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ソフィア工房コミュの心 臍 録 ・ 第1集(第1話〜第60話)

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(1).願・父権の復活! 1997.7.5

 ‘父性の復権’(中公新書)という本が売れているという。父親不在の社会にあって、何をしてはいけなくて、何を為すべきなのか、という規準を、今の子供たちは持ち合せておらず、ナンデモアリの世代が形成されつつある、という。これでは社会秩序が維持できなくなる可能性もあると…。

 電車の中でも、お行儀の悪いヨソの子の頭を叩くガンコオヤジ絶滅。

コメント(60)

(22) 遊びとしての組み上げ 1997.7.11

★戦後52年、今、ガチガチに固まった精神状況は崩さなければならないとしても、そこに思想的な体系があるというのではない。むしろ、無い状態が永く続いたが故に、今日の混乱状況を呈していると云えよう。

★その点からすれば、崩すと云うよりも組み直す、と、云ったほうが良いのかもしれない。戦後、一度も試みられたことのない作業を、遊びとして始めたら良いのだろう。

★思想の再構築は無意味だと主張する人々もいるが、それを言っている暇は今の状況には無い。現状を正確に捉える作業から始めて、それを乗り越える概念を再構築する必要があろう。

★もし、国民が最悪の事態をも覚悟しているものなら、ゆるゆる遊びとしてやれば良い。一から積み上げていく作業は、それなりに面白い遊びだろうから…。
(23) 遊びと根気(粘り)について 1997.7.11

★砂山一つ作るにしても、根気は必要である。一般的に今の子供たちには根気が無いと云われるが、それも事による。子供たちが遊びで見せる集中力と根気には目を見張るものがあるし、彼らの根気を奪っている原因は別にあると考えた方が良いであろう。

★遊びは本来、自分のやりたいことをやりたい時にやる、ということである。今の子供たちが集中力を失っているのは、彼らに遊びが与えられていないからである。

★遊びの中から好きなことを見つけさせ、好きなことを続ける中で、根気と粘りを身につけさてゆけば良いのではないだろうか…。

★神戸の殺人事件を取り上げるまでもなく、すべての子どもがぎりぎりの瀬戸際まで追い込まれているのだ。子供たちを、このよな事件で失うより、勉強は出来なくても、正邪善悪の判断の出来る伸びやかな'こども'本来の姿に戻してやろうよ! その為にこそ、子供たちを大人の手から解放してやろうよ!
(24) 破壊と構築 1997.7.11

★現在の技術をもってすれば、愚公の山を移すことくらい朝飯前のことであろう。破壊も同じ事である。しかし、構築となると、今でも集中力と根気の要る仕事であることに変わりはない。

★戦後、怒涛のごとく流れ込んできた思想の洪水の中で、日本人は我を忘れ、思想を見失ってきた。それは、外部の力による破壊であり、自ら進んで為したものではない。それだけに、誰も責任を取ろうとはしないし、放置されたままの状態で今日に至っている。

★思想の破壊された状態は、戦災や大震災とは異なり、誰の目にも触れることはない。又、物とは異なり、躯の病と同じように、目に見えずに進行して、ある日突然発病するものである。日本人の心の病は、50年かけて進行し、発病した。

★再び構築することは可能だろうか? 何故なら、心の病は躯の病と異なり、ほとんど本人が自覚することがなく、対応が遅れることが多いからだ。

★心の病の治療は、本人が自覚することから始まる。しかし、現在の日本人のほとんどが、自分の心が病んでいるとを自覚していない。

★日本人としてのアイデンティティーを確立するためには、日本人全体の心が病んでいるとを自覚することが出発点である。
(25) 悲しみと絶望について 1997.7.11

★恋人を失った悲しいお手紙を受け取った。いつもカウンセラーとして、人の悲しみや苦しみの相談にのっているが、人との別れほど悲しいものはない。それをどのような言葉で慰めればよいのか…?

★愛する者を失うことほど、人生の痛みを覚えるものは他にはない。それにどのような言葉をかければよいと云うのか…。いつも相談に与りながら、言葉が見出せない。

★人は、一人では生きてゆけない。どれほどおとなしい人であろうと、どれほど無口な人であろうと、どれほど剛毅な人であろうと、又、老若にも関係なく、人は人を愛さずには生きられない。密かに愛していようと、誰の目にも明らかなように愛していようと、愛する人がいてはじめて、生きている幸福を感じることが出来る。その愛している人を失った時…。

★人はどうなるのだろう? 悲しみ、嘆き、苦しみ、悔やみ、それでも愛する者は戻らない。戻らないことが分かっていても、心の痛みが消える訳ではない。ある者は狂気のようになって泣き叫び、ある者は暴力を振るって荒れ狂い、それでも、愛する者が戻らない時…。

★むかし、むかし、私がカウンセリングという言葉も知らなかった頃、一人息子を亡くした御夫婦がおられた。その御主人が御相談にみえたことがある。四十九日も過ぎたというのに、奥さんの号泣が止まらず、病気になってしまうのではないかと心配してのことであった。

★今でも非力だが、当時はもっと非力で、御相談にはのったものの、何の力にもなれなかったことを憶えている。その奥さんは、後に、呆けたようになられ、痛ましくて見ておれなかったが、やがて宗教に帰依されて、心の平安を取り戻されたと聞く。

★宗教とは、絶望に始まるものなのかもしれない。この世では、再び巡り逢うことの出来ない人に、信仰を通じてまみえ、語りかけ、心を通わすことが出来るのかもしれない。
(26) 現実と仮象(バーチャル・リアリティー)の世界 1997.7.11

★若いジャーナリストの中に、バーチャル・リアリティーを新しい文明の萌芽と観ている者がいる。確かに何かが生まれそうな予感はするが、反面、とんでもないことが起こりそうな不安にも駆られる。

★テレビが家庭に入り出した頃、故大宅壮一氏が「一億総白痴化」なる発言をして物議を醸したことがある。視覚にばかり働きかけるメディアは想像力を奪い、判断力を養わない、との主張だったように記憶している。

★テレビは仮象の世界である。街ですれ違った人や、初対面の人に、どこかで会ったことがあるような印象を持ち、一所懸命思い出そうとして、それがテレビに登場する人物だったという経験は、誰でも一度や二度あるはずである。テレビという仮象の世界が、意識の中で現実を凌駕している例である。

★現実から受け取る情報量とテレビから受け取る情報量が、バランスの取れたものであれば良いのだが、それが崩れた時、意識から「現実」は追い出されてしまう。

★かつて、連続幼女殺人事件の宮崎勤という青年がいた。ビデオテープを何千本も持っていたというが、もし、それらのほとんどを観たと仮定すれば、現実と接触する時間を、まったくと云って良いほど持ち合わせていなかっただろう。その結果、意識から現実が後退して、ビデオの世界に占領されてしまったのであろう。その帰結としての幼女殺人事件…。

★バーチャル・リアリティーは、テレビやビデオを遥かに越える。その中にドップリ浸かった青少年の中から、どのような怪物が現れてくるのだろうか…? 「一億総白痴化」ならぬ、「一億総狂気化」の恐怖がよぎる。
(27)生命から遊離することについて 1997.7.11

★テレビからビデオへ、ビデオからゲームへ、ゲームからバーチャル・リアリティーへ、と、仮象の世界が、しだいにマスから個人に移行してきている。個人が、この仮象の世界にはまり込むと、個人ゆえに、誰も止めることが出来ず、深みにはまってしまう危険性が高くなる。

★又、仮象の世界は現実ではない。昔、小説や文学に傾倒している青少年のことを、文学青年、文学少女と呼んで、現実から遊離した青少年の代名詞としたが、今は、その呼称も懐かしい。

★人は、自然と生命から離れるにしたがって、現実感覚を喪失する。バーチャル・リアリティーに親しんだ子供たちは、ほとんど現実感覚を失い、現実を認識する能力さえ奪われてしまう危険性を孕んでいる。

★人間が生命から成り立っており、自然からの贈り物である生命を食物にしている、という事実を忘れる時、一体何が起きるのだろうか…?
(28)生命を感じる時 1997.7.11

     …断食行について

★リョーマ・メールの若者たちが、断食行を近く行うという。オモシロイ…!

★断食は、最も簡単に、自分が動物であること、そして、食物という生命に支えられていることを、実感させてくれる行為である。

★初日、二日目は誤魔化しが効く。しかし、三日目の晩は誤魔化しが効かなくなる。食べ物以外のことは考えられなくなってしまう。

★数人で、介助者がいる場合なら別だが、一人で、しかも山の中などで行っている時には、恐怖心も発生する。これを克服することが、なかなかの難物である。

★四日目に入ると、睡魔が襲ってくる。どんなに緊張していても、又は、般若心経を唱えていても、眠り込んでしまうらしい。夢を見るのである。幽霊やお化けや仏さんや観音さんが現れるのである。

★本人は起きているつもりだから、幽霊を見た、仏さんを見た、お化けを見た、観音さんを見た、ということになる。私などは、はしたないから、好みの女性が一糸纏わず現れなどしてくれた。

★四日目以降、空腹はむしろ楽になるが、しだいに体力が衰えていくことに不安を覚えるようになる。私の場合には、七日目に不安が恐怖に変り、ダウンした。

★その時食べた重湯のおいしかったこと、天下の美味も物の数ではない。それと、麓の村へ下りて行って驚いた。天女にも見まがう美女ばかりなのだ。それも、幼女から老婆まですべての女性が、である。

★この山に、再び登るチャンスが訪れた時、喜び勇んで、この村からのコースを辿ったものである。ところが、どうしたことか、その日は美女がお隠れになって、ブスの解禁日であった。この理、お分かりになるかな……???!!!
(29) 女性の相貌の変化 1997.7.14

★最近、通勤途上に感じられることなのだが、女性の顔の相が、この十年ほどの間に激しく変化してきたように思われてならない。データーがあるわけではないので、私だけの思い込みなのかも知れないが、全体的に険しくなってきているように感じられる。すれ違う女性たちを見ていると、日毎にそれが深まってゆくようである。

★もちろん、逆に幼児性丸出しのアホ顔も多くなっているが、険しくなっている人は、多分、物事を深く考え、男と肩を並べて仕事でも張り合おうとする女性に多いのだろう。

★良い悪いは分からない。しかし、苦しんでいる人が増えていることは間違いない事実であろう。ノイローゼ、神経症、躁鬱症、その他、様々な症状が働く女性に多く現れるようになっているのだから…。

★原因が何によるのかは分からないが、権利意識が高まり、それを主張することによって、対立が生じ、そこから多くのストレスがかかるようになっていることだけは間違いないようだ。これまで女性が置かれていた立場から、少しは改善されたかもしれないが、それだけ圧力も増加していると考えられるし、不用意な発言も多く見られる。

★権利意識が増大し、権利を主張すればするほど、衝突も多く発生する。そのことを自覚し、覚悟して発言するのが社会人としての義務であるが、それを女性ゆえの差別、と、短絡的に考えるとすれば、それは女性特有の甘えだ、と、批判されても仕方がない。たとえ男性であるとしても、企業内で権利を主張すれば、大きな抵抗に遭うのは必然なのだから…。

★私自身、男性ではあるが、徒弟制度のような日本社会に反発して、どれほどの会社から排除されたことだろう。今の企業社会においては、社内で堂々と上司を批判することなど、退社する覚悟が無いかぎり不可能である。ほとんどの男性がそれゆえ我慢して発言しない。

★企業社会の経験の長い男性でさえそうである。その立場を最近になって認められ始めたばかりの女性が同じことをしたら、男性の同僚からも反発を食らうし、社内全体からどのような攻撃をうけるかしれない。

★権利は、主張し、闘い取るものである、と、いわれる。女性が、企業社会の中で、肩を並べて地位を獲得しようとすれば、摩擦と衝突からくるストレスで、女性の表情が険しいものになるのは当然で、当分の間、それが女性の顔から消えることは期待出来ないだろう。
(30) 失われた安心感 1997.7.14

★私たちが安心して自動車を運転出来るのは、対向車も私たち同様、普通の常識を弁えた人物が運転しているものと思い込んでいるからで、相手が、薬物中毒や酔っ払いかもしれない、と、想像しただけで怯えが出て運転出来なくなるだろう。

★私たちの社会もこれと同様で、何とはなしにこうあるのが当然との思い込みで成り立っている。それを私たちは、社会通念とか、常識とか、慣習とか呼んでいる。

★今、私たちが当面していることは、明治以来続いてきたものが敗戦で一端混乱し、しだいに腐敗してきたものが、ここにきて、どうにもならない状況に追い込まれていることを、認識し始めたことにある。

★年を追って悪質化する経済事件とその頻発、政治家および官僚による腐敗・堕落した政治、それらは、日本の支配層への暗黙の内の尊敬の念を打ち砕き、それらに関る人々へのウサン臭さと不信感を醸成してしまった。その上、殺人事件や猟奇事件の頻発は、国民相互の「日本人というのはこんなものだ…」という思い込みからくる安心感さえも奪いつつある。

★通念、常識、慣習などという思い込みが、社会を平安の内に過ごさせる要因であるとすれば、経済至上主義の通念が崩れ、日本人自身への安心感も失いつつある今日、明治維新、敗戦についで、三度目の大きな変革期を迎えていることになるのだろう。
(31)時代認識というシンドイ作業 1997.7.15

★世の中の流れをどのように観るかは、その人の育ち、その人の受けた教育、その人の現在置かれている状況、などによって大きく異なるだろう。しかし、多くの場合、実体験の不足と知識(読書量)の不足が主な原因である。

★現代という時代を捉えるためには、近代史を自分なりに捉え直してみる必要がある、が、この作業も結構シンドイ仕事であるため、評論家やジャーナリストと呼ばれる人々でもやっていない人が多い。教育にあたる者も当然身につけているべきだが、今の教師のほとんどにその自覚さえ見られない。現状を理解出来ず、未来を展望出来ずに、どのような教育をしようというのだろうか、はなはだ無責任な態度と言わざるをえない。

★人を育てるという仕事は、シンドイ仕事である。責任の重い仕事である。その人の一生を左右する恐ろしい仕事である。生命と生命が対峙する真剣勝負の仕事である。そのことを、教師たちは、親たちは自覚しているか…? もし、自覚しているとすれば、時代認識を持とうと必死になって当然であろう。

★口では、教育者の責任、親の責任などと云っているが、真に、子どものこと、子どもの将来のことを考えているのなら、必死になって現状の社会を捉えようとする筈である。シンドイ、メンドクサイ、イソガシーテヤッテルヒマナイ…。馬鹿イッテンジャナイヨ、酒飲んだり、テレビ観たり、ゴルフしたりする時間はいくらでもアルジャナイノ…!

★現代は、シンドイこと、汚れることを厭う風潮にある。シンドイことは誰かがやってくれる、汚いことは誰かに任せよう、と、誰も手を出そうとしない。その間にドブは腐り、悪臭を撒き散らす。今、起きていることは、そういうことだと何故気付かない。アホウというより仕方がない!

★シンドイこと、汚れることを厭う人間は信用出来ない。何故なら、人生のピンチに陥った人を救うことは、多くの場合、苦労と汚名を共にすることになる。それに手を差し伸べるような者のみ、信ずるに値するのだから…。

★時代を捉えるという作業、ルネッサンス以降現代に到るヨーロッパの歴史、と、国内の明治以降の歴史の概観を捉え直してみるという作業は、結構シンドイ作業である。しかし、そのシンドイ作業に汗を流さない限り、人の親にも、人を教育する者にも、なる資格は無い。
(32)汚れること、シンドイこと 1997.7.15

★誰でも、汚れること、シンドイことに取り掛かる時には、ヨッコラショと声を掛けないと、なかなか立ち上がれないものである。しかし、生きて行くためには、どうしても必要な作業と諦めて行っていることが多い。

★現在、世の中が示している兆候は、これとはちょっと趣が異なる。なにしろ、少しでもシンドイこと、汚れることからは、逃げよう、避けよう、と、身構えているとしか思えない行動を取る人々が余りに多い。

★電車で、我先に、と、座席を奪いに行く若者を見ていると、この者たちと一緒に生きたくない、と、感ずるし、嫌悪感さえも湧いてくる。つい、きつい言葉の一つも出てくる。

★何故、若いのに無様な席取りなどに走るのだろうか…? 何故、少しの楽をするために、老人がいることも無視して、我先に席を奪えるのだろうか…? どこかに精神の歪みがあるとしか考えようがない。

★一時、アサシャンなる言葉が流行った。これは、不潔感を嫌うあまり、自分の身体をも極度に清潔に保とうとする神経症の一種である。

★シンドイことを嫌い、汚れることを厭い、物事を根本的に考えようとせず、義務さえも理解していないとすれば、人間の皮を被った獣としか言いようが無い。このような者たちが何故大量に発生したのか…?

★学校は勿論のこと、家庭にも地域にも問題があるに違いない。そして、人として在るべき姿を、いずれもが教えていないのだろう。

★人間は動物である。その動物である人間が生きて行くためには、食物が必要である。食物は、農作物(植物という生命)か他の動物が産んだもの、又は、その動物自身の身体である。誰かがそれを生産し、誰かがそれを加工し、誰かがそれを運んでくれているのだ。それらの行為は、すべてシンドイ仕事だし、汚れる仕事でもある。それを厭い、毛嫌いするとすれば、これに従事する人々を軽蔑する感情を抱いている、と、見て間違いなかろう。そのような者に、これら黙々と働いてくれた人々の提供物を食べる資格はないし、生きる資格も無い、と、言わざるをえない。
(33) 教育という行為 1997.7.15

★戦後、最も失敗したものは、教育だ、と、「風の谷のナウシカ」など素晴らしいアニメ映画を制作している宮崎駿氏が発言していたとのこと。(7月14日・ニュース23) 現在の混乱が、教育の失敗だけから生じているとは思えないが、教育にもその一端の責任はあろう。

★人間は、生まれたままでは人間に成り得ない。子どもを自由に遊ばせておけば、伸び伸びした良い子に育つ、などという妄説をばら撒く輩がいるが、子どもを自由放任にしておいて、「人間」に成長するのなら、これほど楽なことは無い。まったくナンセンスな意見と云わざるをえない。

★人間は生まれる時、他の動物とは異なり、自分では何も出来ない無力な状態で誕生する。その瞬間から、周囲の大人の手厚い看護を要する存在である。赤ちゃんに出来ることはただ泣くことだけ。それを優しく、温かく、包み込むように世話してやれるかどうかで、その子が世界を信用し、伸びやかに成長してゆくかどうかは決定してしまう。

★周囲の大人の優しさ、温かさを伝え、悟らせた上で、この世で生かされるための節度を教えてゆくことが出来る。今の子供たちに欠けているのは、この点の教育である。

★温かさ、優しさは絶対条件だが、それだけでは、単なる我まま者になってしまう虞がある。節度を教えるのに、子供たちに恐れや僻みの感情を抱かせずに行うことは、非常に難しい。しかし、人の親となった限りは、為さなければならない行為である。その後、譲ること、受け入れること、誠意を持って人に接すること、以上のことを実現するためには、生活技術や生活知識などの実力が必要なことを悟らせること、ここまで揃って人に信じられる、ということを順次教えてゆくことである。又、十才にでもなれば、農作業や家畜の世話をさせることによって、自然への畏敬の念と生命への感謝の念を、子供たちの心の中に醸成することである。

★7月15日午前1時のリョーマ・メールで、ヤマギシ会の増田という青年がそのことに触れた具体的な事例を報告してくれている。おもしろい手紙、ありがとう、増田くん。
(34) 概念は必要か…? 1997.7.16

★哲学者オルテガの言に従えば、近代合理主義の最大の弊害は、「慣習」を破壊してしまったことにあると云う。慣習の中には、暗黙の内に認められた多くの「概念」が含まれている。それを近代合理主義は、疑うか否定することによってすべて破壊した、と。

★日本でもそうだが、敗戦までは多くの慣習を持っていたし、その中に多くの概念を含んでいた。たとえば、「お天道さまの下を歩けない…」「御先祖さまに申し訳が立たない…」「世間さまに顔向け出来ない…」などの言葉や葬祭・冠婚、家制度、天皇制などの形で…。

★それが善いか悪いか、正邪善悪を言っているのではない。それらが、人々の考えの中で、何が一般的に信じられているかという「通念」ないしは「常識」を形造り、判断の規準になっていたことが重要なのである。

★それらが在る場合、本人が信じているか否かに関らず、何か行動を起こそうとする時、世間がどのような反応を示すか計算し易かったであろう。今は、その規準が無いことに問題があるのだ。

★個人が、成長すると共に次第にこの世界の概念を形成していくように、人類も、永い歴史の中でこの世界のことを概念形成してきた。ところが、近代合理主義はそれを疑うか否定せよ、と言うことによって、せっかく人類が永い時間をかけて形成してきた概念(智慧)を引き継げないものにしてしまったのだ。ここに問題がある。

★個人が、赤ちゃんから成長してゆく過程でしだいに周囲を認識し、おおよその概念として物事を捉えていくように、人類も、永い歴史の中で人類共通(民族共有)の概念を形成してきた。これを、近代主義は破壊してしまったのである。

★個人に、生活して行くための「おおよそ、こんなものだろう…」という物事への認識が必要なように、集団においても、たとえ、それが真理でないにしても、共に行動するための「おおよそ、こうなのだ…」という共通認識は必要である。それが、今は無い。

★何が正しく、何が善いことなのかを判断する為には、正邪善悪を示す集団共有の「価値規準」がなければならない。ところが、今の日本にはそれが無い。

★ポスト・モダニズムが主張するように真理ではないかもしれないが、戦後日本社会から消失してしまった「慣習」や「通念」に代わる新しい共通概念を、おおよそのところで良いから早急に作らなければならない。そうしなければ、事態は、ますます悪い方向へエスカレートして行くだろう…!
(35) 共通の概念形成と慣習化は可能か…? 1997.7.17

★共通概念が必要であるとしても、様々な思想が氾濫し、種々雑多な考え方が横行する中で、果して、共通の概念形成はできるのだろうか。

★戦後、52年の間に、様々な団体が形成され、それぞれ独自の思想・信条を固め、それを互いに譲ろうとはしない。それぞれが、個別のピラミッドをつくり、それぞれお山の大将を戴いている。

★阪神大震災の際にも、地下鉄サリン事件の際にも、今回の小学生殺人事件においても、これらピラミッドの長たちが纏まって行動を起こすということはまったく見られない。それぞれが、戦後の長い経済成長に慣らされて、深い眠りに落ちているかのようである。

★震災が起こり、サリン事件が発生しても、朦朧とした頭には、事態が正確に理解出来ないらしい。眠りマナコをいくら擦っても、栄華を誇った身には事態の深刻さがピンとこないらしい。当然のことであろう。ピラミッドのトップでなくとも、その底辺の者ですら、あの地獄の大震災のさなか、同胞の苦しみを余所に、パチンコに興ずるという感性のずれこみを起こしていたのだから…!

★ましてや、ピラミッドの長ともなれば、まったく底辺のことは理解できず、その感性のずれこみは、甚だしいものがあろう。それを責めても何も始まらない。

★今、志ある者が為さなければならないことは、彼らを責めることではなく、いかにして共通の概念を形成するか、いかにして、それを社会慣習として根づかせるか、ということにある。

★勿論、ピラミッドの長たちやそこから利益を受けている手先たちからは、猛烈な攻撃を受けることを覚悟しておかなければならない。しかし、それも時間の問題である。いくら眠りマナコだからといって、足元に火がついたら目覚めるだろう。火はもう、そこまで来ているのだから…。

★共通概念を形成する為のコンセプトは、「自然」「生命」「人間」「社会」そして「個人」の五つである。これら五つは、どのような宗教でもその教義の中に含んでいる筈で、それほどの齟齬があるとは思えない。この地球を取り巻く宇宙をどのように考えるか。地球と太陽の関係をどのように考えるか。太陽の光を浴びた地上で生命が誕生したことをどのように捉えるか。その生命の系の中から誕生した人間をどう見るか。人間がつくる社会をどう見るか。その社会で生かされる個人をどう見るか…。

★これら五つのコンセプトを、可能なかぎり簡単な言葉で要約し、共通概念とする。その上で、いかに浸透させて行くかである。もし、これらが可能となり、5年、10年経てば、社会慣習として定着する希望も湧いてくる。
(36) 慣習の力とはたらき 1997.7.18

★私たちの生活の多くは、習慣によって成り立っている。行為の一つ一つを吟味しながら行っている訳ではない。又、一々吟味していたのでは、生活出来なくなってしまう。

★朝、起きて、何故、顔を洗うのか…? 何故、歯を磨くのか…? 何故、髪をとくのか…? 何故、布団を上げるのか…? 何故、学校(会社)へ行くのか…? なぜ、なぜ、なぜ……?

★すべての行為に疑問をもち、それを考えだしたら行動できなくなってしまう。一般的に思春期から青年期にかけて、この問題に直面する。

★答を簡単に見つけることの出来るものもあり、そうでないものもある。青年期に陥りやすい疑問で、『人間は何故生きているのか…?』という疑問がある。解答の出ない疑問…。空回りに終わる疑問…。しかし、人生にとって大切な疑問…。

★ほとんどの人々は、どこかで覚悟を決める。『これ以上考えても仕方がない』、と腹をくくる。一部の人のみが、いつまでもしつこくこの問題に関り、そこから抜け出せない。そのような人々の中に、哲学者も神経症患者も含まれる。

★社会慣習として、「こうせよ」、「ああせよ」、というものがハッキリしている場合には、ほとんどの人々は迷わない。自分の生活の中にそれを取り込み、習慣化すれば良いだけだからである。

★戦前の体制が良かったとは思わないが、現在より多くの概念を持ちあわせていたことは確かで、「義理」「人情」「恩義」「忠」「孝」「長幼の序」「徳」「まこと」「恥」「外聞」「恩を返す」「世間の目」「名を汚さぬ」「笑い者にされる」「汚名をすすぐ」「修養」「鍛練」など、思い付くだけでも、社会に通用していた多くの概念があった。これらは、家制度および天皇制に結びついていたもので、現在では肯定することの出来ないものも多いが、これらの存在は、多くの人々に現在のような混乱を与えずに済んでいたようである。

★私たちが暮らす現在の社会は、これらに替え、民主主義、自由、平等、人権(幸福追求の権利)、博愛、などの概念を提示しているが、個人の生活の指針になるものを含んでいないし、「自由」は勝手気侭(我侭)に脱し、「平等」は「人権」の概念と結びついて権利の主張のゴリ押し、と、強請・タカリに脱し、「博愛」は得体のしれない優しさに脱している観がある。

★復古主義者のように、昔に戻すことは考えられない。しかし、個人が目指すべき「人間像」は、提示されてしかるべきではないか、と考えられるのである。その上で、それが世の中の「慣習」となっていくなら、多くの子供たちが救われることになるだろうし、多くの神経症の人々も救われることになろう。
(37) 「人間像」形成の条件 1997.7.22

★共有概念としての「人間像」を形成するためには、その前に、自然、、生命、人間、社会、個人、それぞれの概念をはっきりさせておく必要がある。又、個々の関係をもしっかり捉えておく必要がある。

★ラフ・スケッチでこれらを描くとすれば、「自然」とは私たちが捉えることの出来ない広大なものだが、私たち人類に直接関係のある天体は、太陽と月と地球である。地球は、一日一回転し、太陽の周りを365日(1年)かけて回り、その地軸が23.4度傾いているために、一年を四季に分かち、植物もその移ろいに従う。春には芽吹き、夏には成長し、秋には実り、冬には枯れる。「生命」は、太陽の光によって育まれ、そのエネルギーによって活動する。と言うことは、生命の活動はすべて、太陽の光エネルギーによって支えられていると言えるし、「生命は、光そのものだ」、とさえ言うことが出来よう。

★地上の生命現象は、「太陽を父とし、地球を母として誕生したもの…」、と、たとえることが出来るだろうし、父からは活動のエネルギーの提供を受け、母からは体をつくる材料の提供を受け、生命は生成する…。その生命の系の中から人類は誕生した。

★人類の誕生がこのような背景によるものとすれば、人間が自然の法則にも、生命系の摂理にも、影響されるのはごく自然のことで、これに抗おうとすれば、大変なエネルギーを消費しなければならないことになる。

★ロケットを地球の引力圏外へ打ち上げるのも大変だが、大都市を形成し、これを維持するために消費されるエネルギーも膨大なもので、そのために、自然環境もより汚染されることになる。

★「人間観」、又は、「人間像」を形成するためには、これら自然と生命と都市をキーワードとして考えなければならないだろう。
(38) カウンセリングについて 1997.7.23

★奈良の女子中学生略取(殺人?)事件の犯人が、今朝未明、逮捕されたという。この事件といい、宮崎勤という青年による幼女殺人事件や神戸の小学生殺人事件といい、青少年の心の荒廃は、世間の常識を遥かに超えているように見える。

★「慣習の力とはたらき」の中でも述べたように、慣習としての社会規範がある場合には、それを認めるか、反発するかは別としても、青少年は自分の位地を確認し、自己を確立する手段を手にすることが出来る。そのため、大きな心のブレを起こさずに済ますことが可能になる。

★しかし、今、関っている子供たちに見られるのは、彼らに慣習のはたらきが作用しておらず、その力に守られていないことで狂いを生じさせていることである。上にも述べたように、今の日本社会に少しでも慣習が残っていれば、子供たちもその中から自ずと学んで行くだろうが、その慣習がまったく残っていないことに問題がある。

★カウンセリングは、精神的に異常をきたしてから始めることが多い。しかも、精神的な平衡を崩してからでは、元に戻すのに膨大な時間を要するし、一人一人の対応であるため、人数もごく限られたものになる。これでは、現状に対応出来ない。

★現在、各地域にカウンセラーを配置する動きがあるようだが、少々の人数を配置しても、物理的に不可能だし、カウンセリングという行為が、発症してから事後的行われるものであるだけに、ほとんど無意味と言わざるをえない。
(39) 社会カウンセリングについて 1997.7.24

★現在の日本社会の状況が、一人ひとりのカウンセリングでは間に合わないことを示しているとすれば、是非とも社会全体をカバーするようなものを作らなければならない。しかし、それをどのようにして作ればよいのか…? それができなければ、現在の社会が示している症状に対応することは出来ない…!

★もし、それを社会カウンセリングと呼ぶなら、どのようにして日本社会全体に網がけするか、日本人全体の心の在りようがどのようなものであれば良いのか、そこから検討を始めなければならない。

★国も、阪神大震災をきっかけとして、「地域」の重要性に気付き始めたようだし、今回の小学生惨殺事件で一層その観を深めたようである。しかし、国の考える「地域」は、余りに広域過ぎるように感じられる。庶民感情からすれば、又は、生活実感からすれば、「地域」とは、顔を憶え、挨拶を交わせる範囲、つまり、300戸〜500戸くらいの居住空間のことである。その庶民感情からくる「地域」で何が出来るか、ということが問題なのだ。

★「地域」と言っても、現在では、祭や子供会など一部の繋がりと活動は残っていても、各家庭がバラバラに孤立している状況にある。これでは、現在進行形で進んでいる「心の崩れ現象」に歯止めを掛けることは出来ない。それに危機感を抱いた全国のボランティア団体や地域団体がすでに活動を始めている。

★「地域」にどのような機能が必要なのか、そして、それをどのように達成してゆくのか、今、それが真剣に問われ始めているのである。

★「地域」としての子どもを育てるビジョンの構築と実現、「地域」としての病人と老人を抱える家庭への支援システムの構築と実践、今、全国の多くの地域で、意欲的な実験が始められている。是非とも成功してもらいたいし、それらが相互に連絡を取り合い、ネットワークも構築していって欲しいと考えている。私自身も、「地域」を通じて、それに参加するつもりである。
(40) 地域と子供たち 1997.7.24

★ちょうど3年前の今頃、私は、子供たちの指導で疲労困憊し始めていた。くる日もくる日も、子供たちが引き起こした事件処理に追われ、しだいに、疲労感と厭悪感に囚われ始めていた。

★何故、事件をつぎつぎ起こすのか、その原因が分からなかった。何が子供たちを突き動かし、このようなことを引き起こさせるのか、その状況が理解出来なかった。ただ、つぎつぎに発生する事件の応急処置に追われる毎日であった。

★翌年、子供たちのために、何か手を打ってやらなければ、と考えているところへ、あの阪神大震災が襲ってきた。生死の懸かる問題が発生した場合、ことの如何を問っている暇はない。1月18日から神戸に入り、80余日、支援活動に関わることになった。その間、子供たちのことは横に置く結果になったし、支援活動終了後も、ボーっと気抜けした状態で日を送ってしまった。

★今、考えれば、阪神大震災そのもの中に、子供たちの乱れる原因とその解決のための解答も、社会混乱の原因とそれを解決する為の解答も、すべてあったのだが、その時は残念ながら理解し得なかったし、気付きもしかなかった。

★地域、それもほんの小さな範囲の地域に、互いに助け合えるシステムが無いと、あの大震災のようなクライシスの際には、すべての人を烏合の衆と化してしまう。被災地・神戸には、ほとんどの町に町会すらなく、横の繋がりがまったくと云ってよいほどなかった。それが被害も死者も拡大させた大きな原因であろう。

★裏返せば、神戸では、「個人主義」の考え方が根づき、一人ひとりに自己責任の感覚が徹底していた、と、云えなくも無いが、被災直後の放心状態からは、個人主義の厳しい自己責任原則を身につけ、日頃、それを実現するための鍛練を行っていたとは思われない。

★しかし、市民にそれを求めることは間違いなのかも知れない。国を代表する首相も地方自治体の長も、クライシスのシミュレーションさえ描いていなかったようだし、まして、それによる自己鍛練など思いもしなかっただろうから…。人の命と財産と運命を預かっている自覚のない長が、不幸にも、その時、国も地方もその座を占めていたのだ。

★あのクライシスの数日間、最も活躍してくれたのは、普段、疎外されている茶髪にピアスのニーちゃん、ネーちゃんたちだったのだから面白い。このようなクライシスに際しては、社会的地位や知識や外見ではなく、どれほど現実感覚があるかが問われているようである。

★又、同じことは、駅前での街頭募金でも表れた。通学する小学生から二十歳前後の若者たちにいたるまで、一人残らず募金に応じてくれたのに対し、スーツ姿の一見紳士風・淑女風は、ただニヤニヤ笑って通り過ぎてゆく者が目立った。

★これらのことは、多くの示唆に富んでいる。子どもの事件であるとしても、しっかりしなければならないのは、むしろ大人である。大人こそしっかりした価値観を持ち、新しい町づくりを始めなければならないのだ。
(41) 地域と大人たち 1997.7.25

★今の私たち大人の世代は、一体どうしてしまったというのだろうか…? これほど子供たちが異常な行動を取り始めているというのに、何も手が打てないというのだろうか…?

★何をためらっているのだ…? 何を怖れているのだ…? もう、時間は無いというのに…!

★昭和30年代、高度成長期の波に乗って、鉦や太鼓の鳴り物入りで地方から駆り出された「金の卵」たち、それが今、五十才代に突入している私たちの世代だ。

★どうしてこんな世の中になってしまったんだ…? どこで狂ったんだ…? 何が間違っていたんだ…?

★三十年代の高度成長を支え、日本社会をここまでの経済大国にのし上げてきた「立役者」…? だが、経済的なものは手に入れたが、自分自身も含め、日本人という人間を駄目にしてしまった世代…! そうではないのか…? 自責の念はないか…?

★何故、もっと早く気付かなかった…? 何故、もっと真剣に流れを変えようとしなかった…? 一人の力では…。そう、一人の力ではどうにもならない、と思ってきた…。本当にそうだったのか…? 本当にそう信じていたのか…?

★国全体を変えることは出来なくとも、町や地域で出来たのではないか…? 町や地域を、今よりは少しでもましなものに出来ただろう…? そう思わないか…? それと、議員の選出でも、地方行政でも、もっと積極的に行動出来たのではないのか…?

★どこかに言い訳がある。どこかに責任逃れの姿勢が窺える。何故そうなのだ…? 何故、ここまで到って、なお言い逃れようとするんだ…?

★足元からやっていけ! 自分の足腰を鍛え、自分の家族、自分の近所から始めてゆけ! 自分を変え、家庭を変え、町を変え、市を変え、その上で、国を変えよう! 

★いつまで待っても、政治家や役人が国を変えてくれることなど無いのだ。そう思い定めて、足元から固めていこう。どうにもならない政治家は、町と町、市と市がネットワークを張ることによって手を結んだ時、排除してゆけば良い。

★先ず、現状の自分のどこが問題なのか、家庭のどこが問題なのか、町のどこが問題なのか、チェックすることから始めよう。次に、捉えた問題を分析し、目標を設定しよう。目標が設定できたら、方法を検討しよう。方法がハッキリしたら、具体的な手段を考えてみよう。その上で手順(プラン)の設定である。後は実行あるのみ…!

★この世に生まれ、成長し、働き、やがて老い、そして死んでゆく。生まれてから死ぬまでの間、自分はどのように生きたいか、家族にはどのようにしてやりたいか、町はどのようであれば良いか…? 次世代のためにも、可能なかぎり善いものにしておいてやりたいものだ…!
(42) 「地域」にどのような機能を持たせるか…? 1997.7.28

★7月24日におきた事件(52才にもなる男が鉈で通り掛かりの人に切り付けたという事件)は、暑さにムシャクシャしたからだと云う。何を苛立って…?

★この男同様、多くの人々が苛立っている。何かは分からないが、得体の知れない焦燥に駆られているよう見受けられる。

★人の心が安定するためには、周囲の人々に認められていることを条件とするが、この男も路上生活者であり、親身になってくれる人もいなかったのであろうし、それが高じてこのような凶行に及んだものでもあろう。

★親兄弟があり、妻子があり、友人、知人に囲まれ、その人々との温かな心のつながりがあれば、このような凶行に走ることもなかったろう。哀れにも、この男にはそれが無かったとしか考えられない。

★宮崎勤事件も、神戸の事件も、奈良の事件も、この事件にしても、周囲の人々とのつながりの薄さが感じられるし、善悪を判断する能力も欠けているように見える。

★「慣習の力とはたらき」のところで述べたように、戦前と戦後の社会通念の違いは、戦前のものが個人の行動に指針を与えたり、身につけるべき目標を明示するものだったのに対し、戦後のそれは、個人の行動の自由を保証し、権利を保証するもではあっても、行動の指針や自己研鑚の目標を提示してはくれない。ここに、戦後の問題がある。

★先の事件の男は、どのような経過で路上生活者になったのだろうか…? 今、多くの人々が社会から弾き出され、路上生活者に落ちぶれつつある。大阪でも中之島公園、靭(うつぼ)公園など、都心部の公園には、どこでも二人や三人の路上生活者は見られるし、これも一つの社会現象になりつつある。

★これは、地域にそれなりの機能を持たせれば、解決できることではないのか…? しかし、今の地域には、まったくその機能が無い。

★「地域」にそれなりの機能を持たせれば、相当のことが出来るように思われる。そのことを詳しく検討する必要がある。
(43) 玩物喪志(がんぶつそうし) 1997.7.28
    …物を玩び、志を喪うこと(書経)

★城山三郎さんが『失われた志』という対談集をこの7月出版された。対談者は、藤沢周平、京極純一、阿川佐和子、内橋克人、浅利慶太、中村隆英、吉村 昭、河盛好蔵、神崎倫一、飯塚昭男、佐江衆一の各氏である。

★城山三郎さんの小説には、多く励まされてきた。しかし、この対談を通読してみたが、私には何か物足りないものが残った。何故なのか、理由は今のところハッキリ分からない。しかし、それは、その紙数のほとんどが思い出話に費やされていることからくるのだろうと思う。終章で、52年前の終戦の日のことを思い出し、次のように語っておられるが、それも現状への嘆きではあっても、なんら未来への展望を含んでいないように感じられる。

★「空は限りなく青く高く、…、自由に生きるとは、これほど清々しく心ときめくものかと、涙のにじむほど嬉しく感じたものです。圧政と腐敗、多年にわたって息苦しい生活を強いた軍国主義は消え、自由な民主主義へ。…。理想の社会へ向けてのこの気風を失ってはならぬと、痛いほど感じもした。国家によって一つの生き方を強制されぬ代わりに、一人一人が在るべき姿を求めて生き、…。…、権力のはびこるのを許さず、どこにでもチェック・アンド・バランスが機能すること。それが人々の夢であり、初心であり、広い意味での志であったように思うのです。五十年経ったいま、その志はどこへ行ってしまったのでしょうか。……」

★次世代からは「無責任だ…!」との声が掛りそうである。「終戦直後から今日まで、世の中を動かしてきた世代として、余りに無責任すぎる」と…。

★「志を失ったのは、今の40才以下の人々の責任ではない。終戦直後に10才から20才前後だった世代が、理想や理念を拒否し続けてきたことが、今日の精神的混乱を導いた原因ではないのか…」と。

★確かに、戦前の軍国主義による圧政よりも、腐敗の方がましだろう。しかし、戦後日本人は物を玩びすぎてきた。物ごとを玩ぶことによって、志を喪ってきた。そのことが今問われているのだ。その視点がない…。

★志(こころざし)、つまり理想や理念に立ち向かう心の姿勢は、今の日本人にまったく欠落している。少々の時間で回復できるとは考えられないし、個々人の手で回復せよ、と言ったところで、自己を確立する教育を受けてこなかった世代に、それを要求したところで出来るわけがない。この状態が続いて、最も警戒しなければならないことは、これらの人々が烏合の衆と化し、そこに旗振り役が現れることである。その人物がオウム真理教の麻原のように、専制を企てる者であれば、お先真っ暗である。

★物の豊かさのみを追い(玩物)、心を育てることを忘れた(喪志)社会が、どのような顛末を辿るものなのか、見守らなければならない。それが、こんな世の中を作ってしまった者のせめてもの責務である。
(44)「地域」にどのような機能を持たせるか…2 1997.7.29

★様々な少年犯罪が頻発している現在、各家庭や学校や警察だけではこの状況に対応することは出来ない。どうしても地域を、これらを包摂する機能を果たせるだけのものにしなければならない。それを羅列すれば以下のようになる。

★ (1)初めて母親になる人への「子どもの育て方の指導」…母親・父親研究会…赤ちゃんから幼児期、少年期、中学2年生、青年期。

(2)赤ちゃんと幼児の預かり制度…お母さんの心のケアの為に。

(3)老人介護システムの形成…高齢化社会対応…老人相互援助システムの構築。

(4)子供たちのシステムを作る…子供会・少年団・青年団。

(5)地域研究会の形成…自分たちの町を善くするための研究会。

(6)他の地域とのネットワークの形成。

(7)地方行政との連携。

(8)小学校・中学校の分割…10校くらいに分割し、子供たちに好きな所を選ばせる。

(9)自然学校の創設…自然と生命を学ばせるために。

(10)教育研究会の形成…親、学校と共に、地域として子供たちを教育するために。

★これらのことについても、地域研究会や教育研究会を作って、もっと深めなければならない。その上で、地域の果たす機能を強化して行かなければならないだろう。

★神戸の事件も、奈良の事件も、幼女連続殺人事件も、又、以前にあった監禁致死・コンクリート詰め事件も、いずれも青少年の事件である。これらを見ていると、既に家庭と学校の力の範囲を越えているし、地域にそれに対応するシステムが無いことに問題がある、と、思われてならない。

★ (1)の「子どもの育て方の指導」は、結婚し、赤ちゃんは出来たものの、まったく育て方も、教え方も知らないで、親になってしまった若者たちがほとんどだろう。それを、地域でバックアップする体制を組む必要がある。二人三人と育てた子育てのプロが地域にはいくらでもいる。ただ、他人の家庭への干渉になるのを怖れて、手を出さないだけである。戦後登場した個人主義の概念や核家族化の傾向が、戦前の大家族を崩壊させ、しかも、核家族間の付き合いを困難にしている。これに対する調整機能が必要だし、現状のような子供たちの反乱を見ていると、育て方も分からない両親に子育てを任せておくこと自体誤りであると思えてくる。又は、自動車の運転同様、子育てを免許制にでもしなければならないのかもしれない。

★ (2)は(1)同様、核家族化が原因で発生している問題だが、子育てノイローゼに罹る母親はますます増えてくるだろうから、それを防ぐためにも、時々、母親を育児から解放してやるシステムを地域でつくらなければならないだろう。

★ (3)〜(10)の検討は、別項に譲る。
(45) 大人たちは幸福か…? 1997.7.30

★大人たちは幸福に暮らしているのだろうか…? 毎日の生活が充実したものなのだろうか…? 大人たちが充実した生き方をしているのでなければ、子供たちが大人になることに憧れる筈はない…。

★老人たちは幸福に暮らしているだろうか…? 老人たちが幸せでなければ、生きること、努力することが、虚しいものに子供たちの目には映ることだろう。

★子どもも、青年も、壮年も、老人も、互いに和気あいあい生活していれば、虚無的な考えや態度が出てくる筈がない。しかし、今の日本社会はそうではない。自由、平等、人権など、権利を主張するものばかりが先行し、互いに温かく包み合うことを忘れて、いがみ合っている。こんな中で育つ子供たちが、「生」を肯定的に捉えられるとは考えられない…! 私には、そう思えてならない。

★大人の男たちは、戦後、企業にその身を拘束され、家族や地域から切り離されてきた。又、男たちも、それが当然のことのように過ごしてきた。今、子供たちの反乱を目の前にして、男たちは慌てている。どのようにすれば、家庭と地域に戻れるのか…、と。

★人が人として幸福に暮らすためには、理想と目標を持ち、それに向けて共に働く仲間がおり、一所懸命協力して働いた後、語り合い、共に飲食などして楽しむ、という状態が確保されておれば良いだけである。

★多くの人々が、金や地位に固執するのは、これらを手にすることによって、上の状態が得られるのではないか、との妄執を抱いているが故である。

★金は手段として必要だし、地位も物事を実現してゆくためには必要な手段であろう。しかし、それらが在るが故に幸せになるのではない。

★今、大人たちが幸せでないのは、このことを理解せず、無用な努力をして空回りばかりしているからである。

★空回りはやめよう! 生きることに大事なことを、大人自らが始めよう! そうすれば、大人の顔が活き活きしてくるし、それに連れて、子供たちの瞳も、再び輝きを取り戻してくれることだろう…!!
(46) 仕返しするのがあたりまえ…か? 1997.7.30

★私が関係した子どもたちの一人に、注意すると必ずなんらかの報復を返してくる子がいた。「何故、そんなことをするのか…?」と尋ねると、「やられたら、やりかえすのあたりまえやんか…」とくる。

★本人のことを思っての注意も、これでは効果なしである。このような子どもの父母に会うと、『世の中は力の在るモンの勝ちや。主張したモンの勝かちや。相手のこと考えたり、遠慮してたら、負けや。そんなことしたら損やぞ…』と子どもに教えているらしい。なんのことはない、守銭奴や亡者やアウトローになることを、それと気付かず、子供たちに一所懸命勧めているのである。「たとえゴリ押しでも、横車でもいい、相手をねじ伏せたらこっちのもんや…」と云うのだろう。

★なんともあさましいことだが、多くの人々が、そう信じているらしい。それがどれほど卑しい行為であるかということは、まったく眼中にはない。要は、『勝つこと』が問題であり、『得すること』が問題なのであろう。

★これでは子供たちも常に『誰か得する奴がいないか、誰かに負かされはしないか』、と、オチオチしておれないであろう。又、前記の少年のように、やられたら、やりかえしておかないとナメラレル、という発想が出てきて当然だろう。

★オフィスでも、この現象は現れている。女性週刊誌の影響もあるのだろうが、以前、喫茶店で隣り合わせた娘たちの会話に、冷水を浴びせられたような思いをしたことがある。「あのオッサン、うるさいことばっかり言いよるよってん、茶の中へ下剤入れたってん。そしたら…」と他愛もなく笑う。

★人間としてやらねばならぬこと、やってはならないことが身についていないとしか言いようがない。同時に、我慢をする訓練が少しもなされていないのだろう。それでもなお、そのオッサンがうるさかったら「毒」でも盛るというのだろうか…?

★神戸で起きた小学生殺人事件にしても、義務教育への恨みと仕返しがその犯行声明に書かれていたというが、自己主張ばかり強く、耐えることを教えられていない現代っ子のひ弱さと歪みが極端に表出した事件ということが出来よう。
(47)毒を盛ることについて 1997.7.31

★昔から政敵などを倒す手段として、毒薬を使うのは常套手段の一つであったようである。ルネッサンスでは特に目立って使われたようだが、ナチのヒットラーにもヒ素で毒殺しようとする陰謀が在ったといわれているし、江戸時代、食事係に毒見役が置かれていたことでもわかるように、日本でもよく使われた手段のようである。

★最近では、オウム真理教がサリンやマスタードガスを使って、多くの人々を殺傷したのが印象に新しいが、これは例外としても、恐ろしいのは、一般人でも裏の通信販売さえ使えば、簡単に毒薬を手に入れることが出来る、との噂があることである。

★『嫉妬の時代』と言われる。他人の幸福を妬み、それを許さず、破壊しようとする時代だという。一昨日、逮捕された福田という女性も、ナンバーワン・ホステスへの嫉妬が殺人の動機だったという。人々に愛される者への羨望が羨望に止まらず、その者の破壊に向かってしまったらしい。そうなるのは何故か…?

★先日の鉈で通りがかりの人を危めた事件も、全国的に多発し始めた通り魔事件も、抑制力を失った人間たちが暴走し始めたことを示している。

★『仕返しするのはあたりまえ…か?』でも書いたように、これらの諸現象は、もう一部の特殊な人々の問題ではない。オフィスでも、学校でも、あらゆる所で発生している筈である。下剤に替えて、毒薬を使う迄にどれほどの時間が残されているのか…! 身の毛のよだつような事態が、もう、身近に迫っていると考えなければならない…!?

★人が抑制力を身に着けるのは、どの段階においてか…? 4〜5才迄であろう。とすれば、家庭教育の段階においてである。家庭に何が起こっているのか…? 家庭に何かが起こっている筈である…?

★私が、つねづね関係する御家庭でお話しするのは、家庭内に「温かさ」があるか、「節度」や「礼儀」が守られているか、互いに「譲りあって」いるか、それぞれがそれぞれを「受け容れる」度量があるか、互いに「誠意」があるか、又、互いに助け合える力「実力」があるか、そして、互いに「信じ」あっているか、の七つである。これに対して、絶対に避けなければならないのは、この「温」「節」「譲」「容」「誠」「実」「信」の環と対極の「冷」「恣」「傲」「狭」「背」「虚」「疑」という環を回すことである。

★いずれの環を回すかは、両親の知恵にかかる。しかし、両親にその知恵の無い場合には、地域がそれに代わる支援システムを組まなければならない。それを組み上げるだけの賢さが地域に在るかどうかが、今、問われている。
(48) 娘の恋人 1997.7.31

★私には娘がいない。年子の息子が三人いるばかりだ。だから、カウンセリングで預かる子どもも、ほとんどの場合男の子である。しかし、時として、どうしても預からなければならない羽目に陥ることがある。

★今から6年前のことである。長男がアルバイト先で知合った人に気に入られ、三ヶ月間粘られてお預かりすることになった女の子がいた。当時13才。躯は大きいが、おばあちゃんにもおじいちゃんにも甘やかされて育ったせいか、息子の話を聞こうともしない。仕方なく、私が預かることになった。

★それから6年、今年19才になる娘が、昨日、恋人を連れて現れた。清潔感のある好青年である。「今まであったこと、彼にバラそうか…!」と言えば「いやー!」と言って柄にもなく涙ぐむ。『ああ、この子は惚れているんだ。よかったな**ちゃん…』

★6年の間にはいろんなことがあった。テレクラが流行だしたのも、この間である。ポケベルを持たせろ、持たせない、で、親子が揉めた時にも、アルバイトさせろ、させない、で揉めた時も、「ダメダ」と厳禁したのは私だった。

★「16才になったら、なんでも教えてやる、やらせてやる。しかし、それまでは駄目なものはダメだ!」と言い続けてきた。そして16才…。

★「おじさん、16才になったよ!」と言う生命力にはちきれんばかりの少女に、何をいえば良かっただろうか…? 「山へ連れてって」「海へ連れてって」という言葉の言外に伝えようとしたものに応える言葉が見つからなかった。

★『ごめんよ。とうとう、おじさんは誤魔化し通してしまったね。でも善かった。**ちゃんにあんなステキな彼氏ができたんだから…。オメデトウ、**…』 そう思う心の底に一抹の寂しさが残る。きっと、これが娘に初めて恋人を紹介された時の父親の心理なのだろうか…?
(49) 嫉妬の時代に… 1997.8.1

★大震災の時の神戸でもそうであった。支援されていることに感謝することよりも、支援している人々の家が無事なことに腹を立てる人々が多かった。「なんでオレらだけやられて、アンタラは無事やねん。そんなんオカシーワ…!」、それに応える言葉がなかった。

★自然災害さえも、平等でなければおかしい、との感覚に今の日本人はなっているのだろうか…? すべての日本人が被害に遭ったら、だれが支援するのか、と、支援者は戸惑っているというのに。

★現代は『平等幻想』の時代である。「人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず…」、と、一般に観念として信じられているが、現実の世の中が「人の上に人をつくり、人の下に人をつくっている…」ことぐらい、小学生でも理解している。少しでも人の上に出よう、出ようと、鎬(しのぎ)を削っているのが大人の競争社会ではないのか…?

★この世に平等などありえない。美人に生まれる者あれば、醜く生まれる者あり。才能に恵まれて生まれる者あれば、愚鈍に生まれる者あり。金持ちの家庭に生まれる者あれば、貧乏な家庭に生まれる者あり…。生まれた時から平等ではないのだ。

★多くの人々が、他人には平等を要求するのに、己は他人より抜きん出ることばかり考え、少しでも他人の上に出ようとする。その自己矛盾を、少しも分かろうとはしないし、他人が少しでも有利な立場に立つと、僻み、妬み、嫉み、揶揄する。揶揄するだけならまだ良いが、罠を仕掛け、陥れる。

★嫉妬は、価値規準を外側に置く故に発生する。平等であるべきだ、という観念に縛られているが故に発生する。自然に対し畏敬の念を感じ、生命に感謝の念を抱き、社会で活かされていることを感じることができるとすれば、自分の与えられている物に自足できる筈である。

★人の幸せとは、自分に与えられている物を認め、それを条件として、その上に、自分の求めるものを一つづつ手に入れる努力をはらうことの中にあるのではないか…? 他人がどのような物を持っていようと、自分の人生にはまったく関係ないことで、それに関わることによって不幸になる。そう考えられるか否かに、幸、不幸の分かれ目はある。

★比較から幸福感が出てくるものではない。自分の足元から離れて幸福など成り立たないのだ。そのことを自覚し、そのことを子供たちにも伝えなければ、子どものイジメも非行も治まる筈がない。

★自由、平等、幸福追求の権利、など、近代を支配してきた個人主義的な諸概念から自由になる時である。これらの諸概念から解放されて、共に生きるための新しい共生の概念を構築してゆかなければならない。
(50) 生命と対峙する時 1997.8.1

★ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、…、…。やれやれ、来たな! 「まあ、上がれ。今日はなんや…?」「……」

★午前4時過ぎ、玄関でチャイムが立て続けに鳴った。ボーっとした頭を抱え、ドアを開ける。リビングへ通し、冷えた麦茶を出す。頭はまだ朦朧としている。

★私の寝るのは、大体2時前後である。4時に叩き起こされるのは辛い。しかし、1年に数回、こうしたことがある。それが、本人の場合もあり、親の場合もある。

★本人の場合、こちらの熱意を試すものであり、親の場合、子どもの一大事、他人の迷惑など考える余裕がないのであろう。

★今回の場合はゲームのようだ。一昨日、昨日と地元で結構有名な住吉さんの分社の夏祭があり、夜店も200軒くらい出店し、人の出も200メートルほどの商店街を埋め尽くし、ごった返す。その中に、この子たちを見掛けた。この時、何か仕掛けてくるな、という予感がしたのだ。

★彼らはカケをしてきたらしい。「この時間に行って、オッサンが何分くらいでプッツンするかカケよ…」と。4時過ぎに来て、7時過ぎに帰るまで、他愛ない話を続け、こちらの顔を窺っている。

★「追い帰せばいいのに…!」と、妻は不満気に云う。追い帰すのは簡単だが、それで繋がりは切れてしまう。彼らはゲームのような形を取って、こちらの度量と真剣度を試しているのだ…。どうやら、私は彼らのテストに合格したらしい…?

★常に、子供たちとの付き合いは真剣勝負である。少しの油断で、彼らとの心の交信は途切れてしまう。生命が生命と対峙する時、年齢も経験も知識も役に立たない。あるのは生命と生命が向き合うことだけである。

★最近、多くの悲しい事件を聞くし、身近でも、このことの無理解から悲劇が発生しそうな事例もある。神戸の小学生殺人事件も、周囲の大人たちが、この「酒鬼薔薇聖斗」と名乗る少年に、生命そのものとして対峙したか、ということが問われているのだ。そのことを理解していなければ、どのような会議も単なる机上の空論に終わろう。

★『生命には生命で対峙すること』、この大原則を忘れては、子どもの教育論をいくらブっても始まらないのだから…!

★戦後52年、我々日本人は、自然も、生命も蔑ろにして、経済的な豊かさのみを追って、今日まで邁進してきた。しかし、「すべての飾りを外して、裸の人間、生命そのものとして対応して欲しい!」、と、生命そのものが叫び始めているのである。
(51) 海への鎮魂賦 1997.8.7

★私たちが、その入り江に初めて訪れたのは、もう二十年以上前のことだと思う。今年、24才になる三男が、まだ二つか三つの頃のことだったから…。

 その海を再び訪れたのは、この息子が、もう小学校に入ってからのことだと思う。

★初めて訪れたときには、静かな入り江であったものが、アウトドア・ブームの始まりとともに、多くの自動車でごったがえすようになっていた。そんな中に、遠く横浜からこの入り江を好んでおとずれていた家族があった。兄弟の家族とここで落ち合い、1〜2週間、この入り江で過ごすという。

★二、三度お会いする中で親しくなったが、父親は私と一回りくらい下で、母親は同級生とのこと。一女二男がいて、確か、女の子が私の三男と同い年か一つ下であった。

★可愛い少女で、一年経ってあうごとに、賢さと可憐さを備えたチャーミングな娘に成長していった。二人の弟の内、上はおっとりタイプ、下は元気溢れるヤンチャ坊主で、この二人も年々逞しく育っていった。

★毎年会う度に挨拶を交わし、「また、来年ネ…」と別れた。それから十数年の歳月が流れた。両家の子供たちは、それぞれ成長し、それぞれ自分の夢に向けて羽ばたき始めた。

★昨年、私たちは例年より一週間早くこの入り江に行ったため、彼らには逢えなかった。

★この年、二度目にこの入り江を訪ねたのは、二週間後…。近所の社会人になった若者たちに、「あの海へ連れてってくれ…」、と、せがまれてのことであった。そこで訃報に接したのである。泳ぎ達者だった父親が、あの入り江で死んだと…。

★先日、8月3日深夜、妻と二人この入り江を訪れた。真っ暗な浜には、人っ子一人おらず、ただ波の音だけが、ザブン、ザブンと繰り返していた。空には満天の星、天の川もくっきりと南から北へ流れる。妻と二人、海に向かい手を合せる。

★私も妻も、死者を悼む術を知らない。ただ、心の赴くままに、ハモニカを吹き、妻は口ずさむ…。浜辺のうた、ふるさと、埴生の宿、花、荒城の月…。

★翌朝、花束とロウソクと線香を買い求め、海に手向け、二人でささやかな一周忌の祈りを捧げた。好きだったビールを、溺れたという付近の岩にかけ、子供たちを守ってやってくださいよ、と、語り掛ける。

★その日一日、妻とその入り江から海を見つめて過ごした。

★その時、彼はどう思ったろうか…? 妻の名を呼び、すまん、迂闊だった…、許してくれ…、子供たちを頼む…! そう、叫んだ、と、私には聞こえる。

★遺された人達に掛ける言葉を私は知らない。だから、今だに、お悔やみの手紙も出していない。子供たちにとって、最も楽しい思い出の詰まった海が、もっとも悲しいところにもなってしまったのだ。それにどんな慰めの言葉があるというのか…!
(52) 平和祈念日によせて 1997.8.7

★広島に原爆が投下されて、すでに52年。その悲惨さを知る人々は年々減少しつつあるという。私たちのように、戦後の混乱期を憶えている50才過ぎの者ですら、なんら戦争の悲惨さを実感として感じられないのだから、それ以下の年齢の人々にとって、戦争をどのように捉えるか、その捉えどころさえ見出せないのではなかろうか…?

★原爆投下から九日後の敗戦受諾。その後、一億総懺悔した筈なのに、何故か我々の世代にすら、その経験から得られた知恵が伝えられていない。

★戦後52年、さまざまな事件があり、現状に問題があるとしても、経済的に豊かで、自由で、平和であることに感謝しなければならないのは当然のことである。これほどの世の中がくることを、被爆当時、被爆者の誰もが考えなかったであろうし、望みもしなかったろうから…。

★しかし、敗戦の経験から得られた知恵を継承していないために、今在る物の重要さを認識できず、自らの手で、自らの幸福を破壊しつつあることに、日本国民自身が気付いていないことが問題なのだ。

★昔、コカ・コーラのテレビコマーシャルが流れた時、老いも若きもそれに走り、日本の清涼飲料業界は苦境に陥ったものだが、時代は移り、私たちの子どもの世代では、コカ・コーラよりもラムネの方が物珍しい。それと同じように、平和で豊かな世の中に育った者に、それらの有難さは分からず、平和より戦争が、物の豊かさより刺激が求められるようになってしまった。

★実体験がない故に、そのことがどれほど危険なことなのか、感じられないのである。否、むしろ日常を倦み刺激を求めるあまり、平和を厭い秩序を嫌悪し、危険と混乱と破壊と破滅へ向かっているように見える。

★悲しいことだが、戦中世代が味った苦渋は、第二世代の私たちにも十分伝わってはいないし、ましてや、第三世代に伝わる訳もない。当時、30〜40才代の人々が、必死になって焦土と化した日本の再建に取り組んでくれた。それが今日の豊かな社会をつくった。

★第一世代が起こし、第二世代が固め、第三世代が破る。『三代目には店(家)を売り』という諺は、古今東西に通じる真理なのかもしれない。初代が必死になって事業を起こし、二代目が、親の苦労を見ているので、これを維持し、発展させる。しかし、三代目になると、はじめから親はそれなりの地位にあるし、その苦労も身近に見ることはない。そのため、物事を安易に見るようになり、真剣さはまったく失せてしまう。

★今の日本社会は、戦後52年を経て、第三世代に移行しつつある。真剣に祈ることを忘れ、真剣に生きることを忘れ、物事に倦み、疲れ、現在の恵まれた生活を守ろうとの意欲のない世代に、しだいに移りつつある時代なのだろう…。
(53) 一貫してつらぬくもの 1997.8.8
     …刹那に流れてゆく世に

★阪神大震災や地下鉄サリン事件などの大事件ですら、すでに過去の世界のこととして忘れ去られようとしている。神戸の小学生殺人事件やそれに続く奈良と福岡で発生した少女殺人事件から世の中が受けた衝撃も、同じように遠からず忘れ去られてゆくのであろう。

★どのような大きな衝撃も、忘れてしまうからこそ、人は癒されると言えるのだろうが、人として忘れてはならないことも多いはずである。自分の大切な人のこと、自分の信念、自分の生きざま、…。

★しかし、現在の日本人は、どうも健忘症に罹っているようである。どんな重大なことでも、2〜3週間すれば記憶の彼方へ押しやってしまう。まるで、一過性のブームか流行のように…。

★確かに、せからしい世の中である。物事がめまぐるしく変化してゆく。それについて行くのは大変なことであるし、ストレスも溜まる。だからといって、しっかり保持しなければならないものまで見失うようでは、人間として信用できない。又、一定期間一つのことを追い続けて行くのでなければ、達成できることなど何も無い…! 愛も友情も事業も…。

★今、最も好まれる「愛」という言葉にしても、「優しさ」という言葉にしても、心を或る対象に継続的に向けることから生ずる状態のことで、それを刹那的に、即時的に達成しようとすることが、どだい無理な話なのである。

★刹那に流れている世の中である。その中にあって、不変なものを求めることは非常に困難なことである。しかし、不変なもの、理想的なものを追い求めるのが人間の性であり、一過性の流行やブームなどにいつまでも振り回され続けると、とどのつまりは「神経症」である。

★人は人に愛され、信じられ、認められることを望んでいる。その為にこそ、流行やブームを追うと言っても良いのではないか…? しかし、流行やブームからは、真実の愛も、信頼も、友情も、生まれてはこないだろう。

★若い人々に伝えたい。人を見つめ続けてほしい。自分が大切と思う人の心が、今どんな状態なのか、常に捉えておいて欲しい。それが優しさだと思うから…。物事では、自分が他の人々の役に立てる知識と技術を身に着けておいてほしい。阪神大震災の際にも、役に立ちたいという気持ちはありながら、包丁さえ十分使いこなせず、悔し涙を流していた娘たちが多くいたから…。それと、一生を通じて打込める「仕事」を持ってほしい。一生を通じ、一貫した生活、一貫した仕事、一貫した態度、から、人々は感銘を受けるのだから…。
(54) 心と躯の健康を保つために 1997.8.12
    …大西郷の「敬天愛人」

★神戸の小学生殺人事件や奈良、福岡の少女殺人事件、そして東京の連続通り魔事件…、これらの事件が示す精神的不安定は、事件の犯人固有のものではなく、大なり小なり、ほとんどの日本人が陥っている精神状態である。

★この精神状態に陥らないようにするため、又は、この精神状態から抜け出すためには、日頃から心と躯を整備する努力を怠ってはならない。

★躯(からだ)を健康に保つことは簡単である。規則正しい生活、適度な運動、適当な食事、この三つを守れば良いだけだから…。ただ、生活を規則正しくすることは、都会人にはなかなか困難なことだし、適度な運動も、サラリーマンには実行しづらいことで、運動不足と睡眠不足のむくんだ顔、というのが都会生活者の相貌である。

★心の健康を保つことは、もう少し複雑である。まず、ベースとなる躯が健康でなければ、心を爽やかな状態に保てない。躯の健康を保てた上で、心の中が整理され、混乱していないことを要する。

★この心の中を整理することが少々やっかいで、少し技術を必要とする。

★先人たちは、様々に工夫したようである。ベンジャミン・フランクリンは「徳目」を並べて毎日チェックしたと云うし、中国清末の曽国藩という人は、「四耐四不」というものを自分に課したというし、中国古代の孔子は「格物致知…」と呼ばれるものを我々に遺してくれている。

★「格物致知、誠意正心、修身斉家、治国平天下」、この短い文章の中に、個人の身の修め方から世界を平和に導く導き方まで述べられている、という。
 物事を見極め、知識を得、知識を得ることによって、意を誠にし、意を誠にすることによって、心を正し、心を正しくすることによって、身を修め、身を修めることによって、家を斉(ととの)え、家をととのえることによって、国を治め、国を治めることによって、世界を平和に導く、という。

★どのような項目に纏めるかは、それぞれの個人の人生経験と知識のレベルに合わせれば良い。特に難しい言葉を並べる必要はない。簡単で唱えやすいものが良い。因みに私は、「敬、謝、温、節、譲、容、誠、実、信」と唱えている。

★毎日のように発生する事件は、現代社会の精神的混乱を象徴している。このような世の中にあって、自分の心を正常に保とうとすれば、躯を健康に保つための適度な運動と、自分の心の状態をチェックする心がけが必要だし、そうしなければ、我々自身が、いつ犯罪を犯しても不思議でない社会状況に置かれているのだ、と、自覚する必要があろう。

★「敬天愛人」と西郷隆盛は言った。天を敬い、人を愛する、常にそのようでありたいものである。又、この言葉自体が、心の健康を保つ方法を示してくれている。
(55) 親ごころ 1997.8.13
    …子供たちの無事な成長を祈る

★子供たちには理解出来ないことなのだが、どんな親でも、子どもの無事な成長を心から祈っている。その上に、より幸福で、社会的にも認められる人物になって欲しいと願っている。この後者の願いが、子供たちをおかしくしているのだが…。

★親ごころとは不思議なものである。これも親になってみなければ分からないことなのだが、親というものは、子どものことになると、時として自分のことは忘れてしまうものらしい。自分のことを忘れて子どもが幸福になってくれることを喜んでしまう存在らしい。

★私などは、典型的な結婚不適格者なのだろうが、それでも、子どものことでは泣いたり笑ったりしてきたし、子供たちの入試や旅などに出た時など、知らない間に祈ってきた。

★入試も旅も、親の力の届かぬことである。ただ、無事を祈ってやることしか出来ない。

★昨日、この三年間関係してきた不登校の子どもの父親が怒鳴り込んできた。「先生と縁を切りたい」と。何事かと聞けば、「切らないと、息子が今の会社を辞めさせられる」と言う。

★今から二年前、定時制高校をやめたこの子を、知人の紹介で、或る会社に入れてもらった。その時の条件が、「学校に行かせたい」と言わないこと、というのであった。しかし、それから一年半、昨年の暮れに何を思ったのかこの子が「定時制高校に行きたい」と言い出し、今年の春から通学するようになった。

★ところが、これは当初の約束に違反していたから、それまでの特別待遇はなくなり、普通の取り扱いにかわった。それから二ヶ月、初めて家出した。それも遠く種子島にである。

★私は喜んだ。家と学校、家と会社の間しか動けなかった子どもが、自分の力で種子島まで飛翔してくれたことを…。しかし、会社側はそうは受け取ってくれなかった。「恩を仇で返した、社会常識がない…」という。罰として定時制への通学を停止させた。

★先月の29日、再び家出、今月の7日に戻った。今回は明らかに確信犯である。会社は辞める気で行ったのであろう。

★しかし、親とは悲しいものである。子どもの将来を考える。子どもが職を失って生きて行けなくなることを心配する。「あの先生がついているから、おかしくなるんやないか…?」と云われれば、それに同調せざるを得ない。

★今までにも、こうした悲しい親心をたくさん見てきた。それが、結果として、世話になった人間を裏切ることになったとしても、我が子を守ろうとする…。
(56) 断食行について 1997.8.14
     …生活実感を取り戻すために

★昨日、大峰山の百丁茶屋というところへ、若者たちを迎えに行った。彼らは8月10日から五日間、此処で断食行を行っていたのである。

★断食行は、現実感覚を取り戻すのに最適の方法である。都市の生活は、余りに便利に出来すぎていて、生きている感覚(生活実感)を狂わせる。その実感を正常に戻そうとすれば、断食行ほど容易に実現してくれるものは他に無い。

★都市生活では、水もガスも電気も食料も、生活に必要な物資は容易に手に入れることが出来る。(ただし、お金があっての話だが…)。そのため、生活実感を失いがちだし、金、金、金、と、金の亡者にもなり易い。

★人間が生きてゆく上で最小限必要なものは、衣食住である。食を得るために田畑を耕し、衣をえるために機を織り、住を得るために大工仕事をするとすれば、それぞれを入手することの困難さが実感でき、生活実感はいやがうえにも明確になる。

★神戸の小学生殺人事件の「酒鬼薔薇」と名乗る少年も、他の多くの子供たちも、実生活を奪われ、足が宙に浮いている。生活の困難さも、生活の楽しさも、少しも実感できないない状況を強いられているのだろう…。

★『現実と仮象』の中でも述べた事だが、テレビだけでも感覚が相当現実から遊離する危険性があるのに、ビデオだ、ゲームだ、バーチャルだ、となれば、もともと生活実感のない都市生活では、魂が宇宙遊泳して当然のことである。

★若者たちが断食行から何を得たか、まだ聞いていない。しかし、少なくとも、生命は腹がすくものであり、それがどれほどの苦痛であるかということは、実感できた筈である。

★北朝鮮では、今、飢えに苦しんでいるという。しかし、飽食の時代にあって、たった一日の断食も経験したことのない者に、飢えている北朝鮮の人々の苦しみを想像できるとは考えられないし、同情の感情が涌くとも考えられない。

★食糧危機や飢餓を語るにも、断食を通じて、飢えるということがどれほどの苦痛であるかということを実体験する必要がある。そうでない者の議論など、机上の空論である。

★多くの経済事件も、現実感覚の喪失から発生していると考えられるし、頻発する青少年による猟奇事件も、生活の楽しさや苦しさを忘れたところから生じていると思われる。

★都市生活、テレビ、ビデオ、テレビ・ゲーム、バーチャル…、どんどん現実から遊離していく現在、よほど努力しないと生活実感も現実感覚も喪失してしまう。

★この危険性を回避するために、可能なかぎり海・山・川などの自然と生命に触れ、可能なかぎり身体を使った仕事を生活の中に取りいれることが重要である。

★戦後52年、日本社会は「心」の面から大きく崩れ始めている。これを阻止するためには、一人でも多くの人々が、生活実感のある生活を取り戻すこと、生活実感を取り戻した大人が多くなればなるほど、子供たちの心も正常に立ち返ってくれることだろう。
(57)ゲームとしての殺人 1997.8.18

★『どうして、こんなに立て続けに若者や少年の陰惨な事件が発生するのか…?』、と、世の中のほとんどの大人たちが戸惑っていることだろう。

★『何が原因なのか、何が問題なのか…?』という問題は、当「ソフィア」で、この2年間テーマとして追い駆けてきたものである。「阪神大震災」に始まり、「オウム真理教事件」「度重なる経済犯罪」「神戸小学生惨殺事件」「月ヶ瀬女子中学生殺人事件」「福岡女子小学生殺人事件」「東京連続通り魔事件」などの事件を見ていると、すべて共通の問題を内包している。

★阪神大震災は、自然災害である。しかし、そこで被災された人達を支援することは、人間の資質に掛る。2年7ヶ月経過した今日でも、まだ、数万人の被災者が放置されている。問題は、このような突然の不幸に見舞われた人々を放置して省みない人間が、国の政治も地方の政治も司っていることにある。

★政治を司る者が、塗炭の苦しみに陥っている人々を平気で眺めていることと、酒鬼薔薇聖斗と名乗る少年が、小学生の苦しみ悶えながら死んで行くのを冷ややかに見つめていたことと、どれほどの違いがあるというのだろうか…?

★日本人が、どうしてこのような心理状態になってしまったのかということは、一口には言えないが、私自身も含め、すべての日本人が、他人の傷つくことに無頓着になっていることだけは確かであろう。

★一昨年の阪神大震災の時も、あれほどの大惨事に関わらず、あれほど衝撃的な映像が日夜テレビで放映されていたに関わらず、救援に立ち上がった人はほんの一握りに過ぎない。それだけならまだ良い。支援活動に走り回っている人間を揶揄したり、妨害したりする、とんでもない輩が少なくなかったのである。(被災者も含め)

★これは、何を表しているのか…? 日本人全体が、現実感覚を喪失しているとしか言いようがない。現実感覚を喪失しているため、隣町で生じている大惨事と、地球の裏側で起きている事と識別する能力さえ失っているとしか考えられない。

★現実感覚の喪失からは、恐ろしい未来予測が出てくる。すべてのことをテレビ・ゲームとして捉え、現実感覚を喪失したまま実行してしまう、と、いうことである。「宮崎勤」も「コンクリート詰め殺人事件の少年たち」も「酒鬼薔薇聖斗」も、いずれのケースからも現実からの遊離が感じられる。

★ビデオ、又は、テレビ・ゲームの世界での殺人、彼らには、それくらいの感情しか動かなかったであろうし、逮捕されて後も、現実感覚のないまま、今日に至っているのではないか…? この種の事件が連続しているとしても、まだ数例である。しかし、予備軍は無限に存在する。「酒鬼薔薇聖斗」現象を、いかにして食い止めるか、そのことを可能にできなければ、未来は、「ゲームとしての殺人」が日常茶飯事化し、頻発することが避けられないだろう。
(58) 固定観念(頑迷)から解放されるために 1997.8.19

★人は、育つ過程の中でこの世の中がどのようなものであるかということの「概念」を形成してゆく。これはこう、あれはあゝ、と、それぞれが感じた経験によって、周囲の物事の意味内容を「おおよそのところ」理解してゆく。

★しかし、個人の体験、経験には、その時代、その社会の風潮や流行やムードや利害が色濃く反映されている。そのため偏見や頑迷に陥りやすい。

★それを矯正してくれる一つの方法が、読書である。読書は、古今東西の天才たちが考えてくれたことを、私たちが知る機会を与えてくれるし、自分の考え方や感じ方の歪みも悟らせてくれる。

★今一つの方法が、メモることである。感じたこと、考えたことをメモっておけば、後日、時間をおいてそれを読み返すことができる。時間が経過すると、不愉快だったことも不愉快ではなくなるし、感情が泡立っていたことも冷静に眺めることができる。

★又、自然と生命と人間を観察することも、良い方法であろう。自然は、人間がその法則に従う以外ない小さな存在であることを悟らせてくれるし、生命は、人間が周囲の生命によって支えられていることを感じさせてくれる。又、人間の観察は、自分がどのような存在であるのかを理解させてくれる。

★多くの場合、人は人と接する場合、先入観を抱いてあたることが多い。しかし、人を理解しようとすれば、心を開かなければならない。裸の生命として対さなければならない。生命そのものとして対することによってのみ、人は心を開き、理解しあう。しかし、多くの場合、固定観念に囚われて心を開かない。その結果、相互理解を不可能にしている。

★たしかに、近代主義の方法は、既成概念を疑うか否定することによって、人類を固定観念から解放することに成功した。しかし、同時に慣習と人類の知恵をも破壊してしまったのである。それが、今日の混乱の元凶である。

★そのことを、どれだけの大人たちが理解しているのか…? そして、若者のどれだけが、これらの思潮に汚染されていることを自覚しているか…?

★しかも、近代主義は、その方法の中に、「再構築」という方法を内包しているが、ポスト・モダニズムは、それさえも妨害する。破壊された後、再建の努力を払わなければ、そこには廃虚と荒れ地が残るばかりだ。そのことを、大人たちも若い人々も理解していないのではないか…?

★頑迷は老人の専売特許ではない。知識不足を感じている者が、それを糊塗するために陥る弊害で、知識も経験も不足する若者たちにこそ、多く見られるものである。それゆえ、頑迷は、知識豊かな老人や謙虚な若者が陥る病ではなく、老若男女に関係なく、「学ばない者」が陥る病気だ、ということができる。

★それ故、「頑迷からの解放は、学ぶことの中にこそある」、と言えよう…。
(59) 考えを押し付けることについて 1997.8.20

★なんと多くの人々が、自分の嗜好や趣味や生活スタイルや考えを押し付けようとすることか…。中には、感じ方まで強制する者がいる。押し付けられた方はたまったものではなく、窒息寸前になってしまう。

★「子どもの為」、と称して、自分の感情や自分の希望を子供たちに押し付けている多くの母親たちがいる。それが強制だとも気付かずに…。

★自分のやりたいと希望することを実行できることを「自由」と言い、行動範囲が広がる幼児期から、しだいに自由への志向が強まってくる。母の注意や制限を振り切って勝手な行動を試み始めるのもこの時期である。

★ところが、幼稚園、小学校と進むに従って、集団としての規律を押し付けられ、強制される。この時、大なり小なり不登園、不登校などの拒否症状が表れる。ここで賢い親とアホな親とが分かれる。

★アホな親は放置するか、強制する。しかし、賢い親は子どもが慣れるまで、ジックリ粘り強く子どもと付き合う。言葉による注意ではない。同じ生命に対し生命として向き合うのである。

★同じ親から生まれ、同じ屋根の下で育っても、生命は個々に特徴を持っている。その特徴に沿った育て方をしないかぎり、その子の長所を引き出すことは出来ない。

★こんな偉そうなことを言っているが、私も結構バカな親を演じてきた。子供たちが嫌がることでも、無理強いしてきた面が多々ある。「男がそんなんでどうすんねん」などと言いながら…。

★親の強制には、私自身も反発し続けて育ってきたが、そんな中で今だに思い出すと不愉快になるのが「お前はアホや…、お前はアホや…」、という父の言葉である。幼い頃から言われ続けると、可笑しなもので本人もその気になってしまうから恐いものである。

★これがなかったら、もう少しましな人物になれたのかもしれないが、十代の後半まで自分の能力に気付かず過ごしてしまうことになった。それで、というのではないが、自分の息子たちには、「人の能力というものは努力した結果だ…」、と言いつづけてきた。それが良かったかどうかは分からないが、長男は博士、二男は陶芸家、三男は世界を股にかけた研究者になろうとしている。

★親の押し付けが、どれほど子どもの心を傷つけていることか…? それが不登校、引き篭もり、非行、いじめ、などの主原因である。現在、多発している青少年による殺人事件も、周囲の大人が人生の楽しみ方と生き方を十分伝え得なかったことが原因であろう。

★大人が子供たちにしてやれることは、押し付けではなく、長い人生を生きてきて、豊かに持っている経験を、子供たちの考える材料として提供してやることである。子供たちはその中から、自由に材料を引き出し、自分の手で考えを組み上げていってくれるだろう。賢い親とは、それのできる人のことである。
(60) 自由と制約について 1997.8.21
    …自由のコンセプト(概念)

★若い人々が「自由、自由」と自由を振りかざして、まるで当然の権利のように振る舞っているのを見ると、『本当に自由の概念について、理解して使っているのか…? 単に、我が侭勝手を押し通したいから言っているだけじゃないのか…?』、と、不安になる。

★「自由の概念」は、歴史上、ルネッサンス期に再認識されるようになったもので、キリスト教からの思想的独立を宣言するものであった。近代に入り、方法論が確立され、宗教改革を通じて「個人主義思想」が浸透するとともに、封建的な因習や慣習から脱却する運動が発生、この動きを「自由」と謂う。

★「自由」「平等」「幸福追求の権利」は個人に天から付与された絶対の権利である、と言われる。しかし、それは「天」、つまり「神」を信じ、神との個人的な契約を前提としている。神との契約の中で、神の意に背かないことを前提している。これはキリスト教世界では通じるだろうが、日本人のように、八百万の神々的な感性には適合しにくい。

★個人主義的な自己規制の方法も、神との契約からくる制約も、いずれの守るべき原理・原則も持ちあわせていない日本人は乱れざるをえない。

★「自由」という言葉を使う以上、何からの自由なのか、その対象を明確にする必要があるし、どのような「制約」があるのかも明確化しておくべきだろう。

★現在の為政者たちは「秩序」ということを盛んに云う。「国民の自由の乱用は、秩序を乱す。だから、自由を制限する…」、と。確かに、これは、彼らの勝手な言い分である。彼らに、私の人生を委ねるつもりはないし、秩序の名のもとに、彼らの恣意をこれ以上許しておくべきではない。しかし、そうであるとしても、社会を成り立たせるためには、「原理・原則」に従うのは当然のことである。

★現在の大人たちは、このことを無視して、この20年ほど走り続けてきた。そのため、現在の混乱を引き起こしているし、若者たちをも、原理・原則を無視した「勝手気侭」に走らせている。

★このまま進めば、いずれ反動の嵐が襲ってくることは避けられないだろうし、個人の自由も集団の自由も大きな制約を受けることになろう。それを防ぐためには、それぞれの個人が原理・原則を弁え、それに則って「自由」という基本権を行使することである。

★個人が自由を行使する場合、どのような原理に従うべきなのか、どのような原則を守るべきなのか、そのことを十分検討する必要があろう。

★「自由」は守られるべき権利である。しかし、「自然」を破壊し、「生態系」を乱すものまで認められないし、「人間」が人間として生きて行く上で、不必要な混乱と社会不安を引き起こすような個人の「自由」の乱用は制限されて当然のことであろう。

★若者たちにも、勝手気侭ではなしに、「自由の概念」を捉え直してから利用してくれるよう希望する。
 (61)話〜(122)話まで、官僚批判を多く書き込んでいたせいか、何者かによって消去されてしまいました。取り合えず表題のみ掲載しておきます。

(61)知識の地ならし
(62)理解しあうこと
(63)感性の違いをどう克服するか
(64)現実感覚の喪失?
(65)現実感覚の喪失?
(66)現実感覚の喪失?
(67)男女間の嫌悪感の増幅について
(68)大阪哲学学校の合宿に参加して

(69)所詮、××やないか… 97.9.5
(70)生命の煌き
(71)町を変えよう、国を変えよう・1
(72)町を変えよう、国を変えよう・2
(73)町を変えよう、国を変えよう・3

(74)町を変えよう、国を変えよう・4 97.9.12
(75)町を変えよう、国を変えよう・5
(76)町を変えよう、国を変えよう・6
(77)町を変えよう、国を変えよう・7
(78)町を変えよう、国を変えよう・8
(79)町を変えよう、国を変えよう・9
(80)町を変えよう、国を変えよう・10
(81)町を変えよう、国を変えよう・11
(82)町を変えよう、国を変えよう・12
(83)町を変えよう、国を変えよう・13

(84)町を変えよう、国を変えよう・1437.9.13
(85)町を変えよう、国を変えよう・15
(86)現実を知らないことの恐ろしさ

(87)非行について 97.9.26
(88)町を変えよう、国を変えよう・16
(89)町を変えよう、国を変えよう・17
(90)天下り方式と上位下達システム
(91)町を変えよう、国を変えよう・18
(92)現場主義について

(93)町を変えよう、国を変えよう・19 97.10.3
(94)酒鬼薔薇聖斗シンドローム
(95)町を変えよう、国を変えよう・20
(96)差別と偏見について
(97)日本社会の閉鎖性について
(98)花博その後
(99)評論でなく、運動を
(100)町を変えよう、国を変えよう・21

(101)議論の土俵つくり 97.10.13

(102)生きる動機としての‘冒険’97.10.17
(103)生きる動機としての‘冒険’・2

(104)生きる動機としての‘冒険’・3 97.10.24
(105)人生は自己確認の旅か…?
(106)「日本再建」は可能か…?

(107)自分の夢を押し付けること 97.10.31
(108)目的と手段の倒錯について
(109)かけがえなき人々について
(110)厚生官僚、死すべし!
(111)ジャパン・アズ・ナンバーワン

(112)「父さんは強すぎる」 97.11.7
(113)予言なのか…?

(114)早すぎるガラ(崩れ) 97.11.21

(115)夢がもてへんやんか…? 97.11.28

(116)日本経済は本当に危ういのか…? 97.12.5
(117)生命の言葉が聞こえるか…?
(118)無頼のすすめ

(119)生命の声が聞こえるか…?・2 97.12.12
(120)生命の声が聞こえるか…?・3

(121)生命の声が聞こえるか…?・4 97.12.19
(122)生命の声が聴こえるか…?・5 97.12.24

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