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NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」コミュの【鎌倉殿の13人】静岡県

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【鎌倉殿の13人】にまつわる静岡県の史跡写真館です。

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対面石(清水町)。
富士川の合戦の時、奥州よりかけつけた義経と頼朝が対面した場所と伝えられている。
平家越(静岡県富士市)。
富士川の戦いで、源氏と対峙していた平家は、かつては沼地だったというこの辺りに潜んでいたが、水鳥が飛び立つ音を敵の奇襲と勘違いし、戦わずして敗走した。
源頼朝・北条政子腰掛石(三嶋大社)(三島市)
源頼朝が平家追討の心願をこめて百日の日参をしたときに、腰をかけた石。左が頼朝、右が政子の石と伝わる。
梶原堂(清水市)。

源頼朝の目付役を務め信頼された梶原景時は、他の御家人たちの恨みを買っていた。頼朝が死ぬと、御家人66名による景時糾弾の連判状が作成され、梶原一族は所領没収のうえ鎌倉追放を申し渡された。
景時は鎌倉を出て京都で再起をはかったが、大内の地で土豪に襲われ、子の三郎景茂・六郎景国・七郎景宗・八郎景則・九郎景連が討たれた。梶原堂は、この後梶原山で自害した景時・景季・景高親子を供養するために作られた。
梶原景時終焉の地(梶原山公園)(静岡市葵区)。

鎌倉を出て京都に向かった梶原一族は、大内の地で土豪に襲われ、ほぼ全滅した。景時と嫡子景季・次男景高は自害するため、梶原山の頂上を目指した。
景時らが水鏡で鬢のほつれを直し、身を整えた湧き水は「鬢水」または「鬢洗いの水」と呼ばれ、その付近には、景時の馬が空腹のあまり笹を食べたという「駒食い笹」もある。
梶原親子3名は梶原山の頂上で自害し、その首は隠されたが、翌日探し出され、路上に晒された。
頼朝・政子腰掛石(伊豆山神社)(熱海市)

伊豆山権現は僧兵の力が強く、伊東祐親に追われた頼朝はこの地に逃れた。後に政子も逃れて来たと伝わる。
北条政子産湯の井戸(韮山町)

北条氏邸跡の東にある井戸で、「政子産湯の井戸」と呼ばれるようになった。かつては妊婦が安産を祈願し、この井戸の水を飲んだという。石造りの井戸で、明らかに江戸時代以降の井戸である。
なお「政子」の名は朝廷から賜ったもの(父が時政なので)で、朝廷では「平政子」を名乗ったが、実名は不明である。「大姫」とは長女を指す呼び名で、彼女自身が長女であることから、実家では「大姫」と呼ばれていただろう。彼女が自身を「北条政子」と名乗ったとは考えられない。
山木兼隆館跡(韮山町)

「源平盛衰記」には、政子と頼朝の結婚に反対する北条時政が、政子を山木兼隆に嫁がせようとするが、彼女は婚礼の場から抜け出し頼朝の元に走ったと書かれている。
大河ドラマ「草燃える」にはこのエピソードがあるが、兼隆の伊豆配流が1179年で、長女大姫の誕生が1178年と考えられることから、創作と思われる。「鎌倉殿の13人」にはこのエピソードはないが、頼朝挙兵の第一歩が山木館襲撃なのは史実通りである。
北条氏邸跡(円成院跡)(韮山町)

北条氏は、時方の代に伊豆介として北条郷に赴任し、北条を名乗ったといわれているが、定かではない。北条時方の子とされる時政は、伊豆に流されていた源頼朝の挙兵を助け、鎌倉幕府創設に尽力した。頼朝没後も執権として権力をふるったが、後妻の牧の方と謀り平賀朝雅を将軍に据えようとして、義時に追放された。館が使用されていたのは、北条泰時のころまでと考えられている。
北条氏滅亡後は北条高時の母の覚海円成が、一族の女たちとこの地に移住し、一族の菩提を弔う円成寺を建立した。
産衣石(伊東市)

川に沈められた千鶴の遺体は、川を下って富戸の海岸に流れ着き、甚之右衛門に発見された。着衣から高貴な人物の子と感じた彼は、産衣石の上に遺体を乗せて着衣を乾かし、丁重に葬ったという。頼朝は後に、彼に生川(うぶかわ)の姓を与えたという。
北条義時屋敷跡(江間公園)(韮山町)

八重姫は源頼朝と引き離され、この地を治めていた江間次郎に嫁がされたと伝えられる。江間家も実家の伊東家も平家側につき、頼朝に敗れたため、江間の地は北条家の次男が領有し「江間小四郎義時」と名乗ったという。
八重姫入水の地(真珠院)(韮山町)

伝承では八重姫は古川の真珠が淵に身を投げたと言われ、そのほとりに彼女を供養する真珠院が建立されたことになっている。だが八重は歴史書には登場せず、軍記物のみに記されており、歴史学的には実在を確認できない。伝承では伊東祐親の三女とされ、父の上洛時に頼朝の子を産んだことで父の逆鱗に触れ、息子千鶴を父に殺され、「江馬次郎」または「江間小四郎」に嫁がされた。後に北条館に走り頼朝に会おうとするが、政子と結婚したことを知り、近くの川に入水したという。
なお八重姫が千鶴を祀ったとされる最誓寺の石碑には「開基 北条氏二代の執権江間小四郎とその室八重姫の立願による」と刻まれており、「鎌倉殿の13人」はこの筋書きを採用したと思われる。だがもし彼女が北条義時の妻なら、北条邸にいる頼朝に夫を裏切り復縁を迫ることはありえない。そもそも、生家が滅んだ女を娶る理由がない。
八重姫御堂(静堂)内には八重姫の肖像画があるが、ガッキーそっくりに描かれている。
椎の木三本(伊東市)

工藤祐経の命を受け、大見小藤太成家と八幡三郎行氏兄弟が伊東祐親暗殺のため待ち伏せていたと伝わる。当時の木は枯れ、今あるのは後代のものである。
河津三郎祐泰の血塚(伊東市)

1176年、伊東祐親・河津祐泰親子が奥野の巻狩りの帰路にここを通りがかったとき、工藤祐経の家臣大見成家と八幡行氏に待ち伏せされた。祐親は無事だったが、祐泰は行氏の放った矢が命中しここで死んだ。成家・行氏兄弟は伊東祐清に殺された。
祐泰の子曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟は、1193年に工藤祐経を討ち果たすが、五郎はその後源頼朝の宿所に押し入った。「鎌倉殿の13人」では、息子千鶴を伊東祐親に殺された頼朝が、祐経に「伊東祐親を殺せ」と命じるシーンが明確に描かれているが、千鶴の実在は史料からは確認できない。だが頼朝に敗れ捕らわれた祐親は、命を助けられたのに「以前の行いを恥じて」自害していることから、何らかの遺恨はあったようだ。頼朝と政子の結婚は事件の翌年で、千鶴殺害の時期は不明だが、頼朝が祐親暗殺を依頼したという説は辻褄が合っている。
頼朝馬蹄石(伊東市)

馬蹄のような跡がある石で、根拠なしに頼朝の馬だということになっている。
お鬢水(富士宮市)

富士の巻狩りのとき、源頼朝が水面に顔を映して鬢のほつれを直したと伝わる。
白糸の滝(富士宮市)

富士山の雪解け水が、高さ20メートル・幅150メートルの湾曲した溶岩流の隙間から大小数百の滝となって流れ落ち、絹糸のように見えることからそう呼ばれる。富士の巻狩りで源頼朝が「この上にいかなる姫やおはすらんおだまき流す白糸の滝」と詠んでいる。
音止の滝(富士宮市)

芝川本流の落差約25メートルの名瀑で、豪快で雄雄しく白糸の滝とは対照的である。曽我兄弟が仇討ちの相談をしていたとき、滝の音で声が聞こえないため神に念じたところ、一瞬滝の音が止んだという伝説から名づけられた。
曽我の隠れ岩(富士宮市)

工藤祐経の墓は、彼の宿所があったところだという。この岩は、彼の墓の近くにある。曽我兄弟が、この岩に隠れて祐経を討つ密談をしたと伝えられる。
井出の代官屋敷・下馬桜(富士宮市)

井出氏は富士山本宮浅間大社の大宮司家に仕えたとされ、戦国期は今川氏・武田氏に従い、江戸時代には三島代官に任ぜられたこともある旧家だ。現在ある建物は江戸期のものだが、富士の巻狩りでは源頼朝の宿所となった。工藤祐経を討ち果たした曽我兄弟の兄十郎は現地で果てたが、弟の五郎は1.5キロ離れた頼朝の宿所を襲い、大男の御所五郎丸に取り押さえられた。当時の宿所は、宝暦年間に焼失するまであったらしい。
門前にある「狩宿の下馬桜」は、頼朝が馬を繋いだと伝わる。
五郎首洗井戸(富士市)

捕らえられた曽我五郎は鎌倉に護送されることになったが、工藤祐経の子犬房丸(8歳)が「父の仇を討たせてほしい」と泣いて懇願したので、この地で五郎の首を刎ね、ここにあった湧水で洗ったという。水は関東大震災の後湧かなくなったという。
犬房丸は後に伊東祐時と称し、子孫は飫肥藩主や岡田藩主となり今日も続いている。伊東マンショは子孫に当たる。
虎御前の腰掛石(富士市)

曽我兄弟が仇討ちのため曽我の里を発ったあと、十郎の妾虎御前は兄弟の身を案じ、後を追った。彼女がこの地に差しかかったとき、仇討ちは成就されたが兄弟は絶命したと知り、その場で泣き崩れ傍らにあった石に腰を下ろしたと伝わる。この石に水をかけると婦人病にかからないと信じられている。
蛭ヶ小島(蛭ヶ島公園)(韮山町)

平治の乱に敗れた源頼朝は1160年、伊豆へ流された。「吾妻鏡」は流刑地について「蛭島」と記しているが、具体的にどの地かは判明していない。
狩野川の流路が変遷したせいか、この付近には古河・和田島・土手和田などの地名が残っているところから、かつては中洲が点在し、そのひとつが蛭ヶ島であったと想像される。
江戸時代に秋山富南が蛭ヶ島をこの地に比定し、江川家家臣飯田忠晶によって「蛭島碑記」が建立された。

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