動について関わることについてどうお思いでしょうか。
ご意見をお待ちいたしております。

コメント(296)

>>[256]

日共と公明党はダメらしいですね。創価学会も現世主義っぽいから、「下部構造」の変革に関してご意見が違うのだと思います。

キリスト教の場合は、そういうものは御再臨を待つだけですから棚上げですねww
九条の会は実際に災害が起きると黙る。

http://www.labornetjp.org/news/2012/0902hokoku

>>[262]

軍隊以外に、今回の熊本地震とか、どうやって対処しろというんですかねえ…
マスコミは全く教訓を得ずに、相変わらず報道ヘリを飛ばして、瓦礫などに埋もれている人たちの声をかき消そうとするし。
>>[263]

まあ、この人たちもさすがにこんな中、こんなバカなことは言ったりやらないでしょうが、なんともご都合主義にも見えてしまいますね。

報道ヘリは規制してもらいたいですね。それこそ局同士の共同ヘリみたいにして、機数制限とかはやってもらいたいですね。

>>[266]

軍事組織は指揮命令系統が一本化できますし、兵科(職種)が多いので自己完結できる組織なので汎用性がありますね。


昔は自衛隊の災害派遣って報道されませんでしたが、今は前面に報道されるようになりましたね。

>>[268]

災害派遣だけでなく、例えば工兵(施設科)なら部外工事という民生協力もやっていますね。

自治体からの要請で工事をしたりしていますね。また雪まつりも民生協力ですね。これらはみんな訓練の一環ですね。そういうものがまたこういう災害派遣にも生きてきますね。

>>[257]

確かに、赤、というよか自虐的かも。
日本基督教団は。


平和と正義、人権、被造世界の回復・統合、差別等々の現実の諸問題に立ち向かう福音の証しの歌もありませんでした。
日本の諸教会が戦争責任を告白し、韓国をはじめとする隣国との関係について謝罪をし、国家と教会の関係について反省する時に、歌うべき適切な賛美歌がないということは深刻な問題でした。(日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』まえがきvページ)


その解決のひとつが、『讃美歌21』というのは、


正直、気に入らない。
>>[270]

讃美歌21の前書きにはそんなことが書いてあるのですか・・・

ひどいものですね・・・

日基の方でもそういうのに反対の声はどうなんでしょうか、あったりするのでしょうか。

それともかき消されてしまったりしているのでしょうか。

>>[271]

たぶん、読んでないのですよ。
まえがき、なンかね。

賛美歌が前の版の教会というと、銀座教会、三崎町教会くらいしか知らないのですが、『讃美歌21』の歌詞が教会員に不評というのが理由のような気がします。

確かに54年版は外国人には歌詞が難しい、今の日本で生きていくにしても、文語体は不必要な知識なのかもしれません。
また、外国人と賛美歌を歌うときは、英語かドイツ語、本来原詩として書かれている言葉でやれば一番よいと思います。

オイラとしては、歌詞の変わり方が気に入らないので、そう思いました。
それでも、ルーテル教会の讃美歌が緑色の表紙のものは日本基督教団の讃美歌の54年版の歌を『讃美歌21』に替えたもので、エキュメニカルの推進として、他の教団の歌集もそうなるのかと思うと、また讃美歌21自体を導入するのかと思うと、

ヤな気がします。
>>[272]

そうかもしれませんね。

讃美歌の前書き読むことはないですね。読まないから気が付かない、それも困ったものですね。

教団讃美歌(福音ルーテルでは日基の54年「讃美歌」をこう呼んでいます)はよく知られているのになぜ変えたのかなーなんて思ってましたね。

原詩で歌うというのも昔のカトリックのトリエント・ミサのような感じになってしまいそうですね。民衆にはわからない言葉で、ミサや聖歌がうたわれる感じになるのではないかと思ってしまいますね。

まあ、讃美歌21はあってもいい歌集だと思います。
必要な人たちのために。

合同で歌うとき、日本語が違っていても、

いいではないですか。
>>[273]

まだ緑の教会讃美歌は持ってないんですよ。

確か収録している歌の著作権だかの問題で新しいのが出たというのは聞いたような気がしますね。

私の地区ではまだ昔の青い表紙の教会讃美歌ですね。

讃美歌だから目立つだけで、

誰がどの翻訳の聖書を持ち込んで会場にいたって、

どーでもいいわけです。
>>[275]

やっぱり日本人なんでしょうねー。

みんな一緒にしたいというのは、そこからみんなで改訂という面になっているのかもしれませんね。

>>[277]

わたしは礼拝で聖書は開かないですね。

昔いた牧師が、聖書朗読の時、日本人はどうしても聖書を開いて目で追ってしまう。そうではなく、朗読されるのを聞いてくださいと言われましたね。それ以来、礼拝では聖書は開かずに聞いていますね。

一応新約聖書だけは礼拝の前後の交わりの時に、他の教会員と会話なんかで必要になったりするので持ってはいきますね(朗読奉仕の時は別ですよ。)。
>>[278]

よかったら、歴代誌下の5:13を新共同訳と口語訳と新改訳とで読み比べてみて下さい。

同じ原典かと思うくらい、違いますから。

そして、だから、新改訳系の信徒は、歌のときユニゾン(同一旋律)にこだわるのだなと、オイラは納得しました。

ソロモンの合唱隊に、女性はたぶん、いなかったのではないかい?と思ったりして。
>>[279]

│朗読されるのを聞いてくださいと言われましたね。それ以来、礼拝では聖書は開かずに聞いていますね。

それは、ナザレンでも教団でも、聖書朗読のときページ数を読んで、そこをお開きください、と言われたので、教会で違うンですね、という感じが。
口語

ラッパ吹く者と歌うたう者とは、ひとりのように声を合わせて主をほめ、感謝した)、そして彼らがラッパと、シンバルとその他の楽器をもって声をふりあげ、主をほめて
「主は恵みあり、
そのあわれみはとこしえに絶えることがない」
と言ったとき、雲はその宮すなわち主の宮に満ちた。

新共同

ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。

新改訳

ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。


 
 これは翻訳では普通にあることですね。かえって同じになる方が異常ですね。

 日本語訳の場合は、なぜかそういう似た訳文になることが起こりますね。「聖書の和訳と文体論」( 藤原藤男)なんかでもこういう敷衍に対して厳しく批判されていたと思いましたね。

>>[279]

そっちはそっちと ご指摘があるかもしれないのですが、
まさに福音朗読に関して、ミサの時 ある修道会の日本管区長
と言う方が見えた時、同じようなことを 述べていらっしゃいました。

彼が言ったのは
「福音は 主イエズスの言葉、 あの時民衆を前に話した時
聞いていた人は 印刷物に目を通さずに 黙って耳で聞いていたのです。 だから 耳から入れてください」
多分このようなことだったように思います。

だから聖書朗読の箇所は 黙って 司祭の方に目を向けて聞いています。難点は 信仰薄きものゆえ、聴きながら雑念がでること(!?)
>>[281]

そのことが言われたのは、礼拝式文の学びの時に牧師が教えてくださいましたね。

礼拝ではそのことについていうことはありませんね。

以下式文より

10. 旧約聖書、使徒書の朗読

本日の初めの朗読は○○書○○章○○節から始まります。
 —(初めの日課)—
日課を終わります。

本日の第二の朗読は○○書○○章○○節から始まります。
 —(初めの日課)—
日課を終わります。

11. ハレルヤ唱または詠歌

12. 福音書又は主要日課の朗読 (起立します)

司式者 本日の福音は○○書○○章○○節から始まります。
 —(初めの日課)—
日課を終わります。
(着席します)

13. みことばの歌

司式者 本日のみことばの歌として、讃美歌○○番を歌いましょう。

14. 説教

>>[282]

それでも新改訳の

「歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して」

なンて、まるで北朝鮮のマスゲーム、というよりサッカーサポーターの応援の声みたいで、

そういうの好きなンだな、牧師という人種はと、

教会の信徒が一つの旋律で口をそろえて歌う、というのが、

自分の指揮下で心を一つにしている、というのがよいのねと思うわけです。


あ、あと、いちおう著作権を気にしましたから、オイラは。
とりあえず、ここまでね。

まだ夕飯食べてないから。
>>[283]

根本は同じだと思いますよ。

カトリック教会もルーテル教会もともにローマ典礼ですから。

基本的考えは一緒ですね。ただルーテルで言う奉献の部と聖餐の部が意味合いが違いますね。

ルターなどは聖書を暗記していたと言います。それは礼拝や修道生活の中で朗読されるみことばを聞いて覚えたと言いますね。

昔、沢田和夫神父様がルーテルのセミナー礼拝で説教してくださったとき、聖書の朗読が終わった時に、今日のお話は終わりましたとにこやかにおっしゃられ、私ごときが神様の御言葉に何を付け加えましょうか、しかし、とメッセージを話されました。

そういう精神性が大切なんでしょうね。



>>[287]

ありがとうございます。
無知とは 恐ろしいもの。改めて 感じます。
これでわかったとは言いませんが、薄眼を開けて見える程度ですが ルーテルはについて そうなのかという思いです。

聖公会の別れは 誰しもですが、 ルーテルは 根本的に
変わったのだとばかり思っていました。 と言うよりも
中学校の 世界史クラスの知識。

このようなたがいが 分かり合うためにも コミュは 必要かもですねえ〜〜〜。
そして、他の宗派の信仰を尊重する。夢かもしれませんが いいな〜〜
>>[288]

カトリックとは1989年洗礼の相互承認、1999年にローマ・カトリック教会とルーテル世界連盟との間で『義認の教理に関する共同宣言』、2013年にローマ・カトリック教会とルーテル世界連盟の間で共同文書『争いから交わりへ』などが出されたりしていますが、なかなか信徒がそういうものに目を通したり、お互いに行き来したりということが無いですから、なかなかわからないことが多いですね。

85年ころの上智大学の発行している「神学ダイジェスト」なんかには盛んにルターについて取り上げられていましたね。確かヨハネパウロ二世も、ルターは優れた神学者で彼に見習うべきであるなんてことを、カトリックに向けて言っていましたね。

また、教皇ヨハネ・パウロ2世による1983年12月11日におけるルーテル教会訪問とそこでなされたあの声明なんかは有名ですね。

http://w2.vatican.va/content/john-paul-ii/de/speeches/1983/december/documents/hf_jp-ii_spe_19831211_incontro-ecumenico.html

上記の英語版

http://www.ewtn.com/library/PAPALDOC/JP831211.HTM

機械翻訳
"・・・
私が来ている。このような理由から、我々は(いや、回勅<Redemptorホミニス>。1)新しいアドベント、期待の季節」のシーズンに特定の方法でもある「私たちは2000年の閾値です "ので、「特別な親和性によって一体化されている「この都市の市民に、私たちの隣人に、話をする(第二バチカン公会議は、エキュメニズムに関する政令が)。私は、祈りの中でと瞑想で、あなたと一緒に記念するためにここに来ました私たちに共通しているアドベントの信仰の謎は、その深いとマニホールドの富は。私は神の御霊が、これらの日に私たちを指示していたので、エキュメニカルな対話を通じて、キリスト教徒の完全な統一を求めるようになってきた。我々は困難な歴史を知っていますローマ、その骨の折れる始まりとこの都市の環境におけるその開発の光と影で、この福音ルーテルコミュニティのこれはそんなに多く早急に私たちに質問を提起する:uが私たちすることができます、すべての人間の弱-にもかかわらずの欠点にもかかわらず、過去数世紀は-ない、我々は理事会の間に知覚される聖霊の言葉を通じて、最近の時代に現れた神の恵みに自信がありますか?」 (エキュメニズムに関する法令、なし。6)。

したがって、我々は明確に教育と生活の中で持続全部門の中で、アドベントのすべてのキリスト教徒の連帯で自分自身を深く団結を参照してください。私たちは熱心に統一を望む、と私たち自身は(なし。6、エキュメニズムに参照令)のパスに沿って発生する可能性のある困難を落胆なっせることなく、この団結を追求するために努力しています。最後に、マルティン・ルターの出生のこの第五百周年の際に、私たちは夜明け私たちの団結の、私たちのコミュニティの回復の出現のような距離の上昇を見ているように見えます。この結束は、神の永遠の言葉の光の中ですべてのキリスト教徒の毎日の転換と贖罪の更新の果実です。また、私たちの世界における神の出現のための最善の準備です。

私たちはアドベントの季節の偉大な姿に従ってみましょう、私たちはバプテスマのヨハネ、砂漠で宣言1の声の例に従ってみましょう。(ヨハネ1:23)を「主の道を準備します」。私たちは神とし、自分自身の間で和解への招待状に従いましょう。キリスト、主は、私たちの間だけでなく、上記にもある、と彼はKyrios、あるだった1、で、誰が永遠になります。

すでに今日私は私の心のあなたのために祝福されたクリスマスからとあなたの家族のために願っています。"

カトリックの出版物としてサンパウロから出ている「諸教派のあかしするキリスト」(百瀬文晃著)にもルーテル派について出ていますね。




>>[279]

>昔いた牧師が、聖書朗読の時、日本人はどうしても聖書を開いて目で追ってしまう。そうではなく、朗読されるのを聞いてくださいと言われましたね。それ以来、礼拝では聖書は開かずに聞いていますね。

カトリックもおおむね目で追わない感じですね。もっとも単純な理由で「視覚障害者の人が困る」ということで、その代わり難聴の人向けに手話通訳はいます。

でも、聖書朗読奉仕者が意味を理解して読んでいるのと、字面を追っているだけなのとでは、説得力が違うんですが、これもカトリックでは司祭以外では字面を追っている人のほうが多い。
>>[291]

日本的なんでしょうね。学校教育の時の癖で、本を開いて朗読を聞きながら文字を目で追うという事をしてしまうのではないかとも思いますね。

【大炎上】共産党が「熊本地震募金と称して政治資金を集めてる!」と国民大激怒 / しかも熊本地震募金の行き先が「日本共産党」

理不尽かつモラルなき政治資金集め?

buzz-plus 2016.04.18

http://buzz-plus.com/article/2016/04/18/japanese-communist-party/

"2016年4月16日(土曜日)に、荏原文化センターで開催された日本共産党演説が、物議をかもしている。このイベントで「熊本地震募金」と称し、政治資金集めをしていた疑惑が浮上しているのだ。事の発端は、共産党衆院東京3区予定候補の「香西かつ介」氏のツイートだった。

・香西かつ介氏のツイート
「ただいま演説会の舞台裏。熊本、九州地方を襲った大地震の救援募金をよびかける小池あきら参院議員。新書記局長に就任して初の演説会は地元、品川でした!」(2016年4月16日14時57分)

「昨日の演説会は会場からあふれる550人の方に足をお運びいただきました。募金は37万円も。熊本の被災地救援、北海道5区補選支援、党躍進のためにありがたく使わせていただきます。それにしても熊本、九州のみなさんが心配です」(2016年4月17日9時25分)

・理不尽かつモラルなき政治資金集め
上記のツイートを見た多くの日本国民が大激怒。「熊本地震の称して募金活動をしておきながら政治資金にもお金が回されることが判明したから」である。理不尽かつモラルなき政治資金集めだと感じた国民が、香西かつ介氏と共産党を猛烈にバッシング。その後、香西かつ介氏はツイートを削除し、以下のツイートを新たに書き込みした。

・香西かつ介氏のツイート
「昨日の演説会は (1)熊本の被災者救援 (2)北海道5区補選勝利 (3)党躍進 の3つの目的で募金の協力をよびかけ、賛同頂いた200人以上から37万円が寄せられました。均等に配分し、現地に届け、ありがたく活用させたいただきます」(2016年4月17日11時7分)

「写真は演説会の参加者に配った封筒です。司会からこの3つの目的で賛同いただける方へ募金の協力をよびかけました。決して「被災地救援」を口実に資金集めをしたわけではありません。確かに封筒を分けるなどの配慮は必要だったかと思います」(2016年4月17日20時20分)

・いまだに日本国民が激怒
つまり、日本共産党演説で募金をする際、来場者に「熊本の被災者救援、北海道5区補選勝利、党躍進」の3つの目的で募金の協力を呼びかけたと弁解したのである。しかしながら、「政治資金」と「熊本地震募金」をひとつにまとめて募集していたことに対して大炎上。いまだに日本国民の怒りが収まらず、燃え続けている。それもそのはず、どれくらいの金額が、どこに使われるのか、まったくわからないからだ。"
>>[294]

募金するなら、役所または赤十字に限りますよね。
それも直接にね。
>>[295]

そうですね。

その方が安全ですね。

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