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日本全国歴史的人物の墓を巡る旅コミュの大阪府にある歴史的人物の墓所・菩提寺等

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大阪府にある歴史的人物の墓所・菩提寺等を訪ねたよ!

って人!報告待ってます!

fromしゃけ
「ホームページアドレス」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/



※ちなみに私が訪問したことがあるところは以下の通り…

仁徳天皇陵、源頼信の墓、源頼義の墓、源義家の墓、大僧正隆光の墓、
後村上天皇陵、阿野廉子(新待賢門院)の墓、楠木正成の首塚、
楠木正行の墓、和田賢秀の墓、楠木正儀の墓

コメント(74)

・源頼信の墓

・所在→大阪府太子町太子


〜コメント〜

源頼信の墓。頼信は清和源氏の家系である満仲の三男として生まれた。兄には

大江山の酒呑童子などの鬼退治をしたという伝説で有名な源頼光がいる。頼信は

二十歳のとき中央官界に身を置き、藤原道兼や道長に仕えた。特に長元元(1028)年

に勃発した平忠常の乱の際には、乱の鎮圧に失敗した平直方にかわり追討使に任命

され反乱を鎮圧した。この乱を鎮圧したことによって、頼信は武家の棟梁としての

確固たる地位を築いた。また、上野・常陸・石見・伊勢・美濃などの国司を歴任し、

最後に河内国司となり、河内国古市郡壷井里(現壷井・通法寺)に本拠地を構え、

河内源氏をひらくもととなった。長久4(1043)年には子の頼義と共に観音堂

(のちの通法寺)を建立したと伝えられ、以後、代々河内源氏の菩提寺となり源氏の

隆栄と共に栄えた。頼信は永承3(1048)年に81歳で没し、その遺言により通法寺の

巽(東南)の方角に葬られた。ちなみにこの頼信の子孫には後に幕府を開く源頼朝や

足利尊氏などがいる。
 人皇第18代反正(ハンゼイ)天皇〔位;406〜410〕の百舌鳥耳原北陵(モズミミハラキタノミササギ)。文部科学省が田出井山古墳と命名している前方後円墳です。
 堺市堺区にあります。
・源頼義の墓

・所在→大阪府羽曳野市通法寺


〜コメント〜

源頼義の墓。頼義は頼信の嫡男で、長元元(1028)年の平忠常の乱の際に

父を助け乱の鎮圧に貢献し、早くからその武勇を東国武士に知らしめていた。

後に敦明親王に仕えて、相模・常陸・武蔵・下野の国守を務めた。頼義は東国

武士との関わりが深く、永承6(1051)年に俘囚の長である安倍頼良(のち

頼時)が反乱を起こすと乱の鎮圧にあたった。一旦は頼時を従わせたが、

その後、頼時とその子・貞任が再び反乱を起こし、前九年の役となると、

出羽の豪族清原氏の援を得て、康平5(1062)年に乱を平定し、この功績に

よって、正四位下・伊予守に任官した。その後、承保2(1075)年に88歳で

その生涯を閉じ、通法寺境内に葬られたといわれている。
 高槻市の日蓮宗常智山本行寺にある漢詩人藤井竹外(1807〜66)の墓です。
・源義家の墓

・所在→大阪府太子町太子


〜コメント〜

源義家の墓。義家は頼義の嫡男で、七歳の時に京都の岩清水八幡宮で元服

したので、八幡太郎といわれた。前九年の役では父・頼義、次弟・義綱とともに

出陣、乱を平定し、「天下第一の武勇の士」「驍勇絶倫にして、騎射すること

神の如し」と称えられた。それから20年余り後の永保3(1083)年に

父・頼義と同じく陸奥守鎮守府将軍として任国に着任すると、出羽の豪族

清原氏に内紛が起こり、やがてそれが後三年の役へと発展するが、寛治元

(1087)年には乱を平定し、京都に凱旋した。しかしながら、この後三年の

役は義家が勝手に介入した私闘であると見做され、朝廷からは恩賞が出され

なかったため、義家は私財を投げ打って部下の論功行賞を行った。義家が

私費で行賞したことは部下の東国武士を感激させ、同時に源家に対する信頼度は

さらに深まり、その忠誠心はいやが上にも増したのである。(義家の下に

あった東国武士の子孫は、源家に対する熱い思いを忘れることはなかった。

後年、義家の末裔である源頼朝が鎌倉幕府草創の兵を挙げたとき、その旗下

には義家の下にあった東国武士の子孫達が集結したのである。)いずれにしても

義家は前九年の役、後三年の役を平定したことにより、武家の棟梁としての

確固たる地位を築いたが、頼義・義家の二代による奥羽両国を制圧するという

野望は結局、果たすことができなかったため、源家にとっては「猶意趣残る国」

となり、奥羽両国を制圧することは源家累代の宿願として後年の頼朝の時代に

まで引き継がれていくこととなったのである。
 三島郡島本町の待宵小侍従(マツヨイコジジュウ)墓です。
 平安末期から鎌倉初期の女性歌人で、父は石清水八幡宮護国寺別当紀光清、母は文章博士・式部大輔菅原在良の娘で歌人として知られた小大進です。中納言藤原伊実に嫁ぎますが、40歳頃、夫に先立たれた後、二条天皇・高倉天皇等に仕え、宮仕えを終えてから歌人としての名を挙げて『千載和歌集』『新古今和歌集』等の勅撰集に54首も入首しました。特に「待つ宵にふけゆく鐘の声きけばあかぬわかれのとりはものかは」が有名になったため、待宵小侍従と呼ばれました。晩年は出家して桜井駅近くに住みました。
 慶安3(1650)年、高槻藩主永井直清によって墓の近くに顕彰碑が建てられています。
 墓と顕彰碑は名神高速道路建設地にあったため、高速道路脇に移転されました。

大阪市阿倍野区にある権中納言北畠顕家(1318〜38)の墓です。
前にも何方かアップされてましたが。

一枚目と二枚目は大阪市東淀川区にある崇禅寺です。

三枚目は高松塚古墳です。

歴史大好き人間です。
マイミク、メッセ大歓迎です!
大塩平八郎・格之助親子の墓所です。
 堺市西区にある権中納言北畠顕家(1318〜38)の墓です。南海本線石津川駅で下車して旧紀州街道を南下、石津川に架かる太陽橋を渡ってすぐの所にあります。
 南朝の若き曉将として勇名を馳せた顕家は、延元2(1337)年5月22日、僅か100騎余りに打ち減らされてしまった麾下の将兵と共に、足利政権執事高師直麾下18000の大軍に突入して21年の生涯を終えました。
 『太平記』では顕家戦死の地は摂津国阿部野とされていますが、父親房の著書『神皇正統記』では顕家戦死の地は和泉国石津(川)とされ、他の一次史料でもそれが確認されているので、現在では石津戦死説が定説となっています。
 正徳3(1711)年、『神皇正統記』の記述に基づき石津川古戦場伝承地に戦死者供養のため「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が地元住民によって建てられました。
 当時の江戸幕府はお抱え朱子学者林鵞峰(ハヤシガホウ;1618〜80)の説に従って北朝を正統としており、顕家は逆賊の扱いでしたので、幕府を憚って顕家の名は明記されず、裏面には仮埋葬を意味する「行冡」(コウモウ)の文字が刻まれました。
 ところがやがて、「行冡」が「行家」と誤読されるようになり、たまたま源頼朝の叔父の新宮十郎行家(1145?〜86)が石津で殺されたとの話があるため、この碑は「源行家の墓」と誤解されるようになってしまって、この地に植えられていた老松は「行家の松」と呼ばれていました。
 一方、享保19(1734)年、南朝を正統とする『大日本史』が刊行されたのを受けて、『太平記』の記述に従い摂津国阿部野の地に国学者並川誠所の提唱によって顕家の墓が立てられました。これは昭和15(1940)年には大阪府指定史跡となり、墓の西方には明治時代に親房・顕家親子を祭る阿部野神社も創建されて別格官幣社に列しています。
 他方、大正時代に入って石津の「源行家の墓」が実は顕家の供養塔だった事が判明、大正8(1919)年、大阪府によって墓の手前に「この付近北畠顕家奮戦地」の碑が建てられました。
 続いて、昭和12(1937)年、石津川合戦600年を記念して地元住民によって顕家、及び一緒に戦死した遠江守南部師行の供養塔が新たに建てられ、師行の弟遠江守政長の子孫である南部日実男爵が揮毫、同時に供養塔の建立の経緯を記した石碑も建てられました。
・聖徳太子廟所(磯長墓・叡福寺北古墳)

・所在→大阪府太子町太子2146


〜コメント〜

聖徳太子の墓。聖徳太子は用明天皇の皇子で名は厩戸(うまやど)皇子が

実名と考えられる。太子は叔母にあたる推古天皇の即位と同時に立太子し、

摂政として内政・外交に尽力したとされる。具体的には冠位十二階・憲法

十七条を制定して集権的官僚国家の基礎を築き、また、遣隋使を派遣して

大陸文化の導入にも努める一方で国史の編纂も行ったとされる。特に仏教

興隆には尽力し、三経義疏を著わし、法隆寺・四天王寺を建立するなど

多くの業績を残したという。そうした生前の多大なる業績に対する太子追慕

の念から聖徳太子は日本史上に残る不世出な大政治家にして聖人君主

であったとされるようになり、平安時代以降は仏教保護者として聖徳太子

自身が信仰の対象とされるようになった。(いわゆる太子信仰)しかしながら、

現在では聖徳太子の業績とされるものには様々な疑義が出されており、

中にはその業績はおろか聖徳太子の存在さえ否定するものまである。

また、かつては聖徳太子の肖像として最も有名でお札にもなっていたため、

我々日本人にはすっかりお馴染みだった「聖徳太子二王子像」も現在では

残念ながら聖徳太子のものではないと考えられるようになっているという。

その真相はいかに?ちなみにこの太子墓は径50m、高さ10mほどの

円墳で、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室であるという。太子と母君の

穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の3人の棺が納められていると伝えられる

ことから、三骨一廟と呼ばれているそうである。
 南河内郡河南町の 真言宗醍醐派準別格本山龍地山弘川寺にある西行法師(1118〜90)の墓です。江戸時代に“発見”されたものですが、実際には6〜7世紀の円墳っぽいです…。
 西行の墓を“発見”した似雲(1673〜1753)の墓です。西行と同じ弘川寺境内にあります。
堺市堺区の仁徳天皇陵に行ってきました。前方後円墳の後ろ側に鳥居があります。教科書の記憶とは似ても似つかない山城という景色でした。前方後円墳を囲んでいるお堀も城壁のお堀と同じようなものでした。
 泉大津市の浄土真宗大谷派松岡山南溟(ナンメイ)寺にある伯太(ハカタ)藩渡辺家墓所〔泉大津市ふるさと文化遺産〕です。
 初代伯太藩主となった渡辺基綱は、武蔵国野本藩で13000石を所領した譜代大名でしたが、元禄11(1698)年に武蔵国内の所領の一部を近江国へ移されたのを機に、飛び領地だった和泉国大鳥郡大庭寺(現堺市)に遷って陣屋を構え、大庭寺藩を立藩しました。その後、享保12(1727)年には、陣屋を伯太に移して伯太藩が成立したのです。以後、13000石のまま9代に亙って在封し、廃藩置県に至りました。渡辺家は明治17(1884)年の華族令で子爵に叙せられています。
・北畠顕家の墓

・所在→大阪府大阪市阿倍野区王子町3−8


〜コメント〜

北畠顕家の墓。顕家は北畠親房の長男で建武政権下では陸奥守として後醍醐天皇の皇子・

義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて、父・親房とともに奥州に下向、多賀城を国府として

東国経営に努めた。建武2(1335)年11月には鎮守府将軍に任命されている。同年に

起こった中先代の乱を平定した足利尊氏が鎌倉で建武政権に反旗を翻し、新田義貞を

破って西上するとこれを追撃して鎌倉、そして京都へと攻め上り、一旦は京を占領した

足利尊氏を九州へと敗走させた。建武3(1336)年3月には再度奥州へ戻り、奥羽・関東の

足利方の攻勢を支えるのに腐心したが、九州に逃れた足利尊氏が反転攻勢して東上し、

これを迎え討った楠木正成を自害させ(湊川の戦い)、同年6月に光厳上皇を奉じて京を

奪うと、延元2(1337)年8月に再び義良親王を奉じて奥州軍を率いて西上、利根川にて

足利軍を破り12月には鎌倉に入った。翌延元3(1338)年正月に鎌倉を発向した奥州軍

には途中で宗良親王、北条時行らが合流し、美濃青野ヶ原の戦いで足利の大軍を撃破

した。しかしながら、なぜか顕家はこの余勢をかって京都に向かうことなく、にわかに進路を

変えて南下して伊勢に後退し、次いで伊賀をへて大和に入った。当初、近江の新田義貞軍と

合流するはずだった顕家の迂回の理由を「太平記」では義貞に功を奪われるのを嫌った

からだと説明している。いずれにしても顕家が一気に京都へ攻め上らなかったのは、その後の

戦局をわけ、こののち顕家は各地を転戦するも利あらず、ついに同年5月22日に高師直軍

に敗れ、和泉石津にて敗死した。享年21歳。尚、死の直前の5月15日付で建武政権の

政道を痛烈に批判した「顕家諫奏」を死を賭して後醍醐天皇に上呈したことは有名である。
 柏原(カシワラ)市の安堂・太平寺共同墓地に戦国時代に一時畿内の覇権を握った武将である木沢長政(1493?〜1542)の墓があります。
 木沢家は幕府管領畠山氏の家臣で、長政は畠山義就(ヨシヒロ)を祖とする畠山総州家の畠山義堯(ヨシタカ)に仕えていましたが、管領細川高国と争っていた京兆(ケイチョウ)家本家の細川晴元へ取り入り、晴元の管領就任後はその権威を背景として権勢を振るい始めます。長政の公式の肩書は南山城守護代でしたが、河内国飯盛山城を拠点として河内から大和に勢力を伸ばしました。
 しかし、この長政の姿勢は、本来の主君たる畠山義堯と細川晴元側近の三好元長双方の反発を招き、両者が連携して長政に対抗する事態となってしまいました。義堯・元長連合軍は二度に亘って飯盛山城を攻撃、苦戦を強いられた長政は、享禄5(1532)年に一向一揆の蜂起を煽動して攻城軍を撃退、一揆衆は義堯・元長を相次いで自刃させるに至りました。この結果、長政は義堯の子の在氏を総州家当主に擁立して形式的主君として飯盛山城を委ね、自らは北河内守護代も兼ねて二上山城に本拠を移しました。また長政は畠山政長を祖とする畠山尾州家の畠山政国とも結んで尾州家の実権も掌握しました。
 ところが、一向一揆衆は大和国へも突入して天文の錯乱と呼ばれる騒乱を起こしたため、長政は一転して一向宗と対立する法華一揆と結び、その力で一向一揆を追討しました。そして、今度は法華一揆が強勢になると、比叡山延暦寺や南近江守護六角定頼と結んでこれを撃滅しています。これが天文法華の乱です。
 このように仏教の宗派対立を煽って操る権謀術数で勢威を振るった長政でしたが、やがて管領細川晴元も長政の増長を危惧し始め、畠山政国の兄である稙長がクーデタで政国を信貴山城へ追放、長政派を粛清したのを機に長政討伐に踏み切る事とし、晴元は三好長慶、稙長は南河内守護代遊佐長教(ユサナガノリ)を長政討伐に派遣しました。
 この結果、長政は飯森山城の畠山在氏・信貴山城の畠山政国の援軍を期待して要害堅固な二上山城から約7000の兵を率いてを出撃、石(イワ)神社付近に布陣して、北上して来る約5000人の長政軍を邀撃(ヨウゲキ)しました。これが太平寺合戦です。
 戦闘は天文11(1542)年3月17日申の刻(1500時)から開始され、約1時間に亙って激闘が続いた時、北方から約3000の兵が南下して来ました。長政は政国の援軍が駆け付けて来たと期待しましたが、それは敵側の三好長慶軍だったのです。
 こうして南北から挟撃された長政軍の戦線は崩壊、特に三好元長の子である長慶は父の仇である長政に激しい敵意を抱いて猛攻を加え、長政は飯盛山城へ逃げ込もうとしましたが、結局、長政は遊佐長教の被官小嶋某によって首を取られてしまったのでした。石神社の楠〔大阪府指定天然記念物〕は樹齢700〜800年と推定されていますから、この合戦の顛末を見届けていた訳ですね。
 柏原市の国分東条(コクブヒガンジョウ)墓地にある小禹廟(ショウウビョウ)です。
 これは越後国三条藩主稲垣重綱(1583〜1654)の供養塔です。重綱は慶安元(1648)年から翌年にかけて大坂城代を務め、芝山・松岳山南麓の沼沢地を干拓して農地に転換、国分―大坂間に剣先船と呼ばれる大和川水運を開くなど、国分村の発展に大きな寄与をした人物でした。そこで、宝暦3(1753)年に国分村船持ち仲間が重綱の百年忌を記して、この供養塔を建立しました。
 柏原市にある田辺史伯孫(タナベノフヒトハクソン)の墓と伝わる円墳です。墳丘上に宇迦之御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)を祭る田辺稲荷神社があります。初吉稲荷神社とも呼ばれます。
 かつては横穴式石室の中に祠があったんですが、大正時代に石室は破却され、残滓(ザンシ)のみが残っています。
 この周辺には田辺古墳群・火葬墓群と呼ばれる7〜8世紀の墳墓群も展開しており、田辺史一族の物と考えられています。
 田辺史については人皇第10代崇神天皇第一皇子たる豊城入彦命(トヨキイリビコノミコト)の四世孫である大荒田別命(オオアラタワケノミコト)の子孫との所伝もありますが、本来の出自は漢王の後と称する百済系渡来人と見られています。
 田辺史は、飛鳥時代から奈良時代にかけて、中堅官僚として国家の租税収納事務とか出納事務などに携わったとされ、正史上では雄略天皇9年(A.D.464)条にある「飛鳥戸(アスカヘ)郡の人田辺史伯孫が、娘が産んだ孫の祝いに婿の家行った帰り、月夜の中、誉田陵(応神天皇陵)の下で素晴らしい駿馬に乗った人と出会った。欲しくなった伯孫は自分が乗っていた馬と交換して家に帰り、秣を与えて寝た。翌る朝、この駿馬をみると埴輪の馬と化していた。驚いて誉田陵に戻ってみると、自分の馬が埴輪の馬の間に立っていた」との記録が初見ですが、この記事は飛鳥戸郡(713年安宿ヤスカヘ郡に改称)が5世紀後半に田辺史一族の居住地だった傍証になっています。
 7世紀後半、田辺史大隅の妻が内臣(ウチツオミ)中臣鎌足の次男不比等(フヒト)の乳母となった関係から、田辺史は右大臣藤原不比等の勢力を背景に壮大な伽藍を持つ氏寺を建立しました。

 大阪府柏原市にある奥田三郎右衛門忠次墓です。
 忠次は2800石の旗本で、大坂夏の陣では徳川軍の侍大将格を務めていました。
 慶長20(1615)年5月6日未明、豊臣方の後藤又兵衛が大和川を渡って小松山に布陣した事を知った徳川軍は、国分村から前進して小松山を包囲、奥田勢もその一翼を担います。ところが、0400時頃、後藤勢が猛然と突出、奥田勢の戦線は崩壊して忠次は呆気無く戦死してしまいました。
 忠次は5人の部下と共に小松山に葬られましたが、実はここは全長107mの前方後円墳である玉手山1号墳の後円部です。
 柏原市の浄土宗知恩院派玉手山円心院安福寺奥之院にある尾張侯廟所です。
 安福寺は、寺伝によれば天平年間(729〜749)に行基菩薩によって建立された古刹でしたが、中世には衰微し、小堂一棟があるのみでした。
 寛文年間(1661〜73)に浄土宗の僧珂億(カオク)上人がこの地を訪れて再建し、珂億上人の学徳に深く帰依した第2代尾張藩主・権大納言徳川光友が寺田を寄付、明治維新に至るまで歴代尾張徳川家により援助を受けて栄えました。
 光友が寄進した「山水蒔絵硯箱」「牡丹蒔絵硯箱」「菩提樹蒔絵香筥」は国の重要文化財に指定されています。
 中央に徳川光友(1625〜1700)、左に正室の千代姫(3代将軍家光の娘;1637〜99)、右に第3代尾張藩主・権中納言綱誠(ツナノブ;1652〜99)の墓である宝篋印塔(ホウキョウイントウ)が並びます。
 実は尾張侯廟所は全長110mの前方後円墳である玉手山7号墳の前方部にあります。
・畠山義深の墓

・所在→大阪府河内長野市上田町


〜コメント〜

畠山義深の墓。義深は建武の争乱の際に足利尊氏・義詮に従って各地を

転戦した。兄の国清が鎌倉公方足利基氏の執事になるとそれに従ったが、

国清が基氏の勘気を蒙って失脚すると行動を共にしていた義深も没落した。

その後、義深は数年にして室町幕府への復帰が許され摂津西成郡の分郡

守護となった。貞治5(1366)年には貞治の政変で斯波高経が失脚すると、

その追討にあたり、この功により越前守護に補任され、国清亡きあと滅亡の

危機に瀕した畠山家の嫡流として復活し、のちに室町幕府の三管領となる

河内畠山氏の祖となり繁栄の礎となった。
・安徳天皇陵(来見山陵墓)

・所在→大阪府能勢町野間出野


〜コメント〜

安徳天皇陵。安徳天皇は高倉天皇の第一皇子で母は平清盛の娘・建礼門院徳子。安徳天皇は

平清盛の強引な後押しにより、生誕一ヶ月で皇太子に立てられ、翌々年にはわずか三歳で父・

高倉天皇からの譲位により即位した。しかしながら、翌年清盛が死ぬと各地で平家追討の

動きが出て、寿永2(1183)年7月の木曽義仲の入京に伴う、平家一門の都落ちに際しては

三種の神器と共に奉じられ西国に脱出した。すると後白河上皇は後鳥羽天皇を即位させ、

天皇が二人立つという異常事態となった。以後、安徳天皇は平家一門と共に西国を転々と

したが、文治元(1185)年、源平合戦の最終決戦となった壇ノ浦の合戦で敗れた平家

一門と運命を共にし、海中に没して亡くなったとされている。しかしながら、『醍醐雑事記』

に「先帝行方不明」とあり、『玉葉』でも「旧主御事、分明せず」とされていることなどから、

実は安徳天皇は壇ノ浦から密かに脱出して生き延びたという伝説・伝承が西日本の各地に

残されていて、全国には安徳天皇陵とされるものが十数ヶ所あると言われている。尚、四国

では屋島の合戦で身代わりを立てられた安徳天皇が知盛以下の平氏一門に護られて四国に

上陸、四国山地を横断するように苦難の潜幸を続けたという伝説・伝承が各地に根強く

残されている。この能勢に伝わる伝承によると、壇の浦の合戦に敗れた安徳天皇は藤原

経房らに連れられこの地に逃れてきたが、わずか11ヶ月で亡くなったとのことである。

以上は文化14(1817)年に当地の藤原経房の子孫とされる旧家辻勘兵衛宅の屋根葺き

替えの際に、棟木に吊るした竹筒から発見された「経房遺書」によってその事実が知られる

こととなったもので、発見された当時は、幕府をはじめ全国的な話題となったものである。

『里見八犬伝』の作者・滝沢馬琴は、遺書を見たいと2年間思い続けてやっと写本を見ることが

でき、これは誰か物好きが書いた小説であろうとした。本居派の国学者伴信友も、誰が何の

ために「かかるあとなしごとの偽妄文作り出したりけむ、いと憎し」と云っている。しかし、

上方の文人木村蒹葭堂(2代目)は「土地の有様や遺書にある人物の子孫など、よく符合して

いる」と擁護している。私は、偶然にもその藤原経房の直系28代だという方にお逢いする

ことができ、ご自宅にまでお招きいただき、色々とお話を伺うことができた。壇の浦合戦の

ことをまるで昨日の出来事のように話すのが非常に印象的だった。帰り際にそこまで平家

落人伝説を調べているなら是非本を出して下さいと言われ気を良くして別れた。もう絶版に

なって手に入らない本も一冊譲っていただくことができた。
 僧浄厳の墓〔河内長野市指定史跡〕
 河内長野市の真言宗御室派薬樹山延命寺にある。
 この寺は弘仁年間(810〜24)に弘法大師空海が地蔵の石仏を刻んで本尊とし、宝憧(ホウドウ)寺の名前で創建したとされるが、中世には廃絶していた。その後、寛永16(1639)年に、この地出身の浄厳(ジョウゴン;1639〜1702)が真言宗伽羅(キャラ)山延命寺と寺号を改めて中興、更に延宝5(1677)年に薬樹山延命寺に寺号を改め、本尊も如意輪観音に変更された。近辺に薬草が多かったのが山号変更の理由だったとされる。
 浄厳は、かつてこの地に棲息した女鬼を退治した武者の子孫と称し、5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉明の知己を得て、元禄4(1691)年には吉明邸を訪れた綱吉に謁見した。その結果、綱吉に気に入られてしばしば進講を行い、江戸湯島に宝林山大悲心院霊雲(レイウン)寺を建立した事でも知られる。
 楠木正成(1294?〜1336)の甥に当たる和田正遠(ニギタマサトオ;?〜1336)の墓です。河内長野市の真言宗御室派薬樹山延命寺にあります。和田氏は楠木氏の支族ですが、母が正成の姉妹でした。湊川合戦で正成と共に戦死しています。
 堺市堺区の南海高野線三国ヶ丘駅からの仁徳天皇陵遠望です。
 豊中市の日本民家集落博物館にある摂津国原田城主原田右衛門尉(ウエモンノジョウ;?〜1547)の供養塔です。
 原田城については以下を御参照下さい。
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=77098889
 豊中市の黄檗宗雪峰山瑞輪寺にある岐翁紹偵(ギオウショウテイ)の墓です。この寺は一休宗純(1394〜1481)が20年余り在住した地で、紹偵は一休の子と伝えます。
 豊中市の臨済宗妙心寺派萬歳山松林寺にある大蔵姫(?〜1623)の墓です。松林寺今西家石造五輪塔群の一つとして豊中市指定文化財になっています。
 春日大社第36代南郷目代今西春房の娘で、豊後国岡藩初代藩主中川秀成(1570〜1612)の養女となって美作国津山藩初代藩主森忠政(1570〜1634)の正室となったとされます。但し、森家の史料には登場しません。
  春房の妻は明智光秀の娘だったため、弟の今西春光が山崎の合戦に明智方として参陣、羽柴秀吉の怒りを買って所領を没収されています。大蔵姫は光秀の外孫の可能性が高いのです。
 恐らく、大蔵姫は幼くして忠政に嫁いだものの、忠政の兄森蘭丸を討った光秀の一族のため離縁されたのではないかと推定されます。そこで実家に墓があるんでしょう。
 豊中市の服部天神宮〔村社〕にある藤原魚名(721〜783)の墓です。
 魚名は、延暦元(782)年に桓武天皇によって左大臣を解任されて大宰帥に左遷され、筑紫国へ向かう途次、この地で病没し、少彦名命の祠の近くに葬られたとされます。正史では魚名は翌年赦されて帰京した後に死去した事になっていますが…。
 なお、魚名は、奥州藤原氏・安達氏・伊達氏・結城氏・大友氏等多くの武門の祖でもあります。
 豊中市の浄土宗熊野代山宝珠寺(ホウジュジ)にある三重宝篋印塔(サンジュウホウキョウイントウ)〔重要美術品〕です。花山法皇と宝珠寺開山の仏眼上人の墓塔と伝えられますが、実際には何れも南北朝時代の製作で、東塔より西塔がやや新しいとされています。
木村重成菩提寺
真田幸村の墓
淀殿らの祀ってる場所
 大阪市中央区の浄土宗四弘山誓願寺にある井原西鶴(1642?〜93)の墓〔大阪市指定史跡〕です。
 誓願寺には享保9(1724)年に大坂の五人の豪商が出資して設立した学問所である懐徳堂の学主を務めた中井一族の墓もあります。懐徳堂は大阪大学文学部の前身にあたります。 
 中欧の写真が第二代学主の中井甃庵(ナカイシュウアン;1693〜1758)の墓です。初代学主三宅石庵(1665〜1730)の弟子で、彼の尽力によって懐徳堂は享保11(1726)年に5代将軍徳川吉宗から公認されて官許学問所となりました。
 やはり大阪市中央区にある近松門左衛門墓所〔史跡〕です。
 門左衛門の墓は、摂津国尼崎の日蓮宗久々知山広済寺と大坂の日蓮宗本覚山法妙寺の両所に設けられ、共に江戸時代から門左衛門の墓所としてよく知られていました。両寺にはそれぞれ門左衛門の過去帳があり、また墓石も同時に建てられた感があります。
 法妙寺は昭和42(1967)年に谷町筋拡張工事のため大東市へ移転しましたが、門左衛門の墓は昭和41(1966)年に国の史跡に指定されていたため移転が許されず、一基の墓だけが取り残されたのです。
 同じく大阪市中央区の本門流法華宗本経寺にある豊竹若太夫(トヨタケワカタユウ;1681〜1764)の墓です。
 若太夫は、竹本義太夫と並び称された江戸時代中期の浄瑠璃太夫で、「竹本座」のライヴァル「豊竹座」を創始した人物です。
 若太夫は大坂の商家の出身ですが、家業を捨てて竹本義太夫の門人となり、17歳頃から竹本采女(タケモトウネメ)の芸名で舞台に上がって、元禄16(1703)年、道頓堀「竹本座」の東側に「豊竹座」を創始、豊竹若太夫を名乗りました。享保3(1718)年、朝廷から従七位上上野少掾(コウズケノショウジョウ)の官途を授かって藤原朝臣重勝と称し、享保13(1731)年に豊竹越前少掾藤原朝臣重泰と改名しています。
 この間、興行主・小屋主・太夫を兼ね、天声の美声を生かした華麗な節回しは、世の人から竹本座の「西風」に対し、「東風」と呼ばれる独特の芸風を確立しました。この竹本座と豊竹座が競い合った所に浄瑠璃の発展があり、この両者が後には融合して現在の浄瑠璃の節回しの基本となっているのです。
 若太夫は延享2(1745)年の舞台を最後に引退し、以後は経営に専念、84歳の天寿を全うしました。墓は四天王寺墓地にもあります。

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