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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュのキリスト教と経済

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この書籍は読んでませんが・・・↓

『神の国と経済倫理―キリスト教の生活世界をめざして』
東方敬信(著)
出版社: 教文館
出版日: 2001/03
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
キリスト教信仰が目ざす「平和を可能にする神の国」の労働・所有・消費はどうあるべきか。
「戦争」「飢餓」「環境破壊」に極まる現代世界経済の問題点のありかを探り、新しい経済生活のヴィジョンを追求する。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
東方/敬信
1944年、兵庫県に生まれる。1966年、青山学院大学経済学部卒業。
1970年、東京神学大学大学院修士課程修了。
1970-1975年、日本基督教団銀座教会副牧師。
1976-1983年、日本基督教団経堂緑岡教会牧師。
現在、青山学院大学宗教主任、経済学部教授。
日本基督教団富士見丘教会牧師(代)。
著書に『H・リチャード・ニーバーの神学』(1980)、『キリスト教と生命倫理』(1993)、『物語の神学とキリスト教倫理』(1995)、『ジョン・ウェスレーと教育』(1999)。訳書 H・R・ニーバー『近代文化の破壊と唯一信仰』(1984)、J.M.ガスタフソン『キリスト教倫理は可能か』(1987)、G.D.カウフマン『核時代の神学』(1989)、S.ハワーワス『平和を可能にする神の国』(1992)、セオドア・W.ジェニングス『神学者の使命』(共訳1994)、S.ハワーワス、C.ピンチス『美徳の中のキリスト者』(1997)、S.ハワーワス、W.H.ウィリモン『旅する神の民』(1999)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


キリスト教と経済の関係について、
「キリスト教が世界経済を悪くする大義名分に使われてるんじゃない!?」と、訝しく思っての質問トピです。

コメント(79)

>>[40]

つーか、実際そうですよ。
冷戦期にイランのイスラーム革命を支援したのは、イスラーム社会主義者ですし。

中国で、拝金主義に反発した人々が今更儒教に走るのも、似たようなものです。

日本も、勇ましく大日本帝国とかやってた時代は、近代の超克とか言ってましたけどね。
日本人はアンチテーゼを生むだけの普遍的論理性を持たないので、
アメリカ流に転ぶか、海外の反システム運動にのめり込むかのどちらかです。

日本の保守がまともならアンチテーゼになり得たでしょうけど、
保守は情緒的過ぎて他者への共感力を持たないところが残念ですな。
>>[44]

日本より歴史が古く、文化もほぼオリジナルが継承され(文革で大分破壊されたが)、
経済的にも世界第二位と称する、地域大国たる中国でクリスチャンが一億人を超えているのに、

何故外来・舶来物好きで(日本の寺は中国の建築由来なので、中国人は奈良とか京都とかを見ると「古い中国が残っている」と歓喜するそうな)、
海外から積極的に制度・思想・文化・習慣・行動様式を取り入れている日本で、
全くキリスト教が振るわないのか、というのは歴史的に謎ですな…

合理的という意味で言えば、中国人の方がよほど合理的…
まあ、中国文化というと氏族社会だのを思い浮かべますし、何だか利己的なイメージもあるし、無論そういう人もいますが、
性格の良い中国人クリスチャンもいますし、なかなか普通の日本人と大して変わらない中国人もいるのに、
この差はどうも分かりませんなあ…

中国でリバイバルが起こっているものだから、宣教不毛の地である日本に対する海外の宣教・伝道団体系が軒並み冷たくなって、中国へシフトして行っている印象があります。
ま、良くも悪くも「変わらない日本」という印象を与え過ぎたのでしょうけど。
多少本題に戻しますが、立ち読みしたところではこの本は云わば提言でそれはそれで良いのですが、解決策を出してない点に問題がありそうです。説教は投げ掛けでも良いかも知れませんが、経済は現実です。

解決策が他のスレで既に紹介されているピケティの「21世紀の資本」ということになります。自分の考え出したフリードマン+フリーコミュニオンの「分餐の経済学」に偶々似ていて最近読んでます。まあ、多分同じ大学に遊びに行ってたことも関係あるかも知れませんが、妄想の域を出ません。
※※
ピケティ自身パリ大経済学校の先生ですからカトリックかユグノーは間違いないと思います。
パルザックの「ゴリオ爺さん」に感化され、貧困の解決に関心をもったと言いますが、バルザックの作品にも聖書の視点がある訳です。
私はピケティの経済論を分餐から読んでます。
ピケティの本は読んだことはないですが、世の中に利子がある以上、
労働価値で剰余価値を取られた残りの額と、
資本の集中によって独占資本化した、巨大資本の投資によって生じる利潤だと、
後者の方が大きいに決まってます。

もし逆なら資本家なんて存在するわけがない(笑)
客が儲かるならパチンコ屋を経営する人間がいる筈がないのと同じです。

解決策としては、資本主義の行き詰まりを回避する為に、創造的破壊(イノベーション)を起こりやすくする環境を整えること、ぐらいですかね。
何より、市場にはサイクルがあるので、放置しておけば必ず独占化・寡占化したり、商品や企業自体の寿命が来る。

この場合、弱者は商品・サービス・チャネル・地域の差異化をはかることを目標とすること。
決して「他の人と同じ」「ふつー」を求めては駄目です。
弱者はニッチを見つけるしかありません。他人と違うことをしなくてはならないし、むしろ「ふつー」を忌避する生き方を教育で推進する必要があります。

また、個々の教育では、ジェネラリストよりスペシャリストの育成にリソースを投じること。
どこかのアホ政府みたいに、わざわざ大学まで行かせてトラック運転手を育成させるような馬鹿な教育政策を考えるのではなくて、
とにかく一点集中主義、法務なら法務、開発なら開発、生産管理なら生産管理、販売なら販売に特化させるべきです。
現場の人間として優秀な人間を管理職に出世させるという、ピーターの法則を成立させるような人事には慎重になるべきでしょう。
報いは地位ではなくて金銭と休暇で与えるべきでしょうな。

教育の結果、近代世界システムの中核や半辺境から、周辺へ技術や資本の移転が容易になると、
勝手に裁定取引の結果、所得格差の平準化が起こるので、それを期待するのが現状ベターでしょう。
そもそも古典的な経済モデルで人は動かない。

アメリカには、半ガロン、すなわち1.9リットルのサイズのアイスクリームがある一方、
ベン&ジェリーズの、1パイントすなわち473mlのアイスクリームが売られていて、後者の方が高級だとされています。
半ガロンで後者を売れば、それこそ15ドルほどしますが、前者は5ドル以下。

高級品で味が良くても、15ドルで売られていれば、高級品で味が良いと知っていても、客はショックを受けて安い方を買う。
だから、パイント売りをすることで、見かけ上、それほど高く感じさせないようにするわけですな。
つまり、差異化と顧客の利益追求の結果、こういう極端な容量の差が生まれたわけです。

私利以外でも人が行動するのは、行動経済学の結果明らかになってます。
だから、強者の論理である新古典派的な自由市場でそのまま戦うことを強いても、弱者は必ず負けます。

個人的には、教育で、生徒たちにはランチェスターの法則を教えることを必須にすることを推奨しますけどね。
そもそも、市場競争で勝者になる技術と、勝者が市場を独占してから後に必要とされる技術は違う。
そして、後者の方が打てる手は多いし、楽だし、弱者を潰しやすい。

たとえば、後者に関して言えば、弱者が新アイディア商品開発の情報を掴んだ途端に類似品をつくり、大々的に広告してしまう、などの誘導が可能。
こうするだけで、弱者にとって差異化の効果が一気に薄れる。
実際に品質の差がどれだけであろうと、注目を目立たなくしてしまえば、あとは強者のブランドなどで圧倒出来るわけです。
加えて、徐々に新型で品質を上げていけば容易に潰せる。

日本などは(まあ、日本だけに限らないが)、大企業で強者の論理に従って強者の戦略を打つ為のみの人材の育成に偏っているきらいがあって、
いざ差異化を他でやられて、立場が逆転すると、途端に弱みをさらけ出す、みたいなことをしてしまう場合が少なくないです。
ガラケーがほぼ一掃された例などがそれですな。
ハード面で品質の差がiPhoneなどと変わらなくても、呆気無く市場を奪われてしまった。

だから、教育からちゃんとやり直さないと駄目ですな。
「差異の恐怖」に陥ることなく、集団への従属主義に向かうことなく、「人と違うことを模索せよ」で行かないと。
非合理的要因による失敗例もあります。

それは、P&G社での失敗例。
当時のP&G社では、オレンジジュースの「シトラス・ヒル」が、競合ブランドであるトロピカーナやミニッツメイドに離された、業界第三位のシェアに甘んじてました。

で、P&G社では、消費者調査の結果として、消費者はオレンジジュースに「おいしさ」を求めているという事で、製品開発部などで品質の向上をはかり、
ついに、トロピカーナやミニッツメイドに対して、ブランド名を隠した「ブラインド・テスト」で勝つことが出来るようになるまで品質が向上した「シトラス・ヒル」を開発しました。

そこで、「世界で一番美味しいオレンジジュース」として、巨額の資金を投入して大々的に広告キャンペーンを行いましたが、…結果はシェア変わらず。
更に何本か広告キャンペーンを打ちましたが、それでも効果なし。

何故か。

実は、消費者は、「おいしさ」が重要であると言っても、今飲んでいるオレンジジュースに不満があるわけではなくて、「100%オレンジジュースは所詮100%オレンジジュースであり、それ以下でもそれ以上でもない」と考え、ブランド間の味に違いがあること自体考えてなかったわけです。

で、それを踏まえると、購入時の決定要因として、栄養価の高さと「新鮮さ」が意思決定要因として重要だということが判明、「シトラス・ヒル」のような濃縮還元ジュースは、「新鮮」である筈がないという思い込みが消費者にあったわけですな。
トロピカーナに比べて、「新鮮さ」そのものを売りに出してなかった。
実際には、「新鮮さ」を売りにしている他のオレンジジュースよりも栄養価が高くなるような西方であったにもかかわらず、完全にイメージで敗北したわけです。

結局、P&G社は、その数年後にオレンジジュース市場から撤退を決定してます。

こういうのは、コカ・コーラ社の、「ニュー・コーク」導入失敗例など、類似例がありますな。
まあ、他にも、フォード社のエドセルの失敗など、割りとそういう例がありますな。

加えて、流通戦略の失敗として、アメリカにおけるリーバイス。
70年代までは、ジーンズのリーバイスは高級デバートのみで販売され、不動のシェアを確立してました。

ところが、70年代後半になって、ショッピングモールが台頭してくると、急にリーバイスは売れなくなりました。
なぜなら、若者に人気のある店でリーバイスが販売されておらず、デバートのような、「両親が買い物をするような店」で売られているジーンズだというイメージが若者に定着してしまい、ファッショナブルなイメージが消えてしまったからです。

70年代まで70%を誇ったシェアは2000年代初頭には約20%まで落ち、1999年に、22の製造拠点のうち、11拠点を閉鎖するほどまでになりました。

つまり、流通チャネルの差異化にしてやられると、圧倒的にシェアを誇っていてもあっという間に市場を奪われるわけですな。

差異化こそ大切です。
日本も「他人と違うことをすべし」の教育を行う必要があるでしょうな。
ケーススタディになりますが、折角ですので「N国のキリスト教ひ人口の1%にも満たず、教会はシニア層が多数を占め、献金は減少するばかり である」
***
「ミニストリー26」にも教会は非営利法人であり、ドラッガーの「非営利法人の経営」が有効とありました。要約は以下
http://www.unipro-note.net/archives/26200049.htm
l
P65 「教会は経営するもの?」
>>[51]
主の平和!
今日は失礼します。

> 。
「差異の恐怖」に陥ることなく、集団への従属主義に向かうことなく、「人と違うことを模索せよ」で行かないと。

教会乱立のこの時代、教会の少ない荒れ野を開拓するニッチよりも差異化の時代と思います。
教団への帰属意識の余り、教団と一緒に心中、いや没落することなくいきたいものです(^^;。
>>[54] アリア
多少ドラッガーの解説を引用します。
http://www.unipro-note.net/archives/26200049.htmlでも、非営利組織は、違います。
非営利組織は、明確な社会的使命、目的を果たすために結成された組織です。
したがって、「なんとなく運営」は、本来、許されません」
***
運営でなく、経営という意識を持って「なんとなく運営」でなく、≪責任ある経営≫が必須ということに。
>>[54] アリア
ドラッガーは聖書から経営学を構築したとされてます。当然といえば当然ですが、
以下のサイトに解説があります。
http://careerpark.jp/53910
聖書には「黄金律」も含め、経営に必要なことばが沢山あると思います。
上記にもありますが、下記サイトに詳細に書かれてます。
http://mag.executive.itmedia.co.jp/executive/spv/1104/15/news013.html

この話題にピッタリのケーススタディがありましたね(どちらかというとキリスト教と経営てすかね) 。
「右手に聖書、左手にドラッガー」
キリスト教徒経営の山崎パンの話です。
http://cpainvestor.com/?eid=219

山崎パンのデータは下記
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E8%A3%BD%E3%83%91%E3%83%B3
>>[56]

滅ぶ所は滅ぶし興る所は興る。
これもまた自然の摂理なり神の御心なりというヤツでしょう。

その事自体には意味など無いのですが、そこに意味を感じるのが人の常。
そうして人は普遍的な成功モデルを模索するのです。

しかし実はそんなものは無い。
だから何度も創造的破壊が繰り返されるわけですな。

かくて資本主義は今日も明日も生き延びるわけです。
主の平和!
今日は失礼します。
制作も一段落でコーヒータイムです。
解説したサイトもありましたね。
キリスト教、特にピューリタニズムはその勤勉性を通して、経済の発展が右上がりの地域、時代では云わば贅沢をしないという禁欲の故に資本を増加させましたね。云わば資本の蓄積ということです。しかし、それは同時に「富めるものは益々富む」という格差の問題を起こした気がします。
http://www.kohara.ac/research/2002/09/review200209.html
この本は立ち読みしましたが、あくまでも神学、心の問題の問題定義で、何か格差社会解消などに役立つものでない気もします。
具体的な解決は給食物語に現れてます。
自分のサイト上げます。
http://plaza.rakuten.co.jp/ntl2005/diary/200808210000/
平行記事にはイエスの周辺の群衆が三日食べてなかったことめ書かれてます。寝食忘れでなく、食べれなかった事情がある訳です。日常茶飯のことでした。家族そろって飢餓ということです。
その中で、イエスが分配、分餐したことが書かれている訳です。飢餓の中で分配したことが奇跡である訳です。
私は特に触れましたが、聖餐の原型ともされてます。http://s.ameblo.jp/marco-s/entry-10967457735.html
格差の今、再分配こそが福音書から学ぶことです、
そこで、トマス兄弟の「21世紀の資本論」やフリードマンが出てくる訳です。
トマス兄弟はマクロ的に考えましたが、私はそれと共にミクロも考えたいと思います。
ミクロ的な視点はマルコ、いやマルクス兄弟ですが、多少変えなければ今日は難しそうですね。
ウェーバー「アメリカ資本主義とキリスト教」で紹介された話。

ウェーバーが、アメリカ旅行中で長距離列車に乗り合わせた行商人が言ったセリフ。

「旦那(ウェーバー)、お互い信心するもしないも勝手ですから、私は一切他人事には頓着しないのですが、
ただ何の教会にも入っていない百姓や商人は、私にとっては50セントの信用にも値しませんね。
何も信じない男がきちんと支払いをする保証はないではありませんか」
「新来の商人が土地の者と交際関係を始めようとすり時、必ず何気なくだが決まりきって
『どちらの教会へ加わっておいでか』と尋ねられるのには驚いた」

>>[63]

素敵な話ですね。

どこの世界でも 人を見たらなのでしょうね。

その中で 担保として 宗教の介在は 日本人が考えるよりも もっと重かったのでしょうね。

今は その宗教さえも 悪用されそうな.....。

ありがとう!! 心が 軽くなりますね。

これ わたしの感想ね。(笑)
オハイオ河沿岸のある都市においてドイツ系の耳鼻咽喉科の医師から聞いた話として、
次のようなエピソードを伝えています。

医師の指示で診察用の長椅子に横になった最初の患者は、起き上がって、もっともらしい顔で、語調を改めながら、
「先生、私は◯◯街のバプテスト教会員ですが」と言った。

理解不能だったので、医師は後で知人のアメリカ人医師にその事を尋ねてみたら、それが、

「診療代の支払いはご心配なく」という意味だったそうな。

つーのも、当時のバプテスト教会に加入を許されるためには、
「周到な試験と綿密な少年時代からの『素行』調査(すなわち、不身持、飲食店通い、ダンス、芝居、トランプ、必要支払いの遅滞、その他の不品行の有無についての調査)とを済ませて初めて可能」となるというほど厳しく、
そこに入会を認められたという事は、最高の身分証明となるということだったそうで。

…アメリカらしい話ですな。
>>[65]

これは これは。

名門、特に カトリック プロテスタントに関係なく 名門と言われる学校を彷彿とさせますね。

規律や秩序が必要なのは 十分にわかるのですがね。

素行悪い子を 拾う方がといつも思うことがありますね。

でもそれは施設系(?)
>>[65]
主の平和!
>周到な試験と綿密な少年時代からの『素行』調査(すなわち、不身持、飲食店通い、ダンス、芝居、トランプ、必要支払いの遅滞、その他の不品行の有無についての調査)とを済ませて初めて可能」となるというほど厳しく、
**
まあ、ピューリタニズムが行きすぎて、多分、キリスト論に於いても、イエスを聖化し過ぎるアポリネオス主義だと思います。
不品行に対する糾弾も見たことがあります。
多少言い替えますが、多く赦すものは多く愛される。
>>[65]
キリスト教と経済に関係付けると、まあ、日本の会社社会には入れませんね。
キリスト教徒の方が、一般の人間よりより多く飲まされ、より多く繰り出されますからね。
昔は、喫煙チェックのある会社もありましたし。

融通が効くか効かないかが最大ポイントのところが多いです。
>>[68]

>>キリスト教と経済に関係付けると、まあ、日本の会社社会には入れませんね。

会社と言うのは 一般に言われている会社ですか?


一概には 言い切れないでしょう。

何代か前の日銀総裁は 東京の某日本基督教団の 信者さんで お孫さんまでご一緒でしたよ。
結構 経済界を引っ張っている人の中に クリスチャンはいますよ。

誰もわたしが キリスト教徒だと背中に看板を背負っているわけではありませんから、 わからないだけではないですか?
>>[66]

まあ、実際、アメリカでは教会に行く男性はもてたそうな。

亡命キューバ人を装ったスパイが、
アメリカ女性に近づいた手段として選んだのが、
教会に熱心に通う、という事で、
しかも実際に上手くいったそうな。
>>[68]

日本では、教会ではなくて、どこの会社に属してるかの方が、社会的信用にとって重要ですからねえ。

具体的に、銀行でのローンの組みやすさで思い知らせるわけで。
専門用語で職業威信という。

アメリカでは、たとえば日本では高い公務員の職業威信が低いが、
代わりに教会威信があったわけですな。

威信なき富は正統性が与えられない。
日本では公務員や大企業からの給与という由来が、富に威信を与えるし
(小室直樹の友人に富豪がいて、放蕩三昧をしていたが、
彼は高校教師だった。
なぜ働くのかと言えば、富豪でも無職だと異性にもてなかったから)、
アメリカでは、キリスト教的慈善事業への寄付が威信を与える。
ビル・ゲイツは、金持ちになっても質素で、マクドナルドのハンバーガーを、クーポン券を使ってまで食べていたというイメージがあった。
日本なら、贅沢しない、謙虚な金持ちという事で評価されたのだろうが、
アメリカ人は彼を相当厳しい目で見ていた。
だから、財団をつくり、慈善事業に寄付した時、アメリカ人は賞賛した。

ところが、日本人はやはりそれが理解できない。
シリコンバレーに在住していた梅田望夫は、こう評した。

「…(私は)虚をつかれたような思いがした。
長年ビル・ゲイツについて考え続けていながら、彼が慈善財団の運営にここまで本気だとは思ってもみなかったからだ」

日本人は、キリスト教と資本主義の関係について、ウェーバーなどで散々学び、大学でもプロ倫が必読書扱いだったのにも拘らず、
富に威信を与えるのは何かという事に考えが及ばないわけですな。

所詮日本人の教養など付け焼き刃とゆーのが分かるコメントです。
>>[74]

日本では寄付行為は、下手したら売名行為扱いにされるから、難儀な話ですなあ。
カトリックでは19世紀まで、イスラームでは今も利子禁止ですが、
ルターが否定した利子をカルヴァンが認めたのは、
次のような訴えを聞いたからです。

「実業からの収入が土地所有からの収入より大きくあってはならないという理由はどこにあるのか。
商人に利得が彼自身の勤勉と精励から得られないとすれば一体どこから得られるのか」。

で、農業にとっての収穫は、商人にとっての利益であり、それが正しく行われれば、利子の禁止には当たらない、と解釈がなされた。

ただ、イスラームで禁止された利子はリバーとゆー、いわば純粋利子。
しかし、ムダーラバ、つまり、投資から得た利潤の分配を、労働力を提供した人間と行うという意味での利子は許されてます。

これは、労働の市場商品化の否定だと、評価する人もいますな。

ちなみに、転売利益のムラーバハ、用役権の譲渡益たるイジャーラは肯定される。
利子は否定されるが、利潤と手数料は肯定されているわけですな。

ウェーバー流に言うなら、古代ユダヤと同じ、賎民資本主義という話になります。
ムハンマドは商人だったから、農業に対する愛着はなかった。
「ハディース」には、ナツメヤシの授粉をしている農民に、
「何かの役に立つとは思わない」と言ってしまったムハンマドの言葉が載ってます。

石門心学は、合理性とは無関係ですが、カルヴィンズムに似てました。
石田梅岩は、
「金銀は天下の御宝なり。
銘々は世を互いにして、救い助ける役人なりと知らるると見えたり。
この故に困窮に至り多く人を救い…これぞ実の学者(心学の実践者)」
と教えてました。

1850年の大飢饉の時、350日にわたり、約1万両を超える施工が、京都の心学者のボランティアで行われ、そのお陰っ、京都ではほとんど餓死者が出なかったと言われてます。

その意味で、現代の日本的資本主義には、石門心学がほとんど継承されてない事が分かりますな。
山本七平とは違い、おそらく今の日本的資本主義に影響したのは、
石門心学でもなければ、陽明学でもなく、
国学の勤労観でしょう。

越後の、桂誉重による「済生要略」には、
「士農工商の四民とも、先祖以来代々の仕来りし家業の事にて、
役人は勤るが家業、農民は田畑を作るが家業にて、其根本は神より授け、神より命ぜられたる職業なれば、等閑、懈怠なく、面々勤仕えるが、すなわち神と君とへの方向なり。
役人が役を勤めるめ御用、農人が田を作るも御用、大工が家を建て、商人が売買をする、皆是御用なり」。

労働は神事で職業身分は天職なわけね。
労働自体が目的であり礼拝。
だから、効率化してもダメだし、職業威信が形成され、かつ、慈善事業はあまり重視されない。

宗教が経済活動に威信を与えるなら、まさに、日本的資本主義は、国学運動による、労働の自己目的化と、職業が日本人の富に威信を与えるわけですな。

つまり、日本的労働観の持ち主は皆神道w

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