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日本全国歴史的人物の墓を巡る旅コミュの徳島県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等

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徳島県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等を訪ねたよ!

って人!報告待ってます!

fromしゃけ
「ホームページアドレス」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/



※ちなみに私が訪問したことがあるところは以下の通り…

土御門天皇火葬塚、細川和氏の墓、細川頼春の墓、細川持常の墓
丈六寺(細川家菩提寺)、見性寺(三好家菩提寺)、三好長慶の墓
西光寺(足利家菩提寺、足利義材、義栄の墓他)
興源寺(蜂須賀家菩提寺)、万年山(蜂須賀家墓所)
平国盛の墓、平家落人の墓、赤松則房の墓、

コメント(6)

私もここに書かれている見性寺(三好五代の墓)、丈六寺(血天井がありますね。細川氏のお墓があったかな?)、西光寺(平島公方足利氏の墓等)には行きましたね。
いや〜また行きたいです。
・赤松則房の墓

・所在→徳島県板野郡藍住町住吉字逆藤60(福成寺)


〜コメント〜

則房は室町幕府の四職家の一つである赤松家の第十代当主だが、

則房の時代にはかろうじて家名を存続させているだけの状態に

過ぎなかった。信長の軍門に下った則房は、後に阿波住吉に転封

され名実ともに赤松氏の播磨支配は終わりを告げた。則房のその後に

ついては大坂に移住し死去した、阿波住吉で死去した、関ヶ原の合戦で

西軍に参加して自害したなどの諸説があり確かなことはわからない。

尚、福成寺では代々則房の墓と言い伝えられてきた供養塔があるが、

ご住職の話しによると近年、石の専門家が調査したところ、則房の時代

より百年以上前のものだということだったらしく、境内には則房の墓で

あることを示す案内などは一切ない。(赤松氏については則房の後、

則英が相続し関ケ原を迎えたとする説もある。だが、赤松則英の実在は

史料的に確認できず、室町幕府の要職である侍所の長官にもたびたび

就任した室町幕府の有力守護家であった赤松氏がどのようにして滅亡

したのかすら現在では確かめる術がない。)


・細川和氏の墓

・所在→徳島県阿波市土成町秋月蛭子


〜コメント〜

南北朝・室町時代に大活躍をした細川氏の興隆の礎を築いた

和氏の墓。足利高氏(のちの尊氏)に鎌倉倒幕の挙兵を進言し、

六波羅探題攻撃の戦略を献策したのは和氏といわれている。

また、和氏の生涯最高の勲功の一つは鎌倉幕府滅亡直後に高氏の

嫡男千寿王(のちの義詮)が鎌倉攻めの一翼を担っていたことを

楯にとり、軍勢を糾合し、鎌倉を陥落させた新田義貞に弟2人と

ともに強談判し、「足利(高氏)殿に対して、異心を存せず」

との起請文を書かせた上で、鎌倉から追放したことである。

当時千寿王は4歳の幼児であり、千寿王を奉じて戦った家臣も

200騎にすぎなかったが、これにより鎌倉幕府倒幕の戦功を

足利高氏が手中にし、武家の第一人者としてのゆるぎない地位を

得ることになったのである。尚、建武の新政で阿波守となった

和氏は、室町幕府の開設後は引付頭人、侍所頭人の要職に任じられ、

建武3=延元元(1336)年には従兄弟の細川顕氏とともに四国の

恩賞授与権をあたえられ、秋月城を拠点に四国に覇権を打ち立て、

康永元(1342)年に亡くなった。


・足利義栄の墓

・所在→徳島県阿南市那賀川町赤池185(西光寺)


〜コメント〜

室町幕府第十四代将軍足利義栄の墓。義栄は堺公方と呼ばれた足利義維の嫡子

(室町幕府第十一代将軍義澄の孫)で、室町幕府の第十三代将軍・義輝、第十五代

将軍・義昭の従兄弟に当たる。永禄8(1565)年に松永久秀と三好三人衆により

第13代将軍足利義輝が暗殺されると、三好三人衆に将軍跡目として擁立された。

しかし、混乱のため一度も入京を果せず、織田信長が義輝の弟である義昭を奉じて

上洛したため、生地である阿波国に逃れた。その直後、持病の腫瘍が悪化して

病死した。享年31歳。
・足利義維の墓

・所在→徳島県阿南市那賀川町赤池185(西光寺)


〜コメント〜

足利義維の墓。義維の父は室町幕府第十一代将軍足利義澄で、第十二代将軍

義晴の弟(同母兄との説もある)に当たる。大永元(1521)年阿波に出奔した

第十代将軍義稙の猶子となり、大永7(1527)年の桂川川勝寺の合戦で足利

義晴、細川高国が敗れ、近江に逃亡すると、三好元長に擁立されて堺に上陸、

次期将軍として朝廷への進物をすませ、従五位下・左馬頭に任じられた。

この官位は歴代の将軍就任予定者が与えられた官位であり、将軍と管領が

京都にいないという状況の中で、堺の公方は事実上の将軍と受け止められた。

これ以降、義維は堺公方・堺大樹と呼ばれ5年間畿内を支配したが、享禄5

(1532)年に細川晴元との対立が原因で三好元長が敗死すると、堺公方府は消滅、

義維は阿波平島に戻った。以後も将軍就任の機会をうかがったが果たせず、

天正元(1573)年10月に死去した。(後名は義冬)尚、義維の一族は阿波平島を

拠点としたため、平島御所、平島公方、阿波公方と呼ばれ、義維の系統は

足利将軍家の血筋を現在まで伝えている。

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