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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュの君がため 春の野に出でて 若菜つむ、わが衣手に 雪は降りつつ  ー15−

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ー15−

君がため 春の野に出でて 若菜つむ、わが衣手に 雪は降りつつ      光孝天皇 

<仁和の帝、親王におましましける時に、人に若菜賜ひける御歌 古今集・春上>

若菜に添えられた歌で、挨拶性が強く親王(帝)が摘まれた訳ではなかろうから、緑の若菜を、春雪の白さに配した色彩のみずみずしさと、暖かい思いやりの心情を詠うものとうけとればよい。
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あなたが今年もますますお健やかであってほしいと

若い命に満ちた早春の若草をつみとる私の衣の袖に

白雪が降りかかっているのです
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君がため;

「君」は名詞で、人を尊敬していう語。男女共に用いる。
「が」は連体修飾語を作る格助詞。
「君がため」は「(若菜)つむ」を修飾して七五調。


春の野に出でて;

「春」はここでは正月。
「に」は場所を示す格助詞。
「いで」は動詞「いづ」の連用形。
「て」は接続助詞。

若菜つむ;

「若菜」は春の初めに生え出る食用の菜。
「つむ」は動詞「つむ」の連体形。「若菜の節会」は五節句の一つで、七草粥を祝う一月七日の節句。

わが衣手に 雪は降りつつ;

「わ」は自称代名詞。「が」は連体修飾語をつくる格助詞。
「衣手」は着物の袖。
「に」は場所を示す格助詞。
「雪」は春雪。
「は」は係助詞。
「つつ」は継続を表わす接続助詞で、言いさしの表現、すなはち余韻・余情を残す。
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七草(ななくさ)は、人日の節句(1月7日)の朝に、7種の野菜が入った羮を食べる風習のこと。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

本来は七草と書いた場合は秋の七草を指し、小正月1月15日のものも七種と書いて「ななくさ」と読むが、一般には7日正月のものが七草と書かれる。現代では本来的意味がわからなくなり、風習だけが形式として残ったことから、人日の風習と小正月の風習が混ざり、1月7日に”七草粥”が食べられるようになったと考えられる。
昔の七草とは、これ以下の「春の七種 (はるのななくさ)」や「秋の七種 (あきのななくさ)」と異なることを指す。
米・粟・キビ・ヒエ・ゴマ・小豆・蓑米(葟・ムツオレグサ[1])

春の七種とは以下の7種類の植物である。
芹(せり) 芹 セリ科
薺(なずな) 薺(ぺんぺん草) アブラナ科
御形(ごぎょう) 母子草(ははこぐさ) キク科
繁縷(はこべら) 繁縷(はこべ) ナデシコ科
仏の座(ほとけのざ) 小鬼田平子(こおにたびらこ) キク科
菘(すずな) 蕪(かぶ) アブラナ科
蘿蔔(すずしろ) 大根(だいこん) アブラナ科
(「仏の座」は、シソ科のホトケノザとは別のもの)
七種は、前日の夜に俎に乗せて囃し歌を歌いながら包丁で叩き、当日の朝に粥に入れる。囃し歌は鳥追い歌に由来するものであり、これは七種粥の行事と、豊作を祈る行事が結び付いたものと考えられている。歌の歌詞は「七草なずな 唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、合わせて、バタクサバタクサ」など地方により多少の違いがある。

七種の行事は「子(ね)の日の遊び」とも呼ばれ、正月最初の子の日に野原に出て若菜を摘む風習があった。『枕草子』にも、「七日の若菜を人の六日にもて騒ぎ……」とある。

これらは水田雑草ないし畑に出現するものばかりである。おそらく水田周辺で摘まれたと思われる。
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仁和の帝とは、仁明天皇の第三皇子で、陽成天皇の後を受けて即位した光孝天皇のこと。だが即位の御年齢は遅く五十五歳で親王といっても若い折のこととは限らない。
若菜つむ、というのは古くからの習わしらしい。春とはいってもまだ余寒はきびしく、雪はちらちら降る。しかし、もはや土の表には青いものが萌えはじめている。それを摘んで食べることは、若草の持つ生々たるエネルギーをわが身にうつしとり、延命を願う、縁起のいいことなのである。
 生い初めたばかりのうすみどりの、なずな、すずしろ、よめな、それらをつむ貴公子の袖の上にかかる白雪、誰しもうっとりとするいかにも絵のように美しい光景であろう。 
この光孝天皇は仁明天皇の第三皇子であり、人となりは『日本三代実録』に詳しい。
「少ニシテ聡明。好ンデ経史ヲ読ミ、容止閑雅。謙恭和潤、慈仁寛曠」とあるから、幼さないときから学問を修めたインテリで、人柄は謙虚で温厚、思いやりがあって心が広かった、その上、気品のあるハンサムだった、ということであろう。
 親王は順調に官位を踏んで年をかさねて行かれたが、社交界ではともかく、政界とは無縁のまま一生を終えられるかにみえた。野心のない親王は、政界実力者の藤原基経とはいとこの関係でもあり、親しく付きあっていられたが、その無心で人なつこい性格がはからずも、親王を脚光の座に押し上げることになった。 
 元慶八年(884)陽成天皇が廃位され、時代の帝に誰を立てようかという会議が宮中で開かれた。時の最高権力者は、藤原基経である。公卿一同は、基経の意中を忖度して口をつぐんでいたが、その中で融はあえて発言した。
『大鏡』によれば、「いかがは。皇胤をたずねば、融らも侍るは。」議論するには及ばぬわと。近い天皇の血筋を求めるなら、この融がおるものを。六十二歳の融は、皇位を望んで野心に燃えていたのである。その年でと笑うに当たらない。権勢欲は年をとるごとに激しくなるようで、現代の老齢政治家もみな重い大臣病にかかっているではないか。 
 基経はきっぱりと反対する。「皇胤なれど、姓たまはりて、ただひとにて仕へて、位につきたる例やある」天皇のお血筋といっても源姓をたまはって臣下になって仕えた方が、皇位についた前例はありません。
 この時推されたのは、人望ある時康親王、光孝天皇であった。
 皇族男子は沢山ひしめいていたが、幼かったり臣籍に下ったりしていて、皇位継承者の詮議は揉めに揉めた。
 そのとき基経は、人望のある五十五歳の老親王(当時では五十五は老人の部類である)を帝位に据え、事態を収始した。
在位四年、次の宇多天皇は、光孝天皇の第七皇子であった。
『源氏物語』の光源氏は、光孝天皇がモデルではないかという説もあるそうだ。


【作者】
光孝天皇(830〜887)第五十八代天皇。仁和の帝とも称せられる。勅撰集入集歌十四首。


<出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。

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