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NHK大河ドラマ紀行「豊臣兄弟!」コミュの【信長】愛知県

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【信長】にまつわる愛知県の史跡写真館です。
織田信長関係の史跡は、【信長】トピックにまとめて下さい。

コメント(39)

勝幡城跡(稲沢市)。

織田弾正忠家の織田信定(信長の祖父)が、永正年間に勝幡城を築いたと伝わる。「尾州古城志」によると、織田信長は勝幡城で生まれたと記されている。
信長の父信秀は1532年、今川氏から那古野城を奪い、拠点を勝幡城から那古野城に移した。その子信長は1555年、主家の大和守家を滅ぼして清洲城を奪い、拠点を那古野城から清洲城へと移した。勝幡城は衰退し、廃城となった。
古渡城(名古屋市中区)。

1534年、織田信秀が築いた。信秀は今川氏豊から奪った那古野城を、嫡男吉法師(織田信長)に譲り、この城を拠点とした。信長は古渡城で元服している。
1548年、信秀は末森城を築いて移ったため、古渡城はわずか14年で廃城となった。
現在は真宗大谷派名古屋別院。
名古屋城(旧那古野城)(名古屋市中区)。

今川氏親が16世紀前半に、尾張進出のために築いた柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、名古屋城二の丸一帯にあったと考えられている。1532年、織田信秀が今川氏豊から奪い、「那古野城」と改めた。
織田信長は、那古野城で生まれたとする説がある。信秀はのちに古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、信長が1555年に清須城に本拠を移したため、廃城となった。
徳川家康は、九男義直の居城として名古屋城を築くことを決め、1610年に築城を始めた。
明治維新後の1870年、徳川慶勝は新政府に対し名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出たが、山縣有朋は名古屋城と姫路城の保存を決めたため、天守と本丸御殿は保存された。名古屋城は1930年には名古屋市に下賜され、一般公開された。
1945年の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼失。戦後は城跡が名城公園となった。園内には、戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が保存された。天守は、地元商店街や全国からの寄付により1959年に再建され、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなっている。
丹羽長秀邸跡(名古屋市西区)。

1535年、丹羽長政の次男として生まれる。丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は1550年から織田信長に仕えた。斎藤征伐・六角征伐・高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆征伐などで武功を挙げ、また軍事面だけではなく安土城の普請奉行としても評価された。
1571年、佐和山城を陥落させてその城主となり、さらに若狭一国を与えられる。1581年の京都御馬揃えにおいても、一番に入場するという栄誉にあずかり、柴田勝家に続く二番家老の席次を認められた。いわゆる「織田四天王」の一人である。
本能寺の変の後は、秀吉に同調するようになり、実質的に家臣と見られていたようだ。1583年の賤ヶ岳の戦いでも秀吉に味方し、若狭に加え越前と加賀二郡を与えられ、123万石の大大名となった。
1585年、胃癌のため死去したとされる。一説によると、織田家をないがしろにする秀吉に抗議して、切腹し内臓を秀吉に送りつけたともいわれる。
息子長重は関ヶ原の戦いで西軍に加担し改易されたが、後に江戸崎藩主、棚倉藩主、白河藩主として返り咲いた。長重の息子光重は二本松藩主となり、明治まで続いた。織田四天王のうち、明治まで大名家として残ったのは丹羽家だけである。
末森城跡(名古屋市千種区)。

駿河の今川氏に備えるため、織田信秀が1548年に築いた。彼は当初、城主に信長の弟信行をあてていたが、後に自ら古渡城から移り住み、1551年末森城で死去した。
信行は1556年、林秀貞・柴田勝家らとともに信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れて和睦した。ところが翌年には再び謀反を企てたため、柴田勝家に密告され、信長に謀殺された。末森城はその後、城主不在のまま放置され、廃城となった
現在は、城山八幡宮となっている。二の丸跡には昭和塾堂が残っており、現在は愛知学院大学が使用している。
瀬名氏俊陣地跡(名古屋市緑区)。

今川義元の家臣瀬名氏俊が、先発隊として桶狭間山に本陣を設営するため着陣した地。かつては竹藪があり、地元ではセナ藪と呼んでいた。瀬名氏俊は本陣を設営したのち大高城に向かったため、桶狭間の戦いで戦死を免れた。
昭和まではここに鞍流瀬川があり、夏に飛びかうホタルを「合戦で討ち死にした兵士の亡霊」、黒いトンボを「おはぐろトンボ」と言い、捕獲しなかった。
戦評の松(名古屋市緑区)。

桶狭間の戦いに先立ち、今川本陣の設営を終えた瀬名氏俊は、ここにあった大松の下で軍議を開いた。初代の松は1959年の伊勢湾台風で枯死し、今の松は3代目にあたる。
釜ヶ谷(豊明市)。

織田信長は、善照寺砦に旗を多く立て本陣と見せかけ、暴風雨のなか中島砦から扇川沿いに進み、釜ヶ谷に到着し、そこから今川本陣を急襲した。
信長坂(豊明市)。

名古屋短大駐車場奥に残る高台は、今川軍右翼が陣取った地であり、ここに至る坂道こそ信長が天下取りへの道を駆け登った「信長坂」で、当時のまま変わらないという。
今川義元本陣は、高徳院にあったとする説がある。だとすると、信長坂を上れば真っ直ぐ本陣に突入したことになるが、ここより西のマンション前に「今川本陣跡」の碑があることから、そこが本当に本陣なら、信長坂を上るのは反対方向になる。
桶狭間山今川本陣跡(名古屋市緑区)。

長い間、今川義元は谷地の「桶狭間」に布陣していたため、織田軍の接近に気づかず奇襲を受け戦死したと考えられてきた。だが近年信長公記の研究により、義元は「桶狭間山」に布陣していたことがわかった。
桶狭間古戦場の碑(桶狭間古戦場公園)(名古屋市緑区)。

昭和の初めに、「桶狭間古戦場の碑」が鞍流瀬川の底から引き上げられた。このころから、有松の田楽坪を今川義元戦死の地とする主張がなされるようになった。
現在は、桶狭間古戦場公園として整備されている。
今川義元馬繋ぎの杜松(桶狭間古戦場公園)(名古屋市緑区)。

義元が馬をつないだと伝わる。触れると熱病に罹ると言われている。
義元首洗いの泉(桶狭間古戦場公園)(名古屋市緑区)。

泉の中にくるくる回る桶があったので、桶廻る狭間が「桶廻間」「桶狭間」になったとも言われている。
弁天池(長福寺)(名古屋市緑区)。

桶狭間の戦いのとき、血のついた刀をここで洗ったと伝わる。
首検証跡(長福寺)(名古屋市緑区)。

長福寺境内の大杉付近で、林阿彌が今川義元の首検証をした。
七石表(豊明市)。

桶狭間の戦いの故地を訪れ、その荒廃ぶりを嘆いた人見弥右衛門桼と赤林孫七郎信之が、1771年に建てた七基の石碑。一号碑は今川義元、二号碑は松井宗信の戦死の地を示しているが、三号碑以下は氏名が刻まれていない。
桶峡弔古碑(豊明市)。

桶狭間古戦場伝説地に、津島の神官であった氷室豊長が1809年に建立した石碑。桶狭間の戦いを回顧する文と詩が刻まれており、撰文は尾張藩儒学者の秦鼎、揮毫は尾張藩大坂蔵屋敷奉行の中西融によるものである。
今川義元墓(豊明市)。

弔古碑が建てられたあと、旅人がそれを義元の墓と間違えて香華を手向けたりしていたので、有松の住人山口正義が1876年、周辺を整備し義元の墓碑を造った。
志賀城跡・平手政秀屋敷跡(志賀公園)(名古屋市北区)

平手政秀は、織田信長の傅役と次席家老を務めた。対立していた斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取りまとめたとされる。1553年に自害した理由は、信長が奇行を改めないことを憂いたと言われるが、実際は不明である。
嫡男の平手久秀は長島一向一揆平定戦で戦死、孫の汎秀は三方ヶ原の戦いで戦死し、平手氏の嫡流は絶えた。愛知県出身某アイドルとの関係は不明である。
稲生原古戦場跡(名古屋市西区)

信長の振る舞いに不安を抱いた柴田勝家や林通具らは、弟の信勝を担ぎ謀反を企てた。彼らは、信長領の篠木三郷を押領する。これに対し信長は、佐久間盛重に命じ名塚に砦を築かせた。
1556年、柴田勝家と林通具は1700の軍勢を率い、名塚砦を攻撃した。信長も700の軍勢を送り、両軍は稲生原で対峙した。
数で劣る信長軍は、名のある武将たちが次々に討たれ苦戦したが、信長が人並み外れた大声で怒鳴ったところ、柴田軍の兵たちは恐れをなして逃げ出したという。次いで信長軍は、林軍と戦闘を開始。信長自らが槍を持ち、林通具を討ち取り勝利した。
この戦いの後、信勝は兄弟の母土田御前の取りなしにより赦免されるが、後日再び謀反を企み、成敗された。柴田勝家は信長に服従し、重臣として活躍した。林通具の兄秀貞は、当初信勝側についていたが、稲生の戦いの前に信長に寝返り、1580年になって突如追放された。信長はその理由として、20年以上前に叛いたことを挙げた。
小牧山城(小牧市)

織田信長が1563年、美濃攻略のため小牧山に城を築き、本拠地を移転した。防衛に適さない真っ直ぐな大手道は、安土城に先駆けたものである。
信長は1567年に美濃を攻略すると、本拠地を岐阜城に移したため、小牧山城は廃城となった。
1584年の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康が小牧山城跡を占拠し、土塁や空堀などに大規模な改修を施した。江戸時代には「家康公御勝利御開運の御陣跡」として、一般人の入山が禁止された。
山頂にある天守閣風の「小牧城」は、名古屋の実業家平松茂が、私財を投じて1962年に建設し、小牧市に寄贈したものである。西本願寺の飛雲閣をモデルにしており、現在は小牧市歴史資料館となっている。
聖徳寺跡(一宮市)

「信長公記」によると、斎藤道三は婿の信長が本当にうつけか確かめるため、国境の木曽川に近い富田の聖徳寺まで出向くので対面したいと申し出た。彼は密かに道中の小屋に身を潜めると、信長が異様な装束で、家臣に異常に長い槍を持たせていたので、本当にうつけだと思ったら、聖徳寺では立派に正装して現れたので「息子たちは信長の馬を引くことになるだろう」と言ったと記録されている。
これはあくまでも、織田側の記録である。道三が、自領ならいざしらず他領にわずかな供を連れて小屋に潜んだというのは、危険であり考えにくく、創作と見るべきだろう。
聖徳寺は後に移転し、現在は守山区白山の聖徳寺と天白区八事山の聖徳寺に分かれて続いている。
鳴海城跡(根古屋城跡)(名古屋市緑区)

応永年間に安原宗範が築いた。
鳴海城主の山口教継・教吉親子は織田信秀に服属していたが、信秀の死後信長から離反し、今川に従う。熱田の至近距離に今川の拠点ができたことになり、脅威を感じた信長は、丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を築いた。
山口親子は後に、今川義元の命で切腹させられる。いつ寝返るかわからない山口親子に重要拠点を任せることに不安を覚えたとも、信長の調略とも言われている。
鳴海城はその後、今川譜代の岡部元信が城主となり、桶狭間の合戦を迎えた。城は落ちなかったが、元信は義元の首をもらい受けるかわりに開城した。
合戦後は、善照寺砦を守った佐久間信盛に鳴海城が与えられた。1590年廃城となり、成海神社の御旅所として天神社が祀られた。1943年、元信の末裔岡部長景文部大臣により「鳴海城址之碑」が建立された。
大高城跡(名古屋市緑区)

永正年間に、花井備中守が築いたのが始まりとされる。
鳴海城主の山口教継・教吉親子は、調略を用いて大高城をも奪った。信長はこれに対抗し、鷲津砦と丸根砦を築いた。
鷲津砦(名古屋市緑区)

織田信長が1559年、大高城と鳴海城の間を遮断するため、鷲津砦と丸根砦を築いた。鷲津砦には守将として、織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子を置いた。
1560年尾張に侵攻した今川軍は、まず松平元康に両砦の監視をかいくぐり、大高城に兵糧を入れさせると、翌日両砦に攻撃を開始した。報せを受けた信長は清洲城から出陣したが、熱田神宮に差しかかったとき、すでに両砦から煙が上がっていたという。鷲津砦を攻撃したのは、朝比奈泰朝だった。織田秀敏と飯尾定宗は討死、飯尾尚清は敗走したが、一定の時間稼ぎには成功した。
桶狭間の合戦は、軍記物に書かれたような今川義元が上洛を目指したものではなく、自軍に寝返った城に付け城をされたので、救援に向かったものである。ゆえに大高城に兵糧を入れた時点で目的は達せられているが、両砦を陥落させた後、大高城に入ろうとしてその道中に討たれた。
現在は鷲津砦公園。
丸根砦跡(名古屋市緑区)

織田信長が1559年、大高城と鳴海城の間を遮断するため、鷲津砦と丸根砦を築いた。
桶狭間の戦いの前哨戦で、佐久間盛重を将とする織田軍が立てこもったが、松平元康軍に攻撃され、全滅した。
善照寺砦跡(名古屋市緑区)

鳴海城を包囲するため、同じ丘陵の東端に築かれた。佐久間信盛・信辰兄弟が守将を務めた。
信長は桶狭間の合戦に先立ち、善照寺砦に兵を集め、本隊が駐留しているように見せかけるため、幟や旗を残し桶狭間に向かった。信長は中嶋砦に移ろうとしたが、両側が深田の一本道で、敵から丸見えなため反対されたものの、振り切って中嶋砦に移った。
戦国時代にこの地にあった善照寺は、江戸時代には花井町へ移転され、江戸中期には本町に移り、名前も円竜寺に改められた。
現在は砦公園。
中嶋砦跡(名古屋市緑区)

中嶋砦・善照寺砦・丹下砦は、鳴海城を包囲するように築かれた。中嶋砦だけは、扇川と手越川の合流点の平地に築かれ、梶川高秀が守将を務めた。
今川義元が尾張に侵攻して来ると、信長は清洲城を出て、いったん善照寺砦で集合し、そこから中嶋砦を経由して、桶狭間に向かったと考えられている。
鷺之森(はざま公園)(豊明市)

織田信長が桶狭間に進軍する際、熱田神宮から二羽の白鷺が飛び立ち、今川本陣近くのこの地に舞い降りた。織田軍はそれに導かれて勝利した、という伝承に基づいている。
今川義元本陣跡(高徳院)(豊明市)

桶狭間古戦場伝説地の向かいにある高徳院に「今川義元本陣跡」の碑がある。今川義元の末裔と言われた人物が、先祖の亡くなった地に碑を建てたいと住職に申し出て建てたもので、歴史的根拠はない。
ここは桶狭間古戦場伝説地を見下ろす高台の上だが、ここに本陣があったとすると、義元はほとんど逃げることなく、本陣近くで討たれたことになる。最近の学説では、本陣を置いた桶狭間山はもっと南にあったとされていて、本陣を捨て相当な距離を逃げながら討たれたと考えられている。
駒つなぎのねず(豊明市)

今川義元が、本陣近くにあったこのねずの木に駒をつないだという。鷲津砦・丸根砦の陥落に気を良くした彼がここで酒宴を張ると、突然雷雨となり、織田軍の急襲を受けて戦死した。
林通勝邸跡(沖村城跡)(松林寺)(西春町)

織田信長の筆頭家老林佐度守通勝として知られるが、名は正しくは秀貞で、松永久秀の家臣林通勝と混同されたらしい。
織田信秀から信長の一番家老につけられるが、彼の奇行のため弟の信行擁立を、弟の林美作守(名は不明で、通具ともされる)と画策する。林兄弟は村木砦の戦いに出陣せず、信長が那古野城を訪れたとき美作守は暗殺しようとするが、秀貞に制止された。稲生の戦いでは美作守が信行について討ち死にしたのに対し、秀貞はあえて動かなかったため、織田家筆頭家老の地位を維持する。
彼は外交に手腕を発揮したようで、戦では功績を挙げることができず、所領では柴田勝家・佐久間信盛・明智光秀・羽柴秀吉らに追い抜かれた。1580年、戦功がないことと信行に加担したことを理由に追放された。代々仕えた宿老に能力がないなら隠居させれば済むことで、追放は織田家中に衝撃を与えた。本能寺の変の遠因になったとも言われる。
田幡城跡(金城小学校)(名古屋市北区)

田幡城は、天文年間に越智信高が築いたとされる。稲生の戦い後に廃城となった。
尾張の越智氏は伊予発祥の越智氏が美濃へ移り、美濃国安八郡林村から田幡に来住して林氏の祖となったという。信高の子が林弥助で、その子が信長の筆頭家老の林秀貞(「通勝」は誤り)ということになっているが、秀貞の父は林通安であり、疑問が残る。
浮野合戦場址(一宮市)

尾張上四郡を支配していた守護代織田信賢を、信長が1558年に破った戦いで、翌年信賢の本拠岩倉城も落とし、尾張をほぼ統一した。
信長は、姉を嫁がせ味方につけた織田信清も1565年に追放し、尾張を完全統一する。なお現在は三重県の長島は、信長公記には「尾州河内長島」と記されており、尾張統一は厳密には1574年になる。
清洲城跡(清洲古城跡公園)(清須市)

1405年守護斯波義重によって築かれ、1478年に守護所が清須に移転すると尾張の中心となった。以来尾張守護代の居城となり、1555年には守護代織田信友を討った織田信長が入り本拠地とした。
1582年には清洲会議の舞台となり、織田信雄が入ったが、小田原合戦で豊臣秀吉に逆らい除封され、豊臣秀次の所領となり、秀次失脚後は福島正則が入った。
関が原の戦いの後、安芸に転封した正則に代わり松平忠吉が入るが、関が原での戦傷がもとで病死すると、1607年には徳川義直が入った。1613年、名古屋城の完成により廃城となった。
城址は現在、新幹線に分断され2つの公園となっている。写真の模擬天守は、本来の城址ではなく五条川の対岸に建設されたものである。
今川義元胴塚(大聖寺)(豊川市)

桶狭間の合戦で、今川の兵が首のない義元の遺体を背負って引き上げる途中、大聖寺に葬ったという。
狩宿城跡(尾張旭市)

文献によると林弥助の居城だった。彼の息子は林信勝とか林羅山とか言われているが、定かではない。

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