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幕末・明治の花魁コミュの永倉新八と花魁

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まだまだ小稲や今紫の解説も見れるものとなってないですが、
最近調べている別件を挙げてみます。

新撰組の永倉といえば、京の島原の遊女とのロマンスが知られていますが、
『新撰組顛末記』や『維新侠艶録』には、慶応四年の鳥羽伏見戦の敗戦後
江戸に引き揚げてきた後、当時一部仮宅だった新吉原へ(深川)に
他の隊士たちと遊びに行っています。

仮宅深川(洲崎)に一時移転していた品川楼という妓楼です。
そこで、小亀、嘉志久、紅梅、などの花魁を揚げた。と上記『新撰組顛末記』
にはあります。

小稲らのことを調べていた副産物的情報でありますが、以下、
解ったことを掲示させていただきます。

***
画像:落合(歌川)芳幾 画(部分)品川楼・可志久 明治二年
(個人蔵 画像の転載・無断使用を禁じます)

コメント(21)

今日、六本木で美術系の研究会があったついでに、少し早めに出て、
広尾の東京都立中央図書館に行ってきました。

上記の件が急に気になったので、はっきりさせたかったからです。

品川楼の名前の挙がった3人の花魁のうち、メインの扱いは
「嘉志久(かしく)」です。
「酔うと乱暴をする」癖のある、変な花魁として永倉の記憶に残ったのでしょう。

この花魁名、吉原細見を読み込んでいる方なら、すぐに気づくかもしれませんが
正しい漢字は「甲子久」もしくは「甲子く」だと思われます。
吉原ではそんなに珍しい名ではなく、他の妓楼にも時々います。

花魁は名刺を差し出すわけではないでしょうから、永倉は音で聞いていて
適当に漢字をあてたか、当時(顛末記が)新聞連載だったため
聞き書きした記者が漢字を間違えたかは解りません。

永倉は人名などのメモをまめにする人だったようなので、若い頃に
一度会った花魁を何十年も覚えているのは、そのおかげなのでしょうね。

「顛末記(当時はタイトルは違う)」を元ネタにしたと思われる
『維新侠艶録』は、Webで全文公開されているので(大変ありがたいです)、
ご興味ある方は、見てみてください。永倉らが出てくる項を見つけるのは
大変かもしれませんが。
http://csx.jp/~amizako/izutsuishinkyouenn.txt

以下、続きます。
「甲子久」を「嘉志久」と永倉が表記したのは、小稲を「小い奈」とか
書くのと変わらないですから、当時の漢字表記への感覚を考えれば
たいした問題ではないですね。

「小稲」の読みが「こいね」で無いことが解る証拠の1つでもありますし、
かえってありがたい時があります。

でも「顛末記」にある嘉志久のセリフ、

「わたしは幼いときから身体がよわく、それでも男の子の名がすきで
伊東甲子太郎と名のっておりました」

の部分は、「嘉志久」では無く、「甲子久」だからこそ面白いと思うのですが
永倉も「伊東の名にアッとおどろいたが、」と言ってますが、
読者もそこにしか注目できないですよね。
嘉志久本人は「伊東」では無くて「伊藤」のつもりで言ったかもしれないし

まぁ、すごい偶然!ってそれだけの話なんですけど。

私のように吉原細見ばかり見ている人間にとっては、「甲子久と
言えば、甲子屋だよな」とか、花魁名ひとつとっても、色々と連想されて
きてしまうのですが、普通に新撰組が好きで読んでいるなら、そんなことは
考えないでしょうから、嘉志久は嘉志久として、いち登場人物に
過ぎないのでしょうね。
ここまで前置きで、ここから本題なのですが、
今日は、嘉志久(甲子久)の実在を証明しようと、当時の『吉原細見』を見てきたのです。

品川屋(品川楼)のことは以前から妓楼名くらいは、知っていたので、
細見の所属花魁から、「甲子久」の名を見つければ済むだけだと思って
いたのですが、そんなに甘くありませんでした。

文久二年の「新吉原細見」から見始めました。
少し前から追っていったほうが、遊女の移り変わりが解っていいからです。

都立中央図書館が所蔵する、文久二年以降の細見は以下です
文久二、文久三、慶応四、明治三、明治五、です。
文久元年と明治五年は、台東区中央図書館にもあるので、コピーを
とるなら、台東区の方がいいです(都立中央はコピー不可)。

手書きで写すのは、時間との戦いです。必要な情報のみを抜き出したつもりですが
見落としもあるかもしれません。

慶応四年版が閲覧できるのは、非常にありがたいです。
慶応四年(明治元年)と言っても、発行が新春ですから、実際の
情報は慶応三年の年末頃のもの、と考えて良いと思います。
手作業ですし、発行まではタイムラグがあります。
細見には載っているけど、花魁がすでに引退している、もしくは改名している、
なんてのはしょっちゅうある話です。

逆に細見に載っていないのに、現場には「いる」花魁もいるわけです。
新人だったり、住み替えだったり。

以下、続きます。
幕末期の『吉原細見』より 品川楼の項

*文久二年
京町弐丁目 品川樓 小見世 品川屋弁次郎
呼び出し(最高位)花魁無し

*文久三年
(仮宅)深川の分 品川樓 小見世 品川屋弁次郎
呼び出し(最高位)花魁無し
筆頭花魁 品之助 以下、滝川 錦州 錦 明石 染川、他

*慶応元年版の細見そのものが見つからず 未見

*慶応四年 戊辰の梅月
深川の部 品川樓 小見世 品川屋せい
筆頭花魁 粧ひ 以下、(解読できず) 誰袖 紅梅 雲井 小亀 玉花 百歳
琴浦 滝川 一濱 玉櫛 小三 緑木 錦 糸遊 勝山 於玉 玉柳

*明治三年
細見に品川樓を見つけられず 見落としの可能性もある

*明治五年 壬申の春
揚屋町 品川樓 大見世 品川屋荘吉
(花魁名は細見全頁のコピーを持っているため、控えてこなかった)

***

吉原細見を年ごとにとっかえひっかえページをめくっていたら
慶応以降、もう品川屋が無茶苦茶なことに気づきました。

今まで注目していなかったし興味も無い妓楼だったから、何も知らなかったけど
楼主も変わっているし、妓楼の規模がいきなり明治五年で変わっているしで
調べづらいったらありゃしません。店の位置も変わっているし。

とりあえず、結果を言えば、品川屋に「甲子久」もしくは「甲子く」
を見つけられなかったのです。ガーン。。

以下、続きます。
とりあえず、慶応四年の細見には、甲子久以外の「小亀」と「紅梅」
がいたので、永倉の手記が間違っていないということが証明できた
嬉しさの反面、今後、調査しなければならない事が増えてしまったのは、
痛いです。 さて甲子久は何処へ? 品川屋の急変の事情は??

短時間で大変ややこしい作業を行ったため、さまざまな自分の間違いの
パターンを考えました。

・大黒屋や海老屋のように、楼主の違う複数の「品川屋」が存在するのでは?
・慶応四年の細見で1人いた判読できない名の花魁が甲子久か?
・明治三年に本当に品川屋は掲載されていないのか?(見落としはないか?)

もう一度、冷静になって調査しなおしたいと考えています。

***

慶応四年版に甲子久の名が無いからって、甲子久がいなかったという
わけでは無く、上で述べた通り、細見と現場の間にはタイムラグがあるので
甲子久が新人の場合か、新しく改名していた場合などは、細見には
記載されないのです。

そんな場合は、次の年の細見、それが無ければ翌々年の細見で名を探すのが
常套なのですが、そう考えて期待して見た明治三年版に、品川楼自体が
載って無いという始末!(見落としかもしれないが…)

それでもあきらめずに、明治五年版も追加で出してもらって見たら
いきなり品川屋が大見世になって、経営者まで代わっているし!

たぶん本地(新吉原)に戻ってくる際に、権利を切れ者の新楼主が
買ったと思うのだが、勝手に決め付けてはいけない。
以降、明治の世を稲本楼や角海老、大文字楼などともに、品川楼も
吉原を代表する大見世として、ブイブイ言わせていくわけだが、
維新前後で、ここまで変わっているというは全然知らなかった。
品川楼について

慶応四年までの品川楼、つまり永倉たち新撰組一行が訪れた時の
品川楼は、
同時期の稲本楼や金瓶大黒に比べると、規模も格式も劣る妓楼です。

小稲や今紫のような、「呼び出し」という当時の最高ランクの花魁は
1人も在籍していません。

その分、料金もお手ごろ価格で、永倉らにとっては遊びやすかったのかも
しれません。しかも深川の仮宅ですから、ますます格式ばっていなくて
集団で入りやすい感じだったのでしょう。

それでも、花魁たちを「かたっぱしから揚げた」そうですから、
五年前の試衛館時代から考えれば、とてつもない贅沢なことを
やっているわけです。

続きます。
品川樓新しいオーナー、品川屋荘吉がどういう経由で
楼主になったかはまだ解りませんが、とにかく大見世になったわけで
明治以降の東京を生きた人々には、そちらの印象の方が強いと思います。

その大見世になってからの品川楼には、「金龍」という花魁がいて、
明治の比較的早い時期の写真が残っています。

小稲や今紫が全盛だった明治初年、すでに樋口如撰という写真師が
新吉原の中で営業しており、今紫の写真が現在、あんなに残っているのも
彼がかなりの枚数を撮影したからと考えられます。

小稲が写真嫌いでも無い限り、写真に撮られていた可能性は充分あると
思っています。今も世界のどこかでひっそりとその写真が眠っている
のかもしれません。

写真に関しては、また今紫や小稲の項で改めて書きたいと思います。
明治元年を挟んだ品川屋の急変の謎、たまたまなのですが、
いきなり解決していけそうです。

なんとなく始めてみた、永倉新八と品川屋の花魁についての考察でしたが、
このままうまくまとまれば、ちゃんとした形で発表できるくらいの量になりそうです。

時間はかかると思いますが、少しづつ公表していこうと思います。

普通に新撰組とか龍馬とかの有名どころを研究しようと思っても
研究家の皆さんが、もう本当にスゴイところまで調べているので
私など到底たちうちできませんが、こんな感じで花魁側から見た
志士たち、幕臣たちのことなどで、これからも新しい発見が出来ればな、
と思っています。

後は、彫刻の勉強をしてきたので、顔の骨格や写真などから得る情報も
人とは違う目線で見られるので、それもうまく使えればな、と思います。
今日、制作や企画が切羽詰っている中、なんとなく食事の帰りに
古書店に寄ったら、『歴史への招待』が安売りしていた上、持っていない号
ばかりだったため、まとめて購入しました。一冊100円。
デットストックだったのか、状態もすべて良かったです。

いくつか、花魁に関する項がありました。これは改めて。

そして、書きたかったのはこっちなのですが、今更ながら、
永倉新八の「浪士文久報国記事」を木村幸比古氏が現代訳した
『新選組日記 永倉新八日記・島田魁日記を読む』PHP研究所
を一緒に買いました。こちらは400円だったので、そんなに安く無いです。

とりあえず、ナナメ読みしてみましたが、講談っぽい内容の
『顛末記』とは違って、さすがに嘉志久さんや品川楼のことは
書いてないようです。残念。
もうちょっと時間がある時にゆっくり読んでみます。
嘉志久は、吉原細見や浮世絵の中で、見つかりました。めでたし。
名前の漢字表記に関しては、「甲子久が正しい」とはけして言えない
ことがわかりました。訂正させてください。

とり急ぎ、速報までに。

品川楼がどんな風に明治元年から五年にかけて変わっていったかが
かなり解ってきましたので、それは近日中に掲示させていただきたいと思います。

明治五年、嘉志久(賀志久)は、本地に返り咲いて一気に大見世となった
品川屋の筆頭花魁でかつ「呼び出し」です。

永倉の記憶に残った、ある男勝り花魁は、実は後には売れっ妓だった!

ドラマとしては出来すぎです。
慶応四年から明治五年頃までの間に、ずいぶんと吉原の妓廊の勢力図が
変わっている印象が以前からあったのですが、今回、品川楼の移転と
吉原への復帰を調べていく上で、謎が少しづつとけていきました。

資料等はほとんど参考にしていないので、当時の元史料と独自の考察
でしか無いのですが、もう少ししたらまとめますので、御興味ある方は
お待ちいただければ幸いです。

江戸期の吉原を代表する大見世であった、玉屋は消え、明治一桁年に全盛だった
金瓶大黒は、明治十年代はじめには、やはり消えてしまいます。

楼主の商才や肝っ玉の太さで、すごいスピードでのし上がったり潰れたりしたようです。

今も昔も、水商売はサバイバルなのですね。
(タレントのプロダクション的な要素も妓楼にはあったと思います。
今で言う風俗やクラブ、のような存在だけではないみたいです)
新選組ファンな、私は、メチャメチャ凄い花魁を
揚げたと・・・・・ちょっと、ショック!!

ですが、花魁、遊女、花街は、新撰組の
話には、必ず出てくる切ってもきれない
縁のある場所なんですね。

斬った、張ったばかりでは、淋しすぎますもんね。
タカサチさん、こんにちは。
お書き込みありがとうございます!

>メチャメチャ凄い花魁

ある意味で、嘉志久はめちゃくちゃスゴイ花魁かもしれませんね。
酔っ払うと暴力を振るう花魁! よく後に品川楼の筆頭花魁になれたなぁ、
と感心しちゃいます。

現時点で、永倉が『新撰組顛末記』の中で名前を挙げた花魁名は、
当時の吉原細見や浮世絵などの他の記録と照らし合わせても、
まったく矛盾が無く、剣の腕が立つだけでなく、このマメさにも
驚かされてます。永倉新八、生き残ったのは伊達じゃない!って感じですね。
嘉志久について、やっと発表できそうです。
引退してからの彼女については、まったく解らなかったのですが、
慶応四年から明治五年までの嘉志久や品川楼の激動の時間に関しては
だいぶ解ってきました。

錦絵などのビジュアルも含めて、今月中に公開できればと思います。
ずいぶん時間がかかってしまいました。

ほんとに品川楼、すごい変化の嵐なのです。
中の中くらいの規模だった妓楼が、たった数年で吉原を代表する大見世に
なったのは、伊達じゃない。って感じです。

運も才能のうち、では無いですが嘉志久の花魁としての出世も、このタイミングが
影響しているな、と思いました。
嘉志久が引退してずっと後、明治22年に発行された、「吉原手引草」より

***
 前書き(著者識)から
 「吉原五大楼と称するは大文字尾彦品川稲本角海老」
***

明治20年より前の新聞や読み物は、句読点が無いものが多いです。
読む人間にある程度の知識と当時の常識を求めるかも知れません。

「五大楼」は五大老をかけているかもしれませんね。
「大文字尾彦品川稲本角海老」は、大文字・尾彦・品川・稲本・角海老、です。
明治中期の大見世トップ5。

本文から
***
 揚屋町(の項)

 品川楼 は同町二十番地にあり当楼は五大楼中の一にして引手茶屋よりの案内にて
 登楼する者なり娼妓全数は十四人にして苅藻金龍都路小式部今紫小源太紅梅豊子等は
 美にして艶且愉快なる妓なり玉代は壱円にして極安直に遊ばんと欲せば二人
 二円五十銭にて可なり

***

「苅藻金龍都路小式部今紫小源太紅梅豊子」は、
苅藻・金龍・都路・小式部・今紫・小源太・紅梅・豊子、です。

すでに嘉志久の名を引き継いでいる花魁はいません。永倉が記録に残した名では
ただ1つ「紅梅」が継がれています。ただし明治10年代にこの名も一時期途絶えています。

「五大楼中の一にして」は、五大楼で一番、という意味ではなく、その内の1つ、という
意味です。稲本楼の項も同じ書き方をしています。

「美にして艶且愉快なる妓なり」、と他の楼でも容姿だけでなく、愉快であることなども
紹介されています。

この年代は、ちょうど故・斎藤真一氏が調査されていたあたりですから、氏の
コレクションの中には、彼女たちの写真が残っているかもしれませんね。


*「吉原手引草」
羽錦道人著 明治22年
(旧字体はできるだけ改めてあります)

品川楼の移転や大規模化、嘉志久の出世に関しては、また改めて。
慶応四年、永倉新八に強烈なインパクトを与えて記録に残った
品川楼の花魁・嘉志久。

今夜にも彼女の当時の姿を公開したいと思います。
遅くなってしまって申し訳ありませんでした。
以前より明治初年頃の嘉志久が描かれている錦絵があることは解って
いたのですが、やっと手元で実物を確認することが出来ました。

落合(歌川)芳幾の作品で、改印からは明治二年の六月に発行されたことが
解ります。(明治二年の方は確かですか、六月の方は見間違えている可能性も
あります。すいません)

で、これ実は新吉原の品川楼ではないんです。
そうこれは明治初年にあった幻の「新島原遊廓」の「品川楼」なのです。

えっ島原?、京都?と私も最初見たときに思ってしまいましたが、
明治政府の政策により、今の築地の近く新富町に急遽開かれた遊廓。
それが「新島原」です。

吉原からどの楼が一時的に移ったのか、解らなかったのですが、
この錦絵により、品川楼も移転し、しかもかなりの規模でありそうな
構図で室内が描かれています。

これとほとんど同じ錦絵の画像を数ヶ月前に見て、明治三年の
吉原細見に品川楼がどこを探しても無いことや、明治五年の細見では
吉原に復活した際に、一気に大見世に変わってしまっていたことなどの
謎が一気に解決してしまいました。

本や研究書などを見て知ったことでは無いので、完全に原史料からの
推測でしかありませんが、まぁだいたいは外れていない感じだと思います。

とり急ぎ、嘉志久(可志久、甲子久)の画像のみ載せさせていただきます。
品川楼が拡張した件、他の所属花魁についての推測はまた後ほど。

というわけで、ありがとう永倉さん!
新八さんがマメだったおかげで、また1人の花魁の姿に近づけました!
簡単に書けば、この上の画像は、永倉さん達が遭遇した、「酔うと暴れて
刀の扱いにも長けた男勝りな花魁」嘉志久の約一年後の姿、が描かれたモノ。
ということです。

花魁の在籍は、安定していないですし、名前もコロコロ変わるし、
代替わりしたり、同じ名の花魁も他の妓楼にもいるけど、この嘉志久は、
それまでの細見をざっと見ても、永倉さん達が会った嘉志久とほぼ間違いない、
と言えると思います。

代替わりの時期にぶつかるには、まだ早すぎるからです。
もちろん、嘉志久が明治元年中に病死して、緊急に次の遊女が名を継いだ、
などが無ければ、の話ですが。

でもさすがに、品川楼にとって特に伝統のある「名」でも無い
「嘉志久」を、そうまでするとは思えないし、やはり、慶応四年の嘉志久は
上の錦絵の「可志久」で間違いないと思います。
嘉志久(かしく)の漢字の表記には、
嘉志久、可志久、甲子久の他に、明治五年の吉原細見では、賀志久、
というのもありました。この時、すでに大見世になった品川楼の筆頭花魁です。
(「賀志久」名は、細見で公にしている以上、錦絵などよりもオフィシャル
度合いが高い、とも言えなくないです)

同明治五年には、永倉が記録した「紅梅」もいましたが、慶応四年当時と
同じ人物なのかは、まだ解りません。

順序で言えば、賀志久のすぐ後なので、可能性があります。
吉原細見の花魁名の順序はけっこう大事で、同じ格の場合は、
年齢や経験が上の方が、比較的に前の方に並びます。

そのことによって、代替わりの時期がある程度解ってきたりもします。

例えば、三年間続けて筆頭だった「小稲」が、六番目くらいに表記されている、
なんてことがあると、前年に代替わりがあったな、とか解るわけです。
とくに「呼び出し」なのに、何番か後、ということは、「若い」
ということが多いです。

明治十年代以降は、形態がバラバラですので、上記のような考察は
必ずしも当てはまりません。
でも、年齢や本名が書いてあることが多いので、それによって代替わりが
もっと確実に解るようになっています。
しかし、誤字脱字などが多いのも事実。
嘉志久や品川屋のことではなく、新島原、についてですが、

以前は資料館で必要な分だけコピーをとっていた、花魁に関して調べる上でよく知られた
資料 〔 西山松之助編『遊女』日本史小百科9 〕 が数ヶ月前、古書店でそれなりの値段で
売っていため、なんとなく気前良く買ってしまいました。

以前も全体をナナメ読みしてあったので、そんな目新しいことは載っていないと
思い込んでいたのですが、実は「新島原」に関する項目が、ちゃんとありました。

数年前のナナメ読みでは、まだ“新島原”というキーワードが頭の中に入ってなかった
せいか、どうも、とばして読んでいたようです。
よくこういうことがあります。自分の中の情報量が増えると、ひっかかるキーワードも
多くなります。同じ本でも、そこに載っている、必要な情報の量、が変わるわけです。
そうなってくると、何も知らなかった頃より、一冊を読むスピードが多少落ちます。

新島原に関して、特に長く論述されているわけではないので、ここでは引用しませんが、
この本は、お持ちになられている方も多いと思いますので、こちらのトピックで私が
曖昧に書き込んだことも、補足できるような気がします。

今日、たまたま中央区、築地のほうに用事があり行ってきました。
今は、かつてたった数年遊郭があった面影など、当然ですが、まったく無いですね。

でも、大江戸線・築地市場駅の構内には、花魁の壁画がありましたよ!
別に新島原を意識して描かれているわけではないとは思いますが。

この資料(「遊女」)によれば、新島原は、明治元年十一月の開業で、明治四年七月に廃止。
そして新吉原へ併合された、とあります。 だいたい以前に調べた通りです。
七月頃に併合されたなら、明治五年新春の細見には、間に合っているのが納得です。

ここから先は、私のほうで調べたことですが、品川屋は、すっかり大見世になって
おてんばな花魁?の嘉志久は、お職をはってます。筆頭花魁です。出世してますね。

たった三年の遊郭、東京ディズ●ーシーよりもピカピカのテーマパークのような
場所だったかもしれません。当然、洋風建築が多いでしょうし。海も近いし。
錦絵や絵図は少ないものの残っているのですが、写真があってくれれば、ぜひ見てみたいです。
どこかに埋もれてないかなー。

新島原情報も、お待ちしております。

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