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お江戸漫遊連コミュのもっと知りたい品川の宿

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 東海道五十三次、一の宿品川。都会の真ん中でありながら、まだまだ江戸のふぜいが残っています。先日、品川歩きをしたものの、不完全燃焼。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=691186962&owner_id=1493796
 品川歩き、第二弾はいずれまた企画しますが、その前に、品川についてもうちょっと知りたい! と思ってトピを立てさせていただきます。実は、今年のマイブームは東海道五十三次なので、別の宿場町にも興味あるのですが、それは別トピにします。
 江戸時代のことはもちろん、明治から昭和初期にかけても面白い街だったようで…。
 あと、各地域の観光案内を活用する、というのも楽しい街歩きのコツかもしれません。
 品川には「しながわ観光協会」というのがあって、5人以上集まれば、ボランティアのガイドさんが街を案内してくださいます。資料もいろいろといただけます。「まち歩きマップ」など、イラスト入りのわかりやすい地図のほか、モデルコースとその説明の入ったプリントをいただくと、修学旅行みたいな気分!
写真の鯨塚は、十一代将軍家斉の時代に、品川沖に迷い込んだ鯨の骨を葬った塚だとか。江戸の三珍獣って何だかご存知ですか? 1つは象、2つめはらくだ、そして3つめがこの鯨だったんですね。
江戸時代後期に、この品川沖に鯨が迷い込み、漁師たちが捕獲。岸から約300沖に繋ぎ、多くの人々が船で見物に訪れました。また、鯨に縄をつけて、船で現在の浜離宮まで引っ張り、家斉に上覧させたそうです。鯨は、長さ約16・5m、高さ1・8mあったということなので、大騒ぎだったに違いありません。うわー、見たかったなあ。

コメント(71)

 品川宿の今年の祭り

 北の天王祭は今年も花魁道中あるそうで、六日の午後七時から商店街を練り歩く。

 南の天王祭は昨日お知らせした神輿の海中渡御をなんとしたことか今年行わないということです。なんでも荏原神社鎮座千三百年のめでたい行事を九月に行うから祭りの海中渡御を中止するということです。
 一氏子でははかりかねますが祭りの神事を取り止めるなんて百年に一度のよくよくのことでしょうね。
スノウ様
そうです。そうです。あきらかにあぜ道を利用しているのがわかると思われます。
マダムあや様
私の父親も鮫浜小卒ですw
 利田神社ですが、あのあたり利田新地?といわれて江戸後期に埋め立てられた所にあるお社ですよね。トップにぱぴこはんさんが貼られた画像がそうですよね。
 後に江川太郎左右衛門指揮の下にそのままお台場が造成され、陸続きのお台場が「御殿山台場」で、今の台場小学校辺り。台場横町と呼ばれ、利田新地とともに宅地化されていったようです。この辺りは宿場とは関係がないのですが面白いところです。
 
 話は変わりますが、首都高速横羽線を横浜方面に下って、羽田トンネルの手前の左側(モノレールでも見られます)に洲が形成されています。品川沖はこんなのばっかりだったんだろうなぁ、というのが判ります。
rick様
あ、そうです、鮫浜小学校と書いたつもりが 鮫洲小学校になっていました。
失礼しました。

老父は今年86歳です。
う”
ウチの親の2個下・・・・きっとお知り合いなんでしょうねf^^;

童如様
同日開催なんですね。それはよかったよかったw
しかし、海中渡御がないのはやっぱり寂しいですね。
スノウさま

そうですね、随分歩きました。
スノウさんが掲載してくれた地図(詳しい地図のほう)がほぼ歩いた範囲です。
左の大崎ゲートシティから目黒川沿いに歩き出して、地図の右寄り旧東海道に達して右に曲がり(地図では下方に)青物横丁(地図の下辺)まで行ってUターンして今度は上の方へ、品川宿をすべて歩く感じで北品川(地図の上方)から最終的には現在の品川駅まで。

最近は出っ張った腹対策もあって、よく歩きます。
通常でも会社のある馬喰町から神保町あたりまで、約3キロ、は歩くようにしています。
歩きの視点は自動車や自転車と違ってちょっとした小さなことが見えてきますし、興味を持ったらすぐに止まって見ることができます。
それに江戸時代の人たちはどこへ行くにも基本的には歩きですからね。
この本に掲載されている地図で気づいたんですが
CG日本史シリーズ 19 高杉晋作と長州藩
http://www.amazon.co.jp/%E9%AB%98%E6%9D%89%E6%99%8B%E4%BD%9C%E3%81%A8%E9%95%B7%E5%B7%9E%E8%97%A9%E2%80%95%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%A5%AD%E3%82%92%E6%88%90%E3%81%97%E3%81%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%AF%B5%E5%85%90%E3%82%92%E8%B6%85%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%81%AB%E8%A7%A3%E8%AA%AC-%E5%8F%8C%E8%91%89%E7%A4%BE%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%83%E3%82%AF-CG%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-19/dp/4575450790/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1244431239&sr=8-1

幕末の土蔵相模の沖は利田新地や台場横町の埋め立てが進んでいたようですね。
座敷の窓からの景色は浮世絵のように遥か房総や江戸湾に浮かぶ帆かけ舟を眺められるのではなく、南側は埋立地が見えていた・・f^^;;のようですね。
喜三二さん
スノウさん
マダムあやさん

 鮫洲の地名のことを書かせていただきます。


 品川区南品川に海晏寺(かいあんじ)という北条時頼創建の寺があります。

 この寺は江戸の紅葉の名所としても知られたところで、「紅葉狩り」と称して品川宿に別の紅葉を狩りに行ったりもしたようです。


 寺の縁起によれば、建長三年(1251)五月七日。品川の海で1匹の鮫が網にかかり、腹を裂くとその中から観世音菩薩像が出てきたとか。
 はじめは、鮫を獲った漁師が自宅の仏壇に安置していたところ、噂を話を聞いた時の幕府の執権、北条時頼によって、寺を造って鮫を祀ろうということになり、四海平安の意味を込めて海晏寺という名の寺が造られた。

 岩倉具視の墓(非公開)などがある名刹です。


 海中から出現した観音像といえば浅草の浅草寺の観音さまが有名ですが、「霊魚」とされていた鮫の中からでたというのが当時の執権をその気にさせた理由のようです。
 鮫は何でも飲み込んでしまう習性があるので、洪水などで流された観音像を呑み込んだ可能性は無きにしも非ず、ですが。


『江戸砂子』(註1)によれば、この鮫を引き上げた場所を「鮫浜」(頭が崎とか鮫洲崎とも)といったようで、現在の鮫洲の地名の由来もここからきたものです。

 海晏寺の本尊は、鮫といっても鮫の腹から出てきた観音像ですが、同じ鮫洲(現在では京浜急行で一つとなりの立会川)にある鮫洲八幡神社は鮫その物を祀っています。
 この八幡神社の池の中にある「厳島神社」という境内社(俗に「オサメさん」「弁天さま」と呼ばれる)に祀られているご神体の「鮫」は、鮫の頭の骨(ということになっています)。

『江戸名所図会』(註2)に出ている「鮫頭明神祠」は太平洋戦争で消失し、厳島神社に合祀されました。これは、元々は田中さんという漁師の屋敷神で戦火の後にあった「骨らしい焼け残り」を合祀したそうです。


 さて、鮫洲八幡神社内の厳島神社の鮫の由来はこうです。

 昔この近くの海で大きな鮫が捕れ、この肉をみんなで食べたところ疫病が大流行して大勢の死者が出た。「鮫の祟りだ」と恐怖にみんなが慄いた。

 鮫のうちでも大型のジンベイザメなどは「霊魚」とされていました(註3)。
 鮫の祟りを静めるため、漁師たちは頭だけになっていた鮫を神体として祀ったとのことです。

 安政五年(1858)に江戸でコロリ(コレラ)の流行があったので、それらと結びつけられたのかも知れません。
 当時は魚を食べるとコロリで死ぬという噂が広まって、野菜価格が暴騰したという記録が残されています。



「鮫洲」の地名は上記から「鮫頭」と書いてこれに由来するともいわれていますが、前述の海晏寺の縁起と混同されたようです。




 ところで、鮫はのちになって、はんぺんや蒲鉾の材料に使われるようになりますが、果たして昔から食されていたものか。

 鮫は体液の浸透圧調節に尿素を用いているため、その身体組織には尿素が蓄積されています。
 なので鮮度が落ちるとアンモニア臭を生じてしまい、一般の魚のような料理には向かない。
 ただし、アンモニアがあるために腐敗が遅く、冷蔵保存技術が進む前の山間部では動物性蛋白源として珍重されていたこともあります。

『延喜式』(註4)には、鮫を食材とした記述があります。斎宮寮に干物の「鮫の楚割」(さめのすわやり)が支給された記録があるのです。

富士山クローバーチューリップ富士山クローバーチューリップ富士山クローバーチューリップ富士山クローバーチューリップ富士山クローバーチューリップ


 つづく




つづき


 【註1】
『江戸砂子』(菊岡沾涼著・享保十七17年/1732年)は、江戸の地誌や社寺・名所の来歴を記す書。


 【註2】
『江戸名所図会』(えどめいしょずえ)は、江戸時代後期に斎藤月岑が刊行した江戸の地誌(七巻二十冊)で、神田の町名主であった斎藤長秋(幸雄)・莞斎(幸孝)・月岑(幸成)の三代にわたって書き継がれたもの。
 前半の一・二・三巻(十冊)は天保五年(1834)、残り七巻までは天保七年(1836)に刊行された。


 【註3】
 ジンベイザメなどは、「エビスさん」と呼ばれていた。
 理由は、「カツオ付き」と称された習性があったから。プランクトン食性なので、自然プランクトンの多いところへ現れるわけだが、鰯も同じ。この鰯を大好物とする鰹がそこには集まる、ということである。
 鰹は餌をで捕獲する必要がないため、これを見つけた漁船は、「エビスさんだ! 大漁の神様だ!」。
 ジンベイザメは大漁の神さまである恵比寿のお使いとして、捕獲されなかった。

「エビス」というのは外人という意味もあるそうで、海の彼方の異郷から富と幸をもたらしてくれるとも信じられていた。
 来訪神として、鮫や鯨、海豚(いるか)なども「エビス」と呼ばれることがあった。
 これらは突然登場するので漂着神とされ、「豊漁の兆し」ということで元々は海の人の信仰であったものが都市部にも拡がり、エビスさんは商業の守護神や市場の神ともなった。



 【註4】
『延喜式』(えんぎしき)とは、平安時代中期に編纂された律令の施行細則。
 延喜五年(905)に醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たり、延長五年(927)
に一応完成した。しかしその後も改訂が加えられ、40年後康保四年(967)より施行された。


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 ちなみに、東京の恵比寿という地名は、「恵比寿麦酒」の醸造工場があったことから。鮫とは一切関係ありません(笑)

 ま、しかし最近、恵比寿はお洒落な街として注目されるようになってきました。
 月に何度か恵比寿駅至近(徒歩2分)「アートカフェ・フレンズ」でボクの企画・ブッキングなどによるライヴがありますのでよろしく。
 ジャンルは、クラシック、ジャズ、シャンソン、Jポップ、邦楽などいろいろ。昨年4月にオープンしたばかりの店ですが、日本の音楽各界のトップクラスが何人も出演しています。

 江戸に関わるものとしては、「琵琶語り」のライヴなど考えています。
 畏れ入谷。広告で〆やしたネ。

  喜の字

喜三二さん

上手い!昨日だったら朝顔市!
 ひゃく様ハ真打ちだねへ。ご登場になられると、ぱたりト書き込みが止んで、寄席も幕ゥ閉じちまった。
 ご表徳の百楽天は白楽天より一枚上手の心入れでやしょう。見上げたもんだ。あっちいィ行ったら白楽天と漢詩の合戦やって打ち負かし、日本男子の学を見せつけてやっておくんなせェ。学ッて言えばひゃく様は学ばかしかと思って勝手に按じておりやしたが、ちゃんと広告で〆るなんぞ商才にも長けていらっしゃる。物書きは反故紙で障子を貼りッてネ。高潔の学十露盤を弾いて初めて一門を成すッてへさふですから、胸ェなで下ろしておりやすヨ。
 もふそろそろ大岩波か大平凡社辺りから、これぞ江戸学のとどめッてェ極付のご本、お出しになっておくんなせへな。いくらお声がかかってもそっから下の本屋ぢやァいけやせん。お名がすたりやす。お待ち申しておりやすが、早番で頼みやすヨ。こちとら若くねえ。三途の川渡るめえに読ましておくんな。先がなんか楽しみになってきやがったゼ。

 また何処かでご高説拝読の栄によくす機会に恵まれ升(ます)事を願い愚筆此処に置く。

  謹んで 喜の字 拝
 
とまった、、と言われては。。。f^^;;
一度は細部をアップしましたが大人げないのでやめましょう。
ここは品川トピで鮫洲トピではないのですからww
 左様。咄を戻しやしよう。
 品川宿の食べ物ッて言ふとなにが名物だったんですかねェ。
 大森は海苔、羽田は穴子なんて言ひやすが、品川ッてへと土蔵相模のよふなものばかし目立っておりやして。

 新宿には追分団子がありやすが、どこまで江戸へ戻れるのか。板橋や千住にやァ思い浮かぶものがありやせんね。

 喜の字
 前にスノウさんが掲げたのと同じ絵。広重の「名所江戸百景 南品川鮫洲海岸」です。

 かつては、鮫洲も大森も品川のうちでした。


「本朝食鑑」(元禄八年/1695)「海苔」の項によれば、

「浅草」は、「武州江都の東辺の地名」。隅田川の川上(浅草川と称していた)の村で、「浅草の苔(海苔)はもともと相州葛西の海中に多く生じた」もので、これを浅草村の市に送ったようです。
 続いて、「苔は武州品川にもある」と書かれています。

「相州葛西の海で苔が採れたのは江戸時代の初期で、元禄の頃には「武州品川の海で採れた苔を浅草の市で売っていた」ようです。


『日本随筆大成 第二期10』収載の「飛鳥川」(柴村盛方文化七年/1810)には、次のようにあります。

浅草海苔名物なり 世の中珍重す 品川海苔を隅田川の水にさらし乾かしのりにしたるなり 然るに近来干場は紺屋の張場となり 海苔の乾かす場所見えず されば品川にて仕立てたるを取寄するごとくおもふ

 江戸時代後期になると、浅草近辺では海苔の洗いや乾燥さえも行わず、品川の海で採れたものを品川で加工(洗い・乾燥)して製品とし、浅草に送っていたようです。

 この品川の海苔が、「大森海苔」です。
 代々羽田で漁師してたってお方がおりやして。五十ほどなんだが、そのお方の親父さんの世代なんかは、都心へ行くのを江戸へ行くと言っておりやしたさふでして。江戸の洒落本なんかの浅草の場面なんかでも、これから江戸へ行くなんてことが書いてあったりしやす。こっから案ずるに、品川宿の住民もいい加減まで江戸は自分たちの処とは別の処ッて思ひがあったかもしれやせんねェ。
 その羽田の漁師さんだが、羽田の地を江戸前と呼んでいたそうですワ。これも、なるほどですな。

 喜の字
 画像左は、品川宿が載ってる尾張屋清七板「芝高輪絵図」安政四年(1857)刊行。「鮫洲」の由来、海晏寺(かいあんじ)のところにマーキングしておきました。

 画像の中央と右は、『江戸名所図会』天保七年(1836)刊行巻四、一冊にある「品川潮干狩り」と「浅草のり」。


 品川といえば、JR品川駅を連想しますが、これは港区にあります。
 江戸時代の品川は、現在の品川区の北部の地区をいいました。
 JR大井町駅の東に仙台坂があります。途中に「品川宿」の碑がみえます。
 仙台坂を下ってまっすぐ行くと、左手に高層ビル群が。そのビルの地下に、りんかい線の「品川シーサイド駅」があります。この駅は、JR品川駅とはちがって品川区東品川。りんかい線で新木場行きに乗ると、そのむかし品川台場のあったあたりに行くことができます。

 江戸時代、JR品川駅の東側は遠浅の海でした。
 ってことで、このあたりは近代になって埋め立てられて誕生した新しい街なのです。

 むかしの品川宿は、駅で言えば京浜急行「北品川」「新馬場」「青物横丁」あたり。
 品川宿は、江戸湊 (品川湊とも) に注ぐ目黒川を挟んで北品川宿と南品川宿に分かれ、北品川の北にはさらに享保期に歩行新宿ができました。三つの宿で一つの宿場の機能を果たしていたのです。
品川にはどんな名物があったのかねえト自分で書いた跡(後)洒落本の華里通商考咐録に江戸ご府内内外の遊里を国仕立てで案内もやうが載ってるのをめっけたわけよ。一寸(ちと)抜いて書き出してみやしょうか。

 品川国 南妓国共
此国。海辺絶景の地なり芝汐留の辺り。多く出船して。此所へ入津し。金銀を捨る事。北国より。賤し。海上に馴れて能客の梶を取る
[土産]蛤 杓子(食盛器也) 魚類 

筆者は闇牛斎。延享五年の春刊だ。
それにしても、蛤だけッて書き方はなんかそっけねえネ。桑名みてえに焼くとか、婚礼もお吸物みてェになんか芸はねえのかねえ。
 もっともこの本、尤もらしい文体だが、中身は遊里の品比べ。そいでもこの土産ハ確かでやしょうヨ。

 喜の字 
「江戸名所図会」に潮干狩の図がありましたが、品川の海は遠浅で、浅利、蛤、馬刀貝、馬鹿貝などが捕れました。春の風物詩、江戸庶民の楽しみのひとつでした。
 品川の潮干狩りでとくに蛤がたくさん採れたというのではないのですが、浅利や蜆などは日常的な食材で、小柱(バカガイの貝柱)などと比べても、貝類のなかで蛤は饗応膳の汁に使われるように珍重されていたので、「名物」ということになったのでしょう。

 最近、品川名物として「貝づくし」という駅弁ができました。浅利・蛤・小柱を茶飯の上に乗せたもので、話題の駅弁になっています。
 以前は木更津の「漁り(あさり)弁当」が話題になりました。

 浅利の味噌汁を飯の上からかけて食べてたことをヒントに作られた深川丼もそうですが、どこでも採れた貝類をのちになって名物に仕立あげただけのことです。


 桑名名物とされる「焼蛤」は十返舎一九の「東海道膝栗毛」で有名になりましたが、桑名宿では酒蒸や時雨蛤などもだされていたようです。
 これらにしても地場で採れた食材を使っただけのことで、果たして全国的に誰でも知ってるほど有名だったのでしょうか。
 桑名から冨田の街道筋にあったという焼蛤の店はいつ頃現れたものか。どのような形態の店で何軒くらいあったのか。調べたことがありますが、ついにわからず。

 だいたい江戸時代中期までは、街道筋や寺社近くの茶店くらいしか外食の店はなかったのです。
 外食の店ができるようになっても、武士はめったに外食などしないものでした(接待に使ってた高級料理屋は別)。
 江戸ぢやァ婚姻の席にやァ蛤のお吸物と決まっておりやしたそうでやすナ。品川の蛤が使われたんですかねェ。
 上方ぢやァ蛤は高直(こうじき。高値)なもんだったが、遠浅の江戸ぢやァ無尽蔵のやふに採れていたって下直(げじき)。そいだもんで、新(あら)所帯の門出にこれからの暮らしが華美になることを戒める意味で、蛤ひとつを入れただけの吸物椀をださせるやふにしたッてなんかで読みやしたネ。
 又聞きどころか、なんてッたってあっしやァ江戸の比はまだかけらもありやせん。見てたァわけぢゃねへンで、はっきり言い切ることができやせン。御免のなすっておくんなせへ。

 喜の字
 ちょいと面白いのが、「本朝食鑑」(元禄八年/1695)に書いてあった、

「浅草は武州江都の東辺の地名」

「浅草の苔(海苔)はもともと相州葛西の海中に多く生じた」

「苔は武州品川にもある」

「武州」は、「武蔵国」ですが、「相州」の「葛西」とは?


「房総」は、「安房(あわ)」「上総(かずさ)」「下総(しもうさ)」の総称ですが、外房のほうは今でも「房州」といいます。

「相州」といえば、ふつうは「相模国」をいいますが、上記の「本朝食鑑」に書かれた「相州」は、「上総」「下総」の「総」の読みを「相」にあてて、「下総国」の意味で書かれたものと思われます。


 元禄十三年に深川地区の埋め立て工事が行われているので、「葛西の海中」というのは、今の深川あたりのことと思われます。
 そうだ。
 品川といえば、忘れちゃいけない「青物」。

 品川は、荏原郡の中でも最も早く青物の産地として発展しました。

 江戸に葱が入ったのは天正年間(1573〜92)。大坂から入植され、はじめは砂村(現在の江東区)で栽培されましたが、品川にも持ち込まれて「品川葱」として知られるようになりました。

 文化元年(1804)の『成形図説』には、越冬用漬物として栽培された品川の長蕪が記載されています。
 天保十四年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、品川葱、大井人参、戸越の筍が名産として記されています。

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