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ソフィア工房コミュの秘してこそ、花

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 人間が、その内在する能力を最大限極めたとき、どのような状態になるのか、過去の人々の生き方の中から探ってみようとするのが、ここでのテーマです。

コメント(7)

 『秘してこそ花』…?

 ハラッチくんの日記に「花というもの」という条がある。花についての面白い観察だが、人間の花については、古くから伝わることばがある。

 「秘してこそ花」という言葉。記憶に間違いがなければ、世阿弥の『風姿花伝』(花伝書)に出てくることばだったと思う。「言わぬが花」とか「黙してこそ花」とか俗にいうことばも、ここから出た言葉であろう。

 美しい花とは、内に秘めてこそ花、外に顕わになっては、花ならず、ということのようである。

 幽玄な美しさは、秘してこそ現れる。外に顕わにした姿は、花ならず、まったく違ったものとなるということであろう。

 かつて日本女性は、「大和なでしこ」と喩えられ、心を包み込むように秘め、その幽玄な美しさは、外国人に絶賛されたものだが、今は、パッパカパーンと外にすべてを曝け出し、バカ丸出しを演じている。顕わになりては花ならず、を、地でいっているようなもので、女性としてよりも、人間としての魅力に欠ける存在になりおおせている。

 『風姿花伝』は、能の奥義書である。しかし、かつてこの国にあった日本文化の「美しき日本人」の姿を示す書でもある。
 『秘してこそ、花』…?

 女性の魅力は、そのたおやかさや麗しい容貌にあるだけではない。男性にとって、その心が押し包まれているように感じられるとき、『是非とも、彼女の心を覗いて見たい!』との希望を抱かせるところからくる。

 たおやかな体は、男性をして、その包む衣を脱がせ、生まれたままの姿を見てみたい、との願望を抱かせ、慎ましやかで秘められたように思える「心」は、その扉を開き、覗いて見たいという衝動を抱かせる。

 今、残念ながら、そのような願望や衝動を抱かせるような女性にお目にかかることがほとんどない。それだけ魅力に富んだ女性が少なくなったということであろう。

 『風姿花伝』に書かれている条々は、男女を問わず、人の魅力というものが、どのように形作られるか、ということを学ばせてもらえる格好の教科書である。
『秘してこそ、花』…?

 「秘してこそ花、秘せざれば花ならず」という『風姿花伝』(花伝書)の言葉は、元より能の真髄を伝えようとした世阿弥の言葉で、演劇論、演技論に当たるものである。

 たとえば、驚愕を表すのに、ワナワナ震えるが、大根役者なら、体を揺することでそれを表現するだろう。名人なら心を震わせることによって表現するだろう。達人なら、その人に成りきっていのちを震わせることだろう。

 秘してこそ花、という言葉は、私たちの人生すべてに言えることである。達人とは、信じることを、何の抵抗もなく、日常茶飯事のこととして行える人のこと。名人とは、意識してそれを成せる人のこと。その他は、信じることがあっても、それを努力しても達成できなかったり、口だけで行動が伴わなかったりで、言うことと行動が乖離している人々のことで、99.9パーセントが、その部類の人々である。

 人生の達人とは、言わずもがな、自分の信じる通りに生き切っている人のことである。

 若い人々は、先ずは普通に演じることの出来る役者になることを目指すべきであろう。次に、心を震わせることの出来る名人を目指すべきであろう。その上で、可能であれば、いのちを震わせることの出来る達人を目指すべきであろう。
 『秘してこそ、花』…?

 落語家に、五代目古今亭志ん生という人がおられた。昭和の名人と讃えられた人である。残念ながら、寄席で拝聴したのは一度きりでしかないが、その一度で、その人となりに魅了されてしまった。

 「落語」が着物を着、そこに座っている、と、感じられた。その人の一挙一動が落語そのものなのである。舞台に出てくるその姿だけで客は笑い、ざぶとんに座るだけで笑い、羽織を脱ぐ仕草だけで笑い、「エーッ」という第一声だけで笑い、その為すこと、言うことすべてに客が反応して笑うのである。

 その顔が落語そのものであり、体全体が落語であり、動きが落語であり、声が落語であった。『これは、名人ではない。達人だ…!』、と、感じ入ってしまったものである。

 客に面白おかしい話を聴かせるのが「噺家」なら、それを絶妙に演じるのが「名人」であろう。しかし、志ん生さんは、その落語を体化してしまっている人、落語を人生そのものにしてしまった達人であった。

 若い日から落語という芸道に打ち込み、その真髄を極めようとの思いを胸に秘め、精進してこられたのであろう。その努力が「顔」に、「体」に、「動き」に、「声」に体化し、志ん生という「いのち」が落語そのものに化してしまったのであろう。

 志ん生さんを、花に喩えることは出来ない。これほど面白い花などないからである。しかし、世阿弥の述べた「秘してこそ花、秘せざれば花ならず」という意味でなら、あまりに見事な大輪の「花」だったと言えよう。
 『秘してこそ、花』…?

 東大寺南大門の「仁王像」は、運慶、快慶作といわれ、余りにも有名なものだが、あのデフォルメされ、圧倒的な迫力で迫ってくる像も素晴らしいが、運慶の真骨頂は、「無著像」のような、その人物の内面を表出する作品にこそ、あるのではないかと考えられる。

 仁王像からは、その荒々しい「動」が感じられ、無著像からは、その内面思想の静謐、「静」が感じられる。

 無著の人となりは、この像を介して、どのような思想に到達し、どのように世の中を見、どのような生活を送っておられたのか、ということを想像させるに十分なものがある。なんとも凄まじいばかりの彫刻の力量である。

 無著その人の思想を理解していなくて、このような像が彫れるはずもなく、無著その人がどのような人物であったにせよ、運慶自身がこの「像」そのものであり、僧というものに何を求めていたかということを、形にしたのがこの「無著像」だったのであろう。

 今の世の中は、しだいに乱れが増幅してゆきつつある状態だが、とんでもない親たちが、学校を困らせているとすれば、軽薄才子たちが事態の解決策にもならないような処方箋をペラペラしゃべりまくって、一層、混乱の度を深めている。

 この国はもう、いのちに根ざさない軽薄なことばで変る程、甘い状態にはない。既に、末期的な症状を示し始めていると理解しなければならないのだから…。
 『秘してこそ、花』…?

 私が最も憧れる人は、「良寛さん」である。しかし、私には、憧れるだけで、資質の面において、とてものことに近づくことの出来ない存在、と、考えている。

 良寛さんという人は、すべてのものをそぎ落とした存在として、かつてこの地上で生活しておられた方である。

 子どもたちと戯れ、遊び、風月に親しみ、モメゴトには涙を流し、怒りを顕わにされることもなく、人々の尊敬を受けようとも、物事に拘ろうともされなかった方である。(ただ、怒られるのは、尊敬すべきものを愚弄する人間に対してだけである)

 「遊びをせんとぞ 生まれけん」などと詠まれている心も、私には、到底、到達し得ない境地だが、これほどまでに煩悩をそぎ落とすことが可能だ、ということの「モデル」として憧れるのである。

 煩悩具足の私などには、一休さんを目標にするくらいが関の山である。世の不正を怒り、嘲笑し、注意を喚起するためには、慣習を無視して行動を起こし、人間臭いことこの上ない人物である。

 『ガリバー旅行記』を著した「スウィフト」という人もキリスト教の僧であったが、一休さん同様、皮肉屋で、感情むき出しに行動した人物として有名だが、戦乱の世には、いつも、このような人物を排出するのであろう。

 良寛さんを仏さまに喩えれば、「観世音」に擬することができるが、一休さんやスウィフトは、「不動明王」であろう。怒り顕わな表情は、この二人の行き方に似合っている。そういう私も、この不動明王なのだろうが…。
 『秘してこそ、花』…?

 「江戸の職人」

 奈良県宇陀郡に『室生寺』というお寺がある。女人高野として有名な寺である。

 多くの方々がご存知だと思うが、ここに美しい五重塔がある。私は、日本一美しい五重塔だと思っている。

 女人高野と呼ばれる寺の五重塔だけあって、たおやかで麗しい姿をしている。このような塔を建てた職人の感性に舌を巻いてきたが、この塔は、創建当時からこのような姿だったのではなく、江戸の職人によって、このような麗しい姿になったのだという。

 江戸時代に大改修されるまでは、屋根は、もっと跳ね上がっており、瓦葺だったという。それを江戸の職人が、梁に切り込みを入れて垂れさせ、しかも、魚のウロコのような瓦屋根を、女性の膚を思わせる滑らかな桧皮葺に変えたのだという。

 江戸期の職人の、なんという感性か…! 塔の姿にさえ、女性のたおやかさと麗しさを入れ込むとは…!

 日本人の感性は、庶民をも含め、江戸期に完成したものかもしれない…。

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