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記憶のなかの棄物コミュの多摩川河川敷

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多行による組行俳句 多摩川河川敷(朗読用)   

 研生英午

 流れの景色


 水が流れている。
 水が流れている。
 水が流れている。

平成十三年九月に関東を直撃した台風十五号の影響が、まだこの多摩川に色濃く残っている。川の水の色は少し茶色っぽく濁っている。水嵩もいつもより増しているようだ。流れは平坦たが、場所によって流れの早さが違う。うねりを強め、水底深く吸い込まれてゆくところもあれば、ゆったりと懐を広げ流れて行くところもある。

 水が流れている。

多摩川の両側は河川敷になっている。いたるところに流木や石ころ、廃物が漂着している。
川の所々には、川を横断し流れを調節するために、大きな尾翼のような鉄の堰が横たわる。赤錆を吹き、堅い表面をむき出しにする。堰の隙間からは雑草が力強く伸び、鉄の塊の割れ目から、空に向かい真っ直ぐに、いく筋もいく筋も青く尖った草の葉先を伸ばしている。

 水が流れている。

河川敷の片側の土手には、アスファルトの白い道が一直線にどこまでも続く。
人々が思い思いにジョギングを楽しみ、ローラースケートをしている人もいる。パラリンピックの選手たちが競技用の車椅子で練習をし、白い道のうえを地面を這うトカゲのように素早く過ぎてゆく。
土手には都会ではほとんど見ることがなくなった芒やいろいろな野草が群生する。一見のどかで伸びやかな風景が果てなく広がっている。

 水が流れている。

この多摩川は東京都の国立市と日野市の境を滔々と流れる。溯れば、JR立川駅から青梅線沿いに上流へ向かい、奥多摩を流れ、源流は山梨県秩父の山々の沢から湧水を受け、清流を湛える渓谷へ至る。下流は東京都を縦断し、羽田空港の脇を流れ、東京湾へ流れ込む。全長138キロの川だ。
この河川敷は、立川から南武線で二つ目、矢川駅から歩き二十分ほどのところにある。
平成十三年十月十二日、僕は初めて多摩川縁にある友人のマンションを訪ねた。次の日の朝、友人とともに多摩川縁を散歩した。小春日和の澄み渡った空気が快く頬にふれた。

 水が流れている。

高度成長期のときはこの多摩川の汚染はひどいものだった。その後、環境保全のおかげで、魚たちが川にもどるようになった。それでも、多摩川の水は飲み水に向かないという。見えない汚染は地中深く浸透し、未だに進行している。近くにあるゴミ処理場から排出されるダイオキシンの濃度はどうだろう。ゴミ処理場は緑の多い多摩川河川敷には不似合いな姿を、異様な貌を曝していた。

 水が流れている。

水の流れを僕は見つめる。流れは決して止まることはない。この多摩川も長い年月の間に、地形を変え、周辺の姿を変え、水質を変えてきた。水の色は毎日変る。こうしてからだを移動させ、流れを見つめている間にも、川の色は微妙に変化する。少し白濁した薄茶色から淡い翡翠色へ、やがてところどころ深い緑色へ、流れの色は複雑な変化を見せる。


 からだの移動に関わる三つの異質な時間

僅か三十分ほどの散歩だった。秋の午前中の陽射しは柔らかく、透明な光が多摩川縁一面を照らした。川面に乱反射する光が僕の網膜のスクリーンに映り、からだを動かす度に上下に揺れた。光はからだのなかで澄んだきらめきを放つ。
歩けば、景色は少しずつ角度を変え、パノラマ状に開く。流れの景色も歩く度にからだの前へ前へ広がる。
歩きながら僕のからだは、多摩川河川敷の風景のなかに、吸い込まれ、風景の一部となり、隠れてゆくような気がした。


     麦秋

    金色
    の 佛
    賑かなり
    野辺
    の 廃屋


     雨月

    水煙
    されど
    美神
    の 姿
    赤き


     風花

    ひかりつつ
    時の円舞曲
    は 
    鬼百合
    ちりぬるを


     山吹

    山霊も
    しずしず
    降り來る
    川辺
    の 灯


下流に向かい一歩一歩からだを移動する。からだは常に行為とともに空間のなかを動く。行為の方向はからだを翻せば変えられる。前後左右自由に方向を選ぶことができる。
移動するためには時間を要する。この時間には、質的に違う三つの時間が流れている。からだの中を流れる時間、からだの外を流れる時間、意識の中を流れる時間だ。
行為の方向は変えられるが、からだの中を流れる時間は、戻ることができない。つねにからだとともに持続し、異質なものへ変化し続ける時間。それは生命体が持つ不確定な時間に似ている。生き死に消滅するまで個体のなかを流れ続ける。
からだの外を流れる時間は、客観的な時間とされ、太陽系を巡る天体の周期的な動きを基準にしている。
意識の中を流れる時間は、繰り返し、反復により再生される時間だ。これは速度や密度、質、量とも一定ではない。極めて気紛れで曖昧な時間だ。それはひとりひとりの固有な記憶の中をランダムに流れる。出来事や経験の強度により、序列が決まり、具体的な日付を持つ。
三つの時間はそれぞれ無関係に動いているように思える。からだの行為はこれらの時間を結び、現象を生み出すきっかけになる。からだを通してやってくる言葉。実在に肉薄してゆく言葉とは、記憶、行為、書かれたテクストの全てを結び合わせる。


 微視的な織物

現在という瞬間の先端にあるからだの触手は、つねに微視的な視線で現象を断片化する。からだをともなう行為の連続と展開、それらと実在のものとの関わりから、現象は起き上がる。それらは主体的な景色を紡ぐ。それは定点観測として、傍観的に眺める視覚的な風景とは違う。
視線が相互に交差し、変化し続ける内部観測の視線として、からだが行為とともに、実在する世界へ、さらには社会へ直接に働きかけ、社会の変革を目論む。
この行為から、蜂や蟻の巣のように、生きるために必要な最小限の都市が増殖し始める。

多摩川河川敷におけるからだの体験は特定の日付を持つ。近い将来、再び僕はそこを訪ねてみよう。日付のズレから生じてくるものやこと。社会的なものへ直接的に働きかけるからだの行為とは何だろう。
河川や大気の汚染は目に見えることもあるが、多摩川河川敷では分からなかった。確認できたものは、河川沿いにあるゴミ処理場の姿だけだ。社会の実の姿は、おそらく一つのからだでは捉え切れない。複数の合わされたこととして、複数のからだが捉えた体験やさまざまな情報とともに姿を現す。眼前のものともの、こととことを繋いでゆくだけでは駄目だ。
からだと行為、記憶から、微視的な織物として、テクストや情報は産み出される。
しかし、社会の姿やテクストは、膨脹し多量になり過ぎた。ある程度、からだの行為が及ぶ範囲に、社会の大きさやテクストの量を、スケール・ダウンすることも大切だ。


 日常の景色の傍らで

あの日の多摩川河川敷の景色は、おそらく日本のどこにでもある平和な休日の景色だった。
そこから現在の日本社会を覆っている経済不況の暗い影は見えない。産業廃棄物や生ゴミの投棄、汚水や排気ガスの排出、便利さや営利のみを目的とした乱脈開発、それらによる地球環境や生態系の破壊、温暖化、またエネルギー源の枯渇等、僕たちの生命の存続や生ものたちを脅かしている深刻な問題を確かめることはできない。
これらの問題は僕たちのからだのすぐ傍らにあり、生活への影響もあるはずだ。それでも僕たちは、日々の豊かな生活のなかでそれらに気づかないでいる。気づいても、自らのからだに直接的な痛みや被害となり響いてこないかぎり、何も行動しようとしない。


 記憶の海へ

からだの五感を開き、景色を感じてみよう。五感に止まらずあらゆる感覚を開いてみる。
河川敷に点在する流木、壊れた椅子、子供の玩具、つぶれたジュースの空き缶等の漂流物や廃棄物、川の流れの音、人々の話し声、それらのものやことは何の脈絡もなく散乱している。
それらがからだのなかへ溯るように、束になり逆流する。


     越境

    川床
    の 大蛇
    は 山河

    蝶澄めり


     瀑布

    地の果
    へ
    影
    の 草庵
    落椿


     途中

    天
    の
    黒
    三たび
    揚羽
    濡れにけり


     山門

    赤犬
    の
    熟睡
    は 果なし
    芒小屋


睡りのような記憶の縁から、多摩川河川敷の風景が滝のように落ちる。ゴミ処理場や流木、壊れた椅子が漂流を続け、濁った水が渦を巻く。水はからだを通り抜け外へ排出され、川となり記憶の海へ再び注がれる。
景色は景色へ繋がれ、融け合い、大きな流れを作る。風景のなかでものとものがぶつかり、偶然の物語を点滅させる。
からだのなかで川の景色や漂流物が暴れている。
記憶のなかでそれらに触れれば、指先に濡れた感触が伝わってくるようだ。
しかしそれらは実在そのものではない。ものの輪郭を象り実在のもののまわりに漂う、空気や気配、イマージュのようなものだ。
言葉のなかでものが腐り、錆びる。実在のものとは無関係に存在が滅んでしまう。


 ボディズ・スケープス

実在に肉薄する言葉と言葉にならない黙示的な景色。それは識域を超えた闇を抜け、どのような姿を現わすだろう。
からだの記憶の深層から巡り来て、現象の最先端へ躍り出る景色。生命体の始原から終焉までを黙示する景色。個体のレベルに止まらず複数の身体、幾世代にも渡る身体に刷り込まれた記憶の深層へ繋がれてゆく景色。
これらの膨大な風景を僕はボディズ・スケープスと呼ぼう。それらが水の渦のように、溶け合い、生命の風景を紙魚(しみ)のように広げる。

僕は記憶のなかで、多摩川河川敷の景色や漂流物を拾い集める。それらに関する映像や情報も集める。それらのひとつひとつを繋ぐように、眼を閉じる。
眼球から視神経を通り、網膜に映され、脳をめぐり、からだをめぐった象や情報は、錯綜し、からだのなかで複雑な物語をつくる。物語は情報操作により捏造されているかもしれない。からだのどこかの回路が痛み、弱っていれば物語は微妙に歪み、あるいは欠落することもある。
 
からだを通し、記憶を溯っても、見えない景色がある。
氾濫し、歪められ、屈折した記号や映像、言葉。
それらの幾重にも畳まれ、複雑な層を成す織物の表面には、
泡のようにつぎつぎに新しい言葉が浮き上がって来る。
それらの織物を解くように、僕は実在の闇のなかへ降りてゆく。

僕は自らのからだを渡り、複数のからだを反射する。
幾世代を超え、生命の始原へ向かう。
幾重にも堆積された生命の深層に、静かに耳を傾ける。
この世の曼荼羅絵が消える。
灰色の砂嵐が舞う。
虚空へと景色という景色が、千々に散る。

何もない闇の彼方から、水の音が震え始める。

 水が流れている。
 水が流れている。
 水が流れている。

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