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NHK大河ドラマ紀行「豊臣兄弟!」コミュの【義経】京都府

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【義経】にまつわる京都府の史跡写真館です。

コメント(24)

牛若丸誕生井・胞衣塚(京都市北区紫竹牛若町)。
源氏の館跡で、母常磐御前が牛若丸を産んだ地と言われている。井戸と胞衣塚があり、牛若丸のへその緒と胞衣が埋められたという。
源義経産湯井址(京都市北区紫竹牛若町)。

平清盛六波羅殿跡、六波羅探題跡。
六波羅探題は、京都の警備や朝廷の監視のため、北条泰時・北条時房の二人が平清盛邸跡に赴任したのが始まりである。後に西国での裁判機能も司るようになった。
1333年、後醍醐天皇の令旨に応じた足利高氏・佐々木道誉・赤松円心らの攻撃を受け、六波羅探題は陥落し鎌倉時代は終焉する。
現在は六原小学校。
平清盛塚と阿古屋塚(京都市東山区六波羅蜜寺)。
阿古屋は五条坂の遊女で、平家の侍大将悪七兵衛景清の愛人。畠山重忠は彼女が景清の行方を知っているとにらみ「阿古屋の琴責め」に合わせるが、弾かせた琴の調べに一点の曇りもないことに感銘し、釈放した。
蓮華王院本堂(三十三間堂)(京都市東山区)。
元は後白河上皇の離宮法住寺殿があったところで、平清盛に命じて建造させた。「三十三間堂」の名称は、本堂の内陣の柱間が33あることによる。
江戸時代には各藩の弓術家により、本堂の軒下で約120mの距離を射る「通し矢」の舞台となった。
平等院鳳凰堂(京都府宇治市)。
光源氏のモデルと言われる左大臣源融が営んだ別荘だったものが、藤原道長の別荘「宇治殿」となった。その子頼通が1052年、宇治殿を寺に改めた。これが平等院の始まりである。
以仁王の令旨により1180年、源頼政は打倒平氏の兵を挙げたが、宇治橋の合戦に敗れ、平等院で自害した。
写真中央は筆者。
扇の芝(京都市伏見区、平等院)。
源頼政が扇を敷いて自害した場所で、名将の古跡《扇の芝》だとつたわる。
義経腰掛岩(京都市山科区)。
牛若丸が金売り吉次に連れられ平泉へ下る途中、盗賊に襲われた。牛若丸は盗賊を斬って刀を傍らの池で洗い(それゆえこの界隈を血洗町という)、この岩に腰掛けて休憩したという。
弁慶石(京都市中京区)。
この界隈(今日の弁慶石町)に住んでいた弁慶が大切にしていた石で、弁慶の死亡時には奥州高館にあったが、石が「三条京極に行きたい」と鳴動し、付近に熱病が蔓延したので、人々は1454年、この石を三条京極に移したという。
左女牛井跡(源氏六条堀川館跡)(京都市下京区)。

源頼義がこの地に六条堀川館を築いたため、彼は「六条判官」と呼ばれた。またこの地は義経が静御前と過ごした邸宅とも言われ、土佐坊昌俊が頼朝の命で夜討ちをかけたのはこの邸宅である。
この邸内にかつて、名水の井戸「左女牛井」があった。村田珠光が将軍足利義政に献茶した際にも、この井戸の水を汲んでいる。第二次大戦中、堀川通の拡幅により消滅した。
宇治川先陣の碑(宇治市)。

1184年、源義経軍と木曽義仲軍による宇治川の戦いで、義経軍の佐々木高綱と梶原景季が先陣を争った。
まず梶原景季が馬に騎乗し宇治川に乗り入れたが、佐々木高綱は景季に「馬の腹帯が緩んでいるぞ」と声を掛け、景季の注意が逸れた隙に宇治川を渡り、先陣の名乗りを挙げたと言われている。
源義経奥州首途之地(首途八幡宮)(京都市上京区)。

1174年、鞍馬山を抜け出した牛若丸は、この地で金売吉次と落ち合い、屋敷近くの内野八幡宮で奥州への旅の安全を祈願したと言う。その後内野八幡宮は「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。一説には、金売吉次の屋敷跡とも言われる。
東光坊跡(鞍馬寺)(京都市左京区)。

牛若丸が7歳から17歳まで暮らし、文武の修行に励んだ場所。現在は義経供養塔がある。
義経息つぎの水(鞍馬寺)(京都市左京区)。

牛若丸が僧正ヶ谷に通うとき、この清水で喉を潤したという。
義経背比べ石(鞍馬寺)(京都市左京区)。

義経が奥州に下るときに、別れを惜しんで背を比べた石と言われている。
常槃井(京都市北区)。

常盤御前が化粧に用いた井戸と言われている。
常盤御前雪除松跡(宝樹寺)(京都市東山区)

源義朝が平治の乱に敗れると、側室の常盤は7歳の今若(阿野全成)、5歳の乙若(義円)、2歳の牛若(源義経)の三人の子を連れ、大和国宇陀を目指し雪の中を逃亡した。
宝樹寺には一家が雪を避けた松があったと言われ、それらしき古株が大正時代に見つかっている。
常盤就捕処(京都市伏見区)

常盤らは大和国宇陀に落ちのびたが、京にいる叔母が平家方に捕らえられると、三人の子を伴い自首しようとし、京へ向かう途中、この地で捕らえられたという。
捕縛の地をこことするのは、この東に「常盤井」があったためと思われる。この地にはかつて陸軍第十六師団があり、工兵第十六大隊長佐藤正武が碑を建てた。
平重衡受戒之地(京都市南区)

この地にはかつて、彼の縁戚である藤原家成の屋敷があった。重衡は一の谷合戦で捕らえられ、この地に預けられた。
鎌倉に送られた重衡は、源頼朝に厚遇されたが、東大寺を焼いたため南都の恨みは大きく、重衡の処刑を求めた。
重衡は死後の極楽往生を願い、この地に法然を招き受戒している。
彼は木津川畔で斬首され、般若寺門前で梟首された。
神泉苑(京都市中京区)

平安京遷都のころ、大内裏の南に接する地に造営された禁苑で、当初は二条通から三条通まで南北約500メートル、東西約240メートルに及んだ。
863年に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われた。869年には、神泉苑の南端に66本(当時の国の数)の鉾を立てて祇園社(八坂神社)から神輿を出した。これが祇園祭の起源になったと考えられている。
1602年に徳川家康が二条城を造営した際、神泉苑の大部分が消滅し、現在の規模になった。
「義経記」には、雨乞いのため後白河法皇が神泉苑で100人の僧に読経させたが、効果がなかったので、100人の白拍子に舞わせると、静御前が舞ったとき雨が降り出したと記録されている。このとき義経が静を見初め、側室にしたと伝わる。
揺向石(三嶋神社)(東山区)

義経が1174年三嶋神社に参籠した際、夢の中に白髪の翁が現れ「汝志久しく可からず、早々に奥州に下る可し」と御神託を下した。夢からさめて再度参拝したとき、翁の立っていたところに揺向石があったという。
妊婦が三嶋神社に参拝し、揺向石に手を触れてからお腹をなでると、牛若丸のような立派な男の子が授かると伝えられている。
弁慶腰掛石(京都市北区)

この辺りはかつて梶井宮御所があり、門前の有栖川に「御所ノ橋」が架けられていた。常盤御前がこの地で暮らし、鞍馬山で修行していた義経がときどき会いに来ていたと伝わる。義経と弁慶は御所ノ橋で出会ったのを、誤伝で五条橋にされたのだという。
民家の庭にある。
静御前生誕地(網野町)

父は磯野善次と言ったが静が7歳のとき亡くなり、彼女と母は京に上った。母は有名な白拍子となり、静は義経の愛妾となった。晩年は故郷に戻り、ここに草庵を結んで、亡き義経や息子の菩提を弔ったという。

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