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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの信仰の切っ掛け(キリスト教と心理学)。

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人間は、意志の力を強く見積もっています。人間のあらゆる行動は、その人が欲したからそうしたのだ、とされます。
しかし、意識は勿論決定的なものではありません。
無意識レベルでの知覚、意識の流れに対する阻害を数え上げるとキリがありません。

ユング(古っ!)の著作にあった例で言えば、ある大学教授が学生と会話に夢中になりながら田舎道を歩いていた時、突然幼児の頃のことを思い出しました。
何故そんなことを急に思い出したか不思議に思ったその教授が、思い出した所まで戻ると、かすかに鵞鳥の匂いがした。
彼が若かった頃、鵞鳥の飼われていた農場に住んでいました。かすかな匂いが、無意識で知覚されて記憶を想起させたわけです。

で、本題。
キリストへ信仰に至るにしろ、棄教に至るにしろ、モルモンなどのキリスト教系新宗教を信仰するにしろ、ムスリムになるにしろ、
何かを信じるには、無意識のレベルで何かが知覚されたか、何かの切っ掛けが働いたと思われます。
プロテスタントでは信仰は神の恵みとして、自力ではないと言われますが、つまり、それは意識レベルの話ではないということです。

で。

実は、僕には自分の信仰の切っ掛けが何かがさっぱり分かりません。
良く、神学生が「イエスが自分の為に死んでくれたことを知って、涙が出てきた」とか立派な話をしてくれますが、
そんなことは全くありません。
僕にとって回心は突然の出来事であり直観であり、寝て朝起きたら「洗礼を受けよう」と何故か考えたという、自分でも訳の分からないのが事の起こりでした。

そこで、皆さんへの素朴な問いなのですが。
何らかのキリスト教ないし啓典宗教へ信仰に入った切っ掛けや、あるいは棄教した切っ掛けというものが、もしありましたら、教えて頂けますか?

コメント(86)

>>[47]

わかってない人もいると思いますけど、
わかってる人もいると思いますよ。

(信じてる、信じてない、、はおいといて。)


とりあえず、宗教は、楽しいほうが正しい。
(ケンカしちゃいけないよ?)

(正しくて、楽しい。)
(そして、美しい。)

全部を守ろうとすると、さばかないように、批判しないように、、なってきますので、
大丈夫だと思います。
(ナニが??とわかりにくいと思いますけど、、)
(そのうちわかるよ。、という。)


(宗教に参加する目的が、楽しい交わり、だとしても、それはそれで、尊重するとか。)
(その人にとっては正しい。)

(参加しないことが楽しい人にとっては、それも正しい、正解。)


(カルトかどうかは、おいといて。。)
(そのうちわかるよ。)

>>[39]

世界的な宗教離れはとりあえず置いて、日本の場合は天皇教しかないだろうと思います。

明治憲法は、「一神教がある国における立憲君主制」をモデルにして作ったものの、明治時代は元老が仕切って明治天皇は神輿でしたが、昭和天皇になってから妙なことになりました。

問題だらけの東宮に対して両陛下がブチ切れて、悠仁親王に皇位を継承させるべく皇室典範改正の動きがあるようですし(と新潮がついに書きだした。)、東宮は即位するにしてもは悠仁さまに必要な教育を施すための時間稼ぎであって、摂政宮は秋篠宮殿下にしておけばよろしく。もちろん今上陛下のご長命のほうが大事。
>>[53]

まあ、確かに皇太子夫妻では求心力が落ちるでしょうな。
女性天皇OKにすると、将来の佳子内親王や愛子内親王の夫たちが要らんこと考えるかもしれないし。

今上陛下が上皇になるのもなかなか面白そうですな。
仏門な入って法皇となれば、バチカンに訪問された時に、
法皇と法王の対面…失礼、少しも面白くないですな。
自分の場合は、完全に父親の影響ですね。父親が聖書を読んでいるのを見たこともないし、息子の僕に話もしなかったけど、母親の回想録によれば、若いころ自室のキリストの絵(偶像ではなし)を飾っていたりしたそうな。

母親は「変な人だった」という意味で言っていたのですが、子どもというのは鋭いもので、「父親が変なのではなくて、母親が徹底的に俗なのだ」ということをちゃんと見抜いていたらしい。(俗なのが悪いという話ではありません。念のため)

で、あとはこれも父親の影響ですがクラシック音楽を好んで聴いていれば宗教音楽は避けて通れない。そこで自然とこうなった。

劇的な回心体験をしたとかいうのは、おおむね「証(あかし)」とやらための創作話か、そうでなければただの病人であるそうです。(と知り合いの牧師が言っていました。)
また訊くけどさ、こんな与太話ホントにホント信じてるの?
サンタさん信じてるのと変わらないような話ですけど。
私にはイマイチわからないんですよ。
いい大人が信じてるなんて信じられない表情(やれやれ)
日本人が葬式に僧侶を呼んで読経させないと「気が済まない」みたいなものですなあ。
科学的に言えば葬式をする合理的理由(形式合理性)がない。
そこは実質合理性(絶対的価値観に基づく論理)から動いているわけで、それで一大産業ですからね。

日本の民俗学を調べると、日本人って、本気で信心深くて、今の「ただの文化」と思っていることごとくが宗教観・世界観に基づいた名残だということが良く分かります。
擬似共同体なんか全部村落にあった講組織の馴れの果てですな。
僕の会社なんざ、管理職が正月に神社に祈願してましたよ。
端から見れば意味不明ですが、地鎮祭もそうだが、「しないと気が済まない」ということは、無意識レベルの実質合理性というヤツですな。

形式的なメリットなら山ほどありますけどね。
異性との出会いの場(笑)だったり、
自己承認欲求や社会的コンボイ(ソーシャルネットワークの一つで、自己に加えられるストレスなどの社会的クッション)の提供場だったり、
日本的な、うんざりするような宗教的習慣の名残群をしなくて良い理由(笑)にもなる。

…ただ、僕は「何故」信じているのかと聞かれたら、「分からない」と答えるしかないし、
やっぱりイエス・キリストが自分の為に死んだと信じてますなあ…
カントよろしく、純粋実践理性の要請、とか言った方が良いのでしょうかね…?
「霊的」成熟の為には、イエス・キリストを必要とする、とか…

社会科学にしろ、自然科学にしろ、科学的に現時点で明らかになっている、「もっとも確かな仮説」って、大真面目に身も蓋もない結果だらけで、
たとえば、「僕らは本当は自由だろうか」と言えば、生物学的には相当疑問。
カントは神と、自由と、魂の不滅(いわば霊的成長を担保する自己の同一性)を純粋理性概念としましたが、
生物学的には、選択や自由否定(自由に行動を止める意思)ですら、身体と環境から来る神経細胞の膜電位のゆらぎかもしれない。
社会的には自由を否定したら社会が成り立たないので(つーか近代社会は、人が自由であることが前提。ま、EUなんかは、そういう理屈を脱し始めているような所もあるが)、
実際に自由ではなくても自由がある「かのごとく」(コム・シイ)でやってますが、
はっきり言って、自由も信仰の産物以外の何者でもない。

だからと言って自由意思を否定するかと言えばそういうわけでもないし、
自己の同一性だって、「自己は他者との関係性にしかない」という主張もあってパーソナリティ論争というのあるが、
自己の同一性を否定したらこれも社会的には成り立たない。
言ってみれば、近代社会というのはキリスト教的価値観の延長線上にある「おとぎ話」で成り立っているわけで、
社会で生きようと思ったら、嫌でもキリスト教の「おとぎ話」の副産物を利用しないといけない。

神に関して言えば、仮説としても社会的にも、無くても困らない部分はあるが、
信じてしまっていたら、「何故信じるのか」とか言われても、「何故なんでしょうね?」ぐらいしか言いようがない…
自力で信じる、という行為が、キリスト教的な正統主義的信仰論からすれば異端だしね。
「自分でも何故信じているか良く分からない」というのはキリスト教的には正しい。
予定論だし。
で、この予定論が資本主義の精神を形成したことは、それほど間違いではないし。

結局、人間が人間として生きていく為には「おとぎ話」が必要だということではないですかね?
大体、そういう「おとぎ話」めいた啓蒙思想っぽい考えを否定した、
功利主義や実証主義法学自体、「人は合理的である」という「おとぎ話」の産物で、
現在行動経済学で、人は全然合理的ではない、むしろ「限定合理性」というようなものしか持たない、という事が明らかになっているが、
それを前提にしたら、功利論なんて一気に崩壊する。
(だから今は、最大幸福を求める行為とは何かとする古典的功利主義に対して、最大幸福をもたらすような規則はなにか、を考える、規則功利主義(行為功利主義)というのが登場してる)

こういうのは、「何を前提にするか」として、そこから演繹した結果、その副産物を理念として利用して、今の愉快な世界を形成していっているわけで、前提自体が正しいという担保は特に無い。
実際、科学的に検証すると、否定されるような事なんか枚挙にいとまがない位。
啓蒙思想の「タブラ・ラサ」ですら肯定される要素は少ない。

だから、一言で言えば、そういう「前提」が信仰であって、この信仰は無意識レベルの示唆だから、
科学的に客観視出来るか出来ないかで肯定・否定されるようなものではない、と言うのが正しいと思いますな。
☓ >(行為功利主義)
○ >(元のは行為功利主義)

東京裁判やニュルンベルク裁判を可能にした法的根拠は、実証主義法学では出てこなくて、「おとぎ話」である自然法思想を復活させざるw得なかった。

で、この自然法思想というのは、実証主義法学者や功利主義者からすれば「主観・思い込み・妄想」の類で、
まあ、元ネタはトマス・アクィナスなのだが、「(神が与えた)理性の命令を蔑むのは、神の命令を蔑むのと同じだ」みたいなことをトマスは言っている。

理性による演繹結果が正しい保証なんか実は無くて、まあマルクス主義者じゃないが、社会的状態(階級状況)によっても左右されるし、心理学的にも左右される。

たとえば、昔の、旧プロイセン王国のシレジア地方の農民なんかに対する調査で、
「彼らは貧しいから収入を二倍にしてやろう」とかユンカー(地主)あたりが考えて実行したら、
農民たちは、一日ごとに休むようになった。
「収入が倍になったぞ」と言う考えではなくて、「働く日数を半分にしても元の収入のままだ」と考えた。

こういうのは資本主義の精神とは真逆だが、そういう「理性的判断」というのもなされたりするので、
現時点で理性的判断だと考えることが、正しいとも限らないわけですな。
まあ、非合理的な実質合理性、つまり信仰は、人生における精神的なリスクヘッジとして機能しているのかもしれません。
イリア・エレオスさんのように極めて知性による探究心の豊かな人が「僕にとって回心は突然の出来事であり直観であり、寝て朝起きたら『洗礼を受けよう』と何故か考えたという、自分でも訳の分からないのが事の起こりでした」とおっしゃるのは、ご自身のことだからでしょうか。
ぼくがこの記述を読むと、素朴に、家庭環境にキリスト教や洗礼との親和性があったか、
それまでのイリア・エレオスさん個人の学びによって十分、キリスト教や洗礼への下地が作られていたのではないか
と思わずにいられません。
理性的判断の要請は、どんなことにも必ず限界があって、
「そこで諦めるか、永遠に抗い続け理性の探求者で在り続けるか」
という岐路が、思考をやめて宗教を受け入れる側に堕ちるきっかけだろうと思う。
ただそれを堕すのではなく、昇華だと信じたがるのは当然だが。

そこでなぜ「キリスト教」なのか?
それはその人の知性とか、文化体系、育ち方によるんじゃないの?
イリアエリオスさんのように、
「日本的なもの、とりわけムラ社会的な習俗への憎悪」を持っている人が、
神道や仏教に最終的に傾倒するわけはなく、
さりとて、イスラムやどこぞの未開部族信仰+ニューエイジというのも、
理性的に「馬鹿くさい」だろうしね。
とりあえずそこは、消去法でしょう。

なぜ突然「ソノ気になったか」ということは、(´・ω・`)知らんがなとしか。
どっかで、心が折れたんだなとしか思えん。


>>[64]

無い無い。
僕の父は社会民主主義者で、無神論者(かつ改憲論者だが)。
母も兄弟も立派に無神論者(不可知論者でさえない)で、
僕が洗礼を受けることを告げた時、弟から、
「空飛ぶスパゲッティモンスター教に入るの? 良かったね」と揶揄されたりしたもんです。

僕が、保守的な事を言うと、父から「いつ天皇主義者になったかのか知らないが」みたいに言われたものですな。

不思議過ぎですなあ。
家庭環境的には、僕の家族はホラーやオカルトは好きだが、その実在を全く信じてなかった。

ビートたけしの番組で、大槻氏らが、オカルティストを論駁するのを皆で喜んで観てましたな。
食事の時に祈ろうものなら、「嫌いだから止めてくれ」と両親揃って文句を言われたものです。

これで僕がクリスチャンの女性を妻にしたらどうなるんでしょうな。
なんか面白そう。
あ〜、でも母さえ、神道の人々が、戦前と戦後で言ってることが違うのに憤っていたら、
家族全員がムラ社会的な「空気」による支配は嫌ってたんだろうとは思いますな。

自分がまるでほぼ無思考で何かの決断をした、何かの選択をした、何かの行動を起こしたという時、
「いったい自分の中のいかなる意識下の要素がそれをなさしめたのだろうか」と深く心に沈潜し、あわてず時間をかけてその問題に取り組むことはとても有意義なことだと思います。
キッカケなんぞどうでもいいわけで、「やめられない止まらない」が本質だから。
やっぱり新約聖書を読んだ時、浮かび上がってきたイエスという存在の美しさ、清らかさこそ、惹き付けられた本源だと思います。
主の平和!
今日は失礼します。
>かすかな匂いが、無意識で知覚されて記憶を想起させたわけです。

プルーストの「失われた時を求めて」に紅茶とマドレーヌの香りが少年時のコンブレ家を思い出すという冒頭の言葉があり、かなり有名ですね。
多分、中年になったプルーストがマドレーヌを紅茶飲みながら思い出したのだと思いますが。
「見いだされた時」の鍵になる訳です。
小さい頃からの思い出を振り返ると心の健康に良い見たいです。
基本的なカウンセリング法です。
私の場合、イエスの顕現を思い出しますが、信仰の柱であることは確かです。

しかしながら、私の場合、つねに世俗と共にあり、世俗とのつながりがあります。
>>[75]

実際、このトピを立てた後も何度も棄教を考えたぐらい信仰の危機とかいうヤツがありましたが、
信仰心があるかどうかはまあともかくとして、未だに使徒信条を告白して神に祈って十戒を守って(守ろうとして)ますからね〜

本当に良く分かりませんなあ、無意識レベルのことは。
>>[71]
主の平和!
今晩は失礼します。
静岡から西は夏だったそうですね。
こちらはひんやりとした夜です。

>これで僕がクリスチャンの女性を妻にしたらどうなるんでしょうな。

私はキリスト教徒の女性と縁がなく、改心しないマグダラばかりの気がします。
その辺りも昔は膨大な借金?、今は膨大な本と共に「新律法主義」的な教会の施設に住めない理由です。
これからは後者はKindleで解決するかも知れませんけど。
イリアさんも考えが前向きになりましたね。
これからは若返り薬も開発されるし、ぺーシックインカムもできるかも知れませんので、結婚も前向きにと思います。
取り敢えず、アンチエイジング食、ジョグと筋トレ、下半身のストレッチが大切と思います(^^;。
>>[79]

むう。
二年前のレスに対して「考えが前向きになりましたね」と言われた場合、
どう反応すれば良いのです?
>>[76]
主の平和!
今晩は失礼します。
>新約聖書を読んだ時、浮かび上がってきたイエスという存在の美しさ、清らかさこそ、惹き付けられた本源だと思います。

新約聖書の福音書のイエスも良く読むと違う像も浮かび上がりますが。
>>[80]
失礼しました。途中からは2年前でしたね。
>>[76]
福音書にイエスが、姦淫の女、罪深い女をたちどころに理解し赦す物語がある訳ですが、心理学的に分析するとイエスがどうして女性の状況、心理を知り得たか、姦淫する男性の心理を知り得たかという謎が残ります。
神の子、キリストだから全能なんだといってしまえば同じですが、女性をよく知っていたからになる気もします。
主の平和!
>僕にとって回心は突然の出来事であり直観であり、寝て朝起きたら「洗礼を受けよう」と何故か考えたという、自分でも訳の分からないのが事の起こりでした。
**
まさに、神の業、働きかけですね。
キリスト教では後に信仰に結び付いた出来事が奇跡ですからそうなります。

西の学校では、キリスト教心理学という講座がありましたが、実際はユング心理学の授業です。心理学がいかなるものか習うだけでつながりは余りなかったと思います。
ここでも同じように、心理学という科学でキリスト教を分析したり、聖書テキススを分析したいと思います。
>>[83]、どうもありがとうございます。
あっ、それは面白い解釈の可能性ですね。ぜひもう一度、じっくり読んでみます。

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