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お江戸漫遊連コミュの江戸はなぜ江戸なのか

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 江戸という言葉が最初に出てくるのは吾妻鏡の江戸氏に関することである。江戸氏は平安末期からの豪族で最初は頼朝と敵対したが後に服属し、現在の皇居の地に江戸館を築いて本拠地としていた。江戸氏は桓武平氏の流れであり、江戸に本拠を置いたから江戸氏と名乗った(清和源氏の足利氏が下野・足利に本拠を構えたので足利氏と名乗ったのと同じ)のであるからなぜあの一帯が江戸と名付けられたが問題となる。

 通説というか誰が考えてもそうだろうなと思われる説は、川や入り江を意味する“江”の戸口にあるから江戸というものである。江が入り江ならそれは江戸湾(東京湾)全体を指すのかそれとも今はなき日比谷入江(江戸城が艦砲射撃を受けるのを防ぐため、埋め立てを建言したヤン・ヨーステンの名前から八重洲という地名が生まれた)を指すのか、また江が川ならそれは家康が埋め立てた平川(平河町という地名だけは残っている)なのか隅田川(家康入府以前は、江戸川と共に利根川・荒川水系の本流であった)なのかといった細かい問題は残るのものの、江戸湊として勃興した江戸の起源をよく表している。

 しかしながら異説というのはどこにでもあるもので、そうではないという人もいる。アイヌ語で出っ張った部分とか岬とかを意味するエッドが語源であるという説は何でもアイヌ語起源論者が昔から主張してきたことである。また最近では何でも朝鮮語ブームにのってイエィ(湿った)ドウ(地域)がその語源であるとする説まであるが、武蔵の国は半島からの帰化人が開拓のために大量に移された地域であるから一概に否定はできない。

 筆者は長年の研究の結果、真実は全く別のところにあり、実はエドワードの愛称であるエドがその語源(というか共通の語源であり、江戸がエドワードの語源であるとも云える)という結論に至ったので、ここにその一端を述べてみたい。

 エドワードというのは英語圏に多い男性のファーストネームであり、エドワルドのようにラテン圏(フランス・スペイン・ポルトガル)でもたまに用いられるが、これは英語からの借用に過ぎない。なお英語というのは比較的若い言語であるので、こういう例は極めて珍しい。
 エドワードというとエドワード黒太子に代表されるようにノルマンコンクエスト以後のイングランド諸王がつけた名前であり、当時は庶民がつけることは許されない高貴な名前であった(もちろん今はエディ・マーフィーからエドはるみ?まで非常にポピュラーな名前になっている)。 しかしながらノルマン人には本来エドワードという名前はなく、これはイングランド征服以後に被征服者の(アングロ)サクソン人の間で聖なる名前とされていたエドワード(エドワード懺悔王・証聖王が有名)からとったものである。
 しかしながらサクソン人はゲルマン民族大移動の際にブリテン島に侵攻する前は中部ドイツ(今のザクセン地方というのはサクソン人に由来する)に居住していたが、その時代にはエドワードという名前はなく、近隣のゲルマン諸族にもエドワードという名前は見当たらない。

 それではエドワードという名前は何に由来するのか? それを議論するためにはまずアーサー王伝説を振り返り、それが江戸とどうつながるのかを確かめなければならない。
(この稿続く)

コメント(24)

(承前)
 エドワードの語源には諸説あってはっきりしないのだが、おおまかにわけてゲルマン語起源説とケルト語起源説に大別できる。結論からいってしまうと筆者はその折衷案が正しいと考えており、ケルト語のエドゥ(貴重なもの・聖なるもの)とゲルマン祖語のアルド(護る・大切にする)が合成されたものであって、“聖なるものの保護者”を表していると思われる。

 このような全く異なる言語体系であるゲルマン語とケルト語の混合というのは極めて珍しいのだが、その背景にはゲルマン民族大移動によりブリテン島に侵攻したゲルマン系のアングロサクソン人と先住民であったケルト系のブリトン人(英国本島であるブリテン島やフランスのブルターニュ半島はブリトン人に由来している)との数百年にわたる戦いがある。
 アングロサクソン侵攻当時のブリテン島はローマ帝国支配時代の末期にあたり、その当時のブリトン人はシーザー遠征以来、フランスのガリア人(ケルト人)と同様にローマ人・ローマ文化と同化していた。しかしながらアングロサクソンの激しい攻撃を前にローマ帝国は防衛をあきらめて撤退することになり、あとはブリトン人が単独でアングロサクソンと戦うことになった。その戦いの中で生まれた伝説がブリトン人の英雄であるアーサー王である。
 アーサー王が伝説から離れてどういう人物であったは諸説あるが、生粋のブリトン人ではなく、撤退を拒んでアングロサクソンと戦い続ける途を選んだローマ軍人であるという説(先日公開された映画のキングアーサーはこの説に従っていた)が根強くあり、そのローマ軍人とはローマ帝国から徴用されたサルマート人の部隊長であるといわれている。

 サルマート人というのはウクライナを本拠地としてスキタイ人を壊滅させて大帝国を築いた遊牧民族であるが、当時はローマ帝国の支配を受け、その騎馬戦闘能力の高さからローマ世界のあちこちに騎兵部隊として派遣されていた。このサルマート人部隊は蜥蜴または竜をその軍旗として用いたことで名高く、アーサー王のシンボルである竜や父とされているペンドラゴンはこれに由来すると思われる。なお西欧では竜というのは英雄に退治される悪の象徴であり、中国や日本における竜のイメージとは全く異なっているので、竜をシンボルにしたというのは西欧文明とは違うルーツを持つのだろうと推定される根拠になっている。
 なおサルマート人の末裔が現在のオセチアのオセット人であり、現在ロシアとグルジアの間でその帰属をめぐって緊張が続いている。また現在の大相撲の著名力士にもオセット人はおり、これから説明するように千年以上前に江戸という名前の起源となったオセット人の歴史が今また江戸以来の大相撲と関わっているのは興味深い。

 ここで話を戻してケルト語の聖なるものであるエドゥとは何かを考えてみる。
(この稿続く)
(承前)
 アーサー王伝説で最も有名なものは、石に突き刺さった剣を引き抜くことができた者が王になるという予言に応えて少年時代のアーサーがこの剣を見事に引き抜く件であろう。またアーサー王の神剣・宝剣とされるエクスカリバー(この剣は少年アーサーが引き抜いた剣と同一かどうかは諸説ある)など、ブリトン人(ケルト人)は剣を聖なるものとして崇めてきた。しかしながらこのような習慣は本来のケルト人にはないものであって、アングロサクソンと戦い始めてから、またアーサー王伝説が始まってから発生したものである。
 そしてこのような剣を聖なるものとして崇めるのはサルマート人に特有の習慣であり、アーサー王伝説にはサルマート人の神話・伝説の影響が非常に濃いとされている。もっともサルマート人本来の神話・伝説というのは現在のオセチア人の先祖であるとはいうものの現在にはほとんど伝えられていないので、今となってはよくわからないのだが…

 アーサー王伝説というのは本来ケルト人の英雄の話だったはずなのだが、その後アーサー王の宿敵だったはずのアングロサクソンやその後継者としてのノルマン人(ノルマン人はイングランド征服直後はフランス語で話すなどアングロサクソンとは一線を画していたのだが、その後英語を受け入れて同化してしまった)がその伝説を取り入れて自分たちの英雄であるかのような状況になってきた。
 しかしながら結局は敗れ去ることになったケルト人はアングロサクソンとの同化を拒みウェールズでそしてアイルランドで現在に至るまでアングロサクソンに飲み込まれることを拒否している。そしていつかはアーサー王が再来して神剣を取り戻しアングロサクソンから自分たちを解放してくれるものという伝説があり、その神剣はウェールズに存在するといわれていた。そして英国の皇太子がプリンスオブウェールズといわれるようになった理由は、もちろん公式には別の理由であるがその真の理由はケルト人の反撃に備えて精神的に封印したものであろう。
 なおマレー沖海戦で撃沈された英国の不沈戦艦といわれたプリンスオブウェールズがこの名前を付けられたのも偶然ではないと思われる。この戦艦には不似合いな名前を付けられた巨艦は最初から日本と戦うことを想定して建造されたと思われ、後述するエクスカリバーをめぐる日本との因縁を考えてこう命名されたのではないだろうか。
 そしてケルト語における聖なるものであるエドゥとはその神剣であるとすれば、それを護る者としてのエドワードとはその神剣を封印してアングロサクソンを護る者という意味になるだろう。

 さてそのようなサルマート人・ブリトン人の神剣伝説であるが、日本の三種の神器のひとつである草薙の剣も同様の神剣であり、しかもスサノオノミコトが竜を思わせるヤマタノオロチの体内から得たというところも、竜を旗印にしていたサルマート人との因縁を感じさせる。
 そしてこの草薙の剣はヤマトタケルノミコト(スサノオやヤマトタケルは漢字で記載される場合が多いが、私はあまり好きではない)が東征のとき持参した剣であり、ここから江戸との因縁が始まっている。
 当時の江戸は陸やら海やらわからぬ湿地帯であり、東国へ至る主街道は三浦半島から房総半島に抜ける海路であった。なお上総と下総の位置が現在の感覚とは反対なのはこのためであり、その千年後ですら家康は小田原から江戸に入府するのに現在の東海道を通って直行することは湿地帯は大軍を通せないので不可能であり、町田から府中まわりのコースをとっている。

(この稿続く)
(承前)
 皇居前の旧長銀の近くに将門首塚があるが、ここは昔の神田明神の境内であり、現在は湯島高台にある神田明神が移転する際にこの首塚だけは残されたものである。
 神田明神は言うまでもなく神君家康公以来の尊崇篤き神社であり、尊崇を受けた最大の理由は関東に史上初の武家政権を築こうとして志半ばに倒れた平将門を祀っているからであろう。なお明治維新のときに皇室をはばかって神田明神の祭神から平将門は外されたが、最近になって復活したのは喜ばしい限りである。

 ところでよくわからないのはなぜ将門首塚がこんなところにあるのかということであり、将門は京都で晒首にされた3日後にこの境内に飛んできたのを神田明神が祀ったということになっているが、常識的に考えれば将門を祀るために神田明神が創建された(その前に地元のささやかな神社はあったかもしれないが)とみるべきだろう。しかしながら将門はこの地には全く地縁がなく、彼の主戦場は千葉・茨城から北関東にかけてである…というか当時の江戸は人気も少ない湿地帯でありこんなところは争奪の対象にはならなかった。
 神田明神が江戸市街地の拡張に従い幕府の命令で移転する際、一番大事なはずのこの首塚を持っていかなかったというのは、やはり将門はこの地に眠っていなければならず、この地に護るべき何かがあると考えるべきだろう。そしていつの間にかこの地は江戸と呼ばれるようになり(それが何故かを論じるのがこのトピックの主題である)、この地に江戸館を築いた同じ桓武平氏の一族は江戸氏と称し、後の道灌や家康もこの地を選び現在も皇居がそこに存在している。
 ここは誰が考えても要害の地なのだろうか? そうではあるまい。水運を考えれば日比谷入江よりも隅田川河口(当時は現在よりかなり上流)の方がはるかに便利だし、浅草は江戸氏以前から既に繁栄していた。防衛を重視すれば小高い丘が有利であり現在の地名でいえば駿河台か本郷台が水利も考慮してベストの選択であろう。
 この江戸城の地には何か由来・因縁があると考えざるをえない。

 ここでヤマトタケルノミコトの東征との関係が重要になってくる。景行天皇の皇子であるヤマトタケルは蝦夷地への東征を命じられ、三種の神器のひとつである草薙の剣を伊勢神宮から借り出して?出征した。
 ところが不思議なことに蝦夷征伐を終えて帰路につくヤマトタケルは草薙の剣を伊勢神宮には返さずに名古屋の熱田神宮に預けてしまう。
 その数百年後に壇ノ浦で平家一門が滅亡する際、安徳天皇は持ち出した三種の神器と共に海中に沈んだが、鏡と玉の他の2種は海中から引き上げられたものの剣は行方不明になったとされている。しかしながら関門海峡のあんな深い海に沈んだものが簡単に引き上げられるものだろうか? また鏡と珠に比べると明らかに大きくて発見しやすいはずの剣だけが見つからなかったというのは不自然である。
 これは三種の神器は海になど沈んでおらず、無傷であっさりと義経が回収したのだが、剣だけは行方不明になったと虚偽の報告をしたのではないだろうか(ついでに云えば安徳天皇の死も怪しく、三種の神器と共に悠然と捕虜にされるのを待っていたのだが天皇が生きていたのでは困ると考えた勢力が…)。それは剣が本来のものとは違う偽物というか偽物でなければならない理由があったからだろう。

 結論から云えば筆者は草薙の剣は現在の江戸城の地の地下に眠っていて、これが江戸の語源たるエドゥの由来であると考えており、その根拠は古事記の記載にある。
(この稿続く)
(承前)
 ヤマトタケルノミコトは東国へ至る通常のルートであった三浦半島から房総半島へ浦賀水道を渡るにあたり、海神の怒りをなだめるために妃であるオトタチバナヒメが入水するということになっている。
 そして遠征からの帰路において“吾妻はや…”という血の出るような叫びを歌に詠み、これが東国を“アズマ”と呼ぶ語源(現在は浅草に吾妻橋という地名で残っている)であるとされているが、この歌を詠んだ場所については日本書紀では碓氷峠、古事記では足柄峠であると推察できる記述があり決着はついていないようだ。両説はそれぞれヤマトタケルの遠征範囲を日本書紀では北上川上流まで、古事記は関東一円(少なくとも東北地方に関する記述はない)とする立場に対応している。

 筆者は当時の大和朝廷の軍事力から考えて東北まで遠征軍を派遣するのは無理であり古事記の記述の方が正しいと考えているが、この歌を詠んだ場所に関してはどちらも間違っていると思う。
 この歌はオトタチバナヒメに永遠の別れを告げるために詠んだ歌であり、したがって山中の峠などではなく、ヒメが入水した浦賀水道が見える海岸でないと歌の心は伝わってこない。そして関東一帯を平定したヤマトタケルは最後に思い出の浦賀水道を見るために日比谷入江に面した現在の江戸城の地でこの歌を詠んだのであろう。家康が埋め立てる前は現在の江戸城の地のすぐ前までは日比谷入江となっており、道灌の歌にも“我が庵は(庵というのは道灌の居城の江戸城を風雅に表現したもの)松原続き海辺にて…”と詠まれている。
 ヤマトタケルノミコトはオトタチバナヒメが入水した海が見える最後のチャンスであるこの江戸城の地(これからの帰還ルートは海岸の湿地帯は進軍できないので内陸廻りとなる)でこの歌を詠み、そしてもうひとつのこと…後の日本の歴史を決定付ける行為をしたものと思われる。
(この稿続く)
(承前)
 ヤマトタケルが現在の江戸城の地でなした後の日本の歴史を決定付ける行為とは…それが神剣である草薙の剣を地中深く埋めることであり、もはや遠征は終わり剣は必要としないということや、痛恨の想いがこもる浦賀水道が見えるこの地にオトタチバナヒメの思い出に、そして関東を平定して平和をもたらした御礼としての神剣の奉納という色々な意味がこめられていたのであろう。またヤマトタケルは父の景行天皇とは不仲であったとされており、皇室の宝である三種の神器のひとつを勝手に持ち出して処分してしまう行為により自らの意思を示したのかもしれない。
 ヤマトタケルが遠征からの帰路に剣を伊勢神宮に返さずに熱田神宮に預けたというのも、ミコトと縁の深い熱田神宮でニセモノを作って保管したからであろうし、朝廷や伊勢神宮も薄々はそれに気づいていたであろうが、神器が無くなってしまったというのでは神器の継承が皇位の正統性の証とされていたから自分たちにとっても都合が悪いので、見て見ぬふりをしたのであろう。熱田神宮が三種の神器のひとつを祀るという伊勢神宮にも匹敵するような権威を持ちながら、その社格は極めて低く抑えられていたのはこのためであり、明治維新の際にその社格が急激に高められた(皇室が王政復古を報告した神社は伊勢神宮と熱田神宮のみ)というのは江戸城を確保することにより神剣を取り戻すことができたので千数百年前の昔のことは水に流そうという意味であろう。また皇居を江戸城として東京が日本の首都と定められた一番根本的な理由はここにあり、当時の国内・国際情勢を考えれば首都はアジアに近い大阪が常識的な選択であった。

 さてその埋められた神剣は関東のそしてひいては日本全体の征服・統一のシンボルとみなされるようになり、将門の首が飛んできたという伝説もそれに因むものであろうし、江戸氏から現在に至るまでの支配者がこの地に本拠地を構えるのもこのためであろう。
 また頼朝の母であり義朝の正室でもあった婦人は熱田神宮の大宮司の娘であり、この話は当然頼朝にも伝わっていたであろうから、チャンスがあればこのニセモノを処分しておきたいと考えたであろうし、壇ノ浦はその絶好の機会であった。

 さて江戸の地が神剣・草薙の剣が埋められている地であるとして、それではなぜこれがケルト人・サルマート人の神剣伝説であるエドゥと名付けられたのであろうか?そしてヤマトタケルの草薙の剣とアーサー王のエクスカリバーはほぼ同時代のエピソードと推定されるが両者の関係は?
 草薙の剣が出てきたとされるヤマタノオロチ伝説などは世界共通の神話というべきペルセウス・アンドロメダ型の神話だということもでき、このような伝説はインド・ヨーロッパ語族の故郷であり今もサルマート人の後裔というべきオセット人(サルマート人・オセット人はイラン系であるからトルコ人やアラブ人とは関係ないインド・ヨーロッパ系)が住むコーカサス(白色人種のことをコーカソイド・コーケイジャンと呼ぶのはこの地に因む)の地から世界中に拡がっていったのであろうが、そんな一般論ではなくそのものズバリの言葉の伝播ルートを証明する決定的な証拠が必要である。

 これまでに述べたようなことは状況証拠を集めた一般論に過ぎず、これだけでは大ピラミッド宇宙人建設説などを唱えるトンデモ論者たちの主張と同じで、学問・学説というにはほど遠い。
 それではその決定的な証拠とは何か?
(この項続く)

P.S.長々とした論考で恐縮ですが、次回が最終回でいよいよ本論のクライマックス?です。

もうひとつP.S.それにしても書き込むのは私ばかりで何の反響もないのはちょっとさびしいですね。あまりにもバカバカしいからか? しかし真実は思いがけないところにある…かもしれないし、バカバカしいことに真剣に興じるのが江戸の粋というものでは?
(承前)
 これまでの論証をまとめると以下のようになる。
1) 聖なるものを意味するエドゥはサルマート人の神剣伝説から生まれたアーサー王の神剣エクスカリバーを表しており、これを封印する者としてエドワードという名前が生まれた。
2) 三種の神器の一である神剣草薙の剣は現在の皇居の地下に埋められており、これに因んでこの地は江戸と名付けられた。

 通常のトンデモ論者はこのあたりで“結論”を出してしまうのだが、真実の学徒たらんと欲する筆者はこれだけではまだ状況証拠に過ぎず、サルマート人の神剣伝説がいかにエドゥという言葉と共に日本に伝わったのかさらに決定的な証拠が必要であると考える。

 さてそのお約束の決定的な証拠とは…

 それは…

 どうもさっぱりオチが思いつきません。
 ちょっと苦しいですが、サルマート人の末裔である大麻三力士(3人ともオセット人)が九州弁と東北弁のチャンポンで本音を語るとなると“こげん(語源)はえーど”<このくらい(の大麻の量)ならいいじゃないか>…お後がよろしいようで…

 江戸落語の定番である三題噺を自問自答して、 人・場所・物事の3題を“エドワード”“江戸”“アーサー王伝説”として即興で書いてみたのですが、三題噺には題のひとつがサゲになることというシバリがあるので難しく、最後はダジャレのレベルになってしまいました。レベルは低いですが最新のニュースを取り入れているので少しは救われているでしょうか。

 なおこのトピックに書いたことをすべて本気にされると困りますので、怪しい部分を下記します。

 江戸の語源説として朝鮮語でイエィ(湿った)ドウ(地域)というのはデタラメでそんな朝鮮語はありません。もっとも今はブーム?ですので私の知らないところで10通りくらいの江戸朝鮮語起源説が唱えられているかもしれませんが。

 エドワードの語源がケルト語のエドゥ(貴重なもの・聖なるもの)とゲルマン祖語のアルド(護る・大切にする)が合成されたものというのは怪しく、おそらく両方ともゲルマン語でしょう。

 ヤマトタケルノミコトの歌が日比谷入江を前に詠んだものだというのは原典の前後の記述から無理があるかもしれません。

 こうしてみると案外怪しい部分は少ないですね。
 ひょっとすると江戸・エドワード語源説というは有力だったりして…
スノウさん

 語源話というのは歴史学や社会学の重要な一要素なのですが、その実態はといえば推理小説のようなものであって作者の勝手なストーリーをいかにもっともらしくつないでいくかというだけではないかと思っておりまして…
 というわけで試みに江戸の語源がエドワードだという説だって立派に?証明できるのではないかと駄文超大作(最初はもっと軽くおさめるつもりだったのですが、書いているうちにだんだん収拾がつかなくなったもので)を綴ってみました。

 次回は聖書に出てくるエデン(Eden)の園は実は古代の江戸にあり、これこそが江戸の語源であるという説にでも挑戦してみますか。

 エデンの園といえば、旧約聖書の創世記に出てくる地上の楽園であり、神によって創造された人類の祖先であるアダムとイブが仲睦まじく、そして何の苦労もなく暮らしていたとされる場所である。
 しかしながら原罪を犯すことによりエデンの園から追放されたアダムとイブ、そしてその子孫たる我々は、今日に至るまで罪深きそして苦難に満ちた生活を送っているわけであるが、それならばエデンの園はどこにあるのか、そしてそこに帰還して人生の苦難から開放されることはできないのかと考えるのは、人間心理として当然のことであろう。
 これは仏教における極楽浄土を求める考え方と同じであるが、極楽浄土が死後の世界、もしくは観念の世界であると一般的に認識されているのに対し、エデンの園はこの地上にあると聖書にははっきりと記載されているのである。これはまさに地上の天国というべきであって、風俗店などが“エデンの何とか”という名前を付けるのもこれにあやかろうとしたものであろう。

 なお、聖書の創世記などというのは単なる神話であるから、それがどこにあったかなどというのは検討に値しないなどという態度は少なくとも学問の世界では通用しない。聖書の記載がどこからが歴史でどこまでが神話かは諸説あるが、神話の部分であってもそれは歴史的な裏付けがあってのことであるというのは今日の常識であり、例えばノアの方舟に出てくる大洪水などは考古学的に立証されている。

 筆者は最初は冗談のつもりで、江戸・エデン起源説を唱えるべく、これまでのエデンの場所を求める研究について文献を集めてみた。その結果は百家争鳴というか、100人の学者がいれば全員が異なる説を唱えているといってもよく、これといった定説はないようだ。

 ただだいたいの傾向といったものはあり、70%程度の学説はチグリス・ユーフラテス流域の狭義のメソポタミア、現在のイラクを中心とした地域のどこかであるという説を支持している。また27%程度はその周辺地域であるとして、ペルシア(イラン)とアラビア半島のペルシャ湾岸を第一候補にその他アナトリア(トルコ)、アラビア半島の紅海沿岸、エチオピア、エジプト、パレスチナ(イスラエル)等にあるという説を支持している。なおユダヤ人の神話であるのにパレスチナ説にそれほど人気がないのは、ユダヤ人がパレスチナに定着したのはこの時代よりはるか後代のアブラハム以降であるとされているためである。
 そして残りの3%程度が全く異なる説、例えばスコットランドのヘブリディーズ諸島にあるとか、米国のミズーリ州にあるという説を提唱している。これらも世間でよくあるトンデモ論者の妄説ではなく、歴史学者によって真面目に唱えられた説であり、後者などはキリスト教の一派であるThe Church of Jesus Christ of Latter-day Saintsの信者を中心に数千万人に信奉されている。
 これほど多くの説が提唱されているのは聖書の記述があいまいであるからではない。いやむしろ聖書の記述は明快といってもいいのだが、現代に伝わる聖書そのものがその原典となった歴史書・神話を引用した2次資料に過ぎないとされているため様々な解釈が可能となるのである。

 筆者はこれらの資料を比較検討する過程で、最初はジョークのつもりであった江戸の語源はエデンであるという仮説はかなり有力なのではないかと考えるようになった。即ちエデンの園は古代の江戸の地に存在したと考えられ、これが江戸の語源となったと推定できるのである。なおその逆の仮説として江戸という地名の方が先にあり江戸にあったからEdenと名付けられたとも考えられ、語尾にenを付けるのは(平坦な)場所というような意味を表すシュメール語である(シュメール語はヘブライ語が属するセム語の一派であるとは必ずしもいえないが、多くの語彙がセム語に取り入れられている)。

 この仮説を検証するにはまず古代の江戸の状態を、少なくとも紀元前2000年程度まで遡って考えなければならない。そしてその時代の江戸を考えるには、まず我々のDNAの主要部分を形成する弥生人あるいは農耕民族としての常識をかなぐり捨てる必要がある。
(この稿続く)
 スノウさん

 今度はジョークではなく、歴史学界に衝撃を与える新説を提示するつもりですので。私のライフワークになるかも・・・ ですからゆっくりと長期間にわたって書くつもりです

 まだ始まったばかりで、どういうストーリーになるか自分でも予想がつかないんですが、連載?が終わるごろにはこの仮説の正当性に対する自信は確信に近いものに変わっているでしょう。
 ラヴ・レターを綴っているうちに恋しさがますますつのるようなものでしょうか・・・ちょっと違うか。

 中東には弱い・・・ですか? でもエドワード懺悔王やエドワード黒太子を知らない人はいても、アダムとイブを知らない人はいないでしょうから結構なじみが深い話題ではないでしょうか。
 そのアダムとイブがいたエデンの園が実は古代の江戸にあり、それが江戸という地名の起源だとは・・・ びっくりしましたねぇ、ロマンですねぇ(急に淀川長治調に)。

(承前)
 “エデンはいずこに”という命題を解明するにはまずエデンの園が存在した年代を推定しなければならないが、そのためには旧約聖書に記されたユダヤ人の歴史の検証が必要である。

 ユダヤ史で歴史的に確実視されているのは、紀元前1040年のサウルによるイスラエル王国の建設以降である。そしてサウルの次代の王がダビデ、その息子がソロモン大王と我々にもなじみが深い時代になっていく。
 また紀元前13世紀末の古代エジプトの記録にパレスチナに住むイスラエル民族との交戦が記載されており、これがユダヤ人以外によるユダヤ人に関する最初の記録である。

 また旧約聖書のユダヤ人史のうち、最も有名なのはモーゼによる“出エジプト”であろうか。これはエジプトで奴隷にされていたユダヤ人がモーゼに率いられて脱出し、パレスチナに帰還して建国するという物語で、その脱出の途中で紅海が割れて海を渡ることができたが、追撃してきたエジプト軍は再び紅海が閉じることにより海に飲まれてしまうというエピソードがそのクライマックスである。
 このときのエジプト王は誰かははっきりと聖書には書かれていないのだが、諸事情からラムセス2世(在位紀元前1290−1223)というのが通説(異論も多いが)となっている。

 筆者はこの出エジプトからユダヤ人の歴史は実質的に開始されたと考えている。
 即ちこのときモーゼに率いられて脱出した奴隷の集団がユダヤ人という同族意識を持って現代まで続くユダヤ人を形成してきたのであろう。
 なおモーゼは誕生時に諸事情からナイル川に小船で流され、エジプト王室に拾われて皇太子(即ち後のラムセス2世と推定される人物)の兄弟として育てられたが、あるとき自分のユダヤ人としての出自を知ってユダヤ人を率いてエジプトを脱出することを決意したとされている。
 しかしながらこれは、モーゼは実際にラムセス2世の兄弟であって王位継承の権力争いに敗れたため奴隷の一群を引き連れてパレスチナに亡命したと考える方が自然ではないだろうか。そして奴隷の一群といってもそれは軍事力・経済力を兼ね備えた外国人のコミュニティーのようなものであり、その多くはシリア・パレスチナ一帯から数百年にわたって豊かなナイルデルタ地帯に流入してきた武装難民というべき存在だったと思われる。

 このような雑多な集団をひとつにまとめるべく、モーゼは“十戒”を定めたりユダヤ人は古代から神に選ばれた民族であるとしてその歴史・思想体系を確立していったものと思われるが、その中心となっていたのがユダヤ人の祖先とされるアブラハム(歴史的に実在視されている)の一族が神の啓示によりカルデアのウル(現イラク)を出てパレスチナに定着する伝承であり、またアダムとイブからアブラハムに至る系図の伝承である。

 その伝承はどこからきたのかという本題に入る前に簡単にその後のユダヤ人史に触れておく。
 ソロモン大王の死後イスラエルは10支族からなるイスラエル王国とユダ族とベニヤミン族の2支族からなるユダ王国に分裂するがイスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに、ユダ王国は紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされる。バビロニアに滅ぼされた2支族はバビロン捕囚を経てパレスチナに帰還して国家を再建するが、今度は紀元前後にローマ帝国に滅ぼされて(この時代にユダ族からイエス・キリストが出て世界史に大きな影響を与える)世界中に離散するものの、最近になってイスラエルを建国して二千年ぶりに復活した。

 即ち現代まで続くユダヤ人の歴史というのはユダ王国の2支族の歴史であってイスラエル王国の10支族は歴史の闇の中に消えてしまった。
 ところがこの失われた10支族はシルクロードを経て日本に来て日本文化の大きな部分を担ったという説が根強くある(ネット上では数千のサイトでこの問題が取り上げられてている)のはなぜか?
(この稿続く)
(承前)
 日本文化に古代イスラエル王国の文化の影響があると主張する人の多くは、神道とユダヤ教の儀式や預言に関する類似点を指摘する場合が多いようだ。
 曰く聖書に出てくる約束の地カナーン(現在のパレスチナ)とは「葦原の中の国」を意味し、これは日本書紀にある「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ我が子孫の王たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫就きて治せ。さきくませ。宝祚の隆えませむこと、當に天壌と窮無かるべし」に対応して、神のアブラハムの子孫たるダビデ王に対する約束と同じである。また曰くモーゼによる出エジプトに由来する「過越の祭り」は、日本の大晦日から始まる正月の行事、飾り付けに酷似しており、「仮庵の祭り」もまたお盆の行事に酷似している。また曰くユダヤ教のラビ(宗教指導者)が来日して神道の祭祀を勉強すると古代イスラエルの祭祀との一致をみて等しく言葉を失う…

 確かに何らかの関係が存在する可能性は否定できないが、これをイスラエルの失われた10支族と結びつけるのは如何なものであろうか。
 筆者はこのような考え方が出てきた背景には、イスラエル側と日本側の両方にこのような仮説を都合が良いと考える勢力が存在する事情があると思う。

 イスラエル側の事情とは、ヘルツルに始まるシオニズム団体の思惑と、現在も続くイスラエルとパレスチナ人との抗争である。
 即ちシオニズム運動とは2000年にわたり離散が続いていたユダヤ人が約束の地パレスチナに帰還しようとする運動であるが、ここで神により約束された民族が現在のユダヤ人を形成するユダ王国遺民である2支族だけでなく、他の民族が我々こそ失われた10支族であると名乗りをあげてきたらどういうことになるか。
 イスラエル側が恐れていたのは、現在のパレスチナ人がそう名乗りをあげてくることだったと思われる。パレスチナ人…場所としてのパレスチナ(カナーン、あるいは現在のイスラエル)と区別するために、今後はこう呼ぶことにするが…は常識的に考えればパレスチナに住むアラブ人のことを指すが、アラブ人とユダヤ人はいずれもセム族の類縁関係にあり、単純に両者を分別することはできない。

 失われた10支族とは最近になっていわれはじめたことではなく、実は紀元前6世紀にユダヤ人がバビロン捕囚から解放されてエルサレムに第二神殿を建設して国家を再建したときに唱えたキャッチフレーズのようなものである。
 即ち紀元前722年にアッシリアにより10支族が立てたイスラエル王国が滅んだとき、10支族に属するユダヤ人はすべてが連れ去られたわけではなく、一部のユダヤ人はパレスチナに残留しており、彼らはアッシリアが新たに連れてきた諸民族と混血してサマリア人と呼ばれる存在となった。サマリア人は民族・宗教的な純潔を失った民族として2支族のユダヤ人からは軽蔑される存在(例えば新約聖書の“善きサマリア人”を参照)となり、現在はほぼ絶滅寸前となっている。このサマリア人は一応ユダヤ教を護り続けた一族であるが、2支族のユダヤ人はこれを本来のユダヤ教とは認めていなかったため、“失われた10支族”として本来の10支族はどこかに消えてしまったという見解をとったわけである。
 しかしながらそのサマリア人の大部分は7世紀にアラブ・イスラムが当地を席巻したときにイスラム教に改宗してアラブ人の中に吸収されたと思われ、したがってパレスチナ人の中にも10支族の血が流れていると考えることもできる。

 現代イスラエルはこのような観点から第二神殿時代と同様に10支族は失われたとしてその痕跡を見つける運動を進めており、アフガニスタン、インド、ミャンマー、中国、朝鮮などにそれを発見したとしており、その終着点が日本というわけである。

 それでは日本側の事情とは何かというと、これは神武天皇の即位年が紀元前660年とされていた戦前までの歴史観と関係しており、これとイスラエル王国が滅亡した紀元前722年とを結び付けようとする考え方である。
(この稿続く)
(承前)
 戦前の記憶がある方は、神武天皇即位紀元の暦年法を良く覚えておられると思うが、特に1940年は神武天皇即位2600年記念ということで盛大な式典が行なわれ、筆者の両親も“紀元は2600年”と唱和したそうである。
 別に西暦紀元だけが正統な?暦年法というわけではなく、イスラム教国はマホメットのへジュラから、トルコは突厥が柔然を破ってモンゴル高原の支配権を握った年から、北朝鮮なら偉大なる金日成の誕生年からということで、それぞれの民族固有の歴史観にしたがって紀年するのはむしろ常識的なことであり、たとえそれが歴史学的な事実ではなくても歴史的にそう認められてきた伝統があるならそれは充分意味があるといえる。例えば西暦紀元にしても、この年にイエス・キリストが生れたというのは今日の歴史学では完全に否定されているが、2000年にわたりそう認められてきたならば今さら実はイエスが生まれたのは何年であるなどといってみてもあまり意味はないだろう。

 そういう意味からは神武天皇の即位が紀元前660年というのはどうかと考えると、これは日本書紀における記述を根拠としている。
 しかしながらそれは明治時代初期に日本書紀の暦年の記載を推古天皇・聖徳太子が斑鳩宮を建立した年との関係から中国暦に沿って複雑な方法で計算したものであり、確かに推古天皇・聖徳太子は日本史上画期的な業績をあげた存在でこれを神武天皇との関係から強調したいという意識が日本書紀の編者にあったという可能性は否定できない。しかしながら少なくともその後千数百年はそのような計算は一般的には行なわれていなかったのであるからこれは伝統的あるいは正統的な紀年法とはいえないだろう。

 また筆者は神武天皇の東征を紀元1世紀末から2世紀末あたりとするのが妥当だと考えており(学会の大勢はさらにその100年後くらい)、やはりイスラエル王国の滅亡の紀元前722年と結びつけるのは無理がある。なお当時はもちろん天皇制なんてものはなかったのであるから、ここでいう神武天皇というのはそのように呼称されていた人物という意味ではなく、東征により近畿地方に覇権を確立した神武天皇に比定されうる人物という意味である。
 またイスラエル10支族との関係を応神天皇や秦氏との関係から論ぜられる場合もあるようだが、これはまさに議論が逆であってますます時代の乖離が大きくなってしまう。

 これは神道と古代イスラエルとの関係を神武東征以降の出来事とするから話がおかしくなってユダヤ人が1000年近くシルクロードを彷徨って来日したなどという珍説になってしまうのであって、これを神武東征以前と考えれば一挙に問題は解決してしまう。
 そして神道というのは天皇家及びその周辺勢力が近畿地方に持ち込んだものというよりも、むしろ被征服者の土着勢力と妥協するために彼らの信仰を取り込んで成立させたものと考えるべきであり、これは古事記や日本書紀から平家物語に至るまでの死者や敗者に対する畏れと共感という日本人特有のメンタリティーとも関係している。
 
 というところで元の課題に戻ってエデンの園が存在した年代の推定と、その年代…云うまでもなく神武東征よりはるか以前の江戸の状態、特にその地勢と文化の関係について考えてみる。
(この稿続く)
スノウさん

 ヘストンがモーゼを演じた1957年公開の“十戒”は、私もリバイバル上映で観ました。やはりあの種の映画は暗い映画館の大スクリーンで観るからいいのであって、DVDのちまちました画面ではその迫力が伝わってこないですね。
 ヘストンは最近亡くなりましたが遺作(もう1本くらいあるかも)となったバートン版の“猿の惑星”ではタカ派?の猿に扮して銃推進派の面目躍如たるところを見せていました。バートンはシャレで起用したんでしょうが、さすがに貫禄が違いますね。

 ところであの映画の特筆すべき点は、紅海(最近では内陸部の湖であるという説の方が有力視されているようですが)が割れるようなスペクタクルシーンもさることながら、製作・監督のセシル・B・デ・ミルが冒頭に登場して5分ほど大演説するという異例のシーンです。
 デ・ミルというのはサイレント時代からのスペクタクル映画の巨匠で、現在はあまり評価されていませんが(何せその2年後に史劇では最高傑作といえるワイラアの“ベン・ハー”が公開されたし)、57年当時は映画界の(というか映画史上の)第一人者とみなされていました。“十戒”は彼が実質的な遺作として選んだ作品で、即ちあの演説シーンはデ・ミルが映画芸術というものを代表して全世界に発したメッセージと自負したものであると思います。
 周知のようにハリウッドというのはユダヤ資本が支配する世界であり、ナチスを悪役とした映画が繰り返し製作されるのもそのためだし、デ・ミルももちろんユダヤ人です。

 デ・ミルの演説はまさにユダヤ史観というかユダヤ教の後継者としてのキリスト教史観、西洋文明史観を代表したものであり、“文明の根源は出エジプトに始まる”というのが彼の云いたかったことでしょう。

 確かに聖書というのは出エジプトが最大のテーマであり、これを云いたいために前後のエピソードがあるといってもいいくらいです。
 即ち出エジプトの前のエピソードというのは、なぜユダヤ人がエジプトに奴隷として存在するのかを説明する導入部です。そして出エジプト後のエピソードというのは、エジプトから連れ出すためにモーゼが神と結んだ契約を民が破ったため、民に天罰が下っては預言者が神にとりなすことの繰り返しです。これはイエス・キリスト登場以後の新約聖書も同様に、イエスは預言者(あるいはメシア)であって“民”の範囲をユダヤ人以外にも拡大しただけと考えれば、これもまた出エジプトの延長線上にあるといえるでしょう。これはどちらかというとイスラムの考え方に近いですが、キリスト教も成立初期段階ではこのような教義であった可能性が高いと思います。

 これほど重要な“出エジプト”がなぜ起きたのか…これはモーゼがユダヤ人ではなくモーゼがユダヤ人という概念を創ったからであるいうのが本トピックの主題であり、その概念を創る上でエデンの園はどのような位置付けにあるかを江戸との関係で明らかにしていくつもりです。
(承前)
 さてエデンの園が古代の江戸、あるいは後世江戸と呼ばれる地域にあったとすると、それはいつの時代のことであろうか?
 これまで述べてきたユダヤ人の歴史からだいたいの推測はつけることができる。

 まず聖書が書かれた時期であるが、現在一般的にもっとも権威があるとされているのは紀元前3世紀から紀元前1世紀にかけてアレクサンドリアで編纂された70人訳聖書であり、アレクサンダー大王の東征以来、東地中海・オリエント世界の共通語であったギリシア語で書かれている。その当時からユダヤ人はコスモポリタン的になりヘブライ語よりギリシア語を好んだため、聖書の正典といえばまずこのギリシア語版を指す。
 そのオリジナルのヘブライ語原典はというと、これは諸説あるしまた完全なものは現在に伝えられていないので詳しいことは不明であるが、バビロン捕囚から帰国以後のエルサレム第二神殿時代の紀元前4世紀にほぼ現在の形の旧約聖書が出来上がったのではないかといわれている。
 もちろん紀元前4世紀にすべてが書かれたのではなく、時代ごとに書き継がれていたのが最終的に一貫したストーリーとして編集されたのが紀元前4世紀というわけである。

 聖書はいくつかの独立した書をまとめたものであるが、最初の5つの書が最も重要なモーゼ5書と呼ばれている。その第一が“創世記”で神による天地創造から始まり、エデンの園のことも描かれている。そしてその第二が“出エジプト記”であり、これまで述べたようにここからユダヤ人の歴史が始まるというか、このときエジプトから脱出した人々がユダヤ人として今日まで存続していると解釈することができる。
 出エジプトは紀元前13世紀末の事件と思われ、またモーゼ5書は一応モーゼ自身が書いたということになっているので、エデンの園のことが書かれた創世記もまた紀元前13世紀にはその原型ができあがっていたものと考えられる。もちろんモーゼ5書にはモーゼの死のことも触れられているので、モーゼ自身が書いたというのはタテマエに過ぎないであろうが、一応モーゼの同時代人がその基本ストーリーを作ったと見ていいだろう。
 そして出エジプト記ではヤコブの代からのユダヤ人のエジプト滞在を400年とし、ユダヤ民族の始祖とされるアブラハムはヤコブの祖父であるから、アブラハムは紀元前18世紀の人物と推定できる。もちろんアブラハム以後の物語というのは一種の説話であるから実際にアブラハムという名前の人物がいたわけではないだろうか、その時代にメソポタミアからパレスチナに、そしてエジプトへと移動した一族がいたことは歴史的にも確実視されているし、その一族をエジプトで暮らすシリア・パレスチナ出身の外国人コミュニティーに共通の先祖としたのだろう。

 それではメソポタミアにいたアブラハムが紀元前18世紀の人だとして、エデンの園はいつ頃の話とすればいいのだろうか? もちろん創世記神話ではその数千年前の話ということになっているが(そのために聖書絶対主義者からダーウィンの進化論は非難された)、実際にその話が創られたはいつ頃なのか?
 最も古く解釈すればそれはアブラハムより少し前の紀元前20世紀頃ということになるだろう。しかしながら出エジプト記が最初に書かれたのは紀元前13世紀であるなら、やはり遡ってもエデンというのは紀元前13世紀のエジプト人の知識に従って神が創った楽園とはこういうところだと想像したものであろう。
 そしてさらに“エデン”といった具体的な固有名詞が確定したのは紀元前4世紀のヘブライ語原典が確立したときであろうし、それはユダヤ人が数十年のバビロン捕囚を経験した後のことであるから、その記述にはバビロニア文化というかシュメール以来のメソポタミア文化の影響もあるだろうし、聖書の神話とメソポタミア神話の類似性はよく指摘されるところである。

 以上総合すると、エデンというのは紀元前13世紀頃のエジプト人が想像した楽園であり、その具体的なネーミングや詳細は紀元前4世紀からその数百年前までのメソポタミアの地理知識を元に記述されたということになるだろう。
 それでは次にいよいよエデンの園は聖書ではどのように記載されていて、上記の時代に江戸はその記載に合致した場所であるのかどうかという検証に入る。
(この稿続く)
スノウさん

 デ・ミルやヘストンの話になったので、ウン十年前からの熱狂的映画ファンとして懐かしくなり、本論とは関係ない話題なんですがもう少し。

 デ・ミルが生で?出演した作品として有名なのは“十戒”(サイレント版は十誡と使い分けているのはなかなかマニアックですね)冒頭の大演説以外に、ビリー・ワイルダーの“サンセット大通り”で彼自身の役で出る場面があります。このサンセット大通りは映画史上でも一二を争う傑作だと思いますが、関係者のほとんど全員がユダヤ人という意味でも特徴的です。デ・ミルは“サムソンとデリラ”を撮影中の監督という実生活リアルタイムの役柄なのですが、このサムソンとデリラというのは王国建設以前のユダヤ人とパレスチナ(ペリシテ)人の抗争劇であり、企画されたのもイスラエル建国戦争でアラブ人との戦争の最中という微妙な時期です。もっとも当時のパレスチナ(ペリシテ)人というのは現在のようなアラブ人ではなく、インド・ヨーロッパ系の先ギリシア人というべき民族ですが…

 そして映画界の裏側?を描いたサンセット大通りのさらに裏に込められたメッセージというのは、ハリウッドをバビロンに喩えてユダヤ人はハリウッドバビロンで繁栄を謳歌しているが結局は異邦人なのだという一種のペシミズムではないかと思います。
 なおユダヤ人のバビロン捕囚というとバビロンに連行されて鎖につながれて奴隷として働かされたといったイメージがありますが、実はユダヤ人の実務能力が見込まれて国際都市バビロン・世界帝国バビロニアの繁栄のために各界での活躍を期待されて連れてこられたというのが実情であり、ユダヤ人が今日までコスモポリタンとして世界中で活躍しているのもこのときのバビロニアでの活動が原点になっているといえます。

 そのデ・ミルの引退作となった“十戒”と2年後のワイラアの“ベンハー”でどちらもヘストンは主役を演じることにより大スターになるわけですが、このユダヤ礼賛映画といってもいい両作品で、主役までユダヤ人では一般米国人には受けが悪いと思ったのか、アングロサクソン(スコットランド系という説もある)のへストンが起用されました。役柄や当時のキャラからいうとポール・ニューマンの方がふさわしそうですが、それではオールユダヤ人映画になってしまうので…

 ヘストンの保守主義への転向?については…
 これはヘストンが変わったのではなく米国の方が変わったのだと思います。ヘストンの信念はキング牧師と共にワシントン大行進に加わったときから変わっていないでしょう。あまり政治的なことは書きたくないのでこれ以上は云いませんが…
 特に悲しいのはヘストンの遺作?となったのが“ボウリング・フォー・コロンバイン”ということです。先日書いたバートン版“猿の惑星”以後にもう1本あるかもというのはこの作品のことですが、完全にマイケル・ムーアの騙し討ちであり、事実と異なる印象を与える編集スタイルなどある意味イエロージャーナリズムの傑作(完全に事実に即したドキュメンタリーで一般受けする面白い作品ができるはずがない)といえるかもしれませんが、ヘストンの印象が決定的に悪くなってしまったのは残念ですね。

 上記の書き込みに添付した写真を簡単に説明すると
 左写真は“十戒”のキャストで左からユル・ブリンナー、デ・ミル、アン・バクスター、ヘストン、中央写真は“サンセット大通り”のグロリア・スワンソンとデ・ミル、右写真はワシントン大行進のスナップで左からシドニー・ポワチエ、ハリー・ベラフォンテ、ヘストン(多分)

(承前)
 さていよいよ聖書の中でエデンの園はどのように書かれているかという本論に入るが、これまで述べてきたように聖書のもっとも初期に書かれたと思われる“創世記”と“出エジプト記”は千数百年にわたり書き写されたり翻訳されたりであって、必ずしも原典をそのまま忠実に再現しているとは限らないことに注意しなければならない。
 即ちある場合には訳者の主観で大幅な“意訳”がなされたり(特に唯我独尊のギリシア人はヘブライの伝統など気にせず勝手にギリシア的感覚で意訳してしまう)、ある場合には意味がわからないままに伝言ゲーム的にどんどん内容・発音が変わっていったりということが行なわれており、現在流通?している聖書の中にも様々なバージョンがあって、原典には何が書いてあったのかは必ずしも明らかではない。

 その中でも最大公約数な解釈からエデンについて書かれていることは…
 まずは“エデンの園”というが、エデンと園との関係は何か? ジェームス・ディーンの“エデンの東”という映画があったように、“エデン”と“園”との関係には“東”という単語が介されて説明されているのだがこれには3通りの解釈がある。
 まず第一は“エデン≠園”であり、アダムとイブがいた園はエデンという場所から東の方に離れた場所にあるという説である。第二の説は“エデン⊃園”であり、エデンという広い地域の中の東の方に園があるという解釈である。そして第三の説はエデン=園であり、漠然と東のかたエデンに園があるという解釈である。
 それぞれの説を支持した論文の数でいえば3対5対2くらいであるが、筆者は以後の記載でエデンと園を区別した表現がない以上、第三の解釈が自然であると考えており、これまでも“エデン=エデンの園”として書いてきたのだが、それならば“東のかた”とは何に対して東なのか? これは常識的にはパレスチナより東、あるいは聖書に記載されたユダヤ人の活躍範囲であるカルデアのウルからパレスチナ、エジプトにかけてのメソポタミア・オリエント地域より東にあるという解釈になるだろう。

 次にエデンの園の地勢であるが、聖書には一般的には次のように解釈できる記載がされている。
 “エデンの園を流れる川は四つの川に分かれる。第一の川はピション川でハビラの地を流れその地はすばらしい金を産し、またブデリウムとオニックスを産する。第二の川はクシュを流れるギホン川である。第三の川はアッシュールの東を流れるチグリス川である。第四の川はユーフラテス川である。”
 この記載を見る限りあまり不明な点はないように思われる。ピション川とギホン川というのは現在は名前が伝わっていないが、チグリス・ユーフラテスの両河はメソポタミア文明を生んだ誰でも知っている大河ではないか。したがって前も云ったようにエデンを求める学説の7割はこのメソポタミアに集中しており、中下流なら現在のイラクに上流ならアルメニアにピション川とギホン川を求めて論争が繰り広げられている。

 しかしながらそうではないとして、残りの3割の学説はナイル川であるとか極端な場合にはミシシッピ川の支流のミズーリ川(実は長さも流量もミシシッピの本流より大きい)の流域にエデンを求めている。そういう説はどこに根拠を求めているのか?
 そして結論から云ってしまうと筆者はこの地域を現在でいえば隅田川から江戸川にかけての低湿地であると考えているのだが、聖書にはっきり書いてあるチグリス・ユーフラテスをなぜ否定できるのか?
(この稿続く)
(承前)
 聖書に書かれたエデンの地勢には四つの川と三つの地名が出てくるが、それはピション川−ハビラ、ギホン川−クシュ、チグリス川−アッシュール、ユーフラテス川の組み合わせである。

 ユーフラテス川のみは地名とセットになっていないが、これは地名をあげて説明するまでもない有名な川であるため…であろうか?
 実は聖書には何回もユーフラテス川が出てくるのだが、それがどうも現実のユーフラテス川の位置とは一致せず、むしろ東の果てにある大河というような意味に使われているのである。聖書が成立した紀元前4世紀にはユダヤ人はバビロン捕囚を経験済なのであるからユーフラテス川の位置がよくわからないはずはないので、これはどうも東の方にある大河と解釈すべきであって、アダムとイブが神によりエデンの園から追放されて以来人類でエデンの園を再訪した者はいないのであるから、これはかなり東というイメージであろうと思われる。

 それではアッシュールの東を流れるチグリス川はどうか?
 ここにも問題があり、原典にはヒデケル川と書かれているのだが、これはペルシア語のティグラー、アッカド語のイディクラットに対応し、アッシリアの東を流れているのだからチグリス川と解釈されたわけであるが、アッシュールをアッシリアと解釈しても良いものであろうか? 紀元前4世紀にはアッシリアはもうとうに滅んでおりそれ以後あの地域がアッシリアの古名をとって呼ばれていた形跡はないし、第一アッシュールというのは似たような発音の固有名詞がたくさんある。またそれがチグリス川なら、ユーフラテス川と同様にはっきりそう書けばいいのであって、アッシュールの東などと説明しなくても誰でも知っている。

 さらにピション川、ギホン川は現在に伝わっていないし、聖書が成立した紀元前4世紀にもあまり有名ではなかったと思われるので関連地名で説明されているのであろう。ところが一般的にはハビラというのは砂の大地という意味でアラビア半島を指すし、クシというのは一般的にはナイル川上流域の現代ではエジプト最南部からスーダンそして青ナイル流域のエチオピアを指している。

 エデンを求める学者の中には、これらを文字通りに解釈して、エデンの園はチグリス・ユーフラテス・ナイル・アラビア半島を流れるどこかの川の源にあるのだからこれは想像上の世界の周縁地というべき土地であって、非常に遠い場所という程度の意味しかないのだという人もいる。
 しかしながら聖書にはそのような用例は一例もないし、ハビラ・クシというのも似たような発音の固有名詞がたくさんあって、これをアラビア半島とナイル川上流域であると断定するには疑問の余地がある。

 このような観点から世界中の学者はこれらの地名を色々に解釈してエデンの位置を推測しているわけであるが、それでは現在の隅田川から江戸川にいたる地域をエデンであると仮定した場合、それぞれの地名はどのように当てはめればいいのか?
 それにはまず最低でも紀元前4世紀まで、さらにはその1000年近く前まで遡って江戸の地勢を考えなければならない。

 現在から遡って最も新しい変化は大正時代の荒川放水路の掘削であり、それ以前には現在の隅田川が荒川の本流であった。さらに遡ると江戸時代に(明治初期までかかったという説もある)二百年以上かけて行われた利根川の東遷があり、家康の江戸入府当時は、現在の利根川水系の西側の大半と荒川水系をあわせた水が、現在の隅田川から江戸川(江戸川も現在の下流部は人工の水路であるが)にかけての地域を陸やら海やらわからない状態で湿地帯を形成して流れ込んでいた。

 そしてさらに古く聖書の時代には?
 それはもう人間による水路工事というレベルではなく、海進・海退の影響で地形そのものが現在とは違う時代である。
(この稿続く)
常陸江戸氏元本拠江戸こと現水戸、そこの鹿島神社の本社島神宮と剣聖塚原卜伝の相関性について
こもりんさん

 当時はまさに香取の海が現在の霞ヶ浦・北浦・鬼怒下流域などを含む広大な内海を構成しており、神武天皇即位と密接につながる鹿島神宮・香取神宮が中心となって栄えていました。

 卜伝はその2000年後の人ですが、鹿島神宮には日本最古最大とされる剣が残っていることなどから考えて、何らかの形でその時代のものが伝えられている可能性はあります。

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