ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの全能者のパラドックスについて。

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
キリスト教の神は、全能であると使徒信条にも謳われてます。
しかし、僕は、その全能を無限定性と考えていません。
ラテン語で全能に当たる言葉は「万物の主権者」という意味合いもあり、僕は相対的に他の全てより全能的であると思っています。
だから、いくら全能の父なる神でも、「三つの頂点を持つ円」だの、「中心からの距離が不均等の球」などはつくられないと思っています
(これは、聖書に、無限定性を否定する根拠が割りとあることにも由来します。端的に言えば、申命記にある、「新婚者は兵役に就かさず家に帰せ」みたいな戒律の存在などです)

しかし、他のクリスチャンにとってはそうではないでしょう。

つーわけで、皆さんは、いわゆる全能者のパラドックス、すなわち、

「全能者は、全能者を含むあらゆる者が持ちあげられない岩をつくることができるか」

…というパラドックスについて、どう思ってますか。

おおっと、「全能者はいない。神はいない」とかいう方の参加はご遠慮頂きます。
これはそういう知的遊戯ですので。
それから、「全能者は人間の論理的能力を超えるのだ」というデカルト的な人もご遠慮いただけると幸いです。
話が終わりますので。

コメント(174)

>>[121]
信条的な理解をするとそうなります。神以外はプラスマイナスは解らないということです。
しかし、「神の物語」にも少なくてもキリスト教徒にとってはそれは救いの時であると考えるべきとありました。
私はその線ですが、最後の審判は最後の救い、救済を思います。
>>[134]
おおぉ、それが相対の存在者である人間の分際を弁えた絶対性を臨み見るひとつの神理解だと思いますよ。(ひとつのとは、俺のような絶対性理解もあるという意味でw)

なんだかんだって、イリアさんが真面目なクリスチャンではなくて良かったww


逆に俺は、神学の教授なんかが俺と同じ論理で語っていると、胸糞が悪くなります。
>>[128]

結構かかっても大丈夫な寿命だもんw
息子夫婦、孫夫婦、その下も次から次へとねずみ算式に殖やすでしょうしw
>>[137]
ですなw
こういうこと気にして聖書読んでると、大事なものを見落とすよって言われたことがあります。

無神論者が聖書を読むドグマよりは理解が易いかもしれませんww

>ニヒルを説く人


ゼカリア・シッチン?

↑それはニビルを説く人
>>[138]

聖書の世界観は現代社会とは全く異なることを理解して、現代社会の常識を挟まずに、とことん聖書の世界観に添って解釈しようとすれば、意外と矛盾なく理解出来るもんですw

感覚的には、よく練り込まれた全くのファンタジー物語の世界設定に近いですがw
つーか、地中海世界からペルシャ、下手したらインドあたりまでの広範囲の神話の集大成にして、

同時に現代に存在する大抵の<物語>の大元みたいなものですが。
>>[141]
聖書に限らず、古典はそうやって読むものですねw

そして、そういう聖書のようなもののテクストを根拠にして、そのまま現代に生きる我々に『絶対性・全能性』をいくら語ったところで、その行為は『騙る』行為に他ならないのではないか、と言うのが俺の主張です。
>>[143]

とはいえ、聖書には時代を問わず通用する永遠の真理が書かれていることが大前提となりますから、その部分を明確に指し示せる『神の預言者』が居れば聖書をテキストにしつつ現代にアジャストしたかたちで『絶対性・全能性』を語ることが出来るわけですw
そして聖書はそのようにして書き足されて来たわけです。


しかし、現代にそのような預言者を認めることは、聖書が完結していないことを意味するわけで、必要な啓示は全て出尽くしたとして聖書を完結させてしまった異邦人キリスト教会としては実に都合が悪いw

そのためキリスト教原理主義者は神の属性であるはずの『絶対性・全能性』を紙に投影し、聖書そのものに『絶対性・全能性』を与える愚を犯すわけですなw

つまり預言者を認めない異邦人キリスト教会は『絶対性・全能性』を理解する術を自ら失ってるわけで、理解せずに語る以上は騙っていると映るのも当然ですw
>>[144]
まあ、そうとも言えますが、逆説的に言えば、その神の預言者なるものを何でもかんでも認めてしまえば、誰しもが神の預言者になってしまうとも言えるから、認めないのではないでしょうかw

無神論者の俺から言わせてもらえるなら、モルモンやチャールズ・T・ラッセル、文 鮮明、千乃裕子も神の預言者として認めるなら、いつまで経っても聖書は完結し得ない不完全な書物だと思います。
そういう論理で、従来の権威は後世の教義を中々認めないのではないかと思います。

そして、認める認めないを主体の教義のあり方いかんにより選びとるのならば、実に相対的であり『絶対・全能』の対極にあるもので、(絶対)神を論じるに値しないのではないでしょうか。

まあ、キリスト教もユダヤ教ナザレ派やイエス派と言い換えることも出来る意味においては、新興宗教の域を脱していないとか言ってしまったら、真面目なクリスチャンから俺もドヤされるかもしれませんww
>>[145]

その真偽を諮るテキストこそ聖書なんですけどねw

それに、完全なのは神だけであって聖書を完全にする必要なんて元々ないんですよw

おっしゃる通り、他派を認める認めないなんてやっているのは神を論じるに値しない相対的な考え方で、絶対的な権威を持つのであれば、他から何と言われようがただひたすら「真理とは之なり」と唱え続けるべきなのですw
>>[146]
俺が思うには、絶対や全能の根拠に聖書を置くならば、聖書を完全にする必要はあると考えます。

そのひたすら『真理とは之なり』って考え方は好きですね。

キリスト教をユダヤ教ナザレ派イエス派、イスラム教をユダヤ教アラブ派イシュマエル派なーんて考え方だと、ユダヤ教もウガリット系神話ヤーヴェ派となりうるのではないかと思います。
絶対神教理を捨て去れば、真の意味で『認め合う宗教概念』を構築して行くことも可能かもしれません。
>>[147]

ナザレ派をキリスト者と呼んだのは、非クリスチャンだから。
ルター派も、「アウグスブルク信仰告白の諸教会」と自称していたのに、カトリックが余りにも「ルター派、ルター派」言うものだから、
「よろしい、ならばルター派だ」と開き直って自称したのが最初。
同じ事例はエリザベス女王に「純粋過ぎw」とか言われたピューリタンにもあります。

こーゆーのはラベリングやスティグマ(社会的刻印)を逆手にとった、言わば自己成就予言みたいなものですから、どーしよーもありません。

何が言いたいかというと、アイデンティティは自分の内心の発露とは別に、
他者による枠組みの強制によっても形成されるということ。
「真の意味での認め合い」というのは、特に後者の枠組みの解体も意味するから、おそらく無理でしょう。

日本でどれだけ政治的左右に関するラベリングが横行していると思います?
人間は考える手間を惜しんでスティグマを押したがる怠け者の生物なんですよ。
そういうのはユダヤの食物規定とかにもあって、
実はユダヤの地層からは、ブタの骨が割りと結構発見されているんですな。
律法という形でアイデンティティが形成されるまでは、豚肉を古代イスラエル人は食べていた。

で、同じように食物規定があった集団もあって、当時、シリア辺りに住んでいた、ある宗教民族集団は、魚を食べることが禁忌でした。
それで、歴史的に生き残ったのはユダヤの方で、シリアのそれは完全に消滅してしまってます。
それは多分、バビロニア帝国がユダヤ人を捕囚にしてしまったからでしょう。
アッシリアの時みたいに混在させてグチャグチャにしてしまえば、まあ、サマリア人みたいに信仰が変質するか、あるいは「失われたイスラエル十支族」みたいに、アイデンティティを消失してしまったでしょうな。

プロイセン王国で仲良く暮らしていたドイツ人とポーランド人が、ドイツ帝国の成立によるゲルマン化の強制で、
ポーランド人の民族意識を高めてしまったようなものです
(…わかりにくいか…)
ゲルマン化をしなければ、両方ともプロイセン人になったかもしれない。

他者の顔ならぬ、他者からの視線が自己を形成する、という事が、まあ多々あるわけで、
それは絶対神信仰を持つか持たないかの話ではないですよ。

僕なんか、洗礼直後の最初の頃は、日本の民俗が好きで、どちらかというと「真面目な」クリスチャンを揶揄する側だったのに、
ノンクリスチャン日本人の無茶苦茶な偏見にさらされたお陰で、思いっきりノンクリスチャン日本人の一部が大っ嫌いになりましたからね。
>>[148]
いやいや、私の信じている神が絶対であり、異教徒は虚空に祈りを捧げているなーんて言ってるなら、『認め合う宗教概念』なんてものは生まれてこないという意味です。

そりゃそうですよね。俺の神が絶対だぁ!!お前は虚空を拝んどる!!なんて言われたら敬虔な信仰を持つ人は殺しあうか無視をするか、認め合うことなどないでしょ。

いままで様々に絶対・全能とは何かを語ってきたのでお分かりだとは思いますが、こういう絶対・全能を深く考えもせず、ただ神は絶対だとか全能だとかのたまう宗教こそ、絶対を騙る宗教だと俺は思います。
そしてこういう宗教に眉につばをするべきでしょう。

もちろん、アイデンティティの構築においては他者を必要とします。無人島にたった一人で生きてたらアイデンティティも必要ありません。
その上で、ルターなんかと同じように、モルモンやエホバの証人や統一教会も存在するのでしょう。


たとえば、「全能者は、全能者を含むあらゆる者が持ちあげられない岩をつくることができるか」 と言う質問を、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の敬虔なる聖職者に質問したら、回答は大体同じ内容だと思います。
イリアさんも含めて、みんな同じ神を信じてますから、おのずと回答も同じになるはず。
そこで、豚を食うとか、包茎を切るとか、バフテスマを受けるとか、チーズバーガーは食べないとか、細かい違いはありますが、そんなことは『絶対・全能の神』にはどうでもいいことになるはずです。

なぜならば、『絶対・全能の神』は自分の内にしか存在せず、外に絶対神を見るならば、ただの魔法使いになるからです。

ひたすら『真理とは之なり』というのと、異教徒は虚空に祈りを捧げているというのでは、意味合いがまるで違います。


ノンクリスチャン日本人の無茶苦茶な偏見はどういうものか分かりませんが、俺はそう無茶苦茶な概念を持ち出してはいないと思っています。(確かに、スゲェ回りくどい論理ではありますがw)

だからこそ、俺は絶対神という概念を捨て去り、ただの相対的な神概念だとした上で、他者の信仰を認め合う事が、信仰を持つ人たちに必要なのだろうと思うわけですよ。

無信仰者の俺が言えば、大きなお世話!!とか言われそうですけどねwww

ただ、マザーテレサなんかは『認め合う宗教概念』としては良い所まで行ったのではないかと思います。
>>[148]


>何が言いたいかというと、アイデンティティは自分の内心の発露とは別に、
他者による枠組みの強制によっても形成されるということ。
「真の意味での認め合い」というのは、特に後者の枠組みの解体も意味するから、おそらく無理でしょう


ただ、この言葉だけに言及するのであれば、そのとおりと思います。
不完全な人間が信じる行為なんですから、先行する宗教の分岐として後発に出てきた新たなる教理を中々認められないのでしょうね。

しかし、無理ではないと思います。

同性愛者とか自殺とか、こういう問題を『絶対・全能』と言う概念を持って聖書から回答しようとしても、現代に生きる我々にとっては意味を成さなくなってきているのではないでしょうか?

他者による枠組みの強制は、絶対ではありません。
逆に、変えようと思う勇気さえあれば、いくらでも変わっていくものだということは、イリアさんも十分ご承知ではないですか?
>>[152]

いやあ、信仰対象の差異なんてものじゃないですよ。

大体、ここで散々ノンクリスチャン日本人から受けたスティグマは、
「クリスチャンは外国かぶれ」
ですからね。
信仰関係ない。

日本民俗や歴史について、そういう偏見者より、こっちが余程詳しかろうが、
仏教も外来だろうが、と指摘しようが効果なし。

人間は色眼鏡で見る生物ですよ。
多分永遠に変わりませんね。
ま、リアルでもそういう扱いを受けた事はありましたが。
この時は、僕のいる職場環境は余り質の高い環境ではないので、そのせいだと思ってはいましたな。

もちろん、リアルでは逆に理解者もいました。
これは、情報が集約しやすいネットと、匿名性のないリアルの差でもあるのでしょうけど。
ただ、リアルでも、「僕はプロテスタントだ」と言い、聖書を周囲に勧めたりしたにも拘らず、

「ただの外国かぶれ」

…扱いされた時はうんざりしましたな。
これはおそらく、「自分達は唯一神教の神を信じるという心理を理解出来ないので、相手もきっと信じているわけではないだろう」という、日本人の悪い癖である「本心の推量」というヤツをした結果でしょう。
所詮人間なんて、他者を見る時には自己の鏡をそこに見ようとするものです。

とは言え、まだ「シューキョーは面倒臭い」と思われた方が良かったですねえ。
>>[153]
クリスチャンは外国かぶれ・・・・・・・

あー、俺も同じような扱いを受けますよ。

哲学は答えの無い問いを問うているとか、相手を論駁して自分に都合のいい回答を導き出す学問だとか、突き詰めて考えると自殺を促すような思考だとかww

そんな意味において、人間は色眼鏡で見るというのは間違いありません。
だって、自分がそれまで獲得した知識で世界を見る以外に無いのですから、その知識が世界を見る地平で、その向こう側に何があるのかなんて理解できるはずがないでしょう。

しかし、20世紀になって、やっとジョルダーノ・ブルーノも教会から謝罪されたように、社会状況や知識の獲得により、人間は代わっていくものですよ。




ちょっと意地悪に言いますね。


たとえば、『絶対矛盾の自己同一論』から『万有在神論』を或る時代の或る地域で説けば、ブルーノのように火あぶりにされるでしょう。
それがその時代その地域に住む人間の知識の地平だからです。

それを、哲学的に論理を用いて何が正しいのかなんていくら叫ぼうが、理解しようとしない人たちには無駄であり、その時そういう思考が必要な人たちにのみ理解されるのであると言えます。

逆に、そういう絶対神概念否定を行ったところで、クリスチャンがまともに聞きますか?
クリスチャンも色眼鏡で世界を見ているし、ノンクリも同じ、詰まるところ同じww


だから俺はクリスチャンに対し殊更エホバの否定はしませんし、信仰にコミットもしません。
ただ、「全能者は、全能者を含むあらゆる者が持ちあげられない岩をつくることができるか」という命題に、信仰を廃し論理で立ち向かうのならこのように考えるべきだという考え方を聴きたい人にだけ提示するのが妥当ではないのかと思います。

クリスチャンも色眼鏡で見ますから。
>>[155]

いや、基本的に、西洋哲学の素地があったら、多少は「話し合い」になりますよ。
西洋哲学というのは、実存主義に至るまでは有神論との格闘みたいなところがありますし。

問題は日本思想。
ぶっちゃけ、仏教レベルの法前仏後=汎神論ぐらいまで知的に詰めていたら何とかなりますが、
日本思想は基本的に論理の組み立て自体をしないので、最後は「常識」だの「ルールだから」だの「そんな事を言うお前はレベル低い」だの、
発◯し始める感じになるから始末に負えないです。

常識なら常識を、ルールならルール自体を問うということが出来ない。
最後は嫌なら出て行けぐらいしか言わなくなる。

まあ、確かにクリスチャンなら道義的かと言えばそうでもないし、
論理の組み立ても出来ない人もいるし、
自分で何を語っているのか分からなくなっている人や、
ルサンチマンとノンクリスチャンに対する偏見まみれになってる人もいますけど。

…よーするに、言語ゲームの共有理解というか、
いわゆる万人に対する普遍的な教養がもうないんですな。
大きな物語の消失というか。
だから、枠組みで判断してしまう。
難しいもんです。
>>[156]
うーん、無信仰者の俺から言わせて貰うと、どちらにも同じようにいえるのです。
いくら、キリスト者の体系から議論をしても、最終的には『不条理ゆえに信じる』になるから、神道も同じようになるのではないでしょうか。

まあ、ネトウヨと議論されたのなら、ご愁傷様って感じなんですけどww


とは言うものの、俺も『常識』だの『社会通念』だの『日本人として当たり前の思考』だのとのたまわれ議論にならないネトウヨとの会話を延々続けたこともありますので、イリアさんの気持ちはよーわかりますよ。


彼らは最終的には日本が嫌いなら日本から出て行けですからねw
>>[157]

察しの通り、そういう事を言ってくるのは右派ですな。
右派相手だと、僕らの側が「不条理故に我信ず」と言わざるを得なくなるまで達したことがないです。

まあ、当たり前で、そういう合理性を批判する立場が保守だから、
クリスチャンレベルより情緒的なのは分からないではないですが、
どれだけ反論しても同じ反応しかしなかったりするので、うんざりしますよ。
アレでは日本のナショナリズムが幼稚と言われても仕方ないですなあ…

せめて、フィヒテ程度は語って欲しいのですが、全然そこまで達してない。
困ったもんです。
>>[158]
まあ、ネトウヨが日本から出て行けなんていうのは負け犬の遠吠えみたいなもんですよ。
でも、そんなネトウヨたちも枠組みで見ているのではないでしょうか?

誰かと対話するときはその人個人と向き合い、枠を乗り越えて真っ向勝負がいいと思います。
俺も日本がとか国民がなんていうところに隠れようとする奴には、もっと個人の場に引きずり出して議論しないと駄目だ、なーんて思いながら時間を無駄にしてしまうこともありますよww

キリスト教的には、今の政権なんかが右傾化しているのを見ても、ローマ13章に生きるのだろうと思っています。権威がネトウヨに近づきませんように、アーメンw
>>[156]

あけましておめでとうございます。

2016年の初夢で、この辺のイリアさんとの会話と、サンタよしひでサンとの会話が重なっているようなものを感じて、再度読んでしまいましたww


全知全能を語るのは、独我論を語るのに等しいと思うのが、現在の俺の仮説になってます。

今年もよろしくw
高次元を想定すれば何でも上手く「説明」出来るのは当然。
観測出来ないのだから、単に感性に訴えて不可視な存在を感じろ、とか言われれば、そういう感覚を共有出来たと思う人も中には出てくる。

しかし、僕らは、この出来の悪い世界で生きているのであって、
高次元のアセンションだのアストラルだの仏国土だの霊界だのには住んでないのだ…
神が無限定性という意味で全知全能なら、分かっててやらないのだから、そこには悪意があるか、異質な愛がある。
神が善性なら、世界に悪と苦しみがあって放置されている以上、神は無限定性という意味では全知全能ではない。

ゲーデルの不完全性定理やその系は、世界の観測データと関係なしに、いわば論理で導かれた数学的帰結。
数学的には必然的に不可知性を内包する。
と、なれば、論理を神がつくったとするなら、神が全知である筈がない。
トマス・アクィナスみたいに、「神は自分の言葉や論理には縛られる」とするなら尚更。

そして、トピ題の全能性で言えば、少なくとも聖書のキャラクターたるヤハウェは、新婚の男を戦死の憂き目から回避させる力がない。
だから律法で公務から外すようにと民に命じている。
また、神話性の象徴たるナザレのイエスの奇跡譚でも、別に時を遡ったりしないし、治療でも四肢欠損を修復したりしてない。

出来ない事はあるわけで、つまり全知でもなければ全能でもない。
そうでなければ、この事を僕に書かせたりもしないでしょう。
現代で苦しみばかり与えられ、塞ぎこんだ状態で、突然の死を与えられたキリスト者は、
終末の復活後、永遠に塞ぎこんだ状態で生きねばならないか、否か。

「もし終末には全ての精神状態が改善される。体も健康だ」
とするなら、どうして今そうしてくれないのか。
「自由意思で抑うつ状態になったのだ」と、脳科学的におかしい事を言うなら、
「では終末でも、自由意思で永遠に抑うつ状態も可能なわけだ。それは救いか?」
と言えないこともない。

結論は一つ。
聖書のキャラクターは、書いてあることだけを示したのであって、それ以外は何も出来ないのだ。
全知全能と現実世界は観測データにおいて矛盾する。
自由意志と決定論は論理的には矛盾する。
これを超克するなら、ヌミノーゼとしての神なんかより更に低位の、日本で言えば祟り神のような創造主を想定する他ない。

しかし、神は愛という。
なら、究極的結論はただ一つ。

神はもう何も出来ない。
>いくら全能の父なる神でも、「三つの頂点を持つ円」だの、「中心からの距離が不均等の球」などはつくれないと思っています。
(トップの文章より)


その2例はその言葉自体の論理破綻によってすでに成り立たないものであり、僕は論理破綻してるものを形にする力は神といえども無いと思います。
なぜなら、論理さえも神に根拠を持っているというか、論理を論理として成り立たせている基盤こそ神だと考えているから。


ログインすると、残り144件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

キリスト教(聖書)への素朴な疑問 更新情報

キリスト教(聖書)への素朴な疑問のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング