ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

NHK大河ドラマ紀行「豊臣兄弟!」コミュの【おんな太閤記】愛知県

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
【おんな太閤記】にまつわる愛知県の史跡写真館です。
豊臣秀吉関係の史跡は、【おんな太閤記】トピックにまとめて下さい。

コメント(25)

織田信孝墓所(大御堂寺〔野間大坊〕)(美浜町)。

織田信孝は、信長の次男信雄より数日先に生まれたが、母の身分が低いため三男にされたと言われる。だが信孝は外見・気性が信長に似ており、同い年で愚鈍な兄信雄強い対抗意識を抱いた。
1568年、信長が伊勢を平定すると、信孝は神戸具盛の養子となり、具盛隠居後は神戸氏の当主となり神戸信孝と称した。

本能寺の変のときは堺にいたが、わずかの手勢しかなかったため独自の行動をとることができず、羽柴秀吉軍に合流し、名目上の総大将として山崎の戦いで父の仇を討った。にもかかわらず、清洲会議では秀吉に巧妙に立ち回られてしまい、織田家の後継者は甥の三法師に決まる。信孝は三法師の後見役になり、岐阜城主となる。
だが信孝は約束を違え、三法師を岐阜城から出さなかったため、秀吉に戦う口実を与えてしまう。秀吉に城を囲まれると、母と娘と三法師を引き渡して和睦に応じた。1583年に柴田勝家が挙兵すると、信孝もそれに呼応して挙兵したが、勝家が自害すると後ろ盾を失い、秀吉に降伏した。
信雄は織田家を自分のものにするため、信孝を大御堂寺に送り切腹を申しつけた。その際、怒りのあまり臓物を投げつけたという言い伝えがあり、血痕らしきものがついた掛軸が隣の安養寺に残されているが、医学的見地からはそのようなことは不可能だとされている。
浅野邸跡(浅野公園)(一宮市)。

木下家のおね(北政所)は、離婚歴のある秀吉との結婚を反対されたため、親類に当たる浅野長勝の養女に出された。その妹ややはおねの実妹とも、また浅野家の実子とも言われているが、安井家の浅野長政を婿養子に取った。こうして浅野家は、譜代の家臣を持たない秀吉に最も近い姻戚として重用されることになる。
浅野家は後に安芸広島藩主となり、明治まで存続した。赤穂事件で知られる浅野内匠頭長矩は、長政の4代後の子孫である。
宮後城跡(江南市)。

宮後城は、土岐氏が美濃・尾張を支配した応永年間に安井氏が居城していたが、蜂須賀正勝(小六)の母が安井氏の娘だったため、父の死後蜂須賀城を出て、宮後城に入った。彼はこの地で木曽周辺を支配し、川並衆の長として勢力を拡大し、木下藤吉郎の側近となった。正勝の子で徳島藩開祖の家政は、ここ宮後城で生まれたと考えられている。
宮後城はその後、小牧・長久手の戦いの際に秀吉が城域を拡大し、外堀を築き二重掘としたが、戦いの後に廃城となった。
浅野長政は安井弥兵衛の長男であり、この地で生まれたとする説がある。
浅野長政誕生地(霊松禅寺)(北名古屋市)。

安井重継の子として生まれる。叔父浅野長勝に男子がなかったため、長勝の娘・ややの婿養子として浅野家に入る。同じく長勝の養女となっていたねねが木下藤吉郎に嫁いだことから、長政は秀吉にもっとも近い姻戚として重用された。
1583年の賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げ、大津2万石の大名となり、その後若狭国小浜8万石、甲斐国府中21万5千石と順調に出世し、豊臣政権の五奉行筆頭となった。
浅野長政誕生地の碑は、もとは東の住宅街にあったが、霊松禅寺に移された。
蜂須賀小六・家政生誕地(蜂須賀城跡)(蓮華寺)(美和町)。

蜂須賀小六(正勝)は、尾張蜂須賀の蜂須賀城に生まれた。木曽川筋の川並衆を束ねて蜂須賀党を成し、斎藤道三・織田信清・織田信賢・織田信長に仕え、羽柴秀吉の直臣となった。
金ヶ崎の退き口、伊勢長島一向一揆戦、播磨三木城攻略戦などで活躍し、1581年龍野5万石を拝領した。
その後も備中高松城攻め、山崎の戦い、賎ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い、根来雑賀一揆討伐、四国征伐などで戦功をあげ、秀吉より阿波一国を与えられたが、これを固辞して嫡子家政に与えた。
床机石(長久手市)。

小牧・長久手の戦いのとき、色金山山頂で徳川家康が腰掛けて軍議を行ったと言われている石。
小牧を出発した家康は矢田川を渡り、守山あたりから東へ回り込み、瀬戸を通って色金山に陣を敷いた。
勘解由塚(木下勘解由戦死の地)(長久手市)。

白山林の戦で馬を失った三好秀次は、可児才蔵に馬を借りたいと頼んで断られた。すると木下勘解由利匡が、自分の馬を秀次に与えて逃し、兄の木下助左衛門祐久とともに追撃する徳川勢と奮戦し、この地で戦死した。祐久は、秀吉の正室おねの実父だとする説もある。
武蔵塚(森長可戦死の地)(長久手市)。

小牧・長久手の戦いで、三河国中入り部隊の第2陣の総大将となった森武蔵守長可は、総大将の秀次が敗走すると、その間に家康の本隊が割り込んで入ったため、池田隊とともに先行したまま取り残された形となった。長可は池田隊と合流して決戦を挑むが、水野勝成軍の狙撃で眉間を撃ち抜かれ、即死した。
大久保忠世配下の本多八蔵は、長可の死体を見たが「首取るに及ばず」というお触れが出ていたため、首を取らずに鼻を削ぎ、脇差を奪って立ち去った。その後別の武者が長可の死体に駆け寄り、首を取ると武功を大声で言い立てながら去って行ったが、実はこの武者は森家の者であったという。
勝入塚(池田恒興戦死の地)(長久手市)。

森長可が戦死すると、徳川軍は池田軍にも押寄せ、池田恒興が打ち取られた。
庄九郎塚(池田元助戦死の地)(長久手市)。

池田元助は父恒興が討死したと聞き、父の陣に引き返すところを討ち取られた。
堀秀政本陣地跡(長久手市)。

秀吉軍は大敗を喫したが、堀秀政は自軍を三手に分け、余勢を駆った家康方の大須賀康高・榊原康政らを待ち伏せし、挟撃して敗走させた。
現在は公園として整備され、長久手市立図書館がある。
血の池公園(長久手市)。

小牧・長久手の戦いが終った後、徳川方の将兵が刀や槍を洗ったことから、「血の池」という名がついたといわれる。毎年合戦の行われた頃になると、池の水が赤く染まったと言う。
池は現在は埋め立てられ、公園になっている。
豊臣秀吉生誕地(中村公園)(名古屋市中村区)。

豊臣秀吉は1537年ころ、この地で生まれたとされる。伝承によると、足軽の父木下弥右衛門と母なか(大政所)の間に生まれたが、父を亡くしたのち継父筑阿弥と折り合いが悪く、家を出て放浪し「木下藤吉郎」を名乗ったという。木下姓は、妻北政所の姓とする説もある。
秀吉生誕地には1885年、彼を祭る豊国神社が建立された。中村の大鳥居は1929年に建立されたもので、高さ24メートル・幅34メートルもある日本最大級の鳥居である。
豊臣秀吉産湯の井戸(常泉寺)(名古屋市中村区)。

常泉寺は1606年、加藤清正が豊臣秀吉を祀るために創建したと伝えられる。
伝承では、この地は秀吉の継父筑阿弥の宅跡と言われ、秀吉の産湯に使った井戸がある。
加藤清正生誕地(妙行寺)(名古屋市中村区)。

妙行寺は、古くは本行寺と称した真言宗の寺院だったが、1294年日像が日蓮宗に改宗した。日勢上人が天文年間に「正悦山 妙行寺」と改め再興した。1610年、加藤清正が名古屋城築城の際に余った資材を用い、妙行寺を自分の生誕地に移築した。
加藤清正は1562年、刀鍛冶加藤清忠の子として生まれた。母は豊臣秀吉の母大政所の従姉妹だったと言われている。父は清正の幼いときに死去したため、母とともに津島で暮らした。1573年、長浜城主となった秀吉に小姓として仕え、後に熊本藩主となった。
木下長嘯子屋敷跡(中村公園)(名古屋市中村区)。

木下長嘯子は名を勝俊と言い、北政所の兄木下家定の子として1569年に生まれた。小早川秀秋の兄に当たる。幼少のころより和歌を好み、細川幽斎に学んだという。
はじめ豊臣秀吉に、後に徳川家康に仕え、播磨の龍野城主、若狭の後瀬山城主となる。関ヶ原の戦いでは、東軍に属し鳥居元忠とともに伏見城の守備を任されたものの、西軍が攻め寄せる直前に城を退去した。歌人としての名声を惜しんだ朝廷による、救出工作があったと言われる。妻のうめ(宝泉院)はこの敵前逃亡に激怒し、離縁した。
戦後は所領を没収されたが、父木下家定が死去すると、北政所の斡旋でその遺領足守2万5000石を継承した。しかし幕府は弟利房と分割相続するよう定めていたため、幕府の裁定で両者とも足守領を失った。なお利房は大坂の陣での軍功により、後に足守領を回復した。
勝俊はその後京都東山に移り、高台院が開いた高台寺の南隣に挙白堂を営み、長嘯子と号した。引退後は和歌や茶道や書など風流三昧の生活を送った。歌集「挙白集」は名高い。
豊臣秀次生誕地(貴船神社)(美和町)

秀次の父三好良房は乙之子の生まれとされ、苗字もなく弥助と名乗り馬丁をしていたという。秀吉の姉智と結婚して運命が大きく変わり、1592年息子秀次が関白になると、ゆかりの地に社殿を造立したのが当社の始まりと伝えられる。良房は後に大高に領地を持ったので、秀次生誕地は大高とも乙之子とも言われ、はっきりしない。なお旧美和町は、秀吉の遠縁である福島正則や蜂須賀小六も生まれていて、豊臣家と縁の深い地域である。
秀次は何らかの理由で秀吉の怒りをかい、切腹させられ、一族郎党に至るまで処刑された。彼にゆかりのある聚楽第は跡形もなく破壊され、八幡山城も石垣を残して解体されたが、当社はなぜか今日に続いている。吉房は秀次死後に流罪となるが、秀吉死後に許され、入道して三位法印一路と名乗ったため、この地は三位法印屋敷と呼ばれた。
なお吉房の子秀勝の娘完子は九条家に嫁ぎ、その子孫が大正天皇妃となったため、今上天皇の先祖の中で吉房は最も出自の低い人物だと考えられている。
御所屋敷跡(名古屋市昭和区)

尾張志に「この御器所村の古老伝説に、太閤秀吉の母堂はこの御器所屋敷に住んで秀吉を生み、そこで御所屋敷というようになった」、天野信景の随筆に「尾州愛知郡御器所村の人なり」という記述があることから、ここが大政所の屋敷跡とされた。
秀吉や、従一位にまで叙せられたその母の素性については不明な点が多く、古文書に記録が見当たらないが、江戸時代に書かれた「太閤素生記」はやけに詳細に記しており、今に続く太閤伝説の根幹を成している。そこには、大政所は某中納言の娘で、宮中に出入りしていたとき天皇の子を宿し密かに出産したという。つまり秀吉は、天皇の庶子なので関白になれたということだ。このような記述は事実とは思えないが、この地に持萩中納言の屋敷があったことから、ここが大政所屋敷跡ということになった。彼女の父は関弥五郎兼員とも言われているが、定かではない。
清正公社(津島市)

加藤清正は秀吉の遠縁で、秀吉生家のすぐ近くに生まれた。3歳のとき父が死去し、この地にあった叔父の家に暮らした。
犬山城(白帝城)(犬山市)

1537年織田信康が築いた。天守は天正年間に築かれたと考えられ、現存天守の中で最古とされている。木曽川に面した丘の上にあり、中山道と木曽街道に通じる要衝に位置している。
信康の子信清は、従兄弟の信長と対立して1564年追放された。信長死後は息子信雄が城主となったが、小牧・長久手の戦いで秀吉が奪い、本陣を置いた。信雄追放後は秀吉の義兄三好吉房が、その子秀次自刃後は石川貞清が城主となった。
関が原の合戦後は、小笠原吉次と平岩親吉を経て、1617年成瀬正成が城主になり、成瀬氏が明治まで支配した。1895年の濃尾地震で損壊し、成瀬家に譲渡され、2004年まで個人所有の城だった。
浅野長勝宅址(稲沢市)

浅野長詮の子で、本家浅野勝隆の養子となった。妻の姪である杉原家のねね(北政所)とややを養女にしたと考えられている。
安井城跡(山神社)(名古屋市北区)

1573年頃、安井将監と浅野長勝によって安井村に築かれた。長勝が津島に移ると廃城になった。
岩崎城跡(岩崎城跡公園)(日進市)

織田氏の城だったが、松平清康が1529年に奪取。1535年の森山崩れで清康が殺されると、丹羽氏清の城になった。
1584年の長久手の戦いでは、羽柴秀次らが徳川家康の本拠三河を突こうとしたのに対し、丹羽勢が攻撃したのがきっかけで城攻めとなった。城を守っていた丹羽氏重は討ち死にし落城したが、羽柴軍の足止めには成功した。休憩する羽柴軍に徳川軍は追いつき、奇襲をかけてこれを壊滅させた。
日吉丸生母祈願乃趾(日之宮神社)(名古屋市中村区)

日之宮神社はもとは日吉権現と言い、秀吉生母が子を授かるよう日参したという。
子産石(日吉神社)(清須市)

秀吉生母が安産祈願し、この石に抱き着いたと伝わるが、中村からは遠く、事実とは思えない。日吉神社なので尾ひれがついた話と思われる。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

NHK大河ドラマ紀行「豊臣兄弟!」 更新情報

NHK大河ドラマ紀行「豊臣兄弟!」のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。