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日本全国歴史的人物の墓を巡る旅コミュの神奈川県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等

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神奈川県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等を訪ねたよ!

って人!報告待ってます!

fromしゃけ
「ホームページアドレス」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/



※ちなみに私が訪問したことがあるところは以下の通り…

源頼朝の墓、北条政子の墓、源実朝の墓、一幡の墓、
北条泰時の墓、北条時頼の墓、北条時宗の墓、
大江広元の墓、毛利季光の墓、島津忠久の墓、
護良親王の墓、比企能員一族の墓、上杉憲方の墓、
和田塚、畠山重保の墓、阿佛尼の墓、
冷泉為相の墓、大伴神主家墓所、川村瑞賢の墓、
徳川忠長の供養搭、蒲生忠知の奥方と息女の墓
称名寺(金沢(北条)氏菩提寺(金沢(北条)実時の墓他)
早雲寺(北條家菩提寺)、六代御前の墓
清雲寺(三浦為通、為継、義継の墓)、三浦義明の墓、
三浦義澄の墓、三浦義村の墓、佐原義連の墓
東光寺(津久井一族墓所)、三浦義同の墓、三浦義意の墓、
元使塚、曽我祐成の墓、曽我時致の墓、曽我祐信の墓、
満江御前の墓、八百比丘尼の墓、多田(源)満仲の墓、
曽我兄弟・虎御前の墓、土肥一族の墓所、
北条氏政・氏照の墓、源実朝御首塚、坂本龍子の墓
太田道灌の墓(大慈寺、洞昌寺)、七人塚

コメント(53)

茅ヶ崎市堤の浄見寺に大岡越前のお墓があります。
(お墓の写真怖くて撮れませんでした。)
同じお寺に葉っぱの上に実のなるイチョウの木があります。

桜の木もあり、近くには移築された古民家もあります。
堤は茅ヶ崎から遠いのでバスがいいかと思います。
私の故郷、伊勢原市には江戸城を築城した、太田道灌公の墓所があります。
墓所と言うか、首塚です。
伊勢原市は太田道灌が暗殺された場所なのであせあせ

○洞昌院
神奈川県伊勢原市上粕屋1160
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&tab=wl

有名な「当家滅亡!」が叫ばれた場所ですね。
10月の第二週には毎年道灌祭りが開かれます。
首塚がある土地で、ことは、けっこう祟ってたりするのかなーなどと、地元民として、ちょっと怖かったりもしましたあせあせ
行かれる時は小田急線の伊勢原駅からはかなり離れていますし、バスとかもあまりないので、出来れば車かバイクかがよろしいかと思います。
大山寺や日向薬師にも史跡がたくさんありますよ。
ごうこ様

早速、撮影してまいりましたカメラ

太田道灌墓所(洞昌院)



行きはバスでしたが帰りは時間もあったので駅まで歩きました。
歩けば30分〜40分くらいでしょうかあせあせ(飛び散る汗)
小田急線伊勢原駅 バスで15分弱(バス代は170円です)
大山方面ゆきの「道灌塚」経由のバス
> マイペース♪さまへ
帰り歩かれたんですね…、すごい!
あそこ、ほんとに駅から遠いんですよ…。なのにバスも本数がなくあせあせ
わざわざあそこまで足を運んでくださったかと思うと、地元民としては嬉しい限りです。ありがとうございますうれしい顔

もう少しすると、洞昌院近くの川沿いの桜が綺麗に咲きます。
墓所と桜は似合いますよね。

スレ違いの情報で蛇足なのですが、伊勢原市内には芝桜の名所もあるので、もしこれから行かれる方は、そちらも立ち寄られてはいかがでしょうか。

○芝桜情報
http://www.city.isehara.kanagawa.jp/flower/shibazakura.htm
ごうこ様

いやいや、ただの暇人です・・・。
芝桜、すごくきれいですね目がハート機会があればもう一度行ってみます。
梅がたくさん咲いていて、軒先に咲いているのもあれば栽培しているようなところも。梅が名産なのでしょうか?とってもきれいでしたよ桜
はじめまして。
こちらにお邪魔して、ふと思い出しました。
19年前、所用の帰途、以前から拝見したかった源頼朝の墓を訪れたのですが、
なんと、私が到着した数時間前に、荒らされてしまっていたのです。泣き顔
犯人が恨めしいです。ぷっくっくな顔
不勉強ですみませんが、あのあときっと整備されたのですね。
2番目のコメントにある写真が、現在のものかな、と思います・・・。うれしい顔
・三浦義同(道寸)の墓

・所在→神奈川県三浦市三崎町小網代


〜コメント〜

三浦氏の最後の当主、三浦義同(道寸)の墓。相模攻略を目指す

北条早雲に岡崎城、住吉城と攻め落とされた義同は最後に新井城に

籠城をするも1516(永正13)年7月11日、ついに新井城は落城、

「討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ くだけて後は

もとの塊(つちくれ)」 との辞世の句を残し、平安中期以来、

約450年間三浦半島に勢力を振るった三浦氏はここに滅亡した。
連休に箱根に行き、帰り際に湯本にある後北条の菩提寺である早雲寺を訪ねました。
そちらにある(右から)早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の墓です。
北鎌倉にある長寿禅寺にある足利尊氏の墓です。
息子である関東管領足利基氏が父の菩提を弔うために建立されました。その境内に墓があります。秋の特別拝観期間中で運良く見ることができました。来年は春に一般公開されるそうです。
大田道灌の首塚には私も行きました。

ところが、伊勢原市内には大田道灌の『首塚』と『胴塚』があるんですよ!

私は胴塚へ行ったことがありません。行かれた方いませんでしょうか?
金沢文庫を作った北条実時の墓(称名寺)に行ってきました。

金沢文庫で公開されていたのは実時ではなく孫の15代執権金沢貞顕の肖像画(国宝)でしたが、満足です。
石垣山一夜城へ向かう途中に石垣山に参陣した武将たちという看板が立ててあります。最後の文章にご注目してください。早川の海蔵寺とは、この石垣山への上り口の所にあるお寺です。
地元の人々の眠るお墓の中に堀秀政公の墓所があります。恐らく仮墓所だったのでしょう。
・三浦氏三代(為通、為継、義継)の墓

・所在→神奈川県横須賀市大矢部5−9−20(清雲寺)


〜コメント〜

源家累代の家人、三浦氏三代(初代為通、二代為継、三代義継)の墓。

三浦氏は関東平氏の流れをくみ、前九年の役の行賞として、康平6

(1063)年に源頼義から相模国三浦郡を与えられ、衣笠城を本拠とした

初代為通に始まり、二代為継は源義家の側近として後三年の役で勇名を

馳せ、三代義継は源義朝の命に従い、大庭御厨へ侵犯するなど、累代に

わたって源氏の惣領家に対し忠誠を尽くした。尚、この地には、もともと

中央にある為継の墓のみが存在していたが、為通、義継の墓については、

付近にある深谷の円通寺の廃寺により、昭和14年に三浦九十三将のものと

伝わる五輪塔郡や文永8(1271)年銘の芦名盛信の板碑と共に、移された

ものであり、左右いずれが為通、義継の墓であるかについては不明である。
・三浦義明(夫妻)の墓

・所在→神奈川県横須賀市大矢部1−5−10(満昌寺)


〜コメント〜

三浦義明(夫妻)の墓。義明は源家累代の家人として源義朝に仕えた。義朝が

義明の娘を側室として、長男の義平(のちの鎌倉悪源太義平)が産まれると

血縁的にも源家と結ばることになったが、平治の乱(1159年)で義朝が

討たれると、必然的に三浦一族も逼塞することを余儀なくされた。治承4

(1180)年源氏再興の兵を挙げた源頼朝が石橋山合戦に敗れ、行方

知れずとなると、平家の大軍を衣笠城で迎え撃ったが、兵力の差はいかん

ともしがたく、形勢不利を悟った義明は、三浦義澄、佐原義連、和田義盛ら

一族を集め、「佐殿(頼朝)よもや討たれまじ、われ源家累代の家人として、

幸い貴種再興の秋に逢ふ。なんぞこれを喜ばざらんや。今老命を投げうちて、

子孫の勲功に募らんと欲す、汝等急ぎ退去して佐殿の存亡を尋ね奉じるべし」

と厳命した。義澄、佐原義連、和田義盛らは泣く泣く義明を見捨てて栗浜

(久里浜)から安房に落ちのび、その後、義明は自害したとも、討ち取られた

ともいわれ、衣笠城は落城した。いずれにしても義明の己を捨石とした奮戦に

より、以後、三浦一族は頼朝に引き立てられ、発展していくこととなる。尚、

義明の墓がある満昌寺は頼朝が鎌倉幕府創設の礎となった三浦義明の功を称え、

追善のため建久5(1194)年に建立した寺である。頼朝が家臣のために

建立した寺院は、三浦氏のものだけであるといわれており、いかに頼朝からの

信頼が厚かったかが窺い知れるといえるだろう。(※廟所内には宝筐印塔を

中心に、右側に五輪塔、左側に板碑(観音種子)の三基が並び置かれているが、

真ん中の宝筐印塔が義明、五輪塔が義明の妻の供養塔であるとされている。)
・三浦義澄の墓

・所在→神奈川県横須賀市大矢部


〜コメント〜

三浦義澄の墓。義澄は源家累代の家人として平治の乱(1159年)の際には

源義朝に従って戦ったが、結局この戦いに敗れた義朝の下知により、東国に

落ち延びた。その後、三浦一族は逼塞することを余儀なくされたが、治承4

(1180)年に源頼政が平氏打倒の兵を挙げ、以仁王の令旨が諸国の源氏に

下されると、京都大番役で在京していた義澄は伊豆の頼朝のもとに参上し、

この情勢を報告するとともに、挙兵についての密議を交わし、三浦氏は頼朝の

旗挙げに応じることになった。そして富士川の合戦勝利後の論功行賞で、義澄は

本領と三浦介を安堵され、名実ともに三浦半島の主であることを認められた。

これ以後も、頼朝の佐竹征伐、平家追討、奥州征伐に重臣として参戦し、戦功を

重ねた。建久元(1190)年に頼朝が上洛し、後白河法皇からの要請により、

御家人10人の任官を推挙した際には、10人中、実に3人が三浦一族(義澄、

佐原義連、和田義盛)から推挙された。建久3(1192)年に後白河法皇が

没し、頼朝が念願の征夷大将軍に任じられ、その勅使が除書(任命書)を携えて

鎌倉に到着した際には、その栄えある受け取りの使者に三浦義澄が選ばれて

いる。頼朝が義澄を家臣の第一人者として認めていたことが伺える。このように

頼朝は三浦氏累代の功に感じ、義澄を厚く処遇し、義澄もこれに応えてよく

頼朝に仕え、幕府宿老として幕政の重要な役割を担った。
・三浦義村の墓

・所在→神奈川県三浦市南下浦町金田


〜コメント〜

三浦義村の墓。義村は父・義澄に従って平家追討、奥州征伐の軍に加わり、

義澄の死後は三浦惣領家を継いだ。頼朝の死後、北条氏が有力御家人を次々と

排除し、幕府内での覇権を確立していく中で、義村は常に北条氏と行動を共に

したため、幕府内における権勢は北条氏に次ぐものとなった。(しかしながら、

同族の和田義盛が北条氏打倒の兵を挙げた際には三浦一族が結束して北条氏と

戦うとの起請文まで出していたにも関わらず、北条方に寝返ったため、義時

からは和田合戦最高の功労者と評価されたものの、御家人の間からは非難の

目が向けられ「三浦の犬は友を食らうぞ」と罵られたという。)その後、実朝の

暗殺、承久の乱と相次いだ事件にも北条氏に協調的姿勢で対処し、義村の権勢は

北条氏を超えることはなかったが、これと並ぶほどの力を持ち、三浦氏は最盛期

を迎えた。しかし、皮肉にも北条氏と比肩しうる勢力を持った三浦氏は北条氏に

よる執権体制確立の最後の障害となり、義村の死後、北条氏に滅ぼされることに

なるのである。尚、現在、義村の墓は関東大震災の際に海中に落ちたものを

組み立て直したものに加え、近年建立した新しい墓碑の2基がある。
・北条泰時の墓

・所在→神奈川県鎌倉市大船5−8−29(常楽寺)


〜コメント〜

鎌倉幕府第三代執権北条泰時の墓。泰時は義時の長男で、建久5(1194)年に

源頼朝を烏帽子親として元服した。建保元(1213)年の和田合戦では一軍の

将として大いに奮戦し、建保6(1218)年には侍所長官に任じられた。

承久の乱では幕府軍の大将として叔父の北条時房とともに京都に攻め上り、

乱後設置された六波羅探題では初代長官として時房とともに京都で事後処理に

当たった。父・義時の死後には、京都から鎌倉に下向して鎌倉幕府の第三代

執権に就任した。この時、父の遺領配分では、自分の取り分を少なくして、

弟妹たちに多くを与えた。これを不審に思った叔母の政子が「嫡子分すこぶる

不足。なにようの事ぞ」と理由を尋ねると「執権を奉るの身、領所などのことに

おいては、いかでか競望あらんや。ただ舎弟らをかえりみるべきの由と存ずるのみ」

と返事をして政子を感激させた。執権就任後は叔父時房を連署にし、嘉禄元

(1225)年には有力御家人11名による評定衆を設置し合議制を制度化した。

さらに、貞永元(1232)年には初の武家法となる御成敗式目を定めるなどして

執権政治の確立をはかった。尚、政治家としての泰時の政治には他にも見る

べきものが数多くあり、合議と道理に基づく政治方針は武家方だけでなく、

敵方の公家からも絶賛され、古くから善政、任政と称えられた。これは、後世の

模範となる立派な武家政治の理想像として、永く後世にまで語り継がれた。
先週の龍馬伝紀行で取り上げられたおりょうさんの墓です。横須賀市内、信楽寺(しんぎょうじ)にあります。
鎌倉市の別願寺にある足利持氏の供養塔に行きました。
・北条経時の墓

・所在→神奈川県鎌倉市材木座6−7−19(光明寺)


〜コメント〜

鎌倉幕府第四代執権北条経時の墓。経時は北条泰時の嫡孫で祖父の死後に

第四代執権に就任した(父の時氏は祖父・泰時に先立ち死去している)が、

おそらく北条家の歴代得宗&執権の中で一番知名度が低く影が薄い存在では

ないだろうか?中には北条家の家督(得宗)は泰時→時頼と受け継がれたと

思われている方も少なくないだろう。しかしながら、前述の通り、泰時の

死後は嫡孫である経時が北条家の家督(得宗)と執権職を継いだのである。

経時の執権在任期間は歴代の得宗の中では最も短かったが、その施政には

見るべきものが少なくない。その一つは四代将軍九条頼経の更迭である。

最初は傀儡だった頼経も鎌倉における20余年の生活を通じて幕府内に

おける一定の勢力となっていたため、これを更迭し、頼経の子・頼嗣を

将軍とし、続けざまに経時の妹と頼嗣を結婚させた。また、訴訟の緩怠を

戒めるために評定衆の改革を行い、合理化を図るなど執権政治の安定維持に

貢献した。しかしながら、経時の前の泰時、経時の後の時頼の両人の施政

期間が長く、その間の経時の施政期間はわずか4年でしかなかったため

経時の評価は高くない。また経時の死にあたり、2人の息子がいたにも

関わらず『深秘の御沙汰』なる秘密会議の結果、執権職は経時の息子では

なく、弟の時頼が継ぐことになった。吾妻鏡ではその理由を経時の二人の

息子がまだ幼かったためとしているが、この時に経時の長男・頼助を執権に

立てて、弟の時頼が輔弼の任にあたってもよく、また頼助が成長するまでの

つなぎとして時頼が執権になるという方法もあったはずである。事実、

のちに時頼が長時に執権を委譲した際には、後者の方法がとられている。

結局、経時の長男は仏門に入って佐々目僧正頼助と称して、鶴ヶ丘八幡宮寺の

別当にもなり、弟の隆時(のち隆政)も、同じく仏門に入って権律師になったが、

2人とも北条家の家督(得宗)を時頼から返されることはなかった。経時から

時頼への執権職委譲は、兄から弟への委譲というのみならず、泰時→(時氏)→

経時と代々嫡男が嗣いできた北条家の家督(得宗)が嫡男の系統から次男の

系統に移り、時宗→貞時→高時へとなっていくのである。尚、経時のことを

過小評価している吾妻鏡は時頼系の時宗、貞時の頃に編纂成立したものである。
・源(新羅三郎)義光の墓

・所在→神奈川県鎌倉市大町3−6−22(大宝寺)


〜コメント〜

源(新羅三郎)義光は、陸奥守鎮守府将軍として前九年の役を戦い、その武勇を

天下に知られた源頼義の三男である。また、義光の兄には頼義と共に前九年の

役を戦い「天下第一の武勇の士」、「驍勇絶倫にして、騎射すること神の如し」と

称えられた長男の義家と次男義綱がいる。この三人は、当時では珍しく同母の

兄弟であり、そのためか、兄弟仲がきわめてよかったというような伝説がいくつか

残されている。ちなみにこの三人は源義家、源義綱、源義光というよりも八幡太郎

義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光と呼ばれることの方が多い。これは、義家が

石清水八幡宮で元服したことにちなんで八幡太郎と称し、次弟義綱が京都の賀茂

神社で元服したことにちなんで賀茂次郎を称し、三弟義光は大津園城寺(三井寺)の

新羅大明神で元服したことにちなんで新羅三郎と三兄弟すべてがそれぞれ神号を

名乗りに冠したものである。尚、義光は頼義の晩年の子で、兄の義家とは15歳

以上も歳の離れた兄弟であり、義光だけは前九年の役には加わっていない。

このため、二人の兄の武名の陰に隠れて、官途につくのはきわめて遅く、永保3年

(1083)頃にようやく左兵衛尉になったが、ちょうどその頃、後三年の役が

起こったのである。応徳3年(1086)9月のことである。しかしながら、城柵は

堅固で、なかなか落ちず、攻防を繰り返すうちにやがて冬となって大雪に降られ、

充分な攻城戦の用意が無かった義家の軍は飢えと寒さのために多くの凍死者を

出し敗北した。 翌、寛治元年(1087)兄・義家の苦境を知った義光は義家の

援軍として出陣することを朝廷に願い出るも勅許を得ることができなかったので、

やむを得ず、官職を投げ捨てて、雪深い出羽に下向し、義家の軍に参陣した。

以来、この義光のエピソードは天下の美談として永く語り継がれることとなり、

後年、源頼朝が平家打倒の兵を挙げた際に弟の義経が参陣してきた時には、

義経を義光になぞらえて、しきりに喜んだという話が吾妻鏡などにも残されている。

その後、義光は後三年の役で武功を立て、累進出世をして刑部丞となった。また、

常陸介に任じられ、佐竹郷を領して常陸北東部に勢力を伸ばし、地盤を固め、

孫の昌義の時代になり佐竹氏を名乗ることとなるのである。尚、このほかにも

武田、小笠原、南部氏なども義光の子孫である。
二宮尊徳の墓に行きました。小田原の近くです。
鎌倉市稲村ヶ崎にある大館宗氏の墓と十一人塚

大館宗氏は新田義貞の同族。
鎌倉討幕の折り稲村ヶ崎周辺で討ち死にしました。
竹の庭見たさでスルーされがちな報国寺にある元弘合戦(鎌倉幕府が滅亡となった戦)の戦死者供養塔と、室町時代に起こった上杉禅秀の乱の上杉禅秀の供養塔。
報国寺にある足利家時公他一族の供養塔
・相馬師常の墓

・所在→神奈川県鎌倉市扇ガ谷2


〜コメント〜

相馬師常の墓。師常は鎌倉幕府草創期の有力御家人の一人で、源頼朝の

重臣・千葉常胤の次男。治承4(1180)年に父と共に頼朝の挙兵に加わり、

文治5(1189)年には奥州征伐に従うなど多くの戦功を挙げて相馬氏の

祖となった。尚、師常の墓は柔らかい岩盤を洞穴のようにくり抜いた墳墓で

納骨所と供養堂を兼ねた「やぐら」と呼ばれる鎌倉独特の墓である。現在

鎌倉には約1200(土中深く埋もれたものを含めると約2000)基のやぐら

があると言われている。なぜ鎌倉時代にこれだけのやぐらが造られたか

というと、平安時代より有力者は法華堂を自らの墓所に建立する習わしと

なっていたが、極端に平地が少ない鎌倉で、有力者が競って法華堂を建立

してしまうと、居住地域を圧迫してしまうため、幕府が市中に墓所を造る

ことを法令で禁止したので、やぐらが造られるようになったと考えられて

いる。つまり鎌倉時代の御家人はその多くがやぐらに葬られているものと

思われるが、残念ながら被葬者の名前がはっきりと伝えられている例は

極めて稀である。そうした中でこのやぐらは保存状態が良好で鎌倉時代

の姿を良く伝えていると共に、被葬者の名前が知られることからも資料的

価値が非常に高いとされている。
・源範頼の墓

・所在→横浜市金沢区片吹61−5(大寧寺)


〜コメント〜

源範頼の墓。範頼は源義朝の六男(母は遠江国池田宿の遊女)で、頼朝の

異母弟、義経の異母兄にあたる。遠江国蒲御厨で生まれたために、蒲冠者と

呼ばれた。治承4(1180)年、頼朝が源氏再興の兵を挙げると、直後に

頼朝の軍に参陣し、寿永2(1183)年には志田義広を下野国に攻めている。

その年の末に頼朝が後白河法皇の院宣により、木曽義仲の追討を命ぜられると、

弟の義経と共に頼朝の代官として京都に上り、翌寿永3(1184)年には

近江国瀬田で木曽義仲の軍を破る戦功を立て、続く一ノ谷の合戦では大手に

なる生田森から攻め込んで平家の軍を破り、その功により、従五位下・三河守に

任じられた。同年8月に西海遠征軍が編成されると範頼は平家追討軍の総大将に

任じられ、山陽道の討伐に向かい、文治元(1185)年には長門の赤間関に

到った。九州に入ると豊後国で平家方の原田種直を倒し、以後、九州沿岸部の

平家勢力を次々と討滅して平家軍を孤立させ、壇ノ浦の合戦で平家軍を滅亡

させた。平家滅亡後は範頼の幕閣での地位も安定し、源氏の御門葉の一人として

常に一般の御家人よりも上席の存在として位置づけられた。その後、奥州征伐

にも出陣したが、建久4(1193)年の曽我兄弟の仇討ちの際に、鎌倉に

頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子に「範頼あるかぎりご安心を」と慰めた

ことにより、幕府横領の野心があると疑われた。範頼はすぐに起請文を出して

弁明に努めたが、頼朝の嫌疑は晴れず、伊豆国修禅寺に幽閉され、直後に自害

させられたとされる。しかしながら、ここ大寧寺の寺伝では鉈切まで逃れて、

海に向いて建つ大寧寺に入って自害したとされている。
鎌倉市の英勝寺の墓地の裏にある太田道灌の名前が彫られた何か
鎌倉市の葛原岡神社境内にある日野俊基の墓
元箱根石仏群の遺跡がある場所で曾我兄弟、虎御前の墓と、源(多田)満仲の墓。
・吉良氏墓所

・所在→神奈川県横浜市南区蒔田町932(勝国寺)


〜コメント〜

吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国吉良荘より起こった。吉良氏はその庶流で、

室町・戦国期を通じて、吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇っていた。応永年間

(1394〜1427)に武蔵世田谷に本拠を置き、吉良政忠、あるいは成高の時に蒔田を

領有するようになったとされる。十六世紀、頼康・氏朝の代には後北条氏とも婚姻関係

にあり、中世後期の室町時代には、この蒔田の地で「蒔田御所」と称せられた館を構え、

将軍家の一家として諸侯から一目置かれる存在だった。勝国寺は館が存在した丘陵の下に

位置し、文明11(1479)年に吉良左京太夫政忠が父・頼高の供養のために建立したと

される。開基以前は霊応寺とされていたが、政忠の開基により勝国寺と改め寺格が昇格した。

その寺名は吉良政忠公の法号「勝国寺殿昭岳道旭大居士」と一致するため、その子成高が

父の追善のために創立した節もあると考えられている。この勝国寺裏山の墓地には、吉良家

の供養塔である四基の五輪塔が所存していて、五輪塔の最も大きなものは、高さ102cm

を測り、さらにその一基(右から2番目)には、正面に「祖師西来」、台石に「政忠塔」、

裏面に「照岳道旭大居士」「文亀二年六月十七日」と刻されていることから、本五輪塔は

政忠の供養塔と考えられている。
・上杉憲実の墓

・所在→神奈川県南足柄市怒田1528(珠明寺)


〜コメント〜

関東管領・上杉憲実の墓。関東管領は室町幕府の出先機関である鎌倉府において鎌倉(関東)

公方を補佐する要職であるが、歴代の鎌倉(関東)公方は将軍家に対する自立心が強く、

幕府に対して兵を起こそうとしたことすらもあった。関東管領は鎌倉(関東)公方に従う

存在であるが、その任命は形の上では将軍が行うこととなっており、上杉家は将軍家の配下

でもあった。このため歴代の関東管領は将軍と公方の間に立って苦労する宿命にあった。

憲実が仕えた足利持氏は籤引きで足利義教が第6代将軍に就任すると徹底的に対立するよう

になり、正長2(1429)年に京都で改元が行われてもこれに従わず、永享6(1434)

年には「呪詛怨敵」と打倒義教の意を込めたとされる血書の願文を鶴岡八幡宮に奉納して

いる。永享8(1436)年には幕府の分国である信濃国の内部抗争に持氏が出兵しよう

としこれを諌めたが、強硬に兵を出したため、憲実はやむなく自らの兵をもって鎌倉府軍の

信濃国侵入を阻止するなど粉骨砕身して幕府と鎌倉府の確執の調停に奔走した。しかしながら

永享10(1438)年に持氏の嫡子・賢王丸の元服に際し、慣例に従い将軍の一字拝領を

賜るよう憲実が進言するものの、持氏はこれを無視して「義久」と名乗らせ、さらには

自身が暗殺されるとの風説が流れると、憲実は「身に於て誤りなくして御旗を向けられ、

御敵分に成て討れん事、不忠之至り末代迄の瑕瑾也」と自害しようとしたが近臣に阻まれた。

その後、鎌倉を脱出し上野に逃れると、持氏は憲実追討のために兵を起した。これを絶好の

好機とした幕府はすぐさまに持氏討伐軍を下し持氏を降伏させた(永享の乱)。この時、

憲実は持氏の助命を嘆願するも許されず、心ならずも持氏を死に至らしめることになった。

乱後、憲実は主人を死に追い込んだ後悔の念から出家して伊豆に隠退した。永享12(1440)

年に持氏の遺児、春王丸・安王丸を擁した持氏方残党が常陸国で挙兵(結城合戦)すると

幕府の強請により、憲実は鎌倉府に復帰した。結城合戦後も憲実が関東の政界に在ることが

京都と鎌倉の無事を保つ道であると考えた幕府の執拗な引き止め工作により、文安4(1447)

年まで関東の政界にあった憲実だが、関東管領就任を拒み続ける憲実に代わり、嫡子の憲忠が

関管領に就任すると憲実は憲忠を不忠の子であるとして義絶した。(後年、憲実の危惧通り、

憲実を親の仇だと考えていた足利成氏は享徳3(1454年)に憲忠を暗殺して、享徳の

乱が引き起こることとなる)これを機に鎌倉を去り、政界を退いた憲実は僧となって諸国を

放浪した。翌年には傘をかぶり、わらじを履いて独りで歩いている憲実が、主・持氏に

そむいた謝罪の行脚であると他人に語ったという記録が残されている。晩年の14年間は

長門の大寧寺に入り、同寺で亡くなった。憲実は文武ともにすぐれ、儒学に篤く、足利学校や

金沢文庫を再興したことでも有名な当代一流の知識人としても名望厚かった人物でもある。

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