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幕末・明治の花魁コミュの四代左近小稲について_01

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四代左近小稲は、明治元年前後の新吉原の花魁の中で、
最も有名かつ名妓だったとされる1人です。

まだ解っていないことも多いですが、多くの文化人、役者、幕臣、などと
関わりがあったことによって、断片的ながら記録が残されています。

以下、簡単な年表です(独自の調査のため、今後新資料が見つかった
場合などは改正していきます)。

***

弘化3〜5年(1846〜48) この頃、後の四代左近小稲こと亀井さだ 生まれる。

嘉永〜安政年間 この時期に幼少のおさだは稲本楼に売られる。楼主・庄三郎にその才を見込まれ、将来の高級花魁としての教育を受けることとなる。小稲の禿時代。

万延元年(1860) この年はじめて『吉原細見』の稲本楼の項に「左近」の名が登場する。二代小稲が引退。

万延2年(文久元年・1861) 姉遊女の右近、三代小稲を継ぐ。後に「右近左近と並び称され」大人気。

慶応元年(1865) 暮れに三代右近小稲が引退。

慶応2年(1866) 初春、左近は小稲を継承、四代目となる。以降、稲本楼の筆頭花魁として人気絵師にもたびたび描かれ、当時のアイドル的存在であった若手歌舞伎役者たちとも浮き名を流す。

慶応4年(明治元年・1868) 三遊亭圓朝の三題噺 『日千両大江戸賑』に、寄席の圓朝、歌舞伎の中村芝翫、遊里の小稲、と当時の江戸を代表する存在の1人として描かれた。
この年、明治維新。幕臣たちとの恋の逸話がいくつも残る。彰義隊の美男隊士・毛利秀吉、後の初代山口県令・斎藤辰吉(中野梧一・やっぱり美男)、伊庭道場の跡取りで隻腕の美剣士・伊庭八郎、後の夫で奉行所の与力・吉田駒次郎、など。

明治5年(1872) 高橋由一の『花魁図』のモデルとなる。3月には東京日々新聞にて「兵庫下げ髪」姿を油画に描かれたことが報じられる。
この年の秋、小稲は引退。有馬屋清右衛門の妾となり、神田五軒町で「梅月」という名の飲食店を開業。名妓の店として繁盛したと伝わる。後に「小稲てんぷら」などという愛称で呼ばれていた伝聞も残る。
  * 神田五軒町 現在の東京メトロ末広町駅、秋葉原電気街のとなり。外神田5丁目、6丁目の1部。

明治9年(1876)9月 仮名読新聞に歴代の小稲の系譜が掲載される。四代小稲は「近来の名妓」と称えられている。

明治19年(1886)10月 やまと新聞 創刊号より『廓雀小稲の出来秋』連載開始。この時点で、小稲は夫の吉田駒次郎と静岡の地にて「睦まじく楽しき月日を送りて」と伝えられる。

// 以降の消息は現在調査中。

***

(作成中)

**上の画像 豊原国周『新吉原角町稲本楼』3枚組より「小稲」(部分・個人蔵)

コメント(20)

このところ、伊庭八郎関係で色々発掘できました。確証や裏づけは、
まだ見つけられないのですが、小稲の新しい情報もいくつか得られたので、
書きたいと思います。

昭和初期
子母澤寛 著『伊庭八郎』 より
(現在、単行本化や全集への収録は無いと思うので、幻の作品と言えるかもしれません)

「- 小稲といふのは、明治もずつと後まで存命でしたから、お年長のお方などは御承知でゐられるかも知れませんが、どうも吉原の美技三千といふ中でも、あんな美しい、しかも悧巧なのは珍しかったと、(-略-)が話してゐましたが、碁も上手、書もうまし、歌も踊も、すばらしものだったそうですね。」

***

小稲が明治19年以降も、「明治もずっと後まで」なくらいに存命だった
ということが伝聞レベルでも解かったので良かったです。

そして
「お年長のお方などは御承知でゐられるかも知れませんが」
もポイントで、小稲が今紫と同じく、当時の江戸(東京)を生きた人には、
名前の知られた、有名人だったことが上手く示されていると思います。

良い意味で、戊辰戦争から60年ちょっと経った、昭和初期をリアルタイムで
生きている子母澤氏の目線、立ち位置が解かる一文で、私は好きです。
(高齢の人々から多く取材している氏だからこそ、の表現はどれも興味深いです)

他にも、イバハチとは関係なく、小稲の夫の吉田駒次郎が、誘惑された話、
小稲との中を引き裂かれた、なんてのを見つけたのですが、必死で探しても
その話の出所の資料が見つからず、ガックリ来ています。
そのうち出てくるかもしれません。
高橋由一の『花魁図』
この絵を見てから小稲のことをもっと知りたいと思っていました。
出来上がった絵を見て小稲が「私はこんな顔じゃない」
と怒って泣いてしまったとか。
小稲との中を引き裂かれた、というあたりも気になりますね。
ともあれ、ここまで調べ上げてしまう平野さんの勘の鋭さ、
時間と労力に感謝、感謝です〜!
まぼろし太夫さん、こんにちは。

>小稲が「私はこんな顔じゃない」

由一の弟子が昭和になって語った話なのですが、そのたった一言の話から、
いろんな想像が膨らみますね。

小稲のプライドや、由一が花魁や楼主に媚びた制作をしなかったこと、
伝聞レベルで真偽が解からない「断片」でしか無いのですが、残ってくれて
嬉しい話の1つです。

花魁のことは、まだまだ知られていない事がたっぷりあって、
興味を持った方が、みなさん自力でいろんな文献を片っ端からあたって
調べられていると思うのですが、自分では急いでる時には、読み飛ばして
しまうようなこと、(〔おいらん研究ファイル〕でまぼろし太夫さんが
アップされている「遊女のおまじない」など)を他の方が書かれているのを
見るのは、大変楽しいです。

こんな一面もあったんだ。と思える瞬間が嬉しいです。
現代におまじないとか縁起かつぎとか、言い回しとか、けっこう続いてますよね。
ヤンキーのお姉ちゃんがよくやってた「○○命」とか、カッターで肌に刻む
のも、元は遊女がやっていたようなことですし。

**
上の子母澤寛の文章で、誤変換がありました。
申し訳ありません。修整させていただきます。

× >吉原の美技三千といふ中でも

○ >吉原の美妓三千といふ中でも

です。

まぁ明治元年の頃、小稲や今紫の人気は、その三千もいる遊女たちの
頂点にあった、ということなので、やっぱりスターだな、と思います。
申し訳ありません、訂正の速報です。

>昭和初期
>子母澤寛 著『伊庭八郎』 より
>(現在、単行本化や全集への収録は無いと思うので、幻の作品と言えるかもしれません)

今日は、「伊庭八郎の会」の会合だったのですが、この件に関して
調べてくださった方がいらして(大感謝!)、実は昭和十年代に
発行された単行本に収録されていることが、解かりました。

現在入手困難で、幻の作品であることには変わらないのですが、
単行本に収録されていない、というのは間違いでした。
でも全集には載っていないと思います。

私が見つけたのは昭和七年の雑誌に掲載された『伊庭八郎』ですが、
それから十年近く経って、単行本にひっそり収録されていた、というわけです。
まったく聞いたことが無いほど、マイナーな本でした。
見つけた御方が、本当にスゴイです。
私も戦前の子母沢氏の本は、片っ端から見ていたのですが、まだまだ甘かったです。
断定形で書かなくて、本当に良かった。
(不確かな事に関しては、断定しない事は大事だと思っています)

間違った情報で申し訳ありませんでした。
さっそく↑の単行本の方をチェックしていただき、内容は雑誌掲載版と
ほぼ同じなのですが、、、
小稲の「読み」が気になったので、そこも見ていただいたら、こちらの
単行本版では「こいね」とルビが振られているそうなのです!

雑誌掲載版では、残念ながら小稲にふり仮名は無いのですが、これまで、
古いモノほど「こいな」の読みで、ここ30年くらいが、誤って「こいね」と
されていると感じてきました。

戦前の段階で、はっきり「こいね」と書かれているのは珍しいと思います。
私が以前に見た、大正時代の新聞に掲載された彰義隊士・毛利秀吉との
例の話では、ひとつの文中に、「こいな」と「こいね」のルビが混在していました。

私の予想では、子母沢氏自身は、「こいな」と読んでいたと読んでいた
のではないか、と思っているのですが、単行本化する際の編集者が
ヘマをやったのかもしれません。

これを原作とした、映画『伊庭八郎』が、いったいどちらの「読み」で
台詞を言っていたのか、大変気になります。

ちなみに池波正太郎氏の『幕末遊撃隊』では、冒頭から小稲が登場するのですが、
ふり仮名は「こいな」です。
「読み」に関しての続きですが、

私は、現在では「小稲」は「こいな」と読んでよいと、ある程度自身を持って
言えるまでに、当時の資料を集めましたので、断定系でHPなどでも
書いていますが、四年前の段階では、正直、たぶん「こいな」だろうな、
くらいにしか言えなかったですし、実際に人に説明する時も、
「たぶん〔こいな〕と読んでいたと思う」と言っていました。

「な」か「ね」か、たったこれだけのために、本当に手間と時間を費やし、
多くの方のご協力を受けて資料が手元に集まり、それでようやく、
「こいな」が正しい、と言えるようになりました。

でも、140年前のことですから、それを絶対に正しいこととして、
人に押し付ける気は毛頭ありません。

別に「こいね」と読んでいたって、「こいな」だって、どっちだって
イイと思います。

たぶん幕末明治当時も、間違って読んだ人はいるでしょうし、それをさらっと
受け流す小稲であったかもしれません。
本当の意味で、どちらが正しいなんて、100%正しいなんて、
そんなの無いのかもしれません。

ただ、自分は真実に近づきたい、それだけのために情熱を注いでいるだけ、、
なんだと思います。

たぶん、美術作品を作ったりとかも同じことですし、自分が一番の
審判者、なのかな、と思ったりします。
あと芸術もそうなのですが、歴史考証も「多数決」で真実が決まるわけでは無いので、
たとえ、どんなに大勢の人が、「これは○○にちがいない」と言ったとしても、
良質の新資料が発掘されれば、一瞬でくつがえることがありえます。

そこが面白いし、そこが「怖い」。

だから時々、他のコミュニティやサイトの掲示板などで、同じ主張の仲間を
集めて、反対意見を許さず、攻撃して、まるで歴史をでっち上げているようなのを
見ると、ちょっと嫌な気分になります。

どんなに賛同者がいても、「こりゃ違うよ」ってことがあります。

特に古写真の人物の特定などは、本当に難しいですから、誰が見ても
「あの人に違いない」と思えるような写真が、実はまったく別人だったりと、
人間の目で判断するのは、大変なことなのだ、と思わされます。
(箱館の「五人の士官写真」の向かって右端の人物を、「まげ姿の土方歳三」
なんて意見を見ると、思うのは勝手だけど、一緒に写っている人物も含めて
断定だけはしてくれるな、とか思います。ありゃ99%ありえない、と私は感じる)

その辺のことは、『続 幕末明治のおもしろ写真』という本に詳しく載っています。
http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/browse.cgi?code=633042
タイトルこそ「おもしろ」ですが、他の分厚い系の写真本よりも、
古写真にまつわるエトセトラが、いろいろ書かれてます。
「続」でない前作と両方読むと、なおさら面白いです。

本当に裏書や状況証拠の無い写真の人物の特定は、難しいのだな、と。

あと、上記「続 おもしろ…」でも引用されていますが、
『追跡 一枚の幕末写真』(鈴木明 集英社)という本は、たた一枚の
写真から、多くの知られていない事実が明かされていく、という
大変面白いドキュメントです。

幕末明治大正の古写真には、本当に魅かれるものがあります。
なんで古い写真は、見ていると不思議な気分になるのでしょう。
たかが被写体が反射した光が、焼きついて記録されただけのモノなのに。
まぁ人の手で修整されているものも多いのですが。


小稲から話題がそれましたが、いつか「これは小稲ではないか?」という
写真が見つかってくれれば、と心底思います。
他トピックのレス、全然できてなくて、本当に申し訳ありません。

小稲の恋人の一人とされる、「隻腕の美剣士」なんて呼ばれた心形流 伊庭道場の
跡取り息子で、幕臣の「伊庭八郎」の胸像の顔部分の習作をずっと作っていました。

「色白の美男」「役者のよう」なんて伝聞の残る八郎ですが、不鮮明かつ陣笠を被っていて
顔の半分も骨格も見れない写真と、明らかにデッサンのおかしい修正写真(もしくは肖像画)が
残っていますが、それだけでは立体は起こせないので、弟の伊庭想太郎の写真も
かなり参考にしました。

伊庭八郎の菩提寺にて、来年の初夏に発表させていただこうと思います。
伊庭の140回忌の時です。

たとえ不鮮明でもいいから、小稲の写真が出てこないかなー。
斎藤真一氏は、角海老濃紫(五代小稲)をけっこうリアルに描かれているので、
濃紫の写真が掲載された吉原細見か、古写真を所持されていた可能性がかなり高いと
思っています。いやたぶん、持っていたでしょう。

斎藤氏のコレクション、本当に見たいです。
今、小稲に関してWebマガジン用の文章を書いているのですが、調べれば調べるほど、
地味にいろんな情報が出てきて、正直、まだ全然実像が解かりません。

何年も前に発行された伊庭八郎関係の研究誌(同人誌・会報)の中でも、小稲のことが
書かれていて、ほとんどが私が見た美術書からの転載のような感じだったけど、
知らなかったことも書いてありました。小稲の子供の話とか。

あと、下げ兵庫髷のことですが、大正三年の花魁道中の小紫などが、下げ兵庫を結っていた
というのも、あくまでもあの写真を見た研究者たちの想像で、確たる証拠は無いと思いますので
あれが確実に「下げ兵庫」とは考えないほうがいいかもしれません。

遊女下げ髪のバリエーションのひとつ、とも考えられます。
小紫や小太夫は下げ髪系で、福寿と○○(後の稲葉)は、立て兵庫ですね。
小紫や小太夫は、現在でも素直に「綺麗!」って感じる容姿だと思いますし、福寿さんは
いかにも「福寿!!」って感じのまんまるなお顔をされているし、稲葉はすごく大正時代的な
美人というより可愛い系だなー、と思います。
若妙、染之助は、一言では上手くいえない、すごく日本人的な容姿というか、あまり
鮮明な写真を見たことが無いので、もう少し勉強したいです。
以上、あくまでも個人の感想です。人の容姿をあーだこーだ失礼な話だと思います。
体調を崩してしまって、しばらく何も情報を書き込めずに申し訳ありません。

都内の某古書店さんより、「小稲」と裏書された古写真が出てきまして、
今、持ち主から、お借りしているところです。
その古書店さんは、市場で他の数十枚の写真を一緒に仕入れて、その中に
「小稲」と書かれた花魁の写真がまじっていたそうです。

私が判断したところ、かなり古いものです。明治初年から、遅くとも明治十年代前半くらい。
四代小稲である可能性は、ある程度はあります。
まだ検証中ですが、お楽しみに。

明治三年に同じトップアイドルの今紫が、あれだけ写真を残しているので、小稲もあって
当然なわけで、今まで出てこなかったのが、不思議、というか残念です。
約五年間探し続けて、今回の写真が初めてです。
まだまだ小稲写真は、世界のどこかに眠っていると思います。

つい先日、日曜に行われた伊庭八郎の朝涼忌では、会報を買ってくださった方に
内緒のおまけで、この小稲写真の速報のコピーを付けさせていただきました。
>ココ❤さま

御情報ありがとうございます。
原版の撮影者の著作権は、さすがにもう失われていると思いますが、この写真の
所有者と、この古写真を出品した方が撮影したモノの転載となってしまいますので、
お手数ですが、画像の消去をお願いいたします。

できるだけ早くお願いいたします。
これを撮影した方を知っているため、よろしくお願いいたします。
>ココ❤さま

お忙しい中、画像の消去、ありがとうございました。

古写真そのものの著作権が失われていても、PC上で見られる「画像」の状態に
なるまでに、またさまざまな権利が発生していますので、侵害しない形で
扱うのは、けっこう難しいですね。
今回は、たまたま知っている方が撮影されたモノだったので、書かせていただきました。

私がこちらのコミュで掲載している錦絵の画像等も、今の法律では、絵師たちの
著作権はもう失われているのですが、所有者や撮影者の許可、図書館、資料館等の
所蔵先の許可など、色々クリアーして、扱っています。

すごく面倒くさいし、人に同じ手間を強制するつもりも無いのですが、面倒くさいこと、
遠回りをすることによって、その間に副産物があり、思わぬ知識や情報が手に入ることが
あります。私は、その副産物が大好きなので、気軽、手軽、を避ける癖がついてしまってます。
(性格自体は、O型だし、おおざっぱなんですけどね。いいかげんでテキトー)

人の撮影した画像は、個人で見る分には、問題ないと思うのですが、ネット上にアップ
した瞬間、危ない存在に変わります。なかなか簡単では無いですね。

また何か御情報がありましたら、ぜひお知らせください。
御対応、ありがとうございました。
今紫は、明治三年前後に撮られた考えられる写真が、何枚も残っていますが、
私は、その写真がとても好きで、明治半ばから末、大正の花魁よりも、
髪のボリュームが自然だったり、なんか独特の瞳をしていたり、と、もう
本当に浮世絵まんまだな、と感じました。

それで、小稲の可能性がある古写真が出てきて、実物をスキャンして拡大すると
ちょうど写真集『遊郭』に掲載されている、今紫の写真と、対になるような
ポーズとなったので、大きさを合わせて描いて見ました。
ずっとこの構図で描きたかったんです。

頭にささっているコウガイとか、髷のボリュームとか、だいたいおんなじような
感じなのが、解っていただけると思います。
目は、切れ長で釣り気味、本当に浮世絵の美女そのまま、って感じです。
鼻筋も通っていて、たぶん色も白かったのでしょうね。

小稲の口元は、原版の写真が不鮮明なので良くわからないのですが、上唇の紅の色にも
影にも見えるし、口が少し開いていてお歯黒のようにも見えます。
下唇では無いことは、なんとなく原版からも解ります。

花魁図では、唇は、上も下も、けっこうクッキリと紅が入っていますよね。
明治五年の初春、豊原国周が描いた御二方。
当時を代表するような超豪華メンバーの文化人たちや役者、相撲取りなど
と一緒に、花二輪、って感じでこの二人だけが女性で描かれています。

このコミュの現在のトップ画像ですね。
人間部分が小さいから、本当は構図的には、トップ画像には使いたくなかったのですが、
でも、やっぱり、小稲と今紫を軸に、花魁や吉原のことを考えてみたい、という
コンセプトではじめたコミュですから、意地でこの画像を用いました。

絵師の国周は、別の版では、この今紫と小稲の二人の間に、デンと座っているように
自分自身の姿を描いているのですが、なかなか羨ましいことをやってくれます。
こういう絵師の遊び心(自慢?)は、好きです。にくいぜチクショウ。
「小稲」と裏書きのある写真、もう手元には無いのですが、お預かりしている間に
スキャニングしたものを、顔の部分のみをできるだけ大きくして、もう印画紙の繊維の
毛羽立ちが見えるくらいの状態の、画像を、デン!とデスクトップピクチャにして、毎日
凝視しています。

それだけ拡大して、やっとなんとなく解ってくることもあるのですが、やはり、この写真の
女性は、お歯黒をしているように見えます。たぶん、しているでしょう。

顔の印象としては、やはり錦絵の小稲の顔に、とても似ているな、と前よりも感じています。
五代小稲の錦絵の顔にも似ているので、正直、まだ四代とは断言できません。
もし明治十年代半ばに撮られたのなら、安尾張の小稲の可能性もありますし。

錦絵は、版画だから、版によっては、色合いはもちろん、微妙に線の濃さが違ったりして、
顔の表情も変わって見えます。「小稲の肖像画」とするには、弱い部分もあるのですが、
豊原国周という絵師は、役者絵も大変本人に似ていますし、今紫も写真と似てます。

役者絵の達人であった、写楽や国芳らの時代には、写真が無かったですが、国周の
時代ですと、もう写真があって、歌舞伎役者はかなり撮っているので、比べられて
楽しいです。特徴をとらえるのが、本当に巧い、と感心してしまいます。


一般的に遊女はお歯黒をしていた、と解説されていることが多いのですが、私は
それを鵜呑みにはしていません。お歯黒をしていた人が多かった、くらいに考えています。
人妻になると、お歯黒をして眉を剃って、という一般的な女性の風俗と違い、
花魁たちの錦絵のいくつかと、この「小稲」写真も、眉はしっかりあって、でもお歯黒は
している(ように見えます)。

不思議なモノで、こういう上品に微笑んで、お歯黒を覗かせていると、なんだかお歯黒も
色っぽく見えてくるものです。
でっかく拡大した画像を、毎日凝視している今の状況は、実は超シアワセ、なのかもしれません。

関係ないですけど、つい先日、テレビでやっていた映画『舞妓Haaaan!!!』、とっても面白かったです。
数週間前のことですが、以前に国会図書館からダウンロードしておいた古書のPDF書類を
見直していたら、小稲が花魁を引退してからやっていたという料理店『梅月』の住所が
載っていました。実は、これまで、梅月に関しては、伝聞レベルの資料しか集められなくて、
なかなか住所録のようなモノで、確認することができなかったのですが、見つけられて
嬉しいです。

今の秋葉原から数分、地下鉄の末広町の駅の付近だと考えられます。

「幕末百話」では、「小稲てんぷら」と呼ばれていた、なんて書いてあります。
明治の東京の人にとって、小稲はそれなりに有名人だったと思うのですが、昭和に入って
戦後になったら、もうほとんどの人が知らないような状態だったのでしょうね。

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