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NHK大河ドラマ紀行「豊臣兄弟!」コミュの【べらぼう】東京都

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【べらぼう】にまつわる東京都の史跡写真館です。

コメント(17)

葛飾北斎生誕の地(墨田区)

葛飾北斎は1760年、この地に生まれたと考えられている。幼名は川村時太郎。1764年中島伊勢の養子となったが、実子に家督を譲り家を出た。
浮世絵師勝川春章の門下に入り、浮世絵師となる。代表作に富嶽三十六景などがある。娘のお栄(葛飾応為)も浮世絵師である。
中島伊勢住居跡(墨田区)

中島伊勢は鏡師で、葛飾北斎の養父となった。後に実子が生まれると北斎を離縁したが、北斎はその後も中島姓を名乗っていたことから、中島伊勢の妾の子だったという説もある。
住居は本所松坂町の吉良邸の向かいだが、北斎の母は吉良家の小林平八郎の孫だと言われている。
曲亭馬琴誕生の地(江東区深川老人福祉センター)(江東区)

1767年、滝沢興義の五男として江戸深川に生まれる。本名は滝沢興邦で、ペンネームとして「滝沢馬琴」を名乗ったことはない。
1790年山東京伝のもとを訪れ、弟子入りを請う。これは断わられたが、出入りは許された。馬琴はこのころから執筆を始めた。1792年には蔦屋重三郎の手代となる。
蔦屋や京伝の勧めで1793年、履物商「伊勢屋」の婿となるが、履物商に興味を示さず、義母が死去すると履物商はやめ、執筆に専念する。
「南総里見八犬伝」は執筆に30年近くかかった大作で、彼は73歳で失明し、以降は息子の妻による口述筆記で完成させた。原稿料のみで生計を立てた最初の職業作家とされる。
花園池と吉原観音(東京都台東区)

吉原は堀や土手と塀に囲まれ、城郭のように見えたので「郭」「遊郭」と呼ばれたが、城郭が外からの侵入を防いでいたのに対し、遊郭は内からの逃亡を防いでいた。出入り口は大門一個所だけであり、安政2年の大地震の際には遊女たちの逃亡を阻止するため大門が閉ざされ、そのほとんどが死亡した。
同様の悲劇は関東大震災でも繰り返され、逃げ場を失い花園池に逃げた遊女490人が溺死した。
花園池は後にほとんどを埋め立てられ、今はわずかに残っている。


写真左:花園池。
写真中:関東大震災犠牲者を供養する吉原観音。
写真右:花吉原名残碑。
大門に至る道は1本しかなく、遊郭の内部が直接外から見えないよう、道路は「く」の字に曲げて作られた。このくの字構造は、今日も残っている。堀と塀は今日残っていないが、吉原が周囲より小高くなっているのは昔の土手の面影を残しており、また堀が埋め立てられて道路になっていて、これらの遺構は今日も確認できる。
見返り柳跡(東京都台東区)

遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いで振り返ったという柳があった地に、現在は石碑が建てられている。今ある柳の木は昭和になって植えられたもの。
没落士族の樋口一葉は吉原近くに居を構え、この世界と深く関わった。小説「たけくらべ」は、「回れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろどぶに燈火うつる…」というくだりで始まっている。
浄閑寺(荒川区)

安政の大地震以降、吉原の遊女の遺体が投げ込まれたことから通称「投込寺」と呼ばれ、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれた。
「〜売女」という差別戒名がつけられたのは、心中、枕荒らし、足抜け、廓内での密通、阿片喫引など吉原の掟を破った者たちで、該当者は素裸にされ、荒菰に包まれ、文字通り浄閑寺に投げ込まれた。人間として葬ると祟るので、犬猫なみに扱って畜生道に落とすという意図があった。
写真は新吉原総霊塔。
長崎屋跡(中央区)

オランダ商館長は江戸参府の際、薬種屋の長崎屋源右衛門邸を定宿とした。江戸参府には通訳・医師なども同行していたため、青木昆陽・杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周・平賀源内などの医師や蘭学者が訪問し、外国文化の吸収に努めた。
平賀源内電気実験の地(江東区)

平賀源内は1776年、破損したエレキテルを長崎で入手し、独自に修理した。エレキテルは摩擦によって静電気を発生させ、それを金属の入った瓶に蓄えて放電させる装置で、電流が微弱なため実用性はなかった。彼は1777年、この地にあった自邸でエレキテルによる実験を行ったが、小型の模型を動かす程度の電力しか得られず、見世物以上の何物でもなかった。電気エネルギーの重要性には、観客はおろか源内自身も気づいていなかった。
蔦屋重三郎「耕書堂」跡(中央区)

新吉原大門近くで書店を開業した重三郎は、1783年日本橋大伝馬町に店を移し「耕書堂」と称した。
滝沢馬琴硯の井戸跡(千代田区)

ここは、馬琴が婿養子に入った下駄屋があった地である。下駄屋の商売は性に合わなかったらしく、彼は家業を人に任せ、自らは執筆に専念した。
滝沢馬琴住居跡(芳林公園)(千代田区)

馬琴は1824年元飯田町からこの地に転居し、1826年四谷信濃坂に移るまでこの地で暮らした。
長谷川平蔵邸跡(墨田区)

長谷川平蔵宣以は1745年、旗本長谷川平蔵宣雄の長男として生まれた。幼名は銕三郎または銕次郎。母は不詳で、妾の子として義母にいじめられ、若いころは放蕩に耽り「入江町の銕」と呼ばれた。1772年に父が京都町奉行に就くまで、ここで暮らした。
杉田玄白生誕地・小浜藩邸跡(矢来公園)(新宿区)

小浜藩医杉田甫仙の三男として、1733年小浜藩下屋敷で生まれた。藩医となるが、漢方医学の五臓六腑説に疑問を抱いた。
中川淳庵が所有するオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を見て、解剖図の精密さに驚く。同じころこれを入手した前野良沢とともに3人で、1771年小塚原刑場で刑死者の腑分けを検分し、同書の正確さと五臓六腑説の誤りを確認した。
3人は、オランダ語の知識がなく辞書もないのにターヘル・アナトミアの和訳に挑み、1774年須原屋市兵衛によって「解体新書」の名で刊行された。神経・軟骨・動脈などの医学用語は、このとき考案されたものである。
晩年にはこのときの回想録として「蘭学事始」を執筆し、後に福沢諭吉によって刊行された。
近代文化事始の地・中津藩中屋敷跡(聖路加国際病院)(中央区)

ターヘル・アナトミアの翻訳は、前野良沢の住む中津藩中屋敷に杉田玄白・中川淳庵らが集まって行われた。
佐野善左衛門宅跡(大妻女子大学)(千代田区)

佐野善左衛門政言は1784年、江戸城中において若年寄田沼意知を殺害し、切腹させられた。翌日から米価が下落したため「佐野大明神」と崇められた。
能「鉢の木」の主人公佐野源左衛門尉常世の子孫だという風説が流れたが、物語はフィクションで、常世の実在も疑わしい。藤原秀郷の子孫なら名は「藤左衛門」のはずで、諱に「綱」の字がないのは不自然だろう。政言の先祖は三河国大幡の出身である。

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