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記憶のなかの棄物コミュの黙した沼

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  黙した沼

  研生英午
                       人の心の何処に、
                       暗い沼は確かに在る。
 
 1.顔のない胴像
 
 白い乳房のおくに
 どす黒い冷気が満ちている
 肌いろの長靴下(ストッキング)を剥げば
 足首に 過去だけが皺よる
 熱い背中に密生する陰毛の眼に触るたびに
 鉛の夜が這いあがる
 
 言葉という言葉が剥げ落ちた鉄管(パイプ)の寝台まで
 爪を伸ばす夜の雨に
 顔が ゆがむ
 耳が くずれる
 髪は 地名のない地図を広げる
 それらが交り合う白磁器のなかで
 手をきれいなほうから洗う
 と からだの節々が痛くなる
 瞬間
 胃壁に覆われた地下室から
 逆流する 甘酸っぱい恐怖
 重力の汚物が食道を掻きむしる
 「現在」の罅割れ
 疾走する 部屋
 疾走する 都市の孤独
 その亀裂ふかく
 口臭にまみれ 漏水が垂れる
 一滴 一滴に
 灰の時間を密閉したまま
 
 蛇口をひねる
 流れる けたたましい残響
 白い蜥蜴が噛みついてくる
 気がつくと
 鏡の向こうに 顔のない胴像(トルソ)
 赤錆だらけの咽喉から唾を吐き捨てる閨房のあたり
 夜の帷が 肩から化粧を落とすように
 ひと息 深呼吸をする
 

 2.羊歯の鳥
 
 黴くさい床のうえ
 たわむれに 歳月の燠火を転がす
 焼けただれた黒い軌条(レール)をなめ
 「現在」の終りまで
 部屋(失意)ただひたむきの疾走
 この からっぽな速度を踏み越そうと
 まず 埃だらけの机に布をあてる
 背後に なまぐさい一陣の妖気
 蜃気楼の都市を封じ
 帷まで裂くほどの羽音のざわめき
 死の閃光の白い輪舞(ロンド)
 ガラス窓に蛇を放つ夜の粘液が迷路を浮き彫りにする
 羊歯の鳥の翼(葉末)から
 闇のなかの闇へ
 醒めた冷気は 失楽の石畳を下りはじめる
 背に病んだ老婆を 濡れた縄で縛りながら
 
 
 3.石の仮面(マスク)
 
 いつの頃からか
 出生の年代がおぼろになった
 素顔を失った足音が
 短靴に河口のような孔を穿ち
 あとから あとから 波枕
 次第に大地を溶かしだす
 と 苔むした足跡のひとつひとつに吹きよせる
 風の追憶(あるいは忘却の愛撫)
 
 「出来事とは脆いものだ」
 だが いつまでも
 「此処」に在りつづけ
 懐から水位を増してくる 家具什器
 絹のような静物たち
 に 刻まれた唇からの不毛な時間の吸収
 淡水性の机や風景画のなかの箪笥の蔭で
 海を燃やす眼だけが きらめき
 冬ざれた眺望が 膨脹する
 ために 廃屋ともいえる室内のそこここに
 降りつむ 夢の骨灰
 悪臭とも芳香ともつかない偏執狂(パラノイア)
 「在ることとは、夢を放逐することかもしれない」
 一枚ずつ顔を剥いでゆく
 最後に 雷雨に打たれた犀の肖像
 
 かたわらのありふれた肘掛け椅子の「在り方」を模し
 からだを椅子状に曲げれば
 痙攣する筋肉のおくふかく
 黒い胞子
 そのすばやい侵入・夢精
 顔には
 石の仮面(マスク)が貼りついたままだ
 
 
 4.蒼い森
 
 塞がれた眼と眼のあいだに
 カシャリ 朝の洋杯(グラス)が隠れる
 昨日のままの寝台に 水時計の泡立ち
 いきなり
 骸のような言葉が起きあがる
 何体もの捩れた石仏がコンクリートの屋根を衝き
 虚空へと
 暗緑の腕を 挙げる
 欠けおちた耳を 投げる
 水錆を吹く影の群落
 向日葵の水平線のうえを航海する星を
 人間の貌を
 掴もうとして掴めないまま
 爪 四壁の汚れた余白に朱い掻痕
 絶えないのは「意識」の殺戮だけだ
 
 「過去」から「未来」へ
 起こったことのあらゆる残像が
 起こらなかったことのあらゆる想像が
 眼のまえの黄金(きん)の稲穂に燻銀(ぎん)の鎌を振りおろす
 だから この部屋の殻を割り
 鎌首をもたげる幾千の畸形の生命たち
 たとえば それは
 白い皿のうえ
 ピクリ 精液を噴きあげる赤鰯
 腐蝕してゆく短靴の底から垂れる 紅い舌
 それらを呑みこもうとする森
 
 影また影の歳月に
 踏み潰された隠花植物のしたで
 泥のように睡る欲望のかなたで
 息を潜める獣道つたいに
 蒼い森は 繁りだす
 さかまく樹海の息づかい
 風もないのに しぶく波
 骨の流木
 結晶状に生える樹木は
 気管支の股を空にひろげ
 神のいない時代の啓示を待ちながら
 立ったまま凍てついている
 「魂」という幻の伽藍に


 5.博物館のなかの沼
 
 時間を生け捕り
 時間を封印する鋼鉄の扉
 倒れてくるあるいは去ってゆく寡黙な夢の恐怖
 その前に裸身を晒せば
 扉の胎内ふかくに 崩れおちる水音
 扉を開く
 錆びついた蝶番の軋り音から 飛び跳ねる衣蛾のしずく
 死者たちの嘆きの声が
 次第に強く 次第に高く
 無人の博物館の内壁を駆けのぼる
 永久に翔ぶことのない剥製の鳥の叫びにもにて
 静寂はいつも全てを吸いつくす
 音という音を 時間の残滓を
 消せない汚点(しみ)のように
 
 敷きつめられた黒曜石の廻廊は凍結し
 その巨きな咽喉から吐かれる白い呼気・氷の焔
 ゆらゆらと壁に燃え立つ影
 天窓から無数の針が垂直に降ってくる
 この光の降誕祭
 仄かな光芒が放つ水煙に包まれ
 不意に浮きあがる蒼白い月影
 虚無の暈
 死化粧にもにた微笑が心臓のように脈打っている
 ここは時間の懐に沈む沼
 底からつぎつぎに現れる貌・忘却の相
 畸形の獣人や巫女たちの淫らな媚態に姿を隠し
 朱い闇の臓腑のあたりに 蠢いている
 
 
 6.羊水と水蜜
 
 入口から十数米の歩行ののちに
 廻廊は右へ折れる
 角(コーナー)の暗緑色の天鳶絨(ビロウド)の壁に
 吊された漆黒の石版画
 死顔(デスマスク)の彫像や陳腐な絵画の葬列のなかから
 瞬間 匂い立つほどの跳躍
 逃げ隠れする間に吸い寄せられる
 黒い画の唇より突き出され 弾ける夕焼いろの水蜜桃
 巧みに姿態を変えながら
 半透明の膜をめくる
 と 擂鉢状に抜けおちる世界の闇
 冥王星より押し寄せる細波の音が聞こえる
 
 いつの間にか廻廊は水であふれ
 歴史の底へと呑み込まれ
 画のなかの沼のほとりに佇む
 沼の面に朱い影を映しながら
 ここは何処
 叫びながら熟れた水蜜桃を貪る
 表皮の向こう側に在るもの
 果肉の中心に席とるもの
 一滴の生と無限の死
 ごおという音がして 羊水に溶ける
 廻廊は再び右へ折れる
 
 
 7.死の喜劇
 
 ささくれた描線沿いに迷路は始まる
 木瘤(脳から隆起した)のあたりで
 すでに解けなくなる天体
 負の時間を捲きあげるように惑星は廻る
 蒼い虚空の海原・燃え狂う空の中心に
 捩れたからだのまま 樹木は立つ
 千の枝々の風のめった斬り
 枝の脇腹に騙し絵風に嵌め込まれた髑髏の頭
 カラカラ不毛な果実・黒真珠の鈴生り
 微風のゆり籠のなかへ睡りおちる死
 
 ぐるりの森に幽閉された空の淵のあたり
 闇夜に花開く精霊たちが賑う
 花粉に濡れ
 首筋をすべり 肩から白み始める漆黒の沼
 犀の表皮のような皺で覆われた沼の面の水鏡
 そこに映る
 空 樹木 風景という風景は
 逆しまに墜ちてゆく 生の向こうへ
 天と地の透明な境界では
 呪われた生の一滴・一擲
 没落の凱歌を唇に 死神たちが円舞曲(ワルツ)を踊る
 沼は淫らな口・森の陰部
 円環的な生をそのまま呑み込む度に
 闇の子宮に銀河の墨流し
 彼方では
 水平線が虹のように隆起する
 
 
 8.黙した沼
 
 十九世紀中葉のフランスの版画家ロドルフ・ブレダン
 に 「死の喜劇」という題の石版画がある
 ブレダンの画集のなかに静かに眠っている漆黒の石版画
 描線を辿るように記憶の階段を降りて行く
 次第に浮き上がる沼の風景
 「死の喜劇」と『黙した沼』の夜と風景が溶け合い 解ける
 それから二十数年の歳月を経て『黙した沼』の最終章は書かれた
 擂鉢状に眺望する記憶の奈落に 漆黒の沼の風景は朧だ
 が からだのなかで『黙した沼』は未だに無言のままだ
 生死の輪郭や境界だけが 一本一本の描線を加える
 イマージュや比喩は殺がれ
 死という実在だけが迫ってくる
 からだのなかで それは一秒ごとに黒い描線をつなぎ 変える
 言葉は消え 風景は失われた
 風化し無彩色となった曼荼羅の砂絵が
 水のような流れの形象を消してゆく
 吹き荒れる風の行為の先端で
 断片とも点ともいえない事態が つぎつぎと起き上がる
 「喜劇」はまだ始まったばかりだ
 
 

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