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和のあかりコミュのあかり文化研究会

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和のあかりに関する文化を探る研究トピックスです。

本内容は、照明文化研究会により報告された内容や、和のあかりに関する書籍より得た内容となっております。
その内容をかいつまんでこの場にて少しずつ開示して行きたいと思っております。

ご意見、ご質問などございましたら、どしどしお寄せ頂きたく宜しくお願い申し上げます。

コメント(40)

第一回
【舞台のあかり】
日本の代表的な舞台と言えば歌舞伎!
歌舞伎ってなんであんな派手な化粧や衣装をして、演技が大袈裟なのか?
そんな疑問の一つの答えに、舞台のあかりに関係がある。

歌舞伎が出来たのは江戸時代の初期。
当時は電気を使った安全で明るい照明は無く、火事を防ぐ為に蝋燭などの照明を使う夜間公演は基本的に禁止されていた様で、日中つまり昼光を利用して行われていた。
当時の劇場(図左)は東西の両桟敷の上に油障子をはめた窓がありそこから採光をしていたが、それでも舞台上で10〜100ルクス程度の明るさで、現在の舞台照明の明るさの1/10以下であるという。
つまり、薄暗い舞台上で役者を映えさせる為には、コントラストの強い派手な衣装や化粧、更に一つ一つの動きを観えやすくする為に大袈裟な演技をしていたのだと思われる。

前に夜間公演は禁止と書いたが、実は例外もあり、顔見せ等の特別な公演等の場合には奉行所に許可願を出せば、蝋燭の使用が許可された様である。
浮世絵などに見える、蝋燭照明はその時の描かれたものであると思う。
舞台で使われていた蝋燭照明(図中)は提灯、燭台(台かんてら)、面あかり等がある。
図左の絵にある数列に吊られた「提灯」は顔見せの時に吊られる提灯であくまでも役者の家紋等を入れたお飾りであり、実際には蝋燭を灯さなかった様である。
なぜ灯さないのか?
それは和蝋燭は現代の洋ローソクと違って芯切りという作業が必要で、これを怠ると火事の原因になるからである。
高所に吊られ、しかも提灯内の蝋燭を一つ一つ芯切りをするのも大変なので装飾的な物としたのだと思われる。
夜間の舞台の主照明は「燭台」で、特に役者の顔を見せたい時には「面あかり」と言う今でいうフォロースポットが用いられていた。(図右)
そんな歌舞伎も化粧や衣装の派手さや、大袈裟な演技が伝統として残りつつ、舞台照明のみが時代とともに進化を遂げて、現代の様子になったのだと思われる。
つまり、歌舞伎は江戸時代のあかりによって作られた物で、当時のあかりによって公演をすれば、さぞかし更なる美しい演技が観れるのだと思う。

参考文献 あかりのフォークロア、confortあかり
姫路城・「は」の門の前にあった「灯籠」の台石です。
この上には、どのような灯籠が乗っていたのでしょうか。
宜しく御教授願います。
丸義さん>
こちらの台石ですね。
姫路城まで飛んで観てきました。
石燈籠は良く寺院等に献上されていたので、それを更に城に献上したのかも知れませんね。
大きさ的には結構小振りなので、庭園なんかに置く燈籠の可能性もあります。
どんなのが乗っていたのでしょう?私にも解りません。
そう言えばお城に使われていた照明って、あまり知られていないですね。
どんなのが灯っていたのでしょうか?
ちょっと知らべてみたくなりました。
初めまして! 佐藤と申します。

『和の灯』かっっこ良いです!
周りの風景や建築との絡みが最高です!

ところで、城にも石燈籠ってあったのですかね?
ちょっと見ないですね?
私結構時代劇見ているので気になります。

花月さん、是非に調査お願いします!
説明不足ですみません。
この台石は姫路城を作る際に石が不足していたので、色々な所から石という石を掻き集めた時の事を物語っている名残です。
私も初め勘違いしていましたが、そこで石燈籠を使っていたという事ではなく、石燈籠の台石が見える形でお城の石材として使われていたという事です。

どんな照明を使っていたのかは未調査ですが、時代劇などでは篝火(かがりび)を使っているのを良く見ますよね。
お城は当時、機能的な建物だったと思うので、照明も意匠にこだわった物ではなく、篝火の様にあかるさを求めた機能的な物だった様に想像しています。
でも言い切る事はできないのでやっぱり調査が必要なんですよね。
時間はかかると思いますが、ちょこちょこと調査してみます。
サリチャさん>
情報ありがとうございます。
金丸座、ここですね!
http://www.arch-hiroshima.net/a-map/kagawa/kanamaru.html
良いですね、ココ!
歌舞伎は未だ観た事は無いけれども、観てみたくなりました。
四月の公演中にでも行ってみたいです。
サリチャさん>
歌舞伎にお詳しいサリチャさんに質問させて下さい。
江戸時代のスタイルで芝居では、日没などの場面では採光窓の突き上げ窓をおろして照明の調光をすると本で読んだ事があるのですが、現代歌舞伎ではどうでしょう?
金丸座は江戸時代のスタイルで芝居をすると書いてあったので、是非採光窓による演出を観てみたいなと感じております。

「書かれた顔」、興味深い映画ですね。レンタルはされているのでしょうか?借りてみたいです!
ところでこれは洋画になるんですかね?
私の通っているレンタル店では邦画には無かった様な気がします。
坂東玉三郎というと「天守物語」は観た事があるのですが、難しかった記憶があります。
そう言えばこの天守物語、姫路城の天守での物語だったんですね。
姫路城には最近行ったばかり、なんという偶然でしょう!
サリチャさんが、内子座の事を書かれているので…。

内子には友人がいるので、たまに行きます。
その玉三郎の出ている作品、観なくては!
サリチャさん>
映画「書かれた顔」、なかなか見つからないです。(泣
ドキュメンタリーの様ですが、近所のレンタル店にドキュメンタリーコーナーが無いのです。
因みにどこのジャンルにありましたか?

内子座も八千代座も観てみたいですね!

内子座
http://www.town.uchiko.ehime.jp/sightseeing/kankou_uchikoza.php

八千代座
http://www.yachiyoza.com/

丸義さん>
羨ましい。内子座どんな感じでしたか?
芝居小屋巡りなんてのもしてみたいですね!
サリチャさん>
ありがとう御座います。
ダニエル・シュミット監督ですね。探してみます。
【和蝋燭の寸法について】
和蝋燭は匁(尺貫法の重さの単位、3.75g/匁)でサイズ分けをしておりますが、昔の和蝋燭のサイズを調べると匁が同じでも、サイズ(長さ、径、芯径等)は統一されていないらしく、様々なサイズが見受けられます。

という事で、実寸図(笹尾コレクション実測図)を元にCGで図画化して考察した所、同じ匁でも芯径が細いタイプと太いタイプがあり、それにより蝋の形が変わってきているように思います。

つまり、

芯径が細い=灯が細い=長寿命仕様
芯径が太い=灯が太い=高出力仕様

という事が言え、
昔の和蝋燭を見る限りでは、大きな和蝋燭ほど明るいとは言い切れず、和蝋燭の大きさ(匁)はあくまでもエネルギー容量なのだという事を考察しました。(冷静に考えれば、当たり前の事ですが...)

昔の人は和蝋燭一本買うのでも、機能と節約のバランスを考えて選んでいたんだなと、つくづく現代日本のあかりのあり方を考えさせられる内容でした。
ウエスティン都ホテル京都にあった灯籠です。

前々から気になってるんですが、こういう灯籠は、実際に使われていたのでしょうか?
丸義さん>
石燈籠は全くの無知なのですが、
茶の庭に置かれているものに関しては、機能的に使われていたのではないかと思います。
庭園に使われているものは殆ど観賞用ということを聞いたことがありますが、真実は定かではありません。
しかし、写真の様に障子窓を付けているものは、実際に使っているのではないですかね?

この分野は庭師の方に聞いた方が、明確な答えが返ってくるのではないかと思いますが、自分でも少し調べてみます。

でも、丸義さん、本当に石好きですね!
素朴な「ひで鉢」なんかも好きそう。
最近、燈籠がどのように使われていたのかを調べ始めまてます。
庭園の夜の景って、実はほとんどの人がその実態を知らないんですよね。
最近の夜間拝観はまた別物だし。

何の意図もなく足元灯や庭園灯が無造作に配置されているのが現状だと思います。
>庭園の夜の景って、実はほとんどの人がその実態を知らないんですよね。
その通りだと思います。
一度、石灯籠が使われている日本の古い庭園の写真をCG加工してどんな感じになるか確かめてみたいですね。
その配置に何か理由が隠されていたら、メッケモンだと思いますよ。

とりあえず、小生の方では
「日本の石燈籠」
「石燈籠の歴史」
という本を購入して調べてみたいと思います。

ランドスケープに詳しい深さんがいると心強いですね。
話は一旦それますが...。「ひで鉢」とは、

【ひで鉢】
浅く彫りくぼめた石や鉄の皿の上で、松の根株や幹の脂分の多い「ひで(肥松)」を燃やす灯火器。
農山村などで多く使われ、石の鉢は東日本で、鉄の鉢は西日本で多く使われていたらしい。

小生も小さい頃、お盆に里帰りした際に、石の鉢の上で「ひで」を燃やし、そのもらい火で花火を楽しんだ思い出がある。
煤の量はすごいが、すごく良い香りがして、そのあかりの副産物である香りの印象が強く今でも忘れられない。
火のあかりは、その明るさや熱だけでなく、電球には無い香りや音などの効果が多く含まれているのかも知れない。
御回答、どうも有り難う御座いました。
この燈籠に灯りが灯ってるところを観てみたいです。
障子が付いてる物は、大変珍しい(?)と思ったもので・・・。

やはり、庭園に置いてある物は観賞用なんですね。

また御教授くださると有り難いです。
勉強になります。
丸義さん>
障子がついているのは、確かに珍しいですね。
というよりは、普段は外しておく事が多いみたいですよ。
使う時は風よけの為に石灯籠の窓にはめ込み、木の枝で固定をしているのをたまに目にします。

>やはり、庭園に置いてある物は観賞用なんですね。
待った!まだ未調査のため言い切る事はできません。
ちょくちょくと調査をしたいと思いますので、一緒に勉強をしましょう。
以前(本トピックスのNo.5辺り)に話題になったお城の照明の件ですが、姫路市立城郭研究室に問い合わせた所、

「姫路城に関する当時の照明器具は残存していないので、具体的な形は不明です。三の丸などでは行灯が主に使用されていたようです。天守内部の照明については不明です。普段は使用されていないので、不寝番がいたとすれば提灯と思われます。城門には足軽が三交代もしくは二交代で番をしますが、ここでは提灯を使用していました。テレビの見過ぎなのか、松明に関する問い合わせがありますが、普段は使用しません。 城郭研究室」

との回答を頂きました。

和蝋燭は城(天守?)で非常用に使われていたという文献もありますから、非常時には燭台、掛け燭台、きったて、手燭、提灯あたりを使っていたと思われますね。
上七軒の「都ライト06」に行きました。

そこで、障子張りの燈籠を発見しました。
(巧く撮れませんでした・泣)
都ライト?初めて知りました。
そういう情報はどしどし流して下さいね。
初カキコです。行灯セードになる部分、行灯用の紙は昔から変わらないモノなんでしょうか?提灯と同じのを利用しているのでしょうか?
初カキコありがとう御座います。
どんどんと書込んで下さい。

Tomomiさん>
行灯に使う和紙についてですが...。
昔の行灯は、それこそ油のあかりでしたから暗いですよね。
昔の人はその暗いあかりをなんとか明るくしようと色々と工夫を凝らしていた事が、灯火器をみて伺う事ができます。
そもそも行灯に和紙を使う理由の一番は「風よけ」と思います。
必要以上の明るさを得られる電球が出てきてからは、光を和らげたりする目的で使われていますが、本来は風よけの目的から始まっていると思います。
つまり、風よけになれば良いので、明るさを確保する為に、なるべく薄い和紙(提灯紙や障子紙)などが最適だったのではないでしょうか?
あとは、灯火具の構造によりますが、丸行灯などはある程度厚手の紙でないと、そのセードの形を保持出来ませんから、構造や用途によって色々と和紙を変えていたのでは無いかと思います。
余談ですが、昔の人は紙を大事にしていたので、要らなくなった手紙や雑紙をセード代わりに貼ってある行灯もよく見ますよね。
前記の次いでに行灯について、

【提行灯(さげあんどん)】
提行灯とは携帯用に使う灯火器の事で、手提げで行く灯りと言う事からこの名がついたらしい。
現在使われている行灯はここからきている。

行灯とは元来は灯明皿の周りに紙で覆いをした物の事。
蝋燭を使った携帯性に便利な提灯が出てきてから、次第に携帯用としてではなく、屋内用の照明として使われる様になった。
つまり、提行灯は行灯の原形とも言えるものである。

これは余談だが、写真の提行灯をみてわかるとおり、セードとして貼られている和紙に文字が書かれている。
昔は、紙は貴重品であったことから、要らなくなった紙をセードとして再利用していたらしい。中には洒落で借用書を貼ったものも...。
文字等が書かれた紙をセードとして使うという事は、それだけ透過率を悪くし、照明としての役割を落としてしまうのは言うまでもない。
因に、テレビ等で見る提灯には家紋や文字は正面に描かれているが、本来は正面への灯りを落とさぬ様に側面に描くのが正しいらしい。

こういった所に江戸時代に生きた人のリサイクル性、機能性、洒落っ気が垣間見えて面白い。
【火縄(ひなわ)】
火縄銃の点火用火種に使われていた、竹、樹皮、木綿等の繊維をよって作られた縄状の火種。
特に竹で作られた物は、竹の繊維に含まれる油により雨で濡れても消え難く、上等品とされている。
導火線と違い、タバコの火の様にゆっくりと燃焼する為、山越えなどの時に、獣から身を守る為の魔除けや微かな照明用としても使われていたらしい。

面白い記事がありました。
京都の八坂神社では毎年大晦日の夜に、「おけら詣り」という行事があるそうです。
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/movienews/2004/digest/20041231okera.html
吉兆縄とは火縄のことで、三重県の名張市で今でも生産されております。
この行事は江戸時代から行われているらしく、火種に火縄を使う理由は、正月に使う火の種をキープしておく為だとか...。
火縄の長所をうまく使った行事ですね。
火縄をくるくると廻しながら家路を急ぐ人々の情景はさぞかし素晴らしいことでしょう。

たまたま、金丸座で拝見した歌舞伎の仮名手本忠臣蔵(五段目)の勘平の登場場面で、山道の中を火縄をくるくると回しながら登場するシーンが印象に残っている。

仮名手本忠臣蔵
http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/image/enpaku/nishikie/100-0/100-0434.jpg
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/exp1/index.jsp
北野天満宮の参道にあった神燈。

東西によって、神燈のデザインに違いはあるのでしょうか?
丸義さん>
マニアックすぎて小生には解りかねます!(笑
ちなみに東西とは、東日本と西日本と言う意味でしょうか?
東西の石燈籠(=神燈)の違いは解りませんが、石燈籠は主に時代によってデザインが違うみたいですよ。
道具や技術の発達により、次第に細かな細工が出来る様になったらしいです。
もっとも、石燈籠も時代によりデザインが退化している時期もあったみたいですが...。
因に、写真の石燈籠は写真から見た感じでは、通気口が無いため、光源には電球を使っているのかもしれませんね。
デザインもモダンなので、それ程古い時代の物ではないと...ん?、よーく観察しているとこの形なにかに似ていますね。
・・・丸義さん、いけませんね。さりげなく、こんな写真を載せちゃ。
これを作ったデザイナーはどんな方なのでしょうか?
そっちの方が知りたいです。(笑
御教授頂きまして有難う御座いました。
そうです、東日本と西日本と言う意味で書きました。
文化でもデザインでも、関ヶ原を境にして色々と違いが出てくるので興味があったのです。北野天満宮にはユニークなデザインの神燈がズラリと並んでいるので面白いですよ。

>この形なにかに似ていますね。
確かに(笑!
いやー マジマジ見ると何故か笑いが込み上げて・・・
失礼致しました(笑)

神燈のデザイナーに取材掛けてみたいですね。
明治40年代・吉原遊廓でのヒトコマ。
照明が載っていたので貼付します。

現代でも手に入れる・・・又は、見ることが出来るのでしょうか。
丸義さん>
これは珍しい形のランプですね。
形はオイルランプですが、油壷が無さそうなのでガス灯の可能性もあります。
吉原遊廓の灯火器は後の大火災により、殆ど残っていないらしいですから、吉原のオーダーメイド品だったら見ることは出来ないかもしれません。
別形のオイルランプでしたら、京都祇園らんぷ美術館に沢山展示されております。
花月さんから観ても、珍しいランプでしたか。
このランプ、目の当たりにしてみたいですねぇ。
遊廓を改装した旅館とかに残ってないでしょうかね?
青森の弘前や三重の古市に改装した旅館があるらしいので、
行きたい思いが募っています。

吉原のオーダーメイドで現存していたら、相当な貴重品ですね!!
京都府八幡市・旧橋本遊廓跡にある元・遊廓の建物で撮りました。
この照明は現在使われてないみたいですが、
元は、どのようなデザイン・光源(?)だったのか御教授願います。
丸義さん>
小生にも解りかねますが...。
灯具の形を観る限り、笠に電球むき出しでぶら下がっているというのは、この建物の装飾的な造りからしてもあり得ないと思いますので、何かしら電球を覆う火屋(ほや)がついていたと思います。
笠の内側を観ると緑青が濃くついている所と、薄くついている所があります。
緑青は水気がある所で発生しやすいのですが、薄くついている所の範囲に火屋があった為に、電球の熱により乾燥し、外側よりも緑青が薄いのだと思います。
そう考えると、提灯ではこのようにはならないと思うので、燈籠形の灯具がついていたのではないでしょうか?
ネットで検索したところ、こんな写真がありました。
これは六角型の燈籠ですが、笠が丸形のため丸形の燈籠がついていたのではないかというのが、小生の推測です。
http://www.flickr.com/photos/m-louis/135303256/
>現代でも手に入れる・・・又は、見ることが出来るのでしょうか。

バリ島で良く見かける電気ランプに良く似てます
オイルランプを模してあるので原型は?
こんにちは。ということで、こちらにも顔を出させてもらいます。
さて議題ですね。書いて半年以上ほったらかしておいた「花霞」。大体は調べたのですが、実物の発見には至っておりません。見たことある方います?多分、大正、昭和初期から建っている広間のある旅館に使われていたと思われます。
また、その他、このような日本家屋に馴染むように進化していった「座敷ランプ」など、日本とあかりテクノロジーの融合について徐々にお題を出さしてもらいたいと思います。
丸義さん>

2006年07月28日にご質問頂いた、「明治40年代・吉原遊廓でのヒトコマ。」について、進展がありましたので、ご報告致します。

ガスミュージアムより資料を提供させて頂いたところ、東京ガスが扱っていたガス灯に近似しております。(画像左)
これは、明治37年のカタログに掲載されていたもので、伸縮タイプといって上下に高さ調整の出来るタイプですが、吉原についているそれは、その機能がついていないタイプの様です。
あの写真は明治40年代のものとの事ですので、ガス灯に間違いは無いでしょう。
面白いのは、部屋についている灯数です。
普通は一室に一灯あれば充分な明るさのガス灯ですが、写真の範囲で三灯もついていることから、もしかしたら、明るさの必要な「張り見世」の写真かな?と想像してしまいます。
張り見世は遊女の容姿を見定める場でもありますが、それにはどの部屋よりも率先して明るくし、客の目を引かせます。(画像中)
江戸時代にはその明るさを得る為に、行灯の何十倍も大きな「大行灯」という吉原独特の行灯もあるくらいです。
その明るさを求める文化は時代が明治に変わっても、こういったガス灯の多灯使いに現れているのではないかと推測致します。

最後に、「新よし原仲之町満花の図」という錦絵に、オイルランプみたいなものが描かれております。(画像右)
これは、油壺みたいなものが下にありますので、おそらくオイルランプだろうと思いますが、こういったタイプのランプが使われていたことの証拠になりますね。

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