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日本全国歴史的人物の墓を巡る旅コミュの千葉県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等

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千葉県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等を訪ねたよ!

って人!報告待ってます!

fromしゃけ
「ホームページアドレス」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/


※ちなみに私が訪問したことがあるところは以下の通り…

足利晴氏の墓、松平康元の墓、杖珠院(前期里見氏菩提寺)、
里見義実の墓、里見義通の墓、里見義豊の墓、里見義頼の墓、
延命寺(後期里見氏菩提寺)、里見義康の墓、千葉宗胤の墓
大日寺(千葉氏累代の墓)、来迎寺(千葉氏胤と一族の墓)、
海隣寺(千葉氏累代の墓)、勝胤寺(千葉勝胤と一族の墓)、
東禅寺(千葉胤直と一族の墓)、光勝寺(臼井氏菩提寺)
本多忠勝の墓、本多忠勝夫人の墓、本多忠朝の墓、
甚大寺(堀田家菩提寺)、重俊院(森川家菩提寺)、
東漸寺(木曽義昌夫妻の墓)、木曽義昌の墓、太田図書の墓、
佐倉惣五郎親子の墓、雷電の墓、

コメント(46)

・太田資忠の墓

・所在→千葉県佐倉市臼井


〜コメント〜

太田図書助資忠の墓。資忠は関東管領扇谷上杉氏の家臣太田道灌の弟。

(甥という説もある。)室町時代の中期、千葉一族は、古河公方足利氏と

関東管領上杉氏との抗争に巻き込まれ、二派に分かれて争っていた。

文明10(1478)年12月、上杉方の太田道灌は、公方方の千葉孝胤を

境根原(松戸市小金)の戦いで破り、敗退した孝胤勢は一族の臼井持胤・

俊胤の守る臼井城へ逃げ帰った。翌文明11(1479)年正月、上杉方の

太田資忠と千葉自胤(武蔵千葉氏)の軍勢が、公方方の千葉孝胤らが籠もる

臼井城を包囲し、周辺の敵対する諸城を攻略したが、臼井城の防備は堅固で

あり、落城する気配がなかったため、資忠らは一旦兵を引き上げようとした。

その時、城内から兵がどっと討って出て、上杉方と激しい戦いとなり、ついに

臼井城は落城したが、この戦いにおいて、資忠をはじめとする多くの上杉方の

武将も討ち死にしたという。
・本多忠勝の墓

・所在→千葉県大多喜町新丁180(良玄寺)


〜コメント〜

本多忠勝の墓。忠勝は徳川四天王の一人で、幼い頃から徳川家康に

仕えた。初陣を飾って以来、戦場に臨むこと57回、体には1ヶ所の

傷跡もなかったと伝えられている。武田信玄との合戦では、その奮闘

ぶりから「家康に過ぎたるもの」と称され、小牧・長久手の戦いでは

秀吉から「東に本多平八郎あり、西に立花宗茂あり」と絶賛されたという。

本能寺の変に際しては去就に迷う家康に岡崎帰城を進言し、無事帰還を

果たした。天正18(1590)年家康が関東に入国すると上総国・大多喜

城主に任命され、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは家康本軍に

従軍、福島正則などの豊臣家に近い諸大名に書状を送って監視をした。

翌慶長6(1601)年になると東海道の要地である伊勢桑名10万石に

封じられた。慶長14(1609)年6月に嫡男・忠政に家督を譲って隠居、

翌年没し桑名浄土寺に葬られた。尚、良玄寺にあるこの墓は分骨され

建立されたものである。

・足利晴氏の墓

・所在→千葉県野田市関宿台町57(宗英寺)


〜コメント〜

第四代古河公方足利晴氏の墓。(晴氏の晴は室町幕府第十二代将軍義晴の

一字拝領。)晴氏は大永元(1521)年頃に父・高基の意向で北条氏綱の娘と

婚約をするがこれを履行せず、重臣簗田氏の娘を妻に迎えたため、父・高基と

対立し、その隠居を早めさせた。天文7(1538)年、北条氏綱の援助をえて、

父・高基の代から対立を続けていた叔父である小弓御所足利義明とこれを

かつぐ里見義堯と下総国国府台で戦い、義明を敗死させた。(国府台合戦)

尚、この戦いで北条氏の力を借りたことから、以後、北条氏からの強い干渉を

受けることになり、ついに氏綱の娘を夫人に迎えざるをえなくなったが、氏綱の

死後は子の氏康と断交し、関東管領山内上杉憲政・扇谷上杉朝定の両上杉氏に

味方して、公方晴氏、関東管領上杉憲政をはじめとした、上野、下野、北武蔵、

常陸、下総などの連合軍、実にその数8万余騎で北条方の河越城を攻めるも、

わずかに8千余騎の北条氏康軍の前に扇谷・上杉朝定が敗死するなどの大敗北を

喫し(河越合戦)晴氏は古河に逃げ帰った。孤立した晴氏は徐々に氏康に圧力を

かけられ、ついに天文21(1552)年12月に長男で嫡子としていた藤氏を廃嫡し、

氏綱の娘を母とする義氏に家督を譲った。その後、天文23(1554)年に氏康を

討とうとして画策をするも、反対に古河城を攻め落とされて相模国波多野に

幽閉され、のちに下総国関宿に隠退、永禄3(1560)年5月27日に没した。
市川市の里見公園内にある国府台城跡にて

北条氏康との戦に敗れた里見弘次と将士亡霊の碑

里見弘次の姫のいわくつきの夜泣き石
 夷隅郡大多喜町の浄土宗金沢山良玄寺にある本多忠勝夫妻・忠朝墓碑〔大多喜町指定文化財〕です。
・足利義明(小弓公方)夫妻の墓

・所在→千葉県市原市八幡


〜コメント〜

足利義明(小弓公方)夫妻の墓。義明は古河公方第二代

足利政氏の次男で古河公方第三代高基の弟。はじめ

僧となり、雪下殿(鶴岡八幡宮若宮別当)となって

空然を称した。その後、父・政氏、兄・高基と対立し、

永正7(1510)年に還俗し義明と名乗った。流浪の末、

上総武田氏に擁立され、下総国小弓城に入り、同城を

拠点に下総、上総、安房に勢力を伸張し、小弓公方と

尊称された。のちに勢力拡大を恐れた兄・高基と対立し

その子・晴氏の時、里見義堯と結んで下総国府台

(第一次国府台合戦)で北条氏綱・氏康父子と戦い、

敗死した。
 木更津市の浄土宗鎮西派鶏頭山西林院選擇(センチャク)寺には、信濃国高遠藩2500石初代藩主保科正光(ホシナマサテル;1561〜1631)の弟である保科正重(?〜1636)と母の墓があります。
 正重は、信州高遠城主保科正直の次男で、母は信州上田城主真田昌幸の縁者である小日向氏の女である光寿院(?〜1643)です。因みに正直の正室は昌幸の娘です。正重は壱岐守に任じられて、子の無い兄正光の養子となったものの早逝したとされていますが、墓碑からすると兄よりも後に亡くなっており、恐らく将軍徳川家康の異父妹を母とする弟の正貞を後継者とするために廃嫡されたと考えれます。
 ところが、結局、正光が2代将軍秀忠の落胤正之(マサユキ)を養子としたため、正貞も保科家出奔を余儀無くされたのでした。正貞は当寺所在地を含む上総国望陀(モウダ)郡等に4000石を与えられて旗本となりましたので、正重は弟を頼って世話になっていたものと思われます。正貞は慶安元(1648)年に17000石へ加増されて初代飯野(イイノ)藩主となりますが、正重には女子しかいなかったため家が絶えてしまいました。
 選擇寺には、『与話情浮名横櫛』で「切られ与三郎」の相棒として登場するチンピラの蝙蝠安(コウモリヤス;1804〜68)の墓もあります。
 蝙蝠安の本名は山口滝蔵で、大きな油屋の次男坊でした。『与話情浮名横櫛』に関しては以下の日記《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1959053393&owner_id=250900》を御参照下さい。
 木更津市の日蓮宗吉祥山光明寺には、『与話情浮名横櫛』の「切られ与三郎」の墓と称する物があります。「切られ与三郎」のモデルになった四代目芳村伊三郎は江戸で死んでいますので、これは供養塔です。そもそも仏像状の墓なんてあり得ないですわなあ…。
 富津市の浄土宗普載山大乗寺にある織本東岳(オリモトトウガク;1833〜92)の墓〔富津市指定史跡〕です。東岳は女流俳人織本花嬌(オリモトカキョウ;?〜1810)の曽孫で、若くして江戸に遊学し、朝川同斎に儒学、市川一学に兵学、江川太郎左衛門に西洋砲術を学び、当時一流の学者たちと親しく交わりました。慶応3(1867)年に帰郷して、富津陣屋を管轄する前橋藩に仕え、翌年、富津陣屋が飯野藩に委ねられると飯野藩校明新館の校長に招かれました。明治2(1869)年からは飯野藩権大参事(ゴンノダイサンジ)も兼ねています。明治4(1971)年の廃藩置県後は下野して、明治5(1972)年に家塾を開いて地元子弟の教育に尽くし、優れた漢学者として『俗語集成』『武辺秘事』等の多くの著書を遺しました。
 富津市の内裏塚古墳〔千葉県指定史跡〕の墳丘上には絶世の美女として知られた珠名娘子(タマナオトメ)の塚があります。
 『万葉集』に奈良時代の歌人である高橋虫麻呂(タカハシノムシマロ)の「上総末の珠名娘子を詠める歌一首」が収録されています。
 「しなが鳥 安房に継ぎたる梓弓 末の珠名は 胸別の広けき我妹 腰細のすがる娘子のその姿の きらきらしきに花の如 笑み立てば珠桙の道 行き人は 己が行く 道は行かずて呼ばなくに 門に至りね さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻離れて 乞はなくに鍵さへ奉る 人皆の かく迷へればうちしなひ 寄りてそ妹は たはれてありける」
 意味は「安房国に連なる周准(スエ)郡の珠名と言う娘は巨乳の可愛い娘 蜂のようにウエストが細くくびれている娘 その美しい顔で、花のように微笑んで立っていると 道ゆく男は行く先を忘れ、呼ばなくても門まで来てしまう 隣の家の主人は、妻を離縁し、頼みもしないのに鍵まで渡して来る 皆が血迷うものだから、娘は調子コイテ遊んでばかりいる」って感じです。
 木更津市の浄土真宗本願寺派護念山證誠(ショウジョウ)寺にある狸塚です。
 寛文年間(1661〜73)に当寺が開山された頃のこの付近は「鈴ヶ森」と呼ばれ、杉・松・檜が生い茂る周囲を竹薮が囲む昼間でも暗く薄気味悪い場所だったため、夜になると一つ目小僧やロクロ首等の物怪が現れると噂されていました。その結果、群馬県館林市の『分福茶釜』や愛媛県松山市の『八百八狸物語』と並んで日本三大狸伝説の一つとされている『狸囃子』伝説が生まれたのです。
 伝説は以下の通りです。
 ある時、證誠寺に西国出身の新任住職了然(リョウネン)和尚が着任しましたが、その晩から噂に違わず一つ目小僧やらロクロ首等の妖怪が現れます。実はこの妖怪達の正体は、この森を住処とする狸達でした。彼等は、妖怪に化けては訪れる人間たちを驚かして楽しんでいたのです。
 ところが了然はそれを見ても全く驚かず、平然としていたため、狸達の癪(シャク)に障り、親分格の大狸は「是非とも新任和尚を驚かせてやろう」とある事を思い付きました。
 ある秋の晩の事、何者かが寺の庭で大騒ぎしていたため、目を覚ました了然和尚が外の様子に耳を凝らしてみると、それはお囃子(ハヤシ)のようでした。不思議に思った了然がこっそり庭を覗くと庭の真ん中では大狸が腹を叩いてポンポコと調子を取り、それを囲むように何十匹もの狸が楽しそうに唄い踊っていたのです。
 その様子を見ていた了然もつい楽しくなってしまい、自慢の三味線を持って思わず庭に出てしまいます。そんな了然を見て狸たちは「まだ驚かないのか!?」とばかりに、さらに大きく腹鼓を鳴らします。了然も負けじ三味線で対抗したため、了然和尚と狸の音楽合戦の様相を呈して来ました。
 それから毎晩、和尚と狸たちは唄い踊っていましたが、四日目の晩、狸達が一向に現れないので和尚が不思議に思っていると、翌朝、庭には調子を取っていた大狸が腹を破って死んでいました。調子コキ過ぎて腹が破裂してしまったのです。
 不憫に思った了然はその大狸を懇ろに弔ってやりました。これが狸塚です。
 それから證誠寺では、ぱったりと怪異が止みましたが、明るい満月の夜には、どこからか、ポンポコ、ポンポコと太鼓の音が聞こえてくる事があるそうです。
 證誠寺では、この伝説を記念して毎年10月中旬に、地元の小学生が狸伝説を模して踊る狸まつりが開催されています。
 明治38(1905)年、この伝説を地元の俳人松本斗吟が文芸誌『君. 不去』に書いて紹介しました。
 大正8(1919)年、木更津町と君津郡の教育委員会の招きで木更津へ講演に来た詩人の野口雨情(1882〜1945)は『君. 不去』を読んで狸伝説を知り、大いに関心を抱きます。
 この結果、野口雨情は作詞を行って、児童雑誌『金の星』大正13(1924)年12月号に『証城寺の狸囃子』を発表しました。
 その後、『金の星』を見た作曲家中山晋平平(1887〜1952)がその歌詞を元に改作し、曲を付けて『金の星』大正14(1925)年1月号で発表しました。この際、野口は旅行中で連絡が着かなかったため、掲載は『金の星』を主宰する齋藤佐次郎が独断で行いました。こうして、童謡『証城寺の狸囃子』が生まれたのです。
 なお、童謡のタイトルは当寺とは字が変えられています。
 一方、『Come Come EveryBody』は昭和21(1946)年にNHKがラジオ英語講座のために作った『証城寺の狸囃子』の替え歌です。英語の方が元歌だと誤解している人も多いようですが…。
 富津市の真言宗智山派金華山華蔵院にある諸岡太郎左衛門(モロオカタザエモン)の墓〔富津市指定史跡〕です。
  明和7(1770)年、金谷村は旗本白須(シラヅ)甲斐守政雍(マサチカ)の知行地となりました。当寺の金谷村は村高520石余・家数427軒・人口2300人余でした。政雍は江戸定番だったため、金谷村統治は下役の地頭所役人達に委ねられ、村高に比して人口が多いとして度々村民の実情を無視した重税が課せられていました。特に天明3(1783)年の浅間山大噴火によって天明の大飢饉が深刻化していたにも拘らず、天明4(1784)年には年貢8石増が命じられ、更に天明5(1785)年3月には百姓の持山を伐り払う事となったため、村民の薪炭材採取を禁ずる「鎌止め」「鉈(ナタ)止め」の布令が出されるに至りました。
 この結果、田畑の持ち高が少なくて山稼ぎで渡世していた小百姓達は生計が破綻したため、名主や村役人が何度も地頭所役人達に布令撤回を嘆願しましたが却下され続けていました。そこで止む無く同年3月13日、85人もの村民が江戸麹町(コウジマチ)の白須邸に押し寄せる事態となってしまいました。こうして、政雍は年貢8石増と「鎌止め」「鉈止め」を取り止める事を申し渡し、村民の生活は回復しましたが、江戸府中に於いて大勢で門訴を行う騒動を起こした以上、幕府としても捨て置けず、参加者全員を重罰に処す事も検討され始めたのです。そのような状況下の同年10月、同村百姓の諸岡太左衛門と惣兵衛から「今回の件は自分達二人のみが企画したものであり、残りの連中は訳が判らないまま勝手に付いて来ただけなので容赦して欲しい」との嘆願書が幕府勘定奉行所に提出されました。こうして太左衛門と惣兵衛は投獄され、天明6(1786)年3月、勘定奉行桑原伊勢守盛貞は太左衛門に全財産没収の上で遠島、惣兵衛に居村及び江戸払いの刑を申し渡したのです。他の村民は手鎖3人・過料銭10貫文80人の寛刑で済みました。しかし、太左衛門は判決に先立つ1月7日に45歳で獄死してしまっており、彼の犠牲的行為を徳として、以後村民は供養を続けました。太左衛門の法名は梅香了運居士(ウメカリョウウンコジ)です。
 安房郡鋸南町の曹洞宗乾坤山日本寺にある大野甚五郎英令の墓です。
 英令は上総国望陀(モウダ)郡桜井村の石工で、安永8(1779)年に日本寺住持の高雅愚伝(コウガグデン)から千五百羅漢の製作を依頼され、門弟27人と共に寛政10(1798)年までの前後約21年の歳月をかけて約1553体の石仏を刻みました。
 また、この間、英令は天明3(1783)年には新たな本尊として薬師瑠璃光如来(ヤクシルリコウニョライ)の巨像も完成させています。この結果、日本寺は日本三大薬師の一つとして多くの参拝客を集める事となったのです。
 野田市の日蓮宗宝樹山本足院実相寺です。

左・中;内閣総理大臣鈴木貫太郎男爵大将(1868〜1948)
右;陸軍技術本部長鈴木孝雄陸軍大将(1869〜1964)墓 貫太郎の弟です。
 野田市の浄土宗天機山傳通院光岳寺にある牧野康成(1548〜99)供養塔です。
 康成は三河の国人領主出身で家康に仕え、家康の江戸入府後は武蔵国足立郡石戸5000石の領主となりました。下総国関宿17000石の大名となった息子の信成が城下の光岳寺に供養塔を建てました。
 野田市の観照山花林院宗英寺にある墓です。

左;古河公方足利晴氏(1508〜60)墓 北条氏康に敗れて没落しました。
中;関宿藩主松平康元(1552〜1603)墓 徳川家康の異父弟です。
右;関宿藩中老船橋随庵(1795〜1872)墓 治水・灌漑用の水路「関宿落」を掘削した治水家です。
 佐倉市にある青菅の大塚・小塚〔佐倉市指定史跡〕です。
 https://www.google.com/maps/@35.7456878,140.1463384,16z
 大塚は一辺約30mの方形をした古墳の様に見えますが、江戸時代に青菅村等を領有し、青菅陣屋を設けていた旗本川口家四代の墓です。
 初代川口宗勝の祖父川口盛祐は一族の川口宗持の養子となり、大河内元綱の養女於富(オトミ)の方(華陽院)を娶り宗吉を儲けました。於富の方は数奇な生涯を送った女性で、最初、水野忠政に嫁いで於大(オダイ)の方(徳川家康の生母)を産みますが、松平清康(家康の祖父)に奪われます。清康の暗殺後、星野秋国に嫁ぎますが死別、次に菅沼定望に嫁ぎますが又もや死別、最後に川口盛祐の妻となった女性です。盛祐の死後は出家して、今川義元治下の駿府に赴き、孫の竹千代(家康)の養育に携わりました。
 川口宗勝は天文17(1548)年に宗吉の子として生まれますが、母は織田信長の叔母だとも云われています。当初は水野信元(忠政の子)に仕えますが、永禄6(1563)年に柴田勝家の家臣となり、翌永禄7(1564)年には織田信長の直臣となって弓大将に取り立てられました。永禄9(1566)年に木下藤吉郎が墨俣一夜城を築いた時に与力した人物でもあります。本能寺の変後は織田信雄、次いで豊臣秀吉に仕えて伊勢・尾張両国内で18000石を領しました。
 慶長5(1600)年の関ヶ原合戦前夜、宗勝は大坂城におり、東軍に味方するつもりで中江直澄と共に出立しましたが、増田長盛(マシタナガモリ)・長束正家(ナツカマサイエ)に留められたため心ならずも西軍に属さざるを得なくなりました。伊勢安濃津城攻め等に参加しますが、西軍が敗れると高野山に蟄居し、所領を没収されて身柄を伊達政宗に預けられました。慶長11(1606)年に至って2代将軍秀忠に許されて下総国青菅2500石を賜り、旗本に列しました。
 慶長17(1612)年、宗勝の死によって跡を襲った2代目宗信は2000石に減封され、3代目宗次(?〜1652)も2000石でしたが、4代宗恒(ムネツネ;1630〜1704)は目付・長崎奉行・江戸北町奉行等を歴任しました。特に長崎奉行として貞享2(1685)年に清・オランダとの年間貿易額を制限する御定高制度(オサダメダカセイド)を制定し、金銀銅の海外流出阻止に成功した功績が評価されて、下総国香取郡阿玉台村・須賀山村、印旛郡吉田村・松虫村・吉高村・青菅村の計2700石に加増されました。さらに、通常は3000石以上の旗本が対象の旗本寄合席にも列しています。
 宗恒の隠居後、5代目となった宗直は元禄14(1701)年に印旛郡内の領地を安房国内に移され、安房郡真倉村藤井陣屋へ本拠を移しています。
 大塚は川口宗勝・宗信・宗次・宗恒の墓所で、小塚は夫人の墓所と伝えられているため、大塚を男塚、小塚を女塚と呼ぶ事もあります。伝承では大塚・小塚ともに初代宗勝の時に築造され、大塚には四代全ての髻(モトドリ)が埋葬されているとされるため、別名「もとどり塚」とも呼ばれています。
 青菅の大塚・小塚周辺では、地域住民により「ミチカリ」がおこなわれており、かつての「ミチカリ」は、塚周辺の清掃および、道に繁る枝を刈り、道を掃いたりする青菅地区の年中行事でした。現在でも当時とは若干姿を変えていますが、毎年行われています。
 佐倉市の曹洞宗常歳山勝胤寺(ショウインジ)です。
 https://www.google.com/maps/@35.7320518,140.2539544,18z
 亨禄5(1532)年に本佐倉城主千葉勝胤(チバカツタネ)が華翁祖芳(カオウソホウ)を開山として招き創建した寺院で、勝胤の名が寺名となりました。伝千葉勝胤像など千葉氏に関する寺宝を有し、千葉氏の祈願所となっていました。本尊は釈迦如来です。千葉氏滅亡後の天正19(1591)年に権大納言徳川家康より寺領20石を与えられましたが、当時は山門・客殿・祖師堂・方丈・庫裡(クリ)・衆寮・江湖寮・鐘楼・回廊・地蔵堂・鎮守社・秋葉権現社等の伽藍(ガラン)が並ぶ大寺院でした。明治元(1868)年の廃仏毀釈で零落し、現在では堂宇は僅少となりましたが、境内地は広大な面積を保っています。
 勝胤寺には寺宝として千葉石(チバイシ)と呼ばれる三日月形の紋様が浮かび出ている奇石が保管されています。
 延長8(930)年6月18日、平良文(タイラノヨシフミ;将門の叔父)の三男忠頼(タダヨリ)が下総国千葉郡千葉郷で生まれて祝宴が開かれていた際、月と星の印を持つ小石が空から降って来たため、吉祥として朝廷に献上され、人皇第60代醍醐天皇〔位;897〜930〕が千葉石と命名、忠頼の子孫は千葉氏と称して、嫡流は「月星」を家紋にし、末流は「星」を家紋にする事となったとされています。
 その後、寛文12(1972)年に至って千葉氏の子孫である千葉正胤(チバマサタネ)によって勝胤寺奉納されました。
 勝胤寺中世石塔群〔佐倉市指定史跡〕は、戦国時代に造立された五輪塔と宝篋印塔(ホウキョウイントウ)で、その石材には何れも銚子砂岩が使用されています。天正7(1557)年5月4日に死去した本佐倉城主千葉胤冨(チバタネトム)の供養塔を中心とし、その子邦胤(クニタネ)夫妻・邦胤の子重胤(シゲタネ)等の供養塔が並びます。
 佐倉市には平将門の愛妾桔梗の墓とされる桔梗塚(キキョウヅカ)があります。
 https://www.google.com/maps/@35.7250913,140.250191,18z
 平将門には七人の影武者がいましたが、桔梗が将門と影武者の見分け方を漏らしてしまったために将門は落命したとの話があり、そのため将門の呪いで彼が活躍した地では桔梗の花は咲かなくなったとされています。
 「花もなく 茂れる草の 桔梗こそ いつの時世に 花のさくらむ」の歌が刻まれていました。
 佐倉市にある太田図書資忠の墓です。江戸城主太田道灌の弟、若しくは甥とされ、文明11(1479)年7月15日に臼井城攻防戦で戦死しました。
 詳しくは以下を御参照下さい。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981413927&owner_id=250900
 佐倉市の臨済宗妙心寺派瑞湖山円応寺にある臼井氏歴代墓と岩戸胤安墓です。
 詳しくは以下を御参照下さい。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981422312&owner_id=250900
 大関雷電為右衛門(1768〜1825)の墓です。佐倉市にあります。
 佐倉市の浄土宗玉宝山清光院松林寺にある土井利勝父母夫人供養塔〔佐倉市指定文化財〕です。
 松林寺は寛永年間(1624〜44)に佐倉藩主土井利勝(1573〜1644)が照誉了学(ショウヨリョウガク)を開山として開基した寺院です。
 供養塔は土井利勝が養父・養母・正室の菩提を弔うために造立した宝篋印塔(ホウキョウイントウ)です。
 中央の塔は、慶長3(1598)年7月11日に死去した養母(葉佐田則勝の長女)供養塔です。33回忌にあたる寛永7(1630)年7月11日に造立された物で「玉等院殿清誉壽安大禅定尼」と刻まれています。
 正面向かって左側の石塔は、慶長11(1606)年9月11日に死去した養父土居利昌の供養塔です。寛永7(1630)年7月11日に造立された物で「宝光院殿本誉見貞大禅定門」と刻まれています。利勝は三河国刈谷(カリヤ)城主水野信元の庶子でしたが、天正3(1575)年に信元が讒言によって織田信長の命で殺害されると、徳川家康の計らいで土井利昌の養子になりました。利昌には実子の甚三郎元政がいたにもかかわらず、それを差し置いて利勝が家督を継いでいるため、実は利勝は家康の隠し子だったとの説もあります。
 右側の石塔は、元和3(1617)年9月5日に死去した正室(松平近清の娘)の供養塔です。13回忌にあたる寛永7(1630)年9月5日に造立された物で「清光院殿浄誉明徹大姉」と刻まれています。
 佐倉市の臨済宗妙心寺派正覚山宗円寺にある順天堂創立者佐藤泰然(1804〜72)の墓です。
 宗円寺にある順天堂第4代堂主で陸軍一等軍医正の佐藤舜海(1843〜1911)の墓です。
 佐藤家の面々の業績については以下を御参照下さい。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981446675&owner_id=250900
 佐倉市の天台宗安城山不矜院甚大寺にある堀田正俊(1634〜84)墓です。下総国古河(コガ)130000石を領し、5代将軍綱吉の時代に大老を務めましたが、江戸城内で刺殺されました。
 甚大寺にある堀田家歴代の墓です。出羽国山形100000石堀田正虎(1662〜1729)・佐倉110000石堀田正亮(1712〜61)・佐倉110000石堀田正順(ホッタマサナリ;1745〜1805)等の物です。
 甚大寺にある老中首座・佐倉藩主堀田正睦(ホッタマサヨシ;1810〜65)墓と頌徳碑です。アメリカ合衆国総領事タウンゼント=ハリスと日米修好通商条約調印交渉を行いました。
 甚大寺の堀田家墓所です。

左・中;
 最後の佐倉藩主堀田正倫(ホッタマサトモ)伯爵(1851〜1911)墓。明治23(1890)年に佐倉へ戻って、私立の農事試験場設立や佐倉中学校への校舎寄贈等を行い、佐倉の発展に尽力しました。
右;
 堀田正恒(ホッタマサツネ)伯爵(1887〜1951)墓。旧肥前国蓮池藩主家の鍋島直柔(ナベシマナオトウ)子爵の次男として生まれ、堀田正倫伯爵の婿養子となって家督を継ぎました。海軍省政務次官・大日本農会会頭・帝国農会特別議員・夕張鉄道取締役等を歴任しています。
 佐倉市の真言宗豊山(ブザン)派大和田山大聖院(ダイショウイン)明王寺にある佐倉藩刀鍛治の細川忠義(1815〜70)墓です。
 忠義は名刀工と謡われた細川正義の次男で、下野(シモツケ)国宇都宮藩鹿沼で生まれ、21歳で江戸へ出て津山藩江戸屋敷にて正義と共に鍛刀に励み、26歳の時に父と一緒に松平家津山藩のお抱え刀工となりました。その後、35歳の時に佐倉藩へ藩工として迎えられ、此の地で生涯を過ごしたのです。
 君津市の真言宗豊山(ブザン)派人見山青蓮寺(ショウレンジ)にある近江屋甚兵衛墓〔千葉県指定史跡〕です。
 甚兵衛(1766〜1844)は江戸四谷に生まれ、浅草海苔を売る一方、海苔の養殖と製造法を研究し、河川の流入する遠浅の海に「ひび木」を立て込めば必ず成功するとの信念を持つに至りました。当時、江戸湾の海苔は品川と大森にしか出来ないとされていましたが、甚兵衛は55歳の時、新しい土地での海苔作りを思い立ち、海苔作りの勧誘・指導の旅に出ます。先ずは江戸川河口の下総国浦安へ赴きましたが、「ひび木」なんか立てると貝を取りにくくなると猛反発され、止む無く養老川や小櫃川の河口でも交渉をしますが、浦安の連中が「海苔養殖に協力なんかしたら一切の取引を停止する」と内房一帯に伝達していたため、交渉は悉く失敗してしまいます。そして、文政5(1822)年秋に最後の望みをかけた小糸川河口の人見村で、名主が反対意見を抑えて甚兵衛の海苔養殖の提案を受け入れてくれたため、苦労の末、海苔養殖が成功したのです。
 その後、甚兵衛の指導によって近在の村々に海苔養殖が普及し、「上総海苔」として全国にその名を博する事になります。また、海苔養殖の成功により、それまで零細な沿岸漁業で食い繋いでいた貧しい人見村が豊かな収入を持つ地へと変貌したのでした。
 ただ、晩年の甚兵衛は、商取引上のトラブルから海苔販売から撤退を余儀なくされ、失意のうちに弘化元(1844)年9月12日に亡くなりました。享年79。村人達は甚兵衛の死を悼み、前畑(現;君津市人見3丁目)の薬師堂墓地に手厚く葬りましたが、明治44(1911)年3月に至って、漁業組合の世話人により青蓮寺境内に墓が移されたのです。
 千葉県君津市にある貞元親王墓〔君津市指定史跡〕です。
 貞元親王(869?〜910)は人皇第56代清和天皇第三皇子で、母は参議藤原仲統(フジワラノナカムネ;818〜875)の娘です。四品上野太守を務めた人物で、上総国とは特に縁が無かったにも拘わらず、当地には貞元親王が上総へ下向して当地で没したとの伝承があり、少なくとも江戸時代には貞元(サダモト)村が存在していました。
 伝説によると、親王は当地出身で。かつて宮仕えをしていた「お万」という女性を追ってやって来たのだとされ、近江から持参した蓮華草の種を肥料として米を作る技術指導を行ったとされています。このため、当地ではレンゲ草の事を「親王草」「貞元草」等と呼ぶのだそうです。
 現在の墓碑は延宝6(1678)年に、親王とお万の子孫と称する地元の富農平野権左衛門が建てた物で、その碑文に権左衛門は「清和天皇第三皇子貞元親王墓施主平野権左衛門」と記したのですが、地元領主の旗本梶川三之丞に仕える関戸源三衛門がこれを見て「この平野氏は貞元親王に由緒があるか」と問い、土地の者は系図僭称を追及される事を恐れて「そうではない」と答えたとされます。そのため、源三衛門は「子孫でも無い者が皇族墓の施主となるのは不敬であり、平野氏は将来没落するだろう」と述べ、村人がそれを権左衛門に伝えたところ、権左衛門はいたく気にして「施主」以下の文字を削りましたが、その後平野家は本当に衰退してしまったそうです。
 現在でも当地の地名は「貞元」であり、貞元出身の歌人平野峯郎(1912〜2002)が昭和38(1963)年に作詞した君津市立貞元小学校校歌は「清和の昔 貞元の みこがおわせし この郷に」から始まる歌詞となっています。峯郎が権左衛門の子孫なのかどうかは不明です。
 君津市の白山神社古墳〔千葉県指定史跡〕です。
 古くから上総国には、壬申の乱に敗れた人皇第39代弘文天皇〔位;672〕、即ち大友皇子(オオトモノミコ)が逃れて来て「小川宮」に居住していたものの、天武天皇の追っ手に見つかって自決し、小川宮跡に葬られたとの伝説があります。その後、天武天皇13(684)年に勅使が下向して小川宮跡に社殿を造営して大友皇子を祀り田原神と称したのが白山神社の起源だとされています。
 明治時代に弘文天皇陵指定請願が地元で行われましたが、実際には4世紀後半頃の築造です。
 君津市の曹洞宗千光山円覚寺の土屋家五輪塔〔君津市指定史跡〕です。
 土屋忠直は武田勝頼に殉じた猛将土屋昌恒(ツチヤマサツネ;1556〜82)の子で、徳川秀忠の小姓として家康に召し抱えられ、天正19(1591)年に相模国内で3000石を与えられた後、慶長6(1601)年末に関ヶ原合戦の功により遠江国横須賀60000石に加増転封された大須賀忠政の後を襲って、上総国久留里20000石を与えられました。慶長17(1612)年に忠直が死去すると、僅か5歳の利直が家督を相続しますが、慶長20(1615)年の大坂夏の陣に際しては幼少のため家臣を代理として参陣させ、相模小田原城と箱根関所の警備を務めました。
 利直の時代に江戸詰めの目付を務めていた新井正済の子伝蔵が、後に正徳の治を行う新井白石(1657〜1725)で、利直は幼いが聡明な伝蔵の事を「火の子」とよんで可愛がったと伝えられています。これは、伝蔵が怒ると眉間に「火」の字に似た皺が生じた事に由来します。
 延宝3(1675)年に土屋利直が死去すると、息子の直樹(ナオキ)が後を襲いますが、直樹は「狂気」の人物だったため、新井正済は一度も出仕しませんでした。このため激怒した直樹は延宝5(1677)年に正済を追放、しかも他藩への仕官を禁ずる奉公構(ホウコウカマイ)としたため、少年時代の白石は困窮の中で育つ事になりました。
 その後、土屋直樹は延宝7(1679)年に狂気を理由に改易され、久留里城も破却されてしまいました。しかし、甲斐武田家以来の名門であることを考慮されて、長男の逵直(ミチナオ)が遠江国内で3000石を与えられ、土屋家は旗本として存続する事となります。

左;久留里藩主土屋忠直(1582〜1612)墓
中;忠直正室墓
右;久留里藩主土屋利直(1607〜75)墓
 君津市の曹洞宗久留里山真勝寺にある最後の久留里藩主黒田直養(クロダナオタカ;1849〜1919)の墓です。慶応2(1866)年に養父直和(ナオヤス)の隠居に伴って家督を相続しました。廃藩置県後、個人的に多額の負債を抱えていたため、明治10(1877)年に直和の次女である鏻子(レイコ)へ家督を譲って隠居した上で、翌年別家しています。鏻子は対馬藩主宗義和(ソウヨシノリ)の六男和志(ヨリユキ)を夫に迎えて、明治14(1881)年に黒田家を継承させ、和志は明治17(1884)年に子爵に叙されました。
 同じく真勝寺にある久留里藩士杉木良蔵・良太郎親子の墓です。
 慶応4(1868)年2月、徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎した際、久留里藩主黒田直養(ナオタカ)は越後高田藩主榊原政敬(サカキバラマサタカ)と共にその警護を務め、新政府に恭順するかどうか逡巡していました。その様な状況下の同年4月上旬、江戸を脱出し真里谷に駐屯していた福田八郎右衛門麾下の旧幕府軍撤兵隊が援軍を要請して来たため、久留里藩論は佐幕に傾きました。しかし、新政府軍が小櫃(オビツ)地区の山本に迫り撤兵隊が逃走してしまったため、久留里藩も官軍に帰順する方針になったのです。ところが、4月10日、若き久留里藩士杉木良太郎が久留里に進駐して来た官軍の一兵卒が「久留里の腰抜侍」と言ったのを耳にして激怒、家に刀を取りに帰って「徳川の恩義に報いるのは今なり」と一人で官軍の陣地に斬り込もうとする事態が突発します。それを知った父良蔵が、藩を守るために泣く泣く息子良太郎の首を斬り、官軍の陣に差し出したため、久留里藩は朝敵になる事を免れたのでした。

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