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NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」コミュの【鎌倉殿の13人】神奈川県

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【鎌倉殿の13人】にまつわる神奈川県の史跡写真館です。

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旧相模川橋脚(茅ヶ崎市)。

1923年の関東大震災のとき、この地の畑の中から突如7本の檜の丸太が出現した。この丸太は直径60センチもあり、その後の調査でこの柱跡は、1198年に源頼朝の妻政子の妹の夫である稲毛三郎重成が、妻の供養に架けた橋の橋脚と考証された。
頼朝は、この橋の開通式を終え帰路についたとき、馬が暴れ相模川へ落ち、その17日後に死亡した。それ以来、相模川の下流域を「馬入川」と言うようになった。
和田塚(和田一族戦没地)(鎌倉市)。

1213年侍所別当の和田義盛は、北条義時に合戦を挑み(和田合戦)、由比ヶ浜で最期を遂げた。
1950年の道路工事の際、この地で人骨が発掘されたため、この塚が和田合戦で敗れた和田一族の戦死者を弔ったものと推定されている。中には刀を握ったままの人骨もあったという。
虎御石跡(秋葉神社)(大磯町)。

山下長者は40歳すぎても子宝に恵まれなかったが、虎池弁財天に願をかけたらようやく授かり、枕元にお告げの印として小さな石が置かれていた。長者は娘を虎御前と名づけ、石を大切にまつっていたが、石は娘の成長とともに大きくなったという。
虎御前は曽我十郎祐成の妾になったが、彼が父の仇である工藤祐経の手の者に襲われたとき、虎御石が身代わりとなって矢や刀をはね返したという。石にあるくぼみは、そのときできたといわれる。
虎御石は東海道沿いのこの地に置かれ、旅人が触っていたが、現在は隣の延台寺に保管されていて、「虎御石まつり」のとき公開される。
曽我祐信館址(小田原市)

曽我祐信は、曽我兄弟の母と再婚し養父となった。「曽我物語」では、影の薄い父として描かれている。祐信には実子の祐綱がいて、曽我兄弟は曽我も河津も伊東も継げず、絶望的人生の中で親族北条時政に接近し、曽我時致の烏帽子親になってもらい時の字を賜っている。仇討ちは、曽我兄弟の心につけこみ時政が邪魔者を排除したという説がある。
太田道灌を殺した曽我兵庫は、祐信の子孫である。14代曽我信正は1559年、北条氏康に攻められ、一族郎党が自害して曽我氏は滅んだ。
満江御前屋敷跡(曽我別所公民館)(小田原市)

「満江御前」の名は後代につけられたもので、実名は不明。おそらくは横山時重の娘で、河津祐泰の妻となり曽我兄弟を産んだ。
「小袖曽我発祥の地」とあるが、小袖曽我はフィクションである。
伝御所五郎丸屋敷址(御所五郎丸公園)(鎌倉市)

鎌倉市腰越の御所ヶ谷は、御所五郎丸の屋敷址と伝わる。彼は頼朝の近習を務め、宿所に押し入った曽我五郎を一人で取り押さえたという。
石橋山古戦場(小田原市)

源頼朝は、以仁王の令旨を奉じて挙兵した。緒戦で伊豆国目代山木兼隆を血祭りにあげ勢いづくが、300騎で石橋山に布陣したのに対し、平家方は大庭景親ら3000が谷一つ隔てて布陣した。頼朝が当てにしていた三浦の援軍は、酒匂川の増水によって足止めされ合流できずにいた。景親は三浦勢が合流する前に決戦を挑み、頼朝軍を撃破した。頼朝らは山中に逃れた。
土肥の大杉旧跡(湯河原町)

石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、土肥実平らと七騎で土肥椙山の山中に逃げ込み、大杉の根元に隠れた。大庭景親の配下梶原景時がこれを見つけたが、「ここにはいない」と嘘の報告で見逃した。景時は後に頼朝に重用された。
土肥の大杉はその後腐食したため、大正6年に伐採された。
鵐窟(しとどのいわや)(湯河原町)

湯河原町はかつて土肥領で、城山には土肥氏の城があった。石橋山の合戦に敗れた源頼朝らは城山のこの洞窟に潜んでいたが、大庭景親がこの中を捜そうとのぞき込んだところ、多数の鵐が飛び出してきたため、人がいるはずがないと思いそれ以上捜索しなかったという。
鵐窟(しとどのいわや)(真鶴町)

真鶴の魚座近くにも鵐窟がある。
謡坂(真鶴町)

源頼朝一行が安房へ逃走する途中、この坂で休憩した。土肥実平は主君の無事を祝い、再起を願って謡を謡い、舞を舞った。
源頼朝船出の浜(真鶴町)

石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、この海岸から安房に向かって船を出したと伝わる。
鶴岡八幡宮(鎌倉市)

1063年源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺を鎌倉の鶴岡に勧請したのが始まり。平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った源頼朝が1180年、宮を現在地に遷した。
画面左側の立て札の後ろにあるのが、公暁が隠れていたと伝わる大銀杏。彼はここに隠れ、叔父の源実朝を1219年に殺害したと言われるが、この木は樹齢千年余で、当時は人が隠れられる太さになっていたかどうか疑問視されている。この木は2010年に倒壊した。
衣笠城址(横須賀市)

前九年の役での戦功により、源頼義から三浦の領地を与えられた三浦為通が、1062年に築いた。4代三浦義明は源頼朝の挙兵に応じるが、頼朝本隊が合流する前に石橋山で壊滅したため、衣笠城に引き返し、平家方の畠山重忠に攻められ、落城して義明は討ち死にした。
「吾妻鏡」では義明は、一族を逃がした後「我は源氏累代の家人として、老齢にしてその貴種再興に巡りあうことができた。今は老いた命を武衛に捧げ、子孫の手柄としたい」と言って壮絶な最期を遂げたとするが、「平家物語」は老齢の義明は置き去りにされたと記している。1247年の宝治合戦で三浦党が滅ぶと廃城となった。
和田城址(三浦市)

和田義盛は、三浦義明の孫として鎌倉の杉本城に生まれた。家督と城を弟の義茂に譲り、和田郷に移って和田城を築いた。
「源平盛衰記」では木曽義仲の死後、巴御前が義盛に引き取られ、息子義秀を生んだとする。ちなみに義秀が生まれた1176年には義仲が存命なので、巴は義秀の母ではない。
新潟に実在した板額御前が、鎌倉時代なのに身長188センチもあり、武勇に優れ、浅利義遠に妻として引き取られたエピソードが、そっくり移植されたのだろう。
太刀洗水(鎌倉市)

上総広常の屋敷は、朝夷奈切通しの近くにあったという。梶原景時が広常を斬った後、血のついた太刀をここで洗ったと伝わる。徳川光圀編纂の「新編鎌倉志」の中で、鎌倉五名水の一つに選ばれている。
比企能員邸跡・蛇苦止ノ井(蛇形井)(妙本寺)(鎌倉市)

妙本寺は、比企能員邸跡に息子比企能本が建てた。
比企能員は、源頼朝の乳母比企尼の甥に当たり、娘の若狭局を源頼家の側室として権勢を振るった。
頼家が重い病に伏せると、北条時政は能員を自邸に呼び暗殺。比企一族は、頼家の子一幡の御所に立て籠もったが、火を放ち自害した。
蛇苦止ノ井(蛇形井)は、若狭局が家宝を抱えて飛び込み自害した井戸と伝わる。若狭局は蛇身となり、井戸の中で家宝を守り続けているという。1422年佐竹与義が妙本寺で自刃し火をかけたとき、住職の日行は、日蓮の描いた曼荼羅を持ち出し、蛇苦止堂の井戸に隠そうとしたところ、蛇が現れ大雨を降らせ、火を消したと伝えられている。


写真右:蛇苦止ノ井前の蛇。
大江広元邸跡(鎌倉市)

大江広元は武人ではなく文人。大江維光を実父、中原広季を養父としたとも、その逆とも言われる。大江氏は文章道(漢文学)を、中原氏は明経道(儒学)と明法道(律令)を家学としており、広元は双方の学問を継承できる立場にいた。京では出世に限界があると悟ったか、1183年ころ鎌倉に下り頼朝のブレーンとして公文所別当となる。守護・地頭の設置も、広元の献策だとされる。毛利氏の祖である。
懐嶋館址(円蔵神明大神宮)(茅ヶ崎市)

大庭景能は保元の乱で源義朝に従い、敵の源為朝の矢に当たり、以後歩行困難となって、家督を弟の景親に譲り懐島に隠棲した。為朝の矢を受けて死ななかったのは、景義だけだとされる。
1180年に源頼朝が挙兵すると、弟の景親はこれに対抗し、敗れて処刑されるが、景能は頼朝について重用された。だが大庭氏は和田合戦以降は記録がなく、何らかの理由で失脚したものと思われる。
畠山重忠屋敷址(鎌倉市)

畠山重忠の屋敷は幕府政庁のすぐ隣にあり、頼朝の信頼が篤かったことがわかる。
大蔵幕府旧蹟(鎌倉市)

1180年に鎌倉に入った源頼朝は、源頼義の屋敷があった大倉の地に御所を構え、1219年に消失するまで政治の中心となった。執権北条泰時は、1225年に北条政子が亡くなると幕府を宇津宮辻子に移転した。
文覚上人屋敷址(鎌倉市)

俗名を遠藤盛遠といい、北面の武士だったが出家した。「源平盛衰記」ではその理由を、従兄弟の渡辺渡の妻袈裟御前に横恋慕し「夫を殺してほしい」と依頼されるが、夜忍び込むと夫の寝所に袈裟御前がいて誤って殺してしまったとする。
後白河法皇に神護寺再興を強訴して伊豆の奈古谷に流され、「平家物語」によると源義朝の髑髏を頼朝に見せ挙兵を促したという。
えな塚(茅ヶ崎市)

頼朝の子を身籠った丹後内侍は、北条政子に知られてしまったことから、懐嶋郷の領主大庭景能の懐嶋館に匿われ、その後西久保の桜屋敷に移って島津忠久を出産し、ここにえな(胎盤)を埋めたという。
畠山重忠終焉の地(横浜市旭区)

牧の方は夫北条時政に、畠山重忠を討つよう求めた。息子の義時・時房は時政に相談され「重忠が謀反を起こす訳がない」と言ったが、「継母だから軽んじるのか」と詰問され押し切られた。
重忠は鎌倉に召集をかけられ、134騎を率いて向かったところ、二俣川で義時の討伐軍に遭遇した。国許に戻り兵を集めるべきだという意見に対し、重忠はそんなことをすれば謀反を認めたことになると反対し、わずかな兵力で戦った。最後は愛甲季隆の矢を受けて戦死したという。
この事件は、武蔵守である平賀朝雅(牧の方の婿)が武蔵を支配するため、武蔵に勢力を持つ畠山氏の排除を謀ったものだが、義時は事件後に時政と牧の方を追放し、無実の重忠を討ったという批判をかわした。さらに朝雅と秩父の稲毛重成・榛谷重朝を誅殺し、得宗家の武蔵直接支配を実現した。
さかさ矢竹(横浜市旭区)

畠山重忠は死ぬ直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と言って2本の矢を地面に刺したという。さかさ矢竹は今はなく、今ある竹は後代のものである。
鎧の渡し・首洗い井戸(旭区役所)(横浜市旭区)

首洗い井戸は帷子川の河原にあったもので、畠山重忠の首を洗ったと伝えられているが、現在は存在しない。
矢畑(越し巻き)(横浜市旭区)

幕府軍が畠山重忠を取り囲み、放たれた無数の矢が地に突き刺さると、矢の畑のようになったことから、そう呼ばれた。
畠山古戦場すずり石水跡(横浜市旭区)

畠山重忠が布陣した際、この水で墨をすったと言われている。
駕籠塚(横浜市旭区)

畠山重忠の正室菊の前は、戦になったと聞き駆けつけたが、この地で重忠戦死を聞いて悲しみ、自害した。彼女はこの地に駕籠ごと埋葬されたという。
なお重忠旧領と畠山の名跡は、足利義兼の長子義純が重忠未亡人(北条時政の娘)と婚姻し、継承した。室町幕府の管領職を細川氏・斯波氏とともに歴任し、応仁の乱を起こした畠山氏は、その子孫にあたる。
問注所跡(鎌倉市)

問注所は鎌倉幕府の裁判機関で、当初は大倉幕府にあったが、争いが絶えなかったことから、二代頼家のときにこの地に移された。
梶原景時館址(一之宮天満宮)(寒川町)

梶原景時一族は1200年、鎌倉を追放され京を目指したが、駿河で滅ぼされた。一之宮館跡に残る「七士の墓」は、梶原一族を留守居役が弔ったものとも、また梶原家家臣が信州に逃れ、後に梶原氏の復権を願い出たが許されず自害したのを弔ったものとも言われている。
朝比奈切通・三郎の滝(鎌倉市)

執権北条泰時が1241年に工事を始め、非常に早く完成したため、怪力で知られる朝比奈三郎義秀が一夜で切り開いたという伝承が生じた。江戸期に鎌倉ブームがあり、「朝比奈切通」の名は江戸期に生まれたと考えられている。
朝比奈切通の入口にある滝は「三郎の滝」と呼ばれる。実際には、切通も滝も朝比奈三郎とは関係はない。

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