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日本全国歴史的人物の墓を巡る旅コミュの京都府にある歴史的人物の墓所・菩提寺等

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京都府にある歴史的人物の墓所・菩提寺等を訪ねたよ!

って人!報告待ってます!

fromしゃけ
「ホームページアドレス」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/



※ちなみに私が訪問したことがあるところは以下の通り…

足利尊氏の墓、等持院(足利将軍家菩提寺)、足利義詮の墓、
足利義教の墓、足利義政の墓、日野富子の墓、小野篁の墓、
紫式部の墓、安倍晴明の墓、坂上田村麻呂の墓、源為義の墓、
源頼政の墓、平清盛の墓(六波羅蜜寺)、平清盛の墓(祇王寺)、
木曽義仲の首塚、新田義貞の首塚、勾当内侍の墓、
赤松円心(則村)の墓、楠木正行の首塚、細川頼之の墓、
長慶天皇陵、後亀山天皇陵、承朝王墓、山名宗全の墓、
細川勝元の墓、細川勝元夫人、細川政元の墓、細川氏綱の墓、
細川稙国の墓、細川勝益の墓、藤原定家の墓、藤原為家の墓、
織田信長の墓(本能寺)、織田信長の墓(阿弥陀寺)、
織田信忠の墓、森蘭丸の墓、森坊丸の墓、森力丸の墓、
豊臣秀吉の墓、豊臣秀次の墓、秀頼首塚、安国寺恵瓊の墓、
長宗我部盛親の墓、藤原仲子、藤原厳子の墓、光照院宮の墓、
三時智恩院了山の墓、宗鏡禅師の墓、曲直瀬道三の墓、
高雲院宮の墓、伊藤若冲の墓、雪村友梅の墓、壬生塚、
和泉式部墓所、玉田寺(一色氏菩提寺)、稲富一夢斉の墓、
和泉式部の歌塚

コメント(114)

京都霊山にある木戸孝允(桂小五郎)侯・松子(幾松)の墓所です。
 清水寺にある阿弖流爲(アテルイ)と母礼(モレ)の慰霊碑です。
 二人は現岩手県奥州市付近に割拠していた蝦夷(エミシ)の長で、北上する朝廷軍に徹底抗戦を貫いていましたが、延暦21(802)年に征夷大将軍坂上田村麻呂に降伏しました。田村麻呂は二人の助命を約束して平安京に同行させますが、桓武天皇は田村麻呂の要請を却下して二人を斬首してしまいました。言わば、騙まし討ちにされた形になった訳で、怒った蝦夷達は再決起して激しく朝廷軍への抗戦を続けて行く事になるのです。
 人皇第88代後嵯峨天皇〔位;1242〜46〕嵯峨南陵とその子である人皇第90代亀山天皇〔位;1259〜74〕亀山陵です。二人の離宮跡に建つ天龍寺境内にありますが、参拝不可です。
 関白藤原頼通の娘で人皇第70代後冷泉天皇〔位;1045〜68〕の皇后となった四条宮寛子(1036〜1127)の供養塔です。寛子は92歳の長寿を保ったため、白河院政時代の人々から摂関家全盛時代を知る生き証人として敬意を集めていました。
 九重石塔である供養塔は宇治市の白川金色院跡にあり、国の重要美術品に認定されています。白川金色院は康和4(1102)年に寛子が創建し、伽藍に黄金を鏤(チリバ)められていました。この三年後に建立された奥州平泉の中尊寺金色堂は、この金色院を模した物だと言われます。
京都霊山にある坂本竜馬の墓へ行ってきました。
京都霊山にある中岡慎太郎の墓へ行ってきました。
坂本竜馬の墓と並んで立っています。
京都の戒光寺の御陵衛士の墓所参拝してきました。
・山名宗全(持豊)の墓

・所在→京都市左京区南禅寺福地町86(南禅寺真乗院)


〜コメント〜

応仁の乱の西軍の総大将・山名持豊(出家して宗全)の墓。宗全は山名時熙の次男で

兄・持煕が足利義教の勘気にふれ、廃嫡されたことにより山名氏の家督を継いだ。

山名氏は曽祖父・時氏、祖父・時義の代には六分一殿、六分一家衆と呼ばれていたが、

明徳の乱により山名氏の勢力は大きく衰退していた。しかしながら、嘉吉の乱で足利

義教が赤松満祐に討たれると侍所頭人として、赤松氏追討の主力となり、乱後、赤松氏の

旧領を得るなど、山名氏の領国は増え、六分一殿といわれた時代に迫る勢いを示した。

持豊は拡大した分国を維持するため娘を細川勝元に嫁がせるなど慎重に保全策を巡らし

たが、細川氏が山名氏を牽制するために赤松家の再興を支援するようになると次第に

対立するようになり、同じ頃、三管領の畠山家、斯波家では家督相続問題が起こり、

畠山政長、斯波義敏が細川勝元を頼ったため、彼らと対立する畠山義就、斯波義廉は

持豊を頼ることとなった。さらには足利将軍家の継嗣争いが加わり、勝元が足利義視

(義政の弟)の後見人を引き受け、日野富子が対抗して宗全に足利義尚(義政の子)の

後見を依頼したことにより両者の対立は決定的なものとなり、応仁元(1467)年に

応仁の乱が勃発した。宗全の西軍は当初こそ「公方の御敵」とされ、劣性であったが、

大内政弘が大軍を率いて上洛、西軍方に加わったことにより、両軍の勢力は互角となり、

戦局は長期化の様相を呈するようになった。膠着状態が続く中、未曽有の争乱は地方

にも拡大、勝敗が決まらないままに、文明5(1473)年3月に宗全が病死、続いて

勝元も5月に病死した。翌年4月にそれぞれの家督を継いだ山名政豊と細川政元との

間で和睦が成立したが、世はすでに戦国時代に入っていた。
・細川政元の墓

・所在→京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町(龍安寺)


〜コメント〜

細川政元の墓。政元は応仁の乱の東軍の総大将・細川勝元の子で、文明5(1473)年に

勝元が没したため、8歳で京兆家を継ぎ、摂津・丹波・讃岐・土佐の守護となり、管領を

4度務めた。長享3(1489)年に九代将軍・義尚が近江国で陣没すると、政元は足利

政知の子・清晃の擁立を図るが、畠山政長らが足利義視の子・義材(のちの義稙)を

擁立して将軍とした。そこで政元は明応2(1493)年閏4月に政敵畠山政長を攻め

殺して将軍義材を廃立し、清晃(のちの義澄)を将軍に擁立、細川京兆家の専制体制を

開始した。しかしながら、政元は修験道に凝って政務を疎んじ妻帯もしなかったので

子がなく、九条政基の子・澄之、阿波守護細川成之の孫・澄元、さらには一族の細川

高国をも養子に迎えている。このため有力被官間の抗争が激化し、養子とした澄之・

澄元・高国の家督争いにまき込まれ、澄之派の香西元長らに暗殺された。
・赤松(円心)則村の墓

・所在→京都府京都市東山区小松町597(建仁寺久昌院)


〜コメント〜

赤松則村(円心)の墓。円心は元弘の乱に際し、護良親王の令旨を受けて山陽地方では

最も早く宮方(南朝方)につき、正慶2・元弘3(1333)年1月に苔縄城で挙兵した。

以後は護良親王方の最有力武力集団として山陽道を攻め上り、足利高氏(尊氏)と共に

六波羅を攻め落とすなどの大手柄を立てた。鎌倉幕府の滅亡を受け、帰京の途についた

後醍醐天皇と福厳寺で対面した円心は「天下草創の功、偏に汝等贔屓の忠戦による。恩賞は

望みに任す」との言葉を賜った。この功により建武政権より播磨国守護職に補せられたが、

建武政権内で護良親王が失脚すると、円心は播磨国守護職を召し上げられ、強い不満を

持つようになった。そのため、建武2(1335)年に足利尊氏が建武政権に反旗を翻すと

円心もただちに応じた。翌建武3(1336)年に一旦入京した尊氏が敗れて西走すると

これを兵庫に迎え入れ、この時円心は尊氏に実に重要な献策をしている。一つは「ひとまず

西国に陣を移して戦備を整え、兵馬を休ませてから再起を期すこと」で、もう一つは「大覚寺統

の後醍醐天皇に対し、持明院統の光厳上皇を味方につけ、その院宣を賜って朝敵の汚名から

逃れること」の二つであり、後醍醐天皇と足利尊氏の争いを皇統が二つに分裂しているのを

利用して、大覚寺統と持明院統の争いに巧妙にすり替えたのである。南北朝の長い対立は

円心のこの言葉によって引き起こされたといっても決して過言ではない。その後、尊氏

追討のため、新田義貞率いる大軍が播磨国に侵攻してくると白旗城でこれを迎え撃った。

この時円心は義貞のもとに家臣を遣わせて「建武政権に叛いたのは本心ではありません。

もし今、播磨守護職の綸旨をいただけるのならば、もとのごとく後醍醐天皇に忠節を尽くし

ましょう」と申し出た。これは義貞を欺くための謀略で、義貞が綸旨を得るのに約10日

費やしている間に守りを固め、「播磨守護職はすでに尊氏公より賜っている。手の裏を返す

ような綸旨は信用できない」と言い放ち、尊氏追討軍の進撃を阻んで、尊氏の再上洛を

助けた。このように円心は鎌倉幕府の滅亡と室町幕府の創設に大きく関わり、足利尊氏を

補佐して幕府の基礎固めに尽力し、終始幕府の中枢にあって権勢を誇った。中でも、三管

(管領=斯波、細川、畠山)四職(侍所所司=赤松、一色、山名、京極)の要職に赤松氏を

押し上げたのはひとえに円心の功績であるといえる。
・長慶天皇陵(嵯峨東陵)

・所在→京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町


〜コメント〜

長慶天皇陵。長慶天皇は後村上天皇の第一皇子で南朝の第三代天皇だが、長らくその即位が

疑問視されてきた幻の天皇であった。長慶天皇研究の最大の障害は関連資料の乏しさに

あったが、大正時代に八代国治・武田祐吉による実証学的研究が決定的な在位説として

評価され、長慶天皇の即位は動かない事実とされるようになり、大正15年10月21日に

詔書によって長慶天皇は第九十八代天皇として正式に皇統に加えられた。長慶天皇は父で

ある後村上天皇の没後に即位したと考えられているが、後村上天皇の代では北朝との和議が

何度も持ち上がったのに対し、長慶天皇の代では一度もその形跡がないことから、長慶

天皇は徹底抗戦派だったのではないかと考えられている。後村上天皇の代に北朝との和睦

交渉に尽力した楠木正儀が正平24(1369)年1月に北朝方に投降したのは、徹底抗戦派

だった長慶天皇との意見の相違が原因ではないかと思われる。残存する長慶天皇の綸旨は

文中元(1372)年以降に激減するが、この年は先代以来九州を席捲していた九州南朝軍の

拠点である大宰府が、九州探題・今川了俊の軍略により陥落した年であり、征西将軍宮・

懐良親王が率いる征西府が長慶天皇の南朝の屋台骨をいかに強力に支えていたかを伺う

ことができる。弘和2(1382)年には楠木正儀が再び南朝方に帰順し、翌弘和3(1383)年

の末に長慶天皇は弟である後亀山天皇に譲位したとされる。この長慶天皇の退位、後亀山

天皇の即位という一連の流れには南朝内部で徹底抗戦派と和平派の間での対立があり、

最終的には和平派が勝利を収めたとみることができる。ただし、退位後の元中元(1384)年

〜元中3(1386)年の時期の長慶上皇の院宣が二通残存しており、退位して上皇となった

あとも南朝内部に一定の勢力を維持し、院政を開いていたことをうかがわせる。また、高野山

丹生社に奉納された現存する唯一の長慶上皇自筆の文書といわれている元中2(1385)年

9月10日付の長慶上皇願文の中に見える「今度の雌雄」という言葉は後亀山天皇との

対決をさすとか、北朝=室町幕府との決戦をさすともいわれているが定かではない。長慶

上皇は、元中3(1386)年4月5日に大和の二見越後守あてに院宣を出してのち、史料の

上から姿を消す。元中8年頃には後征西将軍宮・良成親王でさえ、上皇の所在がわから

なかった(五条家文書)という。翌元中9(1392)年の南北朝合一の際にも長慶上皇が後亀山

天皇に同行して京都に入った形跡はない。長慶天皇の没年については「大乗院日記目録」

応永元(1394)年8月1日条の「大覚寺法皇崩ず、五十二、長慶院と号す」という記事に

よって応永元年8月没、享年52歳とされている。しかしながら、長慶上皇の晩年の動向を

伝える史料はなく、どこでどのように没したのかは不明である。長慶天皇の陵墓として

昭和19年にこの嵯峨東陵が治定されたが、確たる証拠があるわけではない。長慶上皇の

別称を「慶寿院」というが、この称が長慶上皇の皇子である海門和尚承朝が止住した天龍寺の

塔頭慶寿院にちなむことと、長慶天皇も最終的には入洛したであろうことからみて、その

居所が慶寿院で、没後はその供養所であったろうことから、慶寿院の跡地である当所が治定

されたのである。
・細川氏綱の墓

・所在→京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町(龍安寺)


〜コメント〜

室町幕府最後の管領である細川氏綱の墓。氏綱は細川尹賢の子で、細川高国の嫡子・

稙国の死後に高国の養子となった。天文12(1543)年、細川晴元に敗れて自刃した

高国の残党に擁立され挙兵。天文15(1546)年頃から畠山政国、遊佐長教と結び

晴元方と連戦、天文17(1548)年10月には晴元に反旗を翻した三好長慶に擁立され、

翌年には晴元を近江に追放、天文21(1552)年には長慶と共に入京し、管領に任じ

られた。しかしながら、管領とは名ばかりで、実権は長慶に握られており、名目的な

存在であった。永禄2(1559)年に摂津淀城に移され、永禄6(1563)年に死去した。

その後、後任の管領は立てられず、ここに長年続いた室町幕府の管領職は廃絶した。
・坂上田村麻呂の墓

・所在→京都府京都市山科区勧修寺東栗栖野町


〜コメント〜

坂上田村麻呂の墓。田村麻呂は平安時代の初めに桓武天皇の下で蝦夷征討に活躍

した武将・公卿で、延暦10(791)年に征夷副使となり、大使・大伴弟麻呂の指揮下で

10万の兵で胆沢に侵攻し、蝦夷を征した。延暦16(797)年には征夷大将軍となり、

延暦19(800)年には征夷大将軍・陸奥出羽按察使・陸奥守・鎮守将軍を兼帯、蝦夷

征討にかかわる全指揮権を与えられ、4万の兵で第三次蝦夷征討を行い、翌年には

征討を成功させ凱旋した。延暦21(802)年には造胆沢城使として陸奥に再度下向し、

胆沢城造営中に蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)・母礼(モレ)らが五百余人を率いて

田村麻呂に投降すると二人を連れて上京した。二人の処遇をめぐって公卿会議が

開かれると、田村麻呂は二人を生かし、まだ胆沢方面に残っている蝦夷を帰順させる

ために活用すべきと助命を主張したが、公卿たちの認めるところとならず斬首された。

その後、京都にあっても薬子の乱などに活躍した田村麻呂は正三位大納言まで昇任し、

弘仁2(811)年に没してこの地に葬られた。この時、田村麻呂は武具姿で立ったまま

棺に納められたといい、死後も将軍として都を守護するようにとの願いによるものと

いう。尚、長年、朝廷が力を尽くしても適わなかった蝦夷征伐を成し遂げた田村麻呂は

後世、模範的武将として「将軍中の将軍」として尊敬され、征夷大将軍の職名は長く

武門の栄誉とされた。また、田村麻呂は仏教の信仰も深く、清水寺を創建したこと

でも有名で、東北地方にも田村麻呂の創建と伝える寺社が数多くある。
 京都市東山区の臨済宗東福寺派大本山慧日山東福寺の塔頭大機院には五摂家の一つ九条家の墓地があります。


 平安末期屈指の歌人で、藤原定家の師でもあった摂政太政大臣九条良経(1169〜1206)の墓です。墓地の中でも一際目立つ高さ約2mに及ぶ堂々たる宝篋印塔です。


 『源氏物語』の注釈書である『孟津抄』を著した関白内大臣九条稙通(タネミチ;1507〜94)の墓です。

 東福寺第11世南山士雲(ナンザンシウン;1254〜1335)の墓です。東福寺塔頭の大年山荘嚴院(ショウゴンイン)にあります。南山士雲は足利尊氏の要請によって鎌倉に入り、建長寺20世・円覚寺11世を歴住、祟寿寺・寿福寺両山の開山を行なったりした後、東福寺に入りました。花崗岩製石造無縫塔です。


 東福寺塔頭南明院にある築山殿(ツキヤマドノ;1542?〜79)の墓です。今川義元の姪で徳川家康の初代正室ですね。
 左京区大原の天台宗魚山来迎(ライコウ)院にある聖応大師良忍(1073〜1132)の墓です。
 良忍は尾張国出身で、比叡山延暦寺で修行して天台声明を中興、天仁2(1109)年に来迎院に入りましが、永久5(1117)年に阿弥陀如来の顕現を受けたと称して融通念仏宗を開き、摂津国大念仏寺を総本山としました。
 最胤法親王(サイインホッシンノウ;1565〜1639)の墓です。
 式部卿伏見宮邦輔(クニスケ)親王第八王子で人皇第106代正親町(オオギマチ)天皇〔位;1557〜86〕の猶子となり、梶井門跡を経て第169代天台座主となりました。
 京都市左京区大原の天台宗魚山大原寺(タイゲンジ)の下院たる勝林院にあります。
 京都市左京区にある後鳥羽天皇(1180〜1239)・順徳天皇(1197〜1242)親子の大原陵(オオハラノミササギ)です。
 人皇第82代後鳥羽天皇〔位;1183〜98〕は院政を行っていた承久3(1221)年に鎌倉幕府撃滅の挙兵を行いましたが破れて隠岐国に配流され、延応元(1239)年2月22日に崩御して隠岐海士町陵(オキアマチョウノミササギ)で火葬されました。当時大原の梶井宮(三千院)門跡だったのは、後鳥羽上皇皇子の尊快法親王だったため、母の修明門院藤原重子(順徳天皇生母)と計らって、仁治2(1241)年に上皇の菩提を弔うため、後鳥羽の御所だった水無瀬御所から材を移して法華堂が建立されました。
 一方、承久の乱直前に生まれたばかりの息子の仲恭天皇に譲位していた順徳天皇〔位;1210〜1221〕は佐渡国に配流されましたが、父後鳥羽院が隠岐で崩御した報を聞いた後は病に伏せるようになり、還京の望みが無い以上の存命は無益として、断食を行った後、遂には自らの頭に焼石を乗せて仁治3(1242)年9月12日に自決した伝えられます。
 順徳院は崩御翌日に佐渡真野御陵(サドマノノミササギ)で火葬されましたが、怨霊化を恐れて寛元元(1243)年4月に遺骨は都に持ち帰られ、翌月に後鳥羽院の大原法華堂の側に安置されました。法華堂は後に荒廃して所在も不明となってしまいましたが、元禄探陵の際に大原の荒廃した小堂が法華堂に擬定されました。その法華堂は享保21(1736)年に勝林院と共に焼失してしまいましたが、安永7(1778)年に再建されました。そして、明治22(1889)年に至って宮内省によって正式に両帝の御陵と治定されたのです。その際に、法華堂にあった順徳帝の遺骨は陵墓に移されました。右側の十三重石塔が後鳥羽陵、左側の円墳が順徳陵です。
 法華堂は昭和11(1936)年に内部と屋根が修復され、堂内には本尊普賢菩薩像を安置していますが非公開です。
 京都市東山区の浄土真宗本願寺派本山龍谷山本願寺大谷本廟明著堂、即ち親鸞上人の墓所です。
 京都市中京区の法華宗本門流大本山本能寺にある右大臣織田信長の墓です。拝殿は国の登録文化財です。
本能寺にある墓です。


本能寺開山の日隆(1385〜1464)の墓です。


第5代伏見宮邦高親王の王子で本能寺第八世住持となった日承王(ニチジョウオウ;1500〜82?)の墓です。没年を示す史料が無いんですが、織田信長の帰依を受けていたため、本能寺の変の巻添いを喰った可能性が高そうです。


手前;増子女王(1711〜33)。第14代伏見宮邦永親王王女。9代将軍徳川家重正室。
中央;五条庸子(1660〜83)。五条権大納言菅原朝臣為庸娘。人皇第112代霊元天皇掌侍。第189代天台座主尭延法親王(ギョウエンホッシンノウ)母。
奥;円信院殿(?〜1572)。種子島時尭(タネガシマトキタカ)娘。薩摩守護島津義久室。
 相楽郡精華町の浄土宗引接山来迎寺にある「お千代・半兵衛墓所」です。
 近松門左衛門の浄瑠璃『心中宵庚申』の主人公です。
 相楽郡精華町の野見宿禰塚です。
 円墳、若しくは前方後円墳の後円部のみが残った墳丘長約100m・高さ約12mの古墳だと伝えられて来ました。
 野見宿禰は、『日本書紀』等に拠れば出雲国造(イゾモクニノミヤツコ)の子で、人皇第11代垂仁天皇〔位;29B.C.〜A.D.70〕に召し出されて相撲チャンピオンとなり、埴輪(ハニワ)の制度を始めて土師臣(ハジノオミ)の祖となったとされる人物です。精華町に隣接する木津川市に土師氏の居留地だと伝えられる吐師(ハゼ)と言う地名があるので、野見宿禰の墓の伝承が生じたものと推定されています。
 江戸時代には四宮神社が建てられていましたが、明治9(1876)年に近くの稲植(イナウエ)神社に移されました。そして、大正時代に京都の織物商三宅安兵衛(1842〜1920)の遺訓で息子の三宅清治郎(1872〜1940)が「傳野見宿禰塚」の石碑を建てました。三宅清治郎は京都府南部地方の史跡に大量の父の遺志碑を建てた事で知られる人物です。
 ところが、昭和61(1986)年に精華町教育委員会が実施した試掘調査によると、古墳の埋葬施設や葺石・埴輪等の外表施設、若しくはそれと関連する遺構は全く検出されず、頂上部のほぼ中央で室町時代の土坑一基を検出した他、土師器・瓦器等が出土したのみでした。また、工学的な現地調査の結果、この丸山は単なる自然丘であって、古墳では無い事が明らかになってしまったのでした…。
 建礼門院平徳子の大原西陵

 京都市左京区大原の天台宗清香山玉泉寺寂光院に隣接しています。
 建礼門院に仕えた侍女達の墓です。

 寂光院に隣接しています。
立命館大学内、等持院に、龍馬さんに影響を与えた、河田小龍さんのお墓がありまする。
 京都市東山区の真言宗智山派補陀洛山六波羅蜜寺境内にある供養塔です。

左;阿古屋塚 阿古屋は五条坂の白拍子で、平家の猛将悪七兵衛景清の愛人でした。
右;清盛塚  一帯は清盛の六波羅館跡です。
 京都府宇治市の宇治陵34号墳です。
 正二位左大臣藤原冬嗣(フユツグ;775〜826)夫妻の墓と伝えられます。冬嗣は人皇第52代嵯峨天皇の側近として台頭し、初代蔵人頭(クロウドノトウ)に任じられたのち、左大臣にまで累進して藤原氏北家隆盛の原点となりました。
 冬嗣の妻美都子(ミツコ;781〜828)は南家の従五位上阿波守藤原真作(マツクリ)の娘で、従五位下尚侍(ナイシノカミ)となって嵯峨・淳和(ジュンナ)両帝の後宮で権勢を振るいました。遺言で夫と同じ墓に葬られましたが、当時としては稀有な事でした。冬嗣は多数の側室を抱えていましたから、正妻としての特別な立場を強調したかったんでしょうかね。
 同じく宇治市の宇治陵35号墳です。
 従一位関白太政大臣藤原基経(836〜891)墓と伝わります。基経は叔父の摂政太政大臣藤原良房の養子となり、貞観14(872)年に摂政右大臣、元慶4(880)年に新設の関白となって太政大臣も兼ねました。藤原氏の摂関政治を揺るぎないものにした人物として有名ですね。
 京都市伏見区の伊豫親王巨幡墓です。
 伊豫親王(783〜807)は人皇第50代桓武天皇の第三皇子で、母は藤原氏南家の従二位右大臣是公(コレキミ)の娘である吉子です。三品(サンポン)中務卿(ナカツカサキョウ)兼大宰帥(ダザイノソチ)を務めましたが、異母兄の人皇第51代平城天皇へ謀叛を企てた嫌疑で親王位を剥奪の上、母と共に大和国川原寺(カワラデラ)に幽閉されて糧食を立たれ、母と共に自害した人物です。後に異母弟の人皇第53代淳和天皇が祟りを恐れて復号・復位の上、一品を追贈しています。
 しかし、この巨幡墓の正体は4世紀後半築造の前方後円墳です。墳丘長120m・後円部高さ9mで、京都市内最大の規模を持ち、考古学会では黄金塚2号墳と呼ばれています。墳丘表面では、盾形・朝顔形埴輪を含む円筒埴輪列が検出されており、埋葬施設は粘土槨です。昭和56(1981)年に調査が行われ、その際に副葬品として革綴冑(カワトジカブト)の小札・円形金具が検出されています。明治時代にデタラメな比定が行われた訳ですが、古墳が親王墓として再利用された可能性も0ではありませんね。
 京都市伏見区にある白河天皇皇后賢子上醍醐陵です。標高450mの山上です。
 賢子は右大臣源顕房(ミナモトノアキフサ)の娘ですが、関白太政大臣藤原師実(フジワラノモロザネ)の養女となって入内(ジュダイ)、人皇第73代堀河天皇を産みました。
 彼女の娘である媞子(テイシ)内親王と令子(レイシ)内親王、及び人皇第74代鳥羽天皇皇女の禧子(キシ)内親王も一緒に葬られています。
 京都市伏見区にある真言宗醍醐派別格本山東光山法界寺の境外墓地である日野御廟です。

左;左・左大臣日野勝光顕彰碑 右・日野資巴(資朝?)・日野資始(資基?)墓
中;皇太后宮大進日野有範(1302〜63;親鸞の父)墓
右;右端が吉光女(親鸞の母)墓
 京都市伏見区にある正三位(ショウサンミ)左近衛権中将(サコンエゴンノチュウジョウ)平重衡(タイラノシゲヒラ;1157〜85)の墓です。
 重衡は、平清盛の継室である時子(二位尼)の三番目の男子として生まれ、僅か6歳で従五位下に叙され、23歳で正四位下左近衛権中将、25歳で従三位(ジュサンミ)、27歳で正三位と順調な出世を遂げました。妻は大納言藤原邦綱の娘の輔子です。
 治承4(1180)年5月、以仁王(モチヒトオウ)・源頼政が挙兵すると、重衡は甥の正四位下春宮権亮(トウグウゴンノスケ)平維盛(タイラノコレモリ)と共に大将軍として出陣し、宇治平等院の合戦で頼政を撃滅しました。さらに重衡は同年12月、叛乱に与した近江国三井寺園城寺に続いて、南都の興福寺も焼き討ちにしましたが、その際に東大寺大仏殿までもが炎上してしまいました。
 続いて、治承5(1181)年3月には、維盛と共に大将軍として尾張国墨俣川の合戦で源行家・義円(ギエン)軍を撃破、源頼朝の弟である義円を討ち取っています。
 寿永2(1183)年7月、平家一門は源義仲に敗れて都落ちしますが、重衡は同年10月の備中国水島の戦いで義仲軍の先鋒である足利義清を撃破して討ち取り、同年11月の室山の戦いでは再び源行家を撃破する功績を挙げています。
 しかし、寿永3(1184)年2月の摂津国一の谷合戦で、鎌倉政権の侍所所司梶原景時によって捕らえられ、同年3月に鎌倉へ護送されて源頼朝と対面しています。元暦2(1185)年3月の壇ノ浦合戦で平氏が滅亡した際、重衡の妻の輔子は入水(ジュスイ)したものの、助け上げられ捕虜になり、山城国日野に住む姉の邦子の居所に隠棲しました。
 重衡の器量に感服していた源頼朝は助命を考えていましたが、興福寺からの強硬な引き渡し要求に逆らえず、同年6月9日に重衡は奈良へ送られる事となりました。途中、日野の地を通過したため、妻の輔子と逢う事を許されています。
 そして、6月23日、重衡は木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首(キョウシュ)されたのです。享年29。
 輔子は夫の胴体を日野の地に持ち帰り、首も興福寺に懇願して貰い受け、荼毘(ダビ)に付して日野の地に墓を建てたのです。輔子は落飾して、大原に隠棲した建礼門院平徳子に仕えました。
 京都市伏見区の長尾天満宮〔村社〕にある菅原道真衣装塚です。
 社伝によると、従二位右大臣菅原道真(845〜903)は人皇第60代醍醐天皇に随行して醍醐寺を訪れた際、非常に気に入って、ここに自らの墓を築きたいとして、醍醐寺に願い出て許可を貰いました。しかし、道真は失脚して延喜3(903)年に大宰府で没してしまったため、醍醐寺開山の理源大師聖宝(ショウボウ;832〜909)の弟子である醍醐寺座主(ザス)観賢(カンゲン;854〜925)は使者を送って衣装を取り寄せ、衣装塚を設けました。
 その後、道真の怨霊による怪異が続いたため、天慶3(940)年に至って人皇第61代朱雀天皇の勅願によって衣装塚の地に道真を祀る小祠が設けられ、更に人皇第62代村上天皇が天暦元(947)年に道真鎮魂のため洛中に北野天満宮を創建すると、天暦3(949)年に北野天満宮から正式な勧請(カンジョウ)が行われて長尾天満宮が成立したとされています。
 その後、下醍醐の鬼門を封じる鎮護社の役割を果たしていましたが、応仁の乱(1467〜77)で下醍醐が西軍の大内政弘の焼き討ちに遭った際に炎上して廃絶してしまいました。
 しかし、慶長3(1598)年3月の「醍醐の花見」に際し、太閤豊臣秀吉が紀伊国湯浅の満願寺本堂を醍醐寺金堂として移築する工事を始めると、何故か事故が相次ぎ、道真を死に追いやった醍醐天皇祈願寺に秀吉が肩入れしたため道真の祟りが蘇ったと噂されて動揺が広がったため、醍醐寺の一部を知行地として長尾天満宮が再建されたのです。
 衣装塚は宝篋印塔の形状をしており、墓として扱われていた事が判ります。
 衣装塚の傍らには「東風(コチ)吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の道真歌碑もあります。
 京都市伏見区にある人皇第61代朱雀天皇〔位;930〜946〕の醍醐陵(ダイゴノミササギ)です。
 朱雀天皇は、延長元(923)年に醍醐天皇の第十一皇子として生まれました。母は関白太政大臣藤原基経の娘である中宮藤原穏子(オンシ)です。8歳で即位し、伯父の藤原忠平が摂関として政治を取り仕切りました。
 在世中には、平将門・藤原純友の乱や富士山噴火等の凶事が続き、病弱だった事もあって、24歳で同母弟の村上天皇に譲位し、天暦6(952)年に出家して仁和寺に入った直後に30歳で崩御しました。
 京都市伏見区にある人皇第60代醍醐天皇〔位;897〜930〕の後山科陵(ノチノヤマシナノミササギ)です。
 醍醐天皇は、元暦9(885)年に侍従源定省(ミナモトノサダミ)の長男源維城(ミナモトノコレザネ)として生まれました。母は内大臣藤原高藤の娘胤子(インシ)です。ところが、仁和3(887)年に父が皇籍に復帰、人皇第59代宇多天皇として即位したため、維城も皇族に列する事となり、寛平元(890)年に親王宣下を受け、寛平2(891)年に敦仁と改名しています。
 寛平9(897)年に父から譲位されて12歳で即位し、形式上は摂関を置かない親政を実施しましたが、左大臣藤原時平と右大臣菅原道真が内覧となって事実上政権を担当していました。しかし、昌泰4(901)年に時平の讒言(ザンゲン)を容れて道真を大宰員外帥(ダザイインガイノシチ)に左遷、道真が延喜3(903)年に大宰府で没すると、左大臣藤原時平・右大臣源光・皇太子保明親王・皇太孫慶頼王(ヤスヨリオウ)が相次いで亡くなったため、道真の怨霊の仕業だと恐れられる事となり、延長8(930)年には醍醐天皇の御前で朝議が行われていた清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫(キヨツラ)以下朝廷要人に多くの死傷者が出る異常事態が発生しました。眼前で惨劇を目撃した醍醐天皇自身もショックで体調を崩し、3ヶ月後に崩御するに至ったため、京都に北野天満宮が創建され、道真は神として祭られる事となったのです。

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