今村 均(いまむら ひとし)
1886年(明治19)6月28日〜1968年(昭和43)10月4日
太平洋戦争での占領地行政では住民の支持を得るべく住民の心に寄り添い、寛容な態度で統治を実施した数少ない将軍。知、情、意の調和がとれた名将として知られる。
※背景画像:
ラバウルの街並み(パプアニューギニア・ニューブリテン島)
----------------------------------------------------------------
1907年(明治38)5月、陸軍士官学校19期を1053名中54番の成績で卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官、歩兵第4連隊附。1915年(大正4)12月、陸軍大学校27期を首席で卒業。恩賜の軍刀を賜った。同期生には本間雅晴(3番)や東條英機(11番)がいた。
1931年(昭和6)8月、参謀本部作戦課長を拝命。同年9月に満州事変が勃発。今村は独断で軍を動かす関東軍と朝鮮軍師団の越境に対して、統帥の紊乱や国民の支持、また世界の世論の反応から反対論を軍事課長の永田鉄山とともに展開する。
中央の統帥に従わない関東軍との折衝のために渡満するものの、板垣征四郎や石原莞爾に酒席の場に呼び出された挙句に馬鹿にした態度をとられ激怒して、その場を退席する一幕があった。今村はこうした関東軍の中央の統制に反した行動を厳罰に処すべきだったと後に振り返り、それに反して軍統帥に従わなかったものが後に栄転していくことが後の陸軍の下克上の風習を作り出したと指摘している。
1936年(昭和11)3月、関東軍参謀副長・兼駐満州国大使館附武官を拝命。関東軍が独断で進める内蒙古工作を中央からストップをかけるべく、当時の参謀本部作戦部長で、かつて満州事変を主導した石原莞爾がやってきた。このとき関東軍参謀の武藤章が、石原を嘲笑して「あなたのされた行動を見習い、その通りに内蒙古で実行しているものです」と言った場に今村も同席していた。
1937年(昭和11)7月、日中戦争が勃発。1938年(昭和13)1月、陸軍省兵務局長を拝命。同年11月、第5師団長を拝命。
1940年(昭和15)3月、教育総監部本部長を拝命。『戦陣訓』の起案を島崎藤村などの意見を入れながら担当した。
この時今村は、良い話をたくさん入れようと努めたらしい。『戦時訓』は元々、日中戦争での略奪や強姦や一般市民の殺害の多発に危機感をもった岩畔豪雄の発案のもので、のちに今村が司令官として前線に赴き、その軍紀紊乱を目の当たりにして、「無辜の住民を愛護し、略奪強姦のごとき、不法な行為を行わないこと」をはっきりと短く書くべきだったと述懐している。
1941年(昭和16)11月に第16軍司令官を拝命。同年12月8日、太平洋戦争勃発。開戦時はオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮した。
1942年(昭和17)2月に最重要攻略目標であるスマトラ島南部パレンバン油田地帯を占領。同年3月にはジャワ島への上陸を開始した。約100隻の船団を使用する大規模な上陸作戦は、約10万人のオランダ軍、イギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍をわずか9日間で無条件降伏させる大成功に終わった。
その後、インドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放して資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から没収した金で各所に学校を建設したり、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持に努めたりするなど現地住民の慰撫に努めた。
また、かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な軍政を行った。
1942年(昭和17)11月、今村は、第8方面軍司令官としてニューブリテン島に位置するラバウルに着任した。今村と山本五十六海軍大将は佐官時代から親交があり、今村着任時の夕食会で山本は「大本営が、ラバウルの陸海共同作戦を担当する司令官は君だと聞いた時は、何だか安心なような気がした。遠慮や気兼ね無しに話し合えるからな」と陸海軍の側近らの前で話した。そのため今村は山本が戦死した際には泣いて悲しんだという。
今村はガダルカナル島の戦いの戦訓から、米海軍の補給路の封鎖を想定し、補給の途絶に対し島内に大量の田畑を作るよう指導を行い食料の自給自足体制を整えることにし、今村自身も自ら率先して畑を耕したという。
早々から自給自足を提唱していた今村ら陸軍に対し、海軍は当初は冷淡な対応であった。しかし戦局悪化に伴い、作物の栽培に関して陸軍に教えを請う事になる。今村はまた、アメリカ軍の空爆と上陸に備えるため強固な地下要塞を構築し、病院、兵器や弾薬を生産する工廠も構築した。こうした状況を知ったアメリカ軍は、攻略には多大な損害が予想されると判断し、ラバウルを回避して無力化するに留めると決定した。
ラバウル守備隊は孤立化したが、すでに現地自活可能な体制が完成しており、かつ物資も備蓄していたために、今村以下の第8方面軍は草鹿任一中将以下の南東方面艦隊と共に終戦までラバウルを維持した。
1945年(昭和20)8月15日、太平洋戦争終結。 戦後、今村は「ラバウルのことが一段落した後、責任を取って自決しようとしたが薬が古くなっていて死ねなかった。」と話したという。戦争犯罪裁判では、不法行為に対する監督責任でBC級戦犯の容疑がかかった。
ラバウルで行われたオーストラリア軍事裁判で禁錮10年の有罪判決。ジャカルタで行われたオランダ軍事裁判では死刑が求刑されたが、証拠不十分で無罪。オーストラリア軍の有罪判決により、米豪蘭の合議で巣鴨拘置所服役を申し渡されたが、部下とともにマヌス島で服役することを申し出て認められた。
1950年(昭和25)3月から1953年(昭和28)8月までマヌス島豪軍刑務所に服役したが、刑務所の廃止に伴い他の日本人受刑者とともに巣鴨に移管され、1954年(昭和29)1月に刑期満了で出所。1955年(昭和30)9月には防衛庁顧問に就任した。
その一方、出所後は、東京の自宅の一隅に建てた謹慎小屋に自らを幽閉し、戦争の責任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら、回顧録を出版。その印税は全て戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に用いて、元部下に対して今村は出来る限りの援助を施した。
それは戦時中、死地に赴かせる命令を部下に発せざるを得なかったことに対する贖罪の意識からの行動であり、その行動につけこんで元部下を騙って無心をする者もいたが、それに対しても今村は騙されていると承知しても敢えて拒みはしなかったと言われる。
1968年(昭和43)10月4日、死去。享年82。
----------------------------------------------------------------
▼姉妹コミュ▼
野津道貫
https:/
福島安正
https:/
今村均
https:/
八原博通
https:/
戦史研究室
https:/
mixi参謀本部
https:/
大日本帝国陸海軍資料館
http://
歴史群像
http://