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NHK大河ドラマ紀行「豊臣兄弟!」コミュの【麒麟がくる】京都府

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【麒麟がくる】にまつわる京都府の史跡写真館です。

コメント(26)

愛宕権現(愛宕神社)(京都市右京区)。

大宝年間に、修験道の役小角と泰澄が愛宕山に登ったとき、天狗の神験に遭って朝日峰に神廟を設立したのが、霊山愛宕山の開基と伝わる。781年には、光仁天皇の勅に基づき、和気清麻呂と慶俊僧都によって、唐の五台山にならい朝日峰の愛宕権現白雲寺・大鷲峰の月輪寺・高雄山の神護寺・竜上山の日輪寺・賀魔蔵山の伝法寺の愛宕五坊が建立された。
明治の神仏分離により、白雲寺は廃絶されて愛宕神社となった。

明智光秀は、本能寺攻撃に先立ち愛宕権現に参詣し、吉凶を占うためおみくじを三度引き、三度とも凶が出たという。これは光秀の躊躇を示すエピソードとされているが、おみくじを三度引いて三角に置き、銭を三枚投げて一枚だけ表裏異なる位置のくじを神意とするという手法は、当時よく見られたものだった。
翌日、愛宕権現で連歌の会を催したが、そこで詠まれた連歌は、光秀が冒頭で謀反の決意を表明したものを、皆が考え直すよう説得したものと言われてきた。

ときは今天が下しる五月哉    明智光秀
水上まさる庭の夏山       西坊行祐
花落つる池の流れをせきとめて  里村紹巴

この歌は奉納されたものであり、信長も知っていた可能性がある。よって謀反の決意表明と断定するのは軽率だが、光秀の死後秀吉は、謀反を事前に知っていたにもかかわらず報告しなかったとして、里村紹巴を取り調べた。危険を察知した紹巴は、光秀の句を「ときは今天が下なる五月哉」に改竄した。
連歌の会で、光秀が粽を葉のついたまま食べたとか、「本能寺 堀の深さは幾尺ぞ」と尋ねたとかいう話は、全て後代の創作である。

写真右は、某山岳会による愛宕登山。
本能寺跡(京都市本能特別養護老人ホーム)(京都市中京区)。

本能寺は1415年、「本応寺」の寺号で日隆が創建した。彼は妙本寺の月明と本迹勝劣をめぐって対立したため、その宗徒によって本応寺は破却された。
1433年、六角大宮の西、四条坊門に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた。1536年には、比叡山との教義論争に端を発した天文法華の乱により焼失した。

織田信長が神仏を排斥したというのは俗説で、ルイス・フロイスや本願寺によるプロパガンダの疑いが強い。彼は法華宗門徒であり、上洛の際には法華宗本山の本能寺を定宿とした。当時は四町四面の広大な寺域で、周囲に堀と土塁を巡らせていた。
1582年、明智光秀は三千の兵で、わずかの兵力しかいない本能寺を完全に包囲した。信長は本能寺に火を放ち、自害した。だが重機のない時代であり、膨大な廃材の下にあると思われた信長の遺体を見つけることはできなかった。
1587年、豊臣秀吉の命により現在の寺町御池に移転した。1788年の天明の大火、1864年の蛤御門の変に伴い発生した火災によりまたも焼失した。本能寺が「ヒ」のある「能」の字を用いないのは、ヒが火に通じるからだと言われているが、「能」の字体が正字とされたのは康煕字典以後のことであり、辻褄が合わない。
本能寺の変当時の跡地には本能小学校があり、「本能寺跡」の碑が建てられたが、近年の調査で寺域は南は四条坊門(現在の蛸薬師通)、西は西洞院通、東は油小路通りまでであったことが判明し、本能小学校は本能寺跡ではないことが確認された。本能小学校は1992年に廃校となり、現在は京都市本能特別養護老人ホームとなっている。

本能寺の変の当日、信長が日海(後の本因坊算砂)と鹿塩利玄の碁を観戦したおり、珍しい三劫が現れ無勝負となった。その夜本能寺の変が起きたことから、以後三劫は不吉の前兆とされるようになったと言われる。棋譜も残っているが、不自然に三劫が作られた形跡があり、後世の創作と考えられている。この逸話は「信長公記」などの史料には一切記されてなく、碁界に伝わる伝承を安藤如意が明治37年に著した「坐隠談叢」に記載されているものである。実際の勝負は、日海の圧勝であったことが判明している。


写真左:京都市本能特別養護老人ホーム前の碑。
写真右:現在の本能寺。「能」の字に注意。
旧二条城跡(京都市上京区)。

足利義昭は本圀寺を在所としていたが、1569年三好三人衆に襲撃された。そこで織田信長は、堀や天主を備えたより防備の堅い邸宅を、義昭のためにわずか70日で築いた。城の石垣には、京都中から集められた墓石や石仏も使われた。
ところが義昭は1573年、二条城で信長に挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い、二条城を包囲するが、正親町天皇の勅命により和議が成立した。しかし義昭は同年、槇島城で再び挙兵する。このとき二条城には伊勢貞興と三淵藤英がいたが、一戦も交えず降伏した。旧二条城はこのとき織田軍に破壊され、残った天主や門は安土城に転用された。

地下鉄敷設のため1975年から発掘調査が行われた際、旧二条城の石垣に使われた石仏が大量に出土し、洛西竹林公園に設置された。
旧二条城跡の碑は二条御所跡の碑とは目と鼻の先にあり、どちらも現在は平安女学院の敷地である。
二条御新造跡(京都市上京区)。

織田信長は1576年4月に上洛した際、妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊した。寺の東隣には二条家の邸宅があったが、「洛中洛外図屏風」に描かれるほどの庭の眺望を気に入り、二条家に別の屋敷を提供したうえで、二条邸を譲り受けた。信長は村井貞勝に二条邸を改修させ、その後2年間はここを京の宿所とした。1579年以降は、皇太子誠仁親王を住まわせた。
本能寺の変を知ったとき、織田信忠は妙覚寺に滞在していた。彼は本能寺に救援に向かおうとしたが、すでに炎上しており、逃走するよう側近に諭された。しかし信忠は、明智光秀ほどの者が包囲検問を怠るはずはなく、また父の仇を討つこともなく逃走すれば後世に恥を残すと考え、防備の弱い妙覚寺を出て、村井貞勝らとともに二条御新造に移った。だが実際には光秀は、本能寺は完全に包囲していたものの、京都の封鎖は完全ではなく、織田長益などは巧妙に脱出していた。
信忠は、誠仁親王が退去するまで攻撃しないよう光秀に申し入れ、親王を脱出させると、少人数ながら頑強に抵抗した。やがて近くに滞在していた織田家家臣も次々と加勢して、明智軍を三度も退却させた。明智軍は最後の手段として、隣接する近衛前久邸の屋根から銃矢を放ち、側近のほとんどを倒した。自ら刀を持ち奮闘する信忠の姿は、かつての足利義輝を髣髴とさせる。しかし衆寡敵せず、最期は鎌田新介の介錯で自害した。
南蛮寺跡(京都市中京区)。

南蛮寺は、正式には「被昇天の聖母教会」と言い、1576年に建設され8月15日(聖母被昇天の祝日)に献堂ミサが行われた。3階建ての教会は、京におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった。

本能寺の300メートル東にあった南蛮寺からは、本能寺の変の際、明智の軍勢が包囲するさまや、炎上する様子が間近に見えた。南蛮寺には本能寺から脱出した人々が次々と駆け込み、キリシタンたちは明智軍とトラブルにならないかと心配した。
宣教師ルイス・フロイスは「日本史」に、本能寺の変の様子を克明に記録している。
「御所前で馬揃えをする予定だったため、明智の兵は午前3時頃、怪しまれることなく本能寺に侵入した。ちょうど信長が厠から出て、手と顔を洗っていたところを、背中に矢を命中させた。信長は小姓たちを呼び、薙刀を振り回しながら応戦したが、銃弾が左肩に命中した。彼は障子を閉じ、そこで切腹したとも、また焼死したとも言われる。」
フロイスは当時長崎にいたため、本能寺の変を目撃してはおらず、本能寺から脱出した人々の証言を記録したのだろう。

1587年、豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、南蛮寺もこのとき破壊された。
勝竜寺城跡(勝竜寺城公園)(長岡京市)。

勝竜寺城は1339年、細川頼春によって築かれたと言われてきたが、後に城主となった細川藤孝による創作の可能性が高く、実際には畠山義就によって築かれたと考えられる。
織田信長は1568年、三好三人衆の一人岩成友通が守る勝竜寺城を攻撃した。織田の大軍を前に、岩成友通は降伏した。
1571年、細川藤孝が山城西岡一帯を与えられ、勝竜寺城を二重の堀を持つ堅固な城に改修した。ガラシャ(たま)との婚儀は、この城で行われたと言われる。藤孝は1580年、明智光秀に従い丹波・丹後を平定した功により、丹後一国を与えられ、田辺城に移った。
1582年、山崎の戦いに敗れた明智光秀は、いったん勝竜寺城に入った。だが籠城は無理とみて、密かに脱出し坂本城を目指したが、小栗栖で落ち武者狩りに遭い殺害された。
1633年、永井直清が山城長岡藩へ封ぜられ、荒廃していた勝竜寺城を修築し入城した。直清は1649年に摂津高槻藩に転封され、勝竜寺城は廃城となった。
明智藪(京都市伏見区)。

山崎の戦に敗れた明智光秀は、いったん勝竜寺城に入ったものの、大軍を収容できない平城であったため、兵の脱走が相次ぎ兵力はわずか700人にまで減っていた。光秀は暗夜にまぎれ、十数騎で勝竜寺城を密かに脱出し、坂本城を目指した。だが小栗栖にさしかかったとき、落ち武者狩りの土民中村長兵衛の竹槍にかかり深手を負った。竹中重門の「豊鑑」は、このときの状況をやけに詳細に記録している。
「里の中道の細きを出て行くに、垣ごしにつきつける槍、明智光秀の脇にあたりぬ。されど、さらぬ体にてかけ通りて、三町ばかり行き、里のはずれにて、馬よりころび落ちけり。」
溝尾庄兵衛は、光秀を介錯し自害を遂げさせると、その首を藪の中に隠して坂本に逃走した。だが彼の首は掘り出され、秀吉によって粟田口の刑場にさらされた。
その後、この地に赤い竹が多く生えてきたり、光秀の内臓が飛び出した地(通称「ワタ出」)には草が生えないなどの怪現象が起こった。地元民は光秀最期の地を「明智藪」と呼び、後世に伝えて来たが、竹薮は本経寺の土地であり、近年になって藪を刈り砂防工事を行ったことから、本来の明智藪は消滅した。現在は、本来の場所より手前の地にライオンズクラブによる石碑が建てられているが、そこには光秀を襲撃した者たちを信長の近臣飯田一族と明記されている。
明智光秀首塚(東梅宮)(京都市東山区)。

小栗栖の村人が藪の中で光秀の首を見つけ、秀吉に届けた。秀吉はそれを、粟田口の刑場にさらした。
光秀の首はその後、明智軍のほかの首とともに埋められ、塚が築かれた。1771年、光秀の子孫を名のる明田利右衛門が、石塔を白川の自宅に移し、光秀の木像と位牌を祀った祠を建て、菩提を弔ったという。以来首塚は、首から上の病気にご利益があるとして地元民の信仰の対象とされてきた。明治に入り、首塚は少し西の現在地に移された。
「長存寺殿明窓玄智大禅定門」の光秀の戒名が刻まれた石碑は、明治36年に光秀を演じた歌舞伎役者の市川団蔵によって建立されたものである。
かつて祠の中に光秀の遺骨が納められていたという伝承は、事実ではないし、「光秀首塚」の下に光秀の首はないことになる
とても勉強になりますし楽しく拝見させてもらっております。
福知山城(福知山市郷土資料館)(福知山市)。

小笠原頼勝が、八幡山に横山城を築いたのが始まりである。頼勝は後に塩見氏を名乗った。頼勝の子頼氏は、横山大膳と名乗った。
横山城は1579年、明智光秀によって落城し、頼氏の子塩見信房は自害した。光秀は城を近世城郭へと修築し、この地を福智山と改名した。和泉式部の歌「丹波なる吹風(ふくち)の山のもみじ葉は散らぬ先より散るかとぞおもう」に因んでいるという。
福知山城には光秀の従弟明智秀満が入ったが、彼は本能寺の変の後は安土城に入り、福知山城にはその父が城代を務めていた。1582年、豊臣秀吉は福知山城を落とすと、秀満の父を捕らえ処刑した。明智氏の福知山支配は、3年で終わった。
その後は秀吉の甥豊臣秀勝、北政所の叔父杉原家次、そして小野木重勝が城主となった。小野木重勝は関ヶ原の戦いで西軍に属し、東軍の細川幽斎が立て篭もる田辺城を攻めた。劣勢の幽斎はどうにか和議にこぎつけたが、関ヶ原で西軍が壊滅すると、細川忠興は福知山城を攻め、小野木重勝を切腹に追い込んだ。
その後は有馬豊氏が入部し、現在のような城郭と城下町を完成させた。1621年に岡部長盛、1624年に稲葉紀通が入部するが、紀通は1648年宮津藩の京極高広と争いを起こし、改易を命じられ自殺した。俗説では、紀通が宮津藩に鰤を注文したことからトラブルとなったと伝わる。1649年に松平忠房、1669年に朽木稙昌が入部し、明治まで続いた。福智山が福知山に改められたのは、1728年のことである。

安土城の石段に多くの石仏が使用されているのは広く知られているが、福知山城も今なお、石垣に宝篋印塔・五輪塔・石仏・笠塔婆などの転用石をおよそ500点用いているのが見てとれる。これは日本の城の中でも最多と考えられ、相当数の寺院や墓所を破壊して石材を調達したことがわかる。神仏を敬わない信長の性格を光秀が嫌悪したという俗説は、意味をなさない。
亀山城跡(亀岡市)。

1578年、明智光秀によって丹波統治の拠点として築城された。1582年の本能寺の変の際、光秀はここから出陣している。
明智家滅亡の後は、天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝・豊臣秀勝・小早川秀秋・前田玄以などが入った。
1609年には岡部長盛が丹波亀山藩主として入封すし、近世城郭として大修築した。1748年以降は、形原松平氏が居城し明治まで続いた。
大正時代に大本教が購入し、神殿を築いたが政府により爆破・破却され、土地も売却された(大本事件)。戦後大本教に返還され、今日に至っている。司馬遼太郎は、亀岡は明智光秀と出口王仁三郎という2人の謀叛人を出したと評した。
明智光秀胴塚(京都市山科区)。

伏見区小栗栖で竹槍に刺された光秀は、馬に乗ったまま山科区勧修寺まで逃れたが、そこで力尽き馬から落ちた。溝尾庄兵衛は光秀を介錯すると、その首を藪の中に隠し坂本に逃走した。光秀の胴体は、その場に葬られたという。
光秀首塚(谷性寺)(亀岡市)。

谷性寺は平安時代に創建された。明智光秀はこの寺の本尊不動明王を厚く崇敬し、本能寺の変の際には願をかけたという。
その後光秀は山崎の戦いに敗れ、小栗栖で土民に襲われ落命した。光秀を介錯した溝尾庄兵衛は、その首を鞍覆に包んで近臣に託し、この寺に運ばせ密かに葬ったと伝えられる。 「光秀公首塚」の碑は、1855年に建立されたものである。
谷性寺は明智家の家紋に因み、桔梗を植えるようになったことから「桔梗寺」あるいは「光秀寺」とも呼ばれるようになった。「亀岡光秀まつり」は、光秀首塚墓前での追善供養から始められる。
本願寺発祥の地(崇泰院)(京都市東山区)。

浄土真宗の開祖親鸞は1262年に没し、末娘の覚信尼が1272年この地に廟堂を建て、遺骨を安置して御影堂と呼んだ。その堂は内紛のため破壊されたが、三世覚如が再建して専修寺と号し、後に本願寺と改称した。
八代門主蓮如は、ここで生まれている。
現在は崇泰院。
明智光秀本陣跡(境野古墳)(大山崎町)。

秀吉の中国大返しを知った明智光秀は、近江方面の兵力を集める猶予のないまま、京と西国を結ぶ最後の要衝である山崎で戦うことを決意し、御坊塚に本陣を置いた。御坊塚は小高くなっており、西国街道方面がよく見通せた。
近年になって、境野古墳の北にある恵解山古墳で堀の遺構が見つかり、茶釜も出土したため、光秀本陣は恵解山古墳ではないかと考えられるようになった。
秀吉出世石(宝積寺)(大山崎町)。

宝積寺は724年、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝えられる。
1582年の山崎の合戦で、秀吉が天王山麓の宝積寺に本陣を置いた際に、この石に腰掛けたと伝わる。戦いに勝利した秀吉は、その後天下人への道を歩み始めたことから、これを「出世石」と呼ぶようになった。
天王山・山崎合戦の地碑、旗立松(大山崎町)。

山崎の合戦において、秀吉が天王山中腹の松の樹上に千成瓢箪の旗印を掲げさせたところ、全軍の士気が上がり、勝利を収めることができたと言われる。現在の松は7代目。
なお、山崎の合戦は古くは「天王山の戦い」と呼ばれたが、天王山の攻防はさほど重要だったわけではない。天王山は見通しが良く、淀川にせり出して隘路を作っている要衝であるため、「太閤記」ではあたかも天王山の争奪が戦局を決定づけたかのように記された。
山崎合戦古戦場跡(大山崎中学校)(大山崎町)。

両軍は、小泉川を挟んで対峙した。光秀は、天王山と淀川に挟まれた隘路から出て来る敵を、小泉川流域の沼地で足止めし叩くことを企図した。いっぽう秀吉軍は決戦前夜、先鋒の高山右近に山崎集落を占拠させた。ところが中川清秀が右近と先鋒を争うように、天王山の山裾を横切って高山隊の横に陣取ろうと移動すると、これに明智軍右翼の伊勢貞興が襲いかかった。これを見て斎藤利三も高山隊へ猛攻を加えたため、中川・高山隊は圧倒されるが、堀秀政が後詰に付き、かろうじてしのいだ。松田政近・並河易家が中川・高山隊の側面を突くべく天王山中腹を進むと、天王山に布陣していた黒田孝高・羽柴秀長・神子田正治と交戦となり、明智軍右翼では一進一退の攻防が続いた。
秀吉は池田恒興と加藤光泰に、密かに小泉川を渡らせ、明智軍左翼を攻撃させた。すると中川・高山隊も押し返し始めた。圧倒的な兵力を有する秀吉軍は、いずれの戦線でも優勢となり、明智軍を包囲する態勢に入った。明智軍全体に動揺が広がり、やがて総崩れとなった。
二条御所跡(斯波氏武衛陣跡)(京都市上京区)。

管領家の斯波氏は兵衛督・兵衛佐を世襲したため、その唐名である「武衛」を称し、邸宅は「武衛陣」と呼ばれた。だが応仁の乱で「武衛騒動」と呼ばれる家督争いを起こして衰退し、斯波氏は邸宅を将軍家に献上し、領国尾張に下った(その後斯波義統は守護代織田信友に討たれ、信友は分家の織田信長に討たれる)。

三好長慶に京都を追われた将軍足利義輝は、長慶の死後は将軍専制を目指し様々な手を打ち、卓越した政治手腕を見せた。だが長慶の死後に主家を牛耳った松永久秀と三好三人衆は、幕府の実権を掌握するため、義輝を排除し足利義栄を新将軍に擁立しようとした。義輝は久秀暗殺を企むが、それは久秀の知るところとなった。
久秀と三好三人衆は1565年、二条御所の門が修復中との情報を得て、清水寺参詣と偽り1万の軍勢を京に入れ、義輝に「訴訟の儀あり」と称して門を開けさせ、その間に二条御所を包囲した。御所内の兵力はわずか数十人で、義輝は辞世の句を詠むと源氏重代の大鎧を身にまとい、足利家伝来の銘刀の数々を持って来させた。彼は典太光世、鬼丸國綱、大包平、九字兼定、朝嵐勝光、綾小路定利、二つ銘則宗、三日月宗近、粟田口国綱、一文字助宗などの銘刀を抜き銘を確認すると、それらを畳に突き刺し、迎撃態勢を整えた。剣豪塚原朴伝の教えを受けた義輝は、政治力だけでなく剣術も卓越しており、雑兵たちを次々に切り伏せ、超人的な瞬発力で敵の矢をかわした。刀が切れなくなると次々と交換し、全ての刀を使い果たすまで戦い抜く決意であった。
近習たちはことごとく討ち死にし、今や義輝一人が奮闘していた。三好・松永軍は襖を盾に四方から義輝を取り囲み、池田長正の子が背後から薙刀で義輝の足を払い転倒させると、その上に無数の襖と障子をかぶせ、その上から刀と槍で何度も刺してようやく絶命させた(永禄の変)。義輝が最期に手にしていたのは、源頼光が酒呑童子を退治したと言われる童子切安綱だった。

三好長慶は義輝をあやつろうとし、従わなければ京より追放もしたが、決して将軍を手にかけるようなことはなかった。長慶はライバルが台頭すると一変して義輝と和解し、その家臣にさえなっている。だが義輝は、自分の権威が長慶に支えられていることに思いが至らず、将軍専制に固執し、たびたび長慶暗殺を試みた。その長慶がいなくなればどうなるかを、義輝は身をもって知ることとなった。
義輝はそれまでの将軍とは異なり、際立って有能であり、傀儡では満足できなかったことが、結果的に命取りとなった。長慶とは異なり、常人ではできぬことをできる松永久秀の人間性を、甘く見たのだろう。

二条御所跡は、現在は平安女学院となっている。
本国寺(本圀寺)跡(京都市下京区)

三好三人衆は将軍足利義輝を暗殺し、義栄を次の将軍に据えた。ところが織田信長が1568年に上洛すると、三好三人衆は京から逃げ出したため、信長は義昭を将軍に就け、本国寺を仮御所とした。
だが信長が美濃に戻ると、手薄となった本国寺へ、三好三人衆と浪人となっていた斎藤龍興の軍が襲撃した(本国寺の変/六条合戦)。本国寺の警護を任されていたのは明智光秀で、鉄砲を巧みに使い、敵を寄せつけなかった。
細川藤孝・三好義継・伊丹親興・池田勝正・荒木村重ら畿内の織田勢が援軍に到着したのは、翌日だった。信長は岐阜で知らせを聞くと、大雪だったにもかかわらずただちに出陣し、3日かかる行程を2日で走破し、10騎足らずの供を連れて本国寺に到着した。非常な寒さと急な出立のため、信長の家臣には凍死者が数人出たという。
信長は本国寺の防備に不安を抱き、義昭のため二条城を建設することにした。義昭は信長の忠心に感激した。光秀が古文書に初めて登場するのが本国寺の変で、これを契機に彼は信長に仕えるようになる。

本国寺は1253年、日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂が起源と伝える。足利尊氏の叔父日静が1345年に光明天皇より寺地を賜り、京都の六条堀川に移転した。1685年、徳川光圀が生母の追善供養を行った縁で「本圀寺」と改称した。
1863年には、鳥取藩の尊王攘夷派藩士22名が重役黒部権之助・高沢省己・早川卓之丞の3名を惨殺する「本圀寺事件」が起きている。また同年、水戸藩主徳川慶篤に率いられた尊王攘夷派志士が、本圀寺に駐屯して皇室の守衛や慶喜の補佐にあたり「本圀寺党」と呼ばれた。
1971年、山科に移転した。
槙島城跡(宇治市)

巨椋池に浮かぶ槙島に、真木島氏が築城したと考えられている。
足利義昭は1573年織田信長に挙兵すると、幕府奉公衆であった真木島昭光を頼り、槙島城へ入った。信長包囲網のため、信長は上洛できないと考えられたが、あっさり上洛し、槙島城を包囲すると、義昭は息子を人質に渡して降伏し、京を去った。室町幕府はここに事実上滅んだとされる。
その後は塙直政や井戸良弘らが城将となったが、伏見城築城後に廃城となった。
粟田口刑場跡(京都市山科区)

俗に「京の七口」と言われ、大きな街道筋の町外れには決まって刑場が置かれていた。梟首は政治的勝者が、敗者を辱め、罪人として一方的に断罪することで政権の正当性をアピールする重要なセレモニーだった。
明智光秀の首は、いったん隠されたにもかかわらず百姓に発見され、本能寺でさらされた後、粟田口刑場でもさらされた。本当に光秀の首かどうか極めて疑わしいが、秀吉のやり方は徹底していた。
光秀自身もまた、信長の首をさらすため遺体を執拗に捜索したが、重機のない時代のため見つけることができず、「信長は生きている」という秀吉のプロパガンダに利用された。秀吉は光秀より、役者が何枚も上だった。
京都の寺院が、刑死者1000人ごとに供養碑を建て、その数は幕末までに15基に及んだから、1万5000人近くが処刑されたことがわかる。これらの供養碑は、明治の廃仏毀釈の際に失われた。粟田口刑場は明治に廃され、1872年粟田口解剖場が設置された。四面がガラス張りの建物で、刑死者の解剖が行われ、医師がその様子を参観した。だが同年解剖場は移転され、以後この地は利用されることなく忌み地として残された。その後道路や鉄道の建設により、刑場跡はいくぶん損なわれたものの、当時の状態をわずかに留めている。現在刑場跡にある2つの石碑は、解剖場時代の刑死者の供養塔である。
蛇ヶ端御藪(明智藪)(福知山市)

由良川と土師川の合流点は水害が多かったことから、光秀は城下町を守るため蛇ヶ端御藪を築き、ここに川の流れをぶつけて勢いを削いだと伝えられる。かつては長さ500メートル、幅10から30メートルに及んだが、河川工事のため現在は北端だけが残っている。
筒井順慶陣所址(八幡市)

山崎の合戦のとき筒井順慶が、ここ洞ヶ峠に布陣して光秀と秀吉のどちらが有利になるか様子見したと言われ「洞ヶ峠を決め込む」の語源になっている。実際には筒井順慶がここに布陣した事実はなく、光秀が順慶を牽制するため布陣したのが事実である。
明智光秀首塚(盛林寺)(宮津市)

粟田口に晒された光秀の首を、娘たま(ガラシャ)が引き取り所領の盛林寺に葬ったという。

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